映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2019. 7. 20 「狙撃」(1968) 京橋フィルムセンター

2019.7.20 「狙撃」(1968) 京橋フィルムセンター

 

2018年に物故した映画人を追悼する上映会が京橋フィルムセンターで7~8月と行われている。その中のプロデューサー・貝山知弘さん追悼の「狙撃」(1968) を観た。

貝山さんは映画プロデューサーであると同時にオーディオ評論家でもあり、その仕事は多岐に渡っていた。僕は色々な仕事でご一緒したが、どちらかというとレコード製作の方が多い。「日本の映画音楽シリーズ」(全11枚) は貝山さんが居なかったら出来なかった(拙ブログ2018.1.07)。

「狙撃」は僕が貝山さんと出会う前、映画プロデューサーとして一番突っ張っていた頃の作品である。

 

冒頭、早朝の有楽町、ガードが見下ろせる屋上、昔の日劇 (今はマリオン) の前あたりのビル、そこから加山雄三が銃を構える。無線 (携帯なんか無い) で指示が来る。標的は新幹線7両目の最後部席の男、但しその車両最前列に座る男が帽子を被って居たら決行、被っていなかったら中止。男は帽子を被っていた。狙撃決行。帽子を確認してから決行までは車両一両分、ほとんど一瞬だ。一撃で仕留める。その間ほとんど静寂。銃を扱う音、息づかいが僅か。早朝とはいえ街ノイズはあったはずだ。それともあの頃の早朝の有楽町はあんなにも静かだったのか。全編、音は限りなく削ぎ落とされている。普通なら付ける街ノイズ、グランドノイズの類は極力付けない。台詞も少ない。フランス映画、フィルムノアールである。その代わり、ジャズがそこを埋める。

音楽・真鍋理一郎。改めて真鍋先生を見直した。アルトサックス (ソプラノも?) 、ドラム、ベース、ギター、ピアノはあるが前面には出ない、アフリカ系パーカッション、そして女声のスキャット。この音楽が映画全体のテイストを作る。主役級の存在感。

真鍋理一郎は言わずと知れた伊福部門下 (拙ブログ2016.2.15) 。大きなオーケストラも書くし現代音楽も書く。けれど映画音楽では、その要請に従って何でも書く。「ゴジラ対へドラ」(1971) では主題歌を書いたし、「あゝ馬鹿」(1969) では歌まで唄っていた。この作品ではカッコいいジャズをやっている。これは貝山さんの趣味の様な気がする。貝山さんは、この次の作品「弾痕」(1969) では武満徹で全編ボサノバでやっている。

加山は狙撃の名手。優しく引き金を弾く、その瞬間にしか生きる充実を感じられない男。敵対する老殺し屋が森雅之 (これが何ともカッコイイ) 。加山が唯一心を許してしまう女に浅丘ルリ子、モデルで蝶の収集に憑りつかれている。ニューギニアの太陽に憧れる。憧れはダンスで示される。ホテルの一室という狭い空間、アフリカPercに合わせて浅丘が見事なパフォーマンスを繰り広げる。振付は竹邑類。スレンダーな全身を使い何とセクシーで美しいことか。’60年代メイクの浅丘の何と魅力的なことか。

二人でいつかニューギニアへ行くことを夢見る。「冒険者たち」(1967) のアフリカだ。

 

撮影は都内や湘南や山中湖周辺あたりか。それが日本のどこかであるということを徹底的に排除する。同時に役柄の説明や属性も語られない。銃に憑りつかれた男、男を愛する女、それ以外は不要だ。日本的抒情や喜怒哀楽の感情表現は極力排除される。無国籍である以上に観念的だ。けれど東宝邦画系、前衛映画は許されない。話は必要最小限、削ぎ落としたシンプルなストーリーがある。そこにジャズが流れ、これまでの邦画には無かったクールな世界が作り出されていく。日本的感情表現に飽きていた僕ら若造には新鮮だった。日本でもこんなカッコイイ映画が作れるんだ!

 

最後に息絶えようとする加山の上に“俺は生きる、そして殺す ―アルベール・カミュ”と文字が出る。大昔観た時こんな文字が出ていたなんて全く気が付かなかった。生きることは否応なく殺人者となることである的なカミュの思想をベースにしていたのかも知れない。でもそれは感じる人が感じれば良い。静寂とジャズが支配する、これまでとは全く違った映画だった。

 

加山は若大将とは真逆の使い方である。社長シリーズや若大将が東宝カラーと言われていた時代、よくこんな映画作ったもの、さぞ戦ったのだろう。若き日の貝山さんの突っ張り様が目に浮かぶ。

 

監督. 堀川弘通  音楽. 真鍋理一郎