映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2017.09.11 「散歩する侵略者」 シネリーブル池袋

2017.09.11 「散歩する侵略者」シネリーブル池袋

 

宇宙人侵略物SFの形を借りた、夫婦の再生の物語。

3日程行方不明だった夫・加瀬真治(松田龍平) が別人の様になって帰って来る。妻・鳴海 (長澤まさみ) は上手くいってなかった関係を考えると、遂に限界かと思う。程無くして、真治は“僕は宇宙人なんだ”と言う。その唐突をさして違和感も無く受け入れられる様、いくつかのそれまでと違った日常を重ねる。松田がいつもながらのヌーボーとした無感情でそこにただ居るという演技をして違和感を自然なものに変える。「舟を編む」(拙ブログ2013.5.14) も「モヒカン故郷へ帰る」(拙ブログ2016.4.21) も「夜空は最高密度の青色だ」(拙ブログ2017.5.25) も、考えてみるとみんな同じ存在感だ。台詞のスピード感も同じ。トッピング程度のわずかな表情の違いだけで、どれもストンと役にハマっている。演じているのか地のままなのか、そこに居るだけで役に成り切れる、今や余人を以って代えがたい貴重な役者になって来た。だから「ぼくのおじさん」(拙ブログ2016.11.15) なんてやってはいけない。説明も無くそこに居るという役が良いのだ。宇宙人に乗っ取られてしまった役はピッタリだ。

 

真治 (を乗っ取った宇宙人) は地球を侵略する為に、その先発隊としてやって来た。人間とはどんな習性の生物なのか、その情報を収集して本国ならぬ本星へ送信するのが役目である。地球人から、個別の情報ではなく、その認識形態として“概念”を摂取する。その為に、“ちょっと散歩に行ってくる”と言っては誰彼構わず接触して、“あっ、それ貰った”と概念を集める。『家族』『“の”(所有)』『仕事』等。『所有』を奪われた引き籠りの満島真之介は外に出て明るく生き出す。『仕事』を奪われた光石研は会社の机の上で嬉しそうに大騒ぎをする。

一方、高校生のカップルに乗り移った別の二人の宇宙人は、ジャーナリスト・桜井 (長谷川博己) の前で警官 (児嶋一哉) の『自分』を奪う。奪われた者たちは自らを規程していた拘りから解放され、自由になる。哲学の講義でも聞いている様でいささか図式的、映画的膨らみがない。教会の牧師 (東出昌大) の『愛』は複雑過ぎて奪うことが出来なかった。

後半、乗っ取られた真治と乗っ取った宇宙人が一体化して、鳴海が愛する真治に成ろうとする。夫婦の再生の物語。俄然面白くなる。ヘンな言い方だが宇宙人は人間としては無垢なのだ。それまで絶対に食べなかった鳴海が作ったおかづを食べる様になる朝食のシーンが良い。

宇宙人真治は鳴海を通して『愛』を知る。総攻撃直前、それを本星へ伝えたのか。侵略はギリギリで回避される。もぬけの殻となった鳴海と人間に成り切った真治、“ずっと君を守る(不確か、そんな意味)” とナレーションがかぶる。

黒沢清にしては後味爽やか、ストンと落ちる。特別出演の小泉今日子の台詞、“こんな時期だからこそ侵略者が来たのでは? 人間に根本的なところからもう一度考え直させる為に (大体そんな意味? )”それとなくメッセージも込める。

 

長澤まさみが、極々普通の生活者として、宇宙人になってしまった夫に対する、何寝ぼけてんの、とばかりにあくまで普通に対処して、いつの間にか普通にその事実を理解し受け入れる、普通を演じ切って良い。笑わない長澤、大人の長澤である。綺麗な顔立ちと抜群のプロポーションは地味に日常を演じていても魅力的。飽きそうになった時、長澤の美貌と透けて見えるスタイルの良さはジジイの興味を持続させる。

 

もう一方の二人の宇宙人は高校生カップルに乗り移る際に行きがかり上、殺人を犯す。事件を追う桜井は、二人を密着取材、スクープになるかもと、疑いながらも彼らと行動を共にし、彼らのガイドになる。ガイドは概念を盗まれない。10代の生意気なカップルと中年男、60年代のフランス映画の様なシチュエーション。桜井は少年天野 (高杉真宙) にいつの間にか友情の様なものを感じ始める。最後は寿命が尽きそうな天野に、俺に乗り移れ、俺の身体を使え、と言う。

無表情な松田宇宙人と対照的な熱血地球人、荒唐無稽を違和感なく受け入れさせる、長谷川博己も良い。

 

音楽、林祐介。これまでの黒沢清作品より音楽の量は遥かに多い。サスペンスや思わせぶりや走りや愛に関するところ、かつてのハリウッド・エンタメが付けた所に確実に付けている。音楽を必要としない映像を撮って来た黒沢としては180度の転換である。編成はフルオケ、木管金管チェレスタ、ハープ、弦も大きな編成、コーラスも入る。

真治が散歩する。そこにOb、Claの木管で跳ねる様なリズミカルな曲が流れたのには驚いた。Tubaがボッボッボッと低くリズムを刻む。普通だったら、宇宙人、観念的、ミステリアス、と来ればSynの白玉が定番だ。不可解な異空間、ハンス・ジマーだ。ところがどこか「ペルシャの市場にて」のイントロを思わせる様な (的外れかも) 、日常的でコミカルでさえある感じの曲が流れた。全く宇宙的じゃない。真治がユーモラスに見える。この曲は散歩のたんびに出てくる。他は極めてオーソドックスな劇伴。だから余計に目立つ。恐怖の音楽だったりサスペンスでもよいはずだ。その内この曲が馴染んできた。概念を摂取されたって死ぬ訳じゃない。重い音楽を付けたらホラーになっていた。黒沢は今回、ホラーになることを徹底的に避けたのだ。真面目過ぎる黒沢清のこの映画の唯一のユーモアなのだ。

音楽全体は極めてオーソドックス、生オケによる丁寧な劇伴、いわゆる宇宙的響きは一つも無い。感情に則し、サスペンスを煽り、説明的な付け方もし、往年のハリウッドエンタメの劇伴の世界である。自衛隊も出てくる。爆発もある。殺人もある。音楽はそれらを説明しつつ、でも惑わされることなく、この映画が夫婦の愛の再生の物語であることをしっかりと捉えている。最後は愛のテーマがコーラス入りで流れ、綺麗に纏める。

黒沢はエンタメ映画を作ろうとしたのだ。前半が果たしてそうなっていたかは意見が分かれよう。何より音楽がその意図を充分に汲んでエンタメ映画音楽の王道を奏でた。

それにしても“散歩する侵略者”って良いタイトルだなぁ。

 

監督 黒沢清   音楽 林祐介