映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2018.01.07 貝山知弘さん、追悼

2018.01.07 貝山知弘さん、追悼

 

1月7日、貝山さんが亡くなった。84歳だった。

僕は貝山さんを勝手に僕の唯一の師匠だと思っている。

 

1976年、売れてるアーティストのいない東宝レコードの名ばかりの新米ディレクターだった僕は毎月の編成会議が苦痛だった。何か企画を出さなければならない。僕の映画音楽の原点である「裸の大将」(1958. 監督.堀川弘通 音楽.黛敏郎) の音楽テープを撮影所で見つけた僕はこれをレコードに出来ないかと考えた。見れば棚には黛さんの東宝でやった映画音楽のテープがズラリとある。これでアルバムを作ったら。でも売れるかなぁ。映画音楽といえば“太陽がいっぱい”であり“エデンの東”の時代である。邦画のサントラなんて見たこともない。ましてや一人の作曲家の映画音楽作品集。ただ、撮影所のテープを借り出して、それを編集するだけだから新録音より遥かに安く出来る。弱小レコード会社、制作費が安いというだけで企画が通ってしまうこともある。でも僕一人で勝手に作っちゃって良いものだろうか。貝山さんに相談した。

 

貝山さんとは前年の「日本映画名作撰」(ビデオが普及する10年前、邦画の名場面をレコードで聴くという企画、LP10枚組 販売.日本ディスクライブラリー) という通販企画でご一緒していた。

初対面の貝山さんはラフな格好で首からペンをぶら下げ、落ち着いた良い声をしていた。

「雨のアムステルダム」(1975. 監督.蔵原惟繕) を完成させたばかり、これから公開という時だった。東宝の社員プロデューサーで「狙撃」(1968. 監督.堀川弘通) や「赤頭巾ちゃん気をつけて」 (1970. 監督.森谷司郎) といった、ちょっと東宝らしからぬ作品を作る人だった。同時にオーディオ評論や音楽評論も手掛けていて、すでにフリーになっていたか、まだだったか。僕には輝いて見えた。

 

“それ面白いよ、直ぐ黛さんに会いに行こう”と貝山さんが言った。この言葉が無かったらLPレコード「日本の映画音楽」というシリーズは無かった。

僕なりにセレクトして纏めたカセットテープを持って、貝山さんと二人で、当時黛さんの事務所があった平河町の北野アームスへ向かった。会話はほとんど貝山さんと黛さん、僕はただ居るだけ。カセットを聴き終わって黛さんが突然僕に向って“ところでこれは東宝だけでやるの? 僕は松竹でも日活でも仕事しているから、そっちからも入れようよ”東宝作品だけで安直に考えていた僕の企画は一気に立派なものになってしまった。

帰り道、二人で、黛さんカッコイイね、やっぱりスターだね、と話した。ところで解説書はどうするの? こんな映画ですという説明を短く、それじゃつまらないよ、黛さんにインタビューしない? 僕がやるから。

黛さんが選んだ東宝以外の作品の音楽テープも揃えて、黛さん、貝山さん、エンジニア、僕とでスタジオに籠った。編集をしていきながら貝山さんが色々と話を聞きだしていく。確かこの時は録音などせず、貝山さんがメモ書きしていったのでは。

上がって来た原稿は400字で20枚あった。簡単に済まそうと考えていた僕には予想もしない展開となってしまった。でも内容は面白かった。読みでもあった。これ本に出来るかもとさえ思った。LPレコード紙ジャケの時代である。入れられる紙は二つ折り4Pが限度。ジャケット担当に相談したら、Q数落とせば何とか入る、でも字、小さいよ!

こうして“日本の映画音楽シリーズ”のパターンが出来た。2枚目からはインタビューは録音して僕が文字起こしをした。貝山さんが忙しかった時、やってみなさいよと言われ、僕が纏めたこともある。ここで急に話題が変わってしまうよ、整理し過ぎるとその人の語り口のニュアンスがなくなるよ、僕は貝山さんの下でインタビュー原稿のイロハを学んだ。「日本の映画音楽シリーズ」11枚を作った3年余はいつもゲラを持ち歩き、毎日貝山さんに連絡を取っていた。

 

全く別の仕事で或る俳優のアルバムを担当させられたことがあった。ポリシーを持つ人でこちらの会社の都合という論理を受け入れてくれない。かなり悩んだ。その話を貝山さんにすると、“それを楽しまなくちゃ、楽しめないようだったらプロデューサーなんて辞めた方がいいよ” この言葉は忘れられない。若造の腰は据わった。

 

サンタナはイイねぇとよく話した。

 

「初恋」(1975 監督.小谷承靖) ではスィングル・シンガーズの既成曲を劇伴として使っていた。6ミリ (磁気テープ) を自ら編集していた。

未知との遭遇」が公開された時、“やられた、もうあの企画はダメだ、二番煎じになっちゃう”と言っていた。異業種の著名なクリエイターと似たような企画を進めていたらしい。

貝山さんの映画は興行的にはどれも今一つだったが、必ずどこかにそれまでの東宝とは一味違う貝山さんらしさがあった。それが好きだった。

 

3年前、僕の仕事卒業パーティーでは挨拶をお願いした。少し背中が丸まっていたが黒ずくめで相変わらずダンディーだった。

いつもご馳走になりっぱなし、いつか僕がご馳走しようと思いつつ、その機会を永久に失ってしまった。

                                   ( 2018. 01. 15 )