映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2017.03.28 「わたしは、ダニエル・ブレイク」 ヒューマントラスト有楽町

2017.03.28「わたしは、ダニエル・ブレイク」ヒューマントラスト有楽町

 

ダニエル (デイブ・ジョーンズ) は熟練の大工、60歳位、妻に先立たれ子供はいない。地道に働いてきたが心臓病と分かり、医者から働くことを禁じられる。そこで支援手当の申請をするも、審査官はマニアル通りの質問しきせず、働けると判断される。役所へ行くと、失業保険の様なものを申請するよう言われる。書類はダウンロードしてください。手続きはオンライン、高齢者には酷な話だ。手続きのスタート地点にすら立てない。PCにトライするもエラーばかりでイラつく。良く分かる。履歴書が必要と言われ、書き方の講習を受ける。手書きの履歴書を持って仕事探しをしたという実績を作る為に歩き回る。役所は証明するものが無い、と取り合わない。

ダニエルは良く歩く。何回も役所に足を運び、PCを使う為に図書館に通い、履歴書の講習を受け、職探し実績作りの為に町中を歩く。少し偏屈だが真面目に生きて来たことがよくわかる。この役者、初めは素人を使ったのかと思った。それ程自然でドキュメンタリーの様。しかし劇映画としてしっかりとした脚本と演出がある。この人の演技がそれだけ見事だということだ。

行政は様々な福祉のシステムを作る。システムを作るとそれがマニュアル通りに運用されることが至上目的となる。困っている人をサポートするという本来の目的は忘れられ、それを最も受けるべき人から遠いものになってしまう。PCを扱えない者は死ね! そこにひと手間、人間的対応があれば随分違った結果となっただろうに。

役所で知り合ったシングルマザーのケイティ (ヘイリー・スクワイアーズ) と二人の子供にダニエルは心を通わす。子供が好きなのだ。ケイティは掃除や日雇いの様な仕事で必死に子供を育てている。でも学校で上の娘が、破れた靴を履いていたこと、フードセンター(食料支援のボランティア?) に出入りしていたこと、でイジメに合う。ケイティは娘からそれを聞いて、お金の為に売春をしてしまう。育児放棄せず頑張っているがゆえに辛い。

ケイティの尽力で行った弁護士事務所のトイレで、ダニエルは心臓発作で死ぬ。

 

NHKスペシャル「貧困老人」「孤独死」「格差社会」「ホームレス老人」(タイトル不確か)、そんなドキュメントを緻密に再現ドラマ化した様な映画だ。映像的小手先は一切無い。余計な感情移入も起こさせない。心情的余韻など削ぎ落とし、事実を描くと直ぐにFOだ。それがかえってこちらの心を動揺させる

ひたすらダニエルやケイティの日常を積み重ねて描き、政治的メッセージは無い。紋切型のメッセージや”こうあるべき”に収斂させなかったところが、この映画を痩せたものにしなかった。”I、Daniel Blake” この一言に収斂させた。個人の尊厳、曖昧な様だが最も基本だ。

ダニエルやケイティは一つ間違えれば、移民排斥の方に振れたっておかしくない。そこはデリケートだ。しかしケン・ローチはもっとその奥にある、人間の尊厳、という基本から現実を照射する。そこから、移民排斥という底の浅い考えは出てこない。

 

音楽はエンドロールだけ。劇中の現実音としてラジカセやら幾つかの音楽はある。でも劇伴と言えるものはエンドだけ。VCとSynによるアンヴィエントな一曲。劇中にはどんな音楽も付けられない。付けたら嘘になる。

”貧者の葬儀”と言われる午前九時からの葬式 (金持ちはこんな時間を予約しない)、そこでケイティによって読み上げられるダニエルが残した素朴なメッセージ、そしてエンドロールの音楽、この一連の荘厳さ、この映画の唯一の演出かも知れない。これがないと映画にならない。

2016年のカンヌは芸術性よりも社会性を選んだ。欧州はそれだけ切迫しているということだ。

ダニエルと一緒に歩き、役所で一緒にイライラし、PCのエラーに一緒に腹を立てる、見ていてグッタリ疲れる映画だ。もちろん悪い意味ではない。

 

監督 ケン・ローチ  音楽 ジョージ・フェントン