映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2019.8.29 「世界の涯ての鼓動」日比谷シャンテ

2019.8.29 「世界の涯ての鼓動」日比谷シャンテ

 

今時こんな一直線一途な恋愛映画も珍しいのでは…

果たしてこんな恋愛映画は成立するのか。その為に男女の設定を考えうる限り離れたものにする。

女 (アリシア・ビカンダー) は海洋生物学者、地球の中心、海底のマントル有機物の源を探してそこに生命の起源を求める。

男 (ジェームズ・マカヴォイ) は諜報機関MI-6の諜報員、無政府状態ソマリアに潜入する。深海の極限に赴く女と、人間社会の極限に赴く男。深海艇にアクシデントが起きたら二度と戻れない。男は捕らえられ、いつ殺されるか解らない。生存のギリギリに置かれた二人の愛である。

愛は、二人が偶然に出会った大西洋に面した小さな高級リゾートホテルで育まれる。やり取りはシャレている。深い説明はない。お互いに惹かれ合った、そして愛し合うようになった。愛し合ったということだけが解れば良い。

愛し合った二人はそれぞれが極限状況の地へ赴く。連絡手段はない。果たして二人の愛は可能か。あるいはその愛を信じたからこそ極限状況に耐えられた? 映画はそこにフォーカスする。だから海洋生物学もソマリアも決して深い考察はしない。言ってしまえばファッションだ。原作がどうなのかは解らない。おそらくそれなりの考察はあるのだろう。映画はそこから愛だけを抽出する。どんな状況でも愛があるから生きられる、愛があるから耐えられる…

人間はひとりで生まれひとりで死んでいく。だからこそ人を愛する。人の一生って "生きた、愛した” だけなのかも知れない。そんな人生観、大袈裟に言えば哲学的命題、それをいかに解り易く映画にするか、女性週刊誌的 (これは今や死語かも) 意匠を凝らしてヴェンダースはこの映画を作る。

 

アリシア・ビカンダーの何と品のある美しさか、肉感を削ぎ落としスレンダーしかもセクシー、「リリーのすべて」(拙ブログ2016.3.29) でもそう思ったが気高く綺麗な人だ。ジェームズ・マカヴォイも頑張っている。捕虜になってからはもう少しげっそりした方が良いかなと思ったが、あくまでファッショナブルな映画、みすぼらしいは良くない。リアリズムではないのだ。

ソマリアの描写はテロリストを単純に非情な悪と描く。女を生き埋めにして石を投げつける刑にしたり、子供が楽しそうなTV (多分西側の番組)を観ていた家に無造作に手榴弾を投げ込んだり、随分単純一方的だ。極限状況ということを示す為でそれ以上の意味は無い、多分。宗教についてのやり取りも通り一遍だ。

映像はこの上なく美しい。編集はカットバックを多様して時系列がかなり前後するも淀みなく流れる。果たして哲学的命題を醸し出すまでになったか。それは人それぞれ。病気だの人間社会のグチャグチャした障害を設けた恋愛映画よりずっと良いことだけは確かだ。

 

ただひとつ、僕は音楽が気になった。冒頭から重い弦楽、重厚だ。やたらに付けている。これは普通の恋愛映画ではなくて、哲学的命題を底に秘めているのですよ、とでも言いたげに。

劇伴としては映像に丹念に合わせて入念な仕事である。ほとんど弦だけの編成、メロディー感は無く、重厚感を作り出す。弦の高い音色を使った三拍子の軽い感じの曲が途中に少しだけ。あとは中低弦で重く這う。

後半は良い。しかし前半は付け過ぎ、重厚感を押し付け過ぎる。もっと削ってポイントにだけ付ける方がエンタテイメントとしてもメリハリが付いた気がする。

 

パリ、テキサス」(1984、音楽.ライ・クーダー) 以来、何十年ぶりかのヴェンダース、題材も違うし年月も経った、音楽の趣味だって変わる。ただ「パリ、テキサス」のボトルネックには哲学的深みがあった…

 

監督. ヴィム・ヴェンダース  音楽. フェルナンド・ベラスケス