映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2019.5.06 「岬の兄妹」 イオンシネマ板橋

2019.5.06「岬の兄妹」イオンシネマ板橋

 

兄・良夫 (松浦祐也) は足が不自由、妹・真理子 (和田光沙) は知的傷害、そんな兄妹の底辺の生活。母はどこか遠くへ逃げてしまったらしい。ボロ家は段ボールで窓をふさぎ外から遮断されている。兄が働きに出る時はそこに妹を閉じ込める。時々妹は “冒険” と称して抜け出し街を俳諧する。

映画は夜 “冒険” に出たマリコを捜すところから始まる。“マリコ! マリコ! ”  びっこの揺れをそのまま反映したような手持ちカメラが生々しい。そしてヤクザ映画のタイトルの様な毛筆殴り書きで画面一杯に『岬の兄妹』と出る。音楽も同時に暴力的に入る。Pf、打楽器、アコーディオンによる打音、殴るように入って痛い。音量もデカい。

 

兄が傷害を理由に建設現場 (?) を解雇され収入が無くなる。電気は止められゴミの中から食べられるものをさがす。悲惨この上ない。

“冒険”から帰ったマリコが金を持っていた。やがて妹に売春 (オシゴト) をさせるように なる。

売春で稼いだ金で食べ物を買い、二人は貪り食う。窓に貼り付けていた目隠しの段ボールを取っ払い、外から光が差し込む。まるで反社会的なオシゴトを通して社会に居場所を獲得した様だ。幼馴染の普通に良い人・溝口 (北村雅康) が心配する。

自分で脱糞してその糞を喧嘩相手に投げつけたり、妹の陰部に薬を塗り乍ら“少しオシゴト休んだ方がいいかもね”と言う。悲惨を通り越して笑ってしまう。髭ずらの兄のキャラクターか、売春を“オシゴト”として楽しんでいる風な妹のせいか。

裸とセックスは頻発するが不思議とエロティシズムは感じない。生活描写の延長として描いているからか。

おそらく行政には様々な救済の手立てがあるはずだ。でもそういう問題ではない。自分たちの生き方を見つけたのだ。だから暗くない。前向きだ。

 

手持ち、俯瞰、ローアングルで引いていく砂浜のカット、ワンカットの中で相手の男が次々に入れ代わっていくセックスシーン、海辺の雲間の太陽、心に残るカットが幾つもある。凝った撮影、削ぎ落とした早いテンポの編集、これらと二人の役者のアッケラカンとした明るさ、殴るような音楽が、この悲惨極まりない話を映画たらしめている。大きな事件が起きる訳でもないが、グイグイ引っ張られて飽きることがない。

 

時々マリコが水の中で泳ぐシーンが入る。

マリコと初体験をした高校生が “海の香りがしました。生きているといいこともあるんですね” (?) なんて清々しい台詞を言う。マリコは水の精? あるいは比丘尼?  岬の突端の祠に住み、夜な夜な求めに応じて快楽を与えにいく…、神話的な匂いさえする。

最後の振り返ったマリコの顔、あれはまるで実は正気なんですよ、と言ってるようにも見える。

 

マリコが妊娠した。兄が、マリコの馴染みの客となった小人に、マリコと結婚してくれないかと頼む。“僕だったら結婚すると思ったんですか?” と返って来る。弱者同志でツルもうとした、あれは良夫への強烈な批判だ

 

妊娠したマリコはどうなるのだろう。オシゴトも出来なくなる。いずれ “普通“ から制裁を受けるのだろう。映画は今を描き先は語らない。

 

音楽は少ないがどれもデカく殴るように入る。カットインのインパクト、尻はブツ切り。Pf中心。怒りにまかせて叩きつけるように弾く。客引きのビラが舞う唯一ファンタジックなシーンにはPfの早いフレーズ。エンドロールだけは静かな前衛ジャズっぽい。

音楽が入ると映画の重い世界との間に距離が生まれ、詩情が漂う。

 

これは岬の突端に住む兄妹の “普通“ へ反旗を翻す映画だ。メインタイトルの手書きの文字は “普通“ に喧嘩を売っているのだ。殴るように入る音楽もしかり。

「湯を沸かすほどの熱い愛」(拙ブログ2016.12,20) の終わり近くに入るバカでかいタイトル文字と、それに合わせて入るEGのデカい音を思い出した。この映画のタイトル文字も音楽も充分デカい。しっかりと喧嘩を売っている。“普通“ の人からのお情けはいらない。勝ち目はないかもしれないが、俺たち兄妹はしっかり生きてやる! そんな映画だ。

 

無名の役者たちが演技を越えて役になり切っている。メジャーでは考えられない手間暇掛けた丁寧な作り方をしているらしい。製作費も自前とのこと。志の高い、でもちゃんと面白い映画である。

 

監督. 片山慎三    音楽. 高位妃楊子   挿入歌. 佐藤玖美