映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2016.11.02 「手紙は憶えている」 日比谷シャンテ

2016.11.02「手紙は憶えている」日比谷シャンテ

 

アウシュビッツの生き残りは僅かになっている。ホロコーストへの反省は薄らいで行く。逆に賛美するような動きが世界中に起きている。

高級老人ホームの90歳になんなんとする主人公セブ、あのクリストファー・ブラマー、”エーデルワイス” の人、当たり前だが老けた。一週間前に妻が死んだことも解らなくなっている認知症の老人を、ある時は毅然とある時は老醜晒して汚らしく、見事に演じている。名優は凄い。

アウシュビッツで生き残ったユダヤ人は戦後多くの人がアメリカに渡り、全く新しい人生を始めている。セブも、老人ホームの友人マックス (マーティン・ランドー) もそう。ドイツに居た時の家族はナチに殺された。家族を殺した忘れられない地区責任者、その者も戦後アメリカに渡って偽名を使い、生き延びているという。二人はその男を捜し続けた。四名までに絞り込めている。マックスは車椅子生活、自由が利かない。セブに、この中から探し出して殺せ ! と言う。セブも友にそれを誓う。マックスは段取りを事細かに手紙に認め、認知症で忘れてしまうセブに、この通りにするのだ、と指示する。老人ホームの個室の電話に張り付いて、指示し連絡を待つ。

二人はアメリカのリスタート人生で成功した様だ。お金は持っている。セブは手紙に書かれた通り、まず銃砲店で、撃った時に衝撃の少ない拳銃を購入する。運転免許証だけで簡単に買えた。4人を訪ねてアメリカとカナダの国境を列車やバスで何度も越える。車中で小さな子供との交流があったりする。少女とも仲良くなる。ひ孫位か。アウシュビッツで殺された我が子はこの位の年齢だったか。この少女の曽祖父が捜している男だったらどうする? 撃てるか? など、色々と見ている方が勝手に想像を巡らす。

痴呆老人のロードムービー、しっかりとシナリオは出来ている。でもそれはマックスとセブの間だけ、それ以外の人には国境を股にかけた俳諧老人ロードムービーだ。

ついに男を突き止めた。訪ねると男は ”待っていた” という。銃を構え、ドイツ名の名前を言うと男は ”それはお前の名前だ” と言う。セブはユダヤ人ではなかった、男とセブはドイツ人だった。ドイツが降伏した時、それまでの加害者が生き延びる方法は被害者、ユダヤ人に成りすます事以外に思いつかなかった。二人はアウシュビッツの囚人番号を腕に焼き付け、ユダヤ人に成りすまし、アメリカで生き延びた。捜していた男とは自分だった。セブは男を撃ち自分も撃つ。マックスはいっぺんに二人を始末した。

 

音楽、マイケル・ダナ。Cla、Ob、Fag 、木管を上手く使い、小編成の弦、特にVCを上手く使っている。音楽はかなり多い。音楽がこの映画のトーンを作って、とっても効果的。メロが残るというより、現代音楽だ。きちんと画面に合わせて書いている。正統な映画音楽の方法を知り尽くした作曲家の仕事だ。老いの悲哀とナチ捜しのサスペンス、両方をフォローした良い音楽である。

 

最後のどんでん返しは予想がついた。それでも目が離せなかった。殺す側だった者が殺される側になり、必死で生き延びた。ドイツ人は簡単にユダヤ人に成れるもんなんだ。二十歳そこそこ、どんなことをしても生き延びたかった… 同じことはアウシュビッツで死んだユダヤ人にも言える…  

大構えの映画ではないが、重い歴史を背負ったサスペンス映画として見応えがある。

 

イスラエルのナチ戦犯を捜す秘密警察モサド、 その情報網は世界中に張り巡らされているという。フレデリック・フォーサイス原作の「オデッサ・ファイル」(1974 監督.ロナルド・ニーム) という映画を思い出す。アイヒマンを捕えたのもこの組織だ。マックスはきっとこの組織の関係者だ。

 

監督 アトム・エゴヤン  音楽 マイケル・ダナ

2016.10.29 「君の名は。」 Tジョイ大泉

2016.10.29「君の名は。」Tジョイ大泉

 

運命の糸で結ばれた純愛というものがある。どんな困難も乗り越えて二人は結ばれることを決定付けられている。この映画は、そんな愛がある、ということが前提だ。

ある日突然、自分の肉体が見知らぬ異性と入れ替わっている。同じ高校生。かつて大林宣彦の「転校生」(1982) という名作があった。でも「転校生」はお互いが見知っている身近な者同士の入れ替わり。この映画は違う。東京に住む立花瀧 (声・神木隆之介) と岐阜の糸守という小さな村に住む宮水三葉 (上白石萌音)、全くの見ず知らず。理由付けは一切ない。突然そうなった。運命だ。

朝起きると胸が膨らんでいる。鏡を見ると映ったのは思春期の少女、中身は瀧。朝起きると股間に挟まる物がある、男の体、中身は三葉。肉体が入れ替わるというより、心が入れ替わったと言う方が的確だ。描写は可愛くエロティック、萌え系というのだろうか。

一晩寝ると朝には入れ替わった記憶は消えている。だからそれを夢だと思っていた。しかし妹の四葉から ”お姉ちゃん、今日はまともだね、昨日はおかしかったよ”と言われたりする。周りの様子から段々と夢でないことが解ってくる。入れ替わりは不定期。二人はバレない様にお互いの生活情報や起こったこと仕出かしたことを携帯に記録して相手に伝える。記憶は消えるが文字は残る。こうして二人は相手を知っていく。特別な関係になっていく。恋愛のプロセスだ。お互いの容姿は知らない。携帯に自撮り写真を残しておけばなんてツッコミは無粋。辻褄の合わないことは必ずあるもの。それを乗り越えてこそファンタジーだ。

 

祖母の宮水一葉 (市原悦子) は三葉の中に時々別人が居ることに気付く。”お前は三葉ではないね” でも少しも驚かない。“私も二葉 (亡くなった母親) もそんな時期があった”

この家は宮水神社の御神体を守る神官の家系。父親はそんな家系を嫌って家を出て、今は村長になっている。神官が寄りによって政治の世界とは、祖母は文句を言いながら一人で御神体を守り、三葉四葉姉妹を育てた。

二人に組紐を教える。何本もの糸で編み上げつつ、寄れて前後して。組紐は時間だ、時間を現すのだ、と一葉。日々の直線的不可逆的時間とは違う、寄れて前後する組紐的時間… この例え、ちょっと強引な気もするが…

祭りで奉納の舞を踊る三葉と四葉。口噛み酒を造って供物とする。米を口に含み唾液と共に吐き出してそれはやがて酒となる、最古の酒の形。

どうやら宮水家の女はこの世とあの世を行き来するイタコらしい。女系? 父親は娘婿?

こんな神憑りの家系であると同時に東京に憧れる思春期の高校生、それが三葉。

 

瀧は父親と二人で生活しているよう。父親民俗学の学者 (だったか? )、 それ以上の描写はない。バイトに精出して、お姉様風美人の奥寺先輩 (長澤まさみ) に憧れている。奥寺先輩、一途な時期を卒業した余裕で瀧に接する、イイ女だ。瀧に神憑った様子は見られない。

 

映画の冒頭は宇宙から地球に近づく彗星、時々接近を知らせるTVのニュースがインサートされる。映画の後半は二人と、この彗星が交差する話となる。

瀧が奥寺先輩とデートした日、三葉は衝動的に東京へ向かう、四葉にだけ告げて。

生活情報はあるが顔は知らない。”瀧君…、瀧君…” 捜し疲れた満員電車の中で二人は偶然向き合う。三葉の方が、もしかしてと声を掛ける。突然のこと、怪訝な顔をする瀧。乗り降りの人に押し出されて車内とホームへ引き離された瞬間、ハッと気が付く。三葉の髪からほどけた組紐が瀧の手に渡る。

それっきりだった。二人が会ったのはそれっきりだった。その日以降入れ替わりは起きなくなる。携帯も繋がらなくなった。

何年かが過ぎるも瀧は気持ちを引き摺っていた。思い切って奥寺先輩と友人と共に糸守へ向かう。この一連、奥寺先輩と友人と瀧の微妙な関係も描いて青春映画であることを忘れていない。そこで分かったことは、数年前、彗星の破片の落下で、糸守の宮水神社の一帯が消滅したという事実だった。役場の犠牲者の記録には三葉の名前もあった。それは東京で一瞬二人が会ってから間もない日。その日、瀧は降り注ぐ彗星のあまりの美しさにただ見とれていた。

彗星の破片が落下、一帯は消滅、犠牲者?百人、という新聞記事がインサートする。

瀧はひとり、消滅した村に向かう。そこにあったのは3.11を思わせる光景。ここから先はあの世、と一葉が言っていた御神体を祭る場所に足を踏み入れる。そこで三葉が奉納した口噛み酒を飲む。それが何を意味するのかはよく解らない。

隕石湖を見下ろす外輪山、時は黄昏、あの世とこの世が交差する組紐時間。現れた三葉と瀧は向き合う。瀧が彗星の破片が村に衝突することを話す

ミシェル・ファイファーの「レディホーク」(1985 監督リチャード・ドナー) という映画を思い出す。愛し合う二人が呪いによって鷹と狼に変えられるも黄昏の一瞬だけ元の人間の姿で向き合えるという話だった。

この黄昏のシーンは美しい。記憶が消えても忘れない様にとお互いの名前を手の平に書く。瀧が書き終え三葉が書こうとした時、黄昏は終わり、瀧の手の平に横一本線だけを残し、三葉は消えた。

そこから時間は彗星の破片落下の前に遡り、何とか村人たちを救うべく三葉の孤軍奮闘、父親である村長への直談判、変電所爆破など活劇だ。彗星の破片が衝突するなんて誰も信じてくれない、必死に説得して回る三葉、走りながら消えかけて行く瀧の名前を言い続ける。瀧君、瀧君、瀧君、タ…、キ…、躓いて転げ落ちて…、思い出せない。手の平を開いた。そこには、名前ではなく“すきだ”と書かれていた。オヤジの目頭は熱くなり、女子高生なら涙線は決壊だ。

娘を信じて村長は避難命令を出したのか。そこははっきりしないまま、映像は破片衝突の場面になる。そして黒味。時間経過だけでなく、何ヶ所か時間軸が前後するところに黒味を効果的に入れている。

 

それから何年かが過ぎ、瀧は就活の時期を迎えていた。三葉の記憶はほとんど消えかけている。それでもずっと引っ掛っていた。手には組紐の腕輪が巻かれている。誰に貰ったものか、何故し続けているのか解らない。でも運命の人っているはずだ。その人に遠い昔、会ったような気がする。四谷、通過する車窓からの代々木駅、歩道橋 (どこだろう?) 、都会の抒情と瀧の心情が重なって美しいシーンが続く。

センチメンタルなまま、このまま終わっても良いかと思った。少し前に、糸守に彗星の破片が衝突するも偶然にも避難訓練と重なり村人は全員無事、という新聞のアップが入っている。三葉もどこかで生きているのだ。ピュアな初恋なんて成就しないもの。二人は大人への階段を一つ登った、で終わる。ところが違った。

 

四谷か神楽坂か高田馬場か、あの辺の裏通り、二人はすれ違う。瀧がもしかして? と足を止めて振り返る。三葉は何事もなかったようにそのまま歩いていく。少しして振り返った。瀧もそれに気付いて振り返った。二人の目に涙。観客にも涙。

三葉の振り向いた笑顔にワンカット、アニメのお決まりの絵文字っぽい笑い顔があった。あれは好きじゃない。他にも何か所か、アニメ定番のリアクションや感情表現がある。ファンには共通言語となっていて違和感はないのだろうが、アニメ嫌いにとっては、だからイヤなんだよ、になってしまう。あのワンカット、残念だった。

主題歌が確かアカペラで入る。

 

実は二度観した。一度目は錯綜する時間軸を追うのに精一杯だった。それでも追い切れず、時間の行ったり来たりと並行宇宙が団子になって、でも一途でピュアな初恋は初々しく、画は綺麗で、所々にアニメ定番の感情表現があったりはするものの、時間軸を正確に解らなくてもオヤジだって感動したのだから、高校生あたりの感情移入は半端ではないだろうと思った。

このブログを書く為に時間軸と並行宇宙は確認したいと思い、めずらしく二度観した。二度目でかなり解った。しっかりと構築されているなぁと思った。しかしまだ正確には解り切れてないかもしれない。ここまで時間軸をいじられると僕はそれが気になって感情移入にストップが掛かってしまう。組紐時間に身を任せて細かいことは気にせずで良いのかも知れないが。

最後の再会、あれはイリュージョンとも考えられる。でも並行宇宙なのだろう。してみると別の宇宙では三葉は死んでいる。それを蘇らす為に並行宇宙という考え方を使った。それは突然の災害に見舞われた人々への救いにもなっている。

 

音楽はRADWIMPS。人気バンドらしい。Vocalものが4曲(?) も入っていて、話のブロック毎の纏めを歌が担っている。聞き取れなかったが歌詞も映画に合わせた意味になっているのだろう。歌がちゃんと劇伴の役割を担っている。冒頭に聴こえるマンドリン(?) の音色も良い。歌以外の劇伴、必要なところに的確に付けていて、ベタ付けでないのは良い。小編成の弦のアレンジも的を得ている。音楽のやり取りは相当あったのだろう。Synやプロツールスの無かった時代、デモ出しなんてない、音楽が一発録りだった頃には考えられない緻密なやり取りをしているのだろう。そんな今のやり方の良さが出ている。声と歌い方に特徴があるので、歌もあと一曲あったら鼻に付いたかも。ギリギリのところだ。

 

話は変わる。邦洋問わず昨今の映画、並行宇宙という考えを安易に使いすぎてやしないか。テレパス七瀬の頃は新鮮だったが、今や困った時の並行宇宙、一度死んだ者もこれで簡単に蘇らせてしまう。これを使うと必ずどこかに矛盾が起きる。この映画でも、最後のシーンの瀧と三葉の属する宇宙は違うはずだ。でもそこは組紐時間と口噛み酒の力、綺麗に纏めているのだから、これこそ映画の力である。

そうではなく、いくらでもやり直せる並行宇宙、リセット! ゲームのリセットとほとんど同義語で使うケースのことだ。例えば「オール ユー ニード イズ キル」(拙ブログ 2014.8)、あの映画の”死” はほとんどリセットだ。時間のループと言う考え方らしいがこれも多分並行宇宙の一形態、いつでもまた生き返れる、死んだって直ぐまたやり直せる。死は随分軽いものになった。けれど僕らが生きる日々は間違いなく不可逆的直線の時間だ。死はその中にある。リセットなど出来ない。安易なリセットは死からリアルを奪っていく。この蔓延、とっても気になる。

 

監督 新海誠  音楽・主題歌 RADWIMPS

2016.10.23 「何者」 Tジョイ大泉

2016.10.23「何者」Tジョイ大泉

 

内輪のチチクリアイ、これが一番の侮辱だった。学生の頃の表現活動なんてそんなもんだ。そのエネルギーの源は僕らの頃はただ“モテたい”だった。

芝居やバンドや小説や、身内でチチクリアっていた学生がモラトリアムを終えて社会へ出る、そこに就活という関門がある。

冒頭、荘厳でスペクタクルな音楽が入って、何が始まるのかと思った。画も暗いトーン、居並ぶ学生のロングショット、儀式っぽい。いや就活は今や儀式なのかもしれない。

僕らの頃はそんな大袈裟な関門では無かった様な気がする。会社なんていつでも辞めてやる、辞めて旅立つ、そんな時代だった。

学生でなくなった途端、チチクリアイの表現は世間にさらされる。世間とは、評論家なのか、プロのスカウトなのか、会社なのか、その帰結としてのお金なのか。そこに飛び込めないから就活する。世間の中の会社に属そうとする。組織の誰々という名刺で何者かになる。

何者?と問われて会社の名前を言う。ほとんどの人はそうだし、その会社名のある名刺は何者?に対する返答であり、世間はそれを信用する。だから学生のくせに名刺を作って真似っこをしたりする。わざと手書きの文字を使ったりして少しでも自分は他とは違うとアピールしたくって。名刺ごっこは何者かになった錯覚を起こす。

 

表現には認知が必要だ。表現しただけではチチクリアイの内。でもまず表現しないと始まらない。頭の中にある内はすべて傑作。誰だって未だ書かれない傑作小説や詩を一つは持っている。僕だって恥ずかしながら持っている。それはほとんどの場合、永久に書かれない。

認知されなくたっていいじゃないか。好きなんだし、やりたいんだから。確かにそうなのだが、認知されないということは、何者でもないということ、何者でもない状態でいるには相当の覚悟がいる。この覚悟が出来ずに、何者かになる為に就活をする。

 

芝居に没頭して学生時代を過ごした冷静分析型の拓人(佐藤健)。拓人とルームシェアする単純一直線のロッカー・光太郎(菅田将暉)。光太郎の彼女で拓人が密かに思いを寄せる素直な性格の瑞月(有村架純)。会社に入ったからと言って今は一生が保証される時代ではない、組織に頼らず個で生きなきゃダメだ、と初めの内は就活を拒否する隆良(岡田将生)、隆良と数週間前に同棲を始めた理香(二階堂ふみ)、五人の就活、それを拓人の目線で追っていく。

 

拓人が共に学生劇団を立ち上げた相方が、学生を辞めてプロになった。自分の劇団を立ち上げた。プロになったからと言って世間が認めたということではない。避けていたものの意を決して公演を見に行ったら、学生の頃よりつまらなかった。それでも毎月公演を打ち続けている。拓人はそれを冷ややかにツイートする

 

瑞月は親が離婚し母の面倒をみなければならなくなる。彼女だけが自分の思いだけで就活を決められない。自分のことだけで思い悩めるのがどんなに幸せなことか。渦中の者はそれが解らない。どんなに辛くたってそれは黄金時代なのだ。社会から強制されないことだって幸せなことなのだ。

 

拓人はそんなみんなの就活の様子をスマホでツイートし続ける。それを理香に気付かれて罵倒される。就活も上手くいかない。芝居への踏ん切りも付けられない。そんな半端な自分を正当化、というより自己保身の為にツイートしている。”自分のツイートを読み返して自己満足?、自分は彼らとは違う何者かである様な気になっているんでしょう!”(不確か)

 

冒頭の大仰な導入、荘厳な音楽。PCの変換を使ったクレジットタイトルの出し方、いかにもPCスマホ世代の映画。それに続いてROCKがカットインして、光太郎のラストライブ。このメリハリは良い。菅田のVocal、様になっている。シャウト系、バラード系、どちらも良い曲。音もちゃんとライブの音がしている。

音楽は総じて上手くいっている。Syn打ち込み系にPf、かなりベタ付けだが、野別幕無しのシーンベッタリということではなく的確。ズリ上がりズリ下がりの付け方も効果的。私が学んだ付け方ではない今風の付け方。フレーズも曲尻も合っているので充て書きか。それとも相当緻密な選曲編集をしたか。中田ヤスタカ、良いセンス。Pfのウェット系のメロがちょっとベタな感じがしたが、この位でも良いか。

 

監督、三浦大輔。演劇系らしい。多分自分自身の経験をいろいろと反映させているのだろう。所々に演劇的な表現もある。演劇やっていた連中、こんな経験をしている奴、ゴロゴロいた。みんな時が経つに連れ、普通に収まった。一応世間的には何者かになった気になっている。

 

スマホのツイートは困ったもの。瞬間芸の会話は消えるが、瞬間芸のツイートは後に残る。表現といえるまでの熟成を待てない未熟な文字表現が氾濫する。一億総ペラッペラ表現者。もう止められない。サルに大変な道具を与えてしまった。

 

応募する方も採用する方も、就活が馬鹿げていることは解っている。しかしそれに代わる方法が無い。拓人が1分間自己PRで、1分間で語ることは出来ないと席を立つ。この終わり方は清々しい。しかし映画の ”終った感” は無い。明解な ”終った感” を作るのは無理だ。「甘くほろ苦い学生時代」を描く映画にするなら簡単だが、この映画、自分とは何者か、世間で何者たり得るか、を問うている。問はまだまだ続く。こんな映画に成り難い題材を良く映画にしたものだ。

エンドロールの主題歌も違和感なく聴けた。

 

人間社会の中で”何者か”でありたい、という思い、それってとっても良く解る。でもある年齢を超えると、人間社会の中での”何者”なんてどうでもよくなる。でもそれはある年齢を超えて初めて解ること。人間社会の中で”何者”たり得ること、その為の戦い、葛藤、それはそれなりに若くて正しい。

佐藤健、見直した。菅田将暉も良い。

 

監督 三浦大輔   音楽・主題歌 中田ヤスタカ 

2016.10.14 「SCOOP」 日劇マリオン

2016.10.14「SCOOP」日劇マリオン

 

どんなヤンチャも歳と共に世間と折り合いをつけていくものだ。それが自然。でも折り合いを付け損なった奴がいる。どうしても折り合えない奴がいる。

雑誌などと言う半分ヤクザな業界でも、そこそこの歳になれば、副編やら編集長やら部長やらになって折り合いを付ける。結婚したり子供が出来たりすれば、当然のことだ。

福山雅治演じるカメラマン・都城静はどうしてもそれが上手くいかなかった。いい歳して今だに仕事、仕事、女、借金。元ヤンチャ仲間で今は文芸誌の編集という出世コースにいる人物が、作家を撮らないかと誘ってくれる。静はそれを断る。”いつまでやってるんだ、中年パパラッチ ! ”  静に向かってそう言い放った人物を何と塚本晋也 (「野火」の監督) がやっている。階段のすれ違いでの1シーン。折り合いを付けない最たる人が真逆を演じ、説教する。これは笑った。塚本のキャスティング、白眉。

副編の定子 (吉田羊) 、バリバリのやり手女、静の元妻、スキャンダル路線の推進者。もう一人の副編・馬場 (滝藤賢一)、この雑誌はグラビアで売れてるんだとスキャンダル路線を頭から否定する。でもみんな若い頃は静とツルんで突っ走っていた。

静の助手として付いた使えそうもない新人・行川野火 (二階堂ふみ) とコンビで、若手政治家 (斎藤工)のスキャンダル写真をスクープしたあたりから、雑誌の部数が伸び始め、編集部は久々にイケイケとなる。静、野火のコンビが次々に芸能ネタのスクープをものにする。

社会ネタの事件が起きる。少女を四人殺した若い男、この男の顔を撮りたい、各社一斉に狙うが警察は鉄壁の防備をしく。警官が何重にも取り巻き、ブルーシートで覆っての現場検証。ここで昔取った杵柄、静から頼まれて馬場が老体に鞭打ってひと暴れ、野火のカメラがしっかりと顔を押えての大スクープ。静は一晩警察にご厄介となったが。

みんなが久々に昔のように燃えた。

 

今時こんな熱い職場ってあるのだろうか。コンプライアンスが闊歩する時代、多分ある訳ない。まるで70年代の熱さだ。でもこの熱さ、嬉しかった。

アメリカンニューシネマを思い出した。時代が変わり周りが変わっていくも、変わっていけない不器用な奴。そんな奴が時代遅れの熱さを振りまいて、あっけなく死んでいく。

ヤンチャ仲間だったチャラ源 (リリー・フランキー) 、今はヤク中。でも静の裏社会の情報源、困った時はチャラが救ってくれる。設定は違うも「真夜中のカウボーイ」(1969 ジョン・シュレジンジャー) のジョン・ボイトダスティン・ホフマンが、福山とリリーに重なった。片や憧れの地はフロリダ。静とチャラは会えばハワイでナンパした話をする。

クスリで訳が解らなくなったチャラが娘会いたさに、元妻と娘の所へ押し入る。同居の男と妻を殺し、娘を人質にして立てこもる。チャラから電話が入る。”静ちゃん ! ”

チャラは拳銃を持っていて訳もなくブッ放す。警官が遠巻きにする中で上手く娘を引き離した。”二人でハワイへ行こう、ハワイへ” その時一発が静のこめかみを射抜いた。野火のカメラが静に促されるようにその瞬間を捉えた。

時代と折り合いを付けられなかった奴が熱い思いを周りに振り撒いて、最期に少しだけ輝いて、あっけなく死んだ。

 

福山がダーティーヒーローを演じてカッコイイ。こんな役やれるとは思わなかった。役者として一皮とは言わないまでも70%位剥けた。

吉田羊がこれまでのどんな役よりも生き生きしていた。

涙目の滝藤もいい役でピッタリだ。

二階堂、初めはアレ? と思ったが、初心い小娘が一丁前になっていく様子をしっかりと演じていた。

リリー・フランキーには言葉もない。 

前日「お父さんと伊藤さん」を観た。3年前、「そして父になる」(拙ブログ2013.10) を観て、同月に「凶悪」(拙ブログ2013.10) を観た。あの時の衝撃。しかも今度は日を置かずのリリー二連チャン。今風仙人の様な伊藤さんと、ヤク中のチャラ源、あの薄味の様でいてしっかりと存在感を主張する顔は変わらない。デッサン顔は如何様にも仕上げられるのだ。

 

折り合いを付けられなかった奴の現実は、大方は悲惨だ。ヤクザになったり、犯罪者だったり、ただのグウタラだったり、大言壮語する生ごみオヤジだったり。だからこそ映画の中ではカッコよく描いてほしい。その熱気は正しいし、後の奴らにも必ず伝わる、そう描いてほしい、せめて映画の中では。

 

大根仁、脚本が上手い。ちょいとした台詞も気が利いている。コンプライアンスって言葉もちゃんと台詞で言わせている。もちろん無視して突っ走るのだが。無駄なくテンポよく余計な説明はそぎ落として。新人・野火の素朴な質問を諸々の説明に上手く生かしている。華奢なチャラが大男を次々にぶっ飛ばすなんておかしい、とは後で考えて思うこと、見ている時は、”ああっ野火、助かって良かった”と素直に思った。どこかに、チャラはボクサーの成れの果て、なんて台詞があって聞き逃したか。

 

音楽はのっけから打ち込みの重低音、ガンガンと運んでいく。サスペンス、アクション、ウェット、娯楽映画の定番の付け方。曲は、良く有るフレーズ、当たり前のフレーズを繰り返して新味は無い。でもそれで過不足無し。明らかに選曲だ。充て方は上手い。監督のセンスか。ただこの作曲家には映画音楽を作曲したという自覚はあったか。単に選曲材料を提供しただけ? だったら選曲担当で充分、作曲家である必要はない。 この件、突っ込むと長くなるので、いずれ別の機会に。

ローリングの主題歌、なんか歌謡曲のようなメロだ。最後にちょっと気が抜けた。

 

久々に熱くなる映画、監督に感謝!

原田真人の原作映画ってどんなんだろう…

 

監督 大根仁  音楽 川辺ヒロシ  

主題歌 TOKYO No1 SOUL SET feat 福山雅治 on guitar

2016.10.13 「お父さんと伊藤さん」 渋谷シネパレス

2016.10.13「お父さんと伊藤さん」渋谷シネパレス

 

お父さん (藤竜也) 74歳、伊藤さん (リリー・フランキー) 54歳、彩 (上野樹里) 34歳、ちょうど20ずつ違う、誰の身に重ねるかで観方が変わる。

お父さんは定年まで教師を務めあげ、何年か前に妻に先立たれ、長男一家のところに同居している。自分の生き方、生活スタイルをしっかり持っていて変えず、人にもそれを押し付ける、いわゆる頑固ジジイ。

伊藤さんと彩はコンビニのバイトで知り合い、いつの間にか同居するようになった。伊藤さんは怒られている時も薄笑いを浮かべている様な顔をしている。今は臨時で小学校の給食のおじさん。バイト生活は長い。一度結婚して別れた。子供はいないよう。それ以上は描かれない。あとはリリー・フランキーの顔を見て想像するしかない。このデッサン顔が色んなドラマを想起させる。アパートの狭い庭で野菜を育てている。

彩は、一度は正社員として勤めたものの、今はバイト生活。

長男 (長谷川朝晴) は正社員として普通の会社に普通に勤め、きっと普通程度の上昇志向があるのだろう。その妻は息子の中学受験で頭が一杯。お父さんへの拒絶反応で吐いたりする。長男は追い詰められて、お受験期間だけでもお父さんを預かってくれと彩に頼みに来る。そんなこと関係なく、問答無用でお父さんは転がり込んで来た。

お父さんは社会の中でしっかりと何がしかであった。そのプライドは強固で、だからめんどくさい。

彩と伊藤さんは、世間と戦うことを止め、何がしかであることを放棄した。バイト生活で最低限の生活を維持し、小さく自己満足の生活を送る。伊藤さんは柔和で優しい仙人の様な人だ。リリー、竹林の七賢に見えてくる。中国の屏風絵に居そうだ。

お父さんは始め20歳も違う同居人が居ることに平然としつつ内心驚く。結婚する訳でもない。お父さんの価値観の許容範囲外だ。彩は生活の細部に渡るお父さんの斯くあるべきに辟易としてぶつかってばかり。昔からそうだった。争わない伊藤さんは何でも受け入れるのでいつの間にかお父さんは伊藤さんに心を開いていく。二人で植物の世話をする。

 

失踪したお父さんを長野の生家で発見する。叱責する長男と彩に対し、”僕はここで暮らす、伊藤さん一緒に住まないか” とお父さん。伊藤さん、この時は驚く程はっきりと物を言った。”何で家族でもない僕が一緒に住まなければならないんですか、それは家族の問題だ、家族で解決すべきだ” (不確か)。

伊藤さんは、3人でしっかりと向き合わなければダメだ、そう言い残して消える。久々の親子三人、向き合うと言っても、言い争いをした後昔話になって川の字になって寝る、それだけだ。

親子って何なんだろう。たまたまそんな関係だった為に余計な苦労をさせられる。そんなもんなければ何と気楽なことか。一方、ここまで子供を育てたんだ。少しくらい大切にしてくれたって良いではないか。親も子も自分の都合で考える。観る方も年齢の近い方に肩入れする。

伊藤さんは関係ない人として、また年齢的にもちょうど真ん中、何する訳でもないが触媒を果たす。親子としてたまたま出会い長い時間を共有した、宇宙で一番関わりを持つ他者、そんな見方を出来るのは真ん中に居る伊藤さんだけだ。きっと伊藤さんもこんな経験を経ているに違いない。

落雷で生家が燃え、お父さんの価値観の象徴である柿の木も燃え落ちた。万引きしたスプーンも散乱して失せた。スプーンの万引きはお父さんが作ろうとした社会との接点なのではないか。振り向いてほしかったのではないか。

スプーンと柿の木が無くなり、お父さんは拘りを捨てた。踏ん切りを付けた。

この踏ん切りはちょっと哀しい。拘りがその人を作っているという面がある。そんな拘り、ちょっと引いて見ればつまらぬことなのだ。彩も長男も、ああそうですかと軽く肯き受け入れてあげれば済む話だ。一方、お父さんも持ち続けた拘りが大したものではないことを早く自覚すべきなのだ。解っていても捨てられない…

親子は腹を割って話せない。いつまでだっても親のプライドがある。これが邪魔する。言葉に出来ないから暗黙の裡に了解せざるを得ない。それは長い時間を共有した親子だから出来る。伊藤さんはそれを解っていた。

郊外のもっと広い家に引っ越して三人で住もうかと伊藤さんと彩が話した矢先、お父さんは有料老人ホームに入る決意をする。

歩いていくお父さんの足取りはしっかりしている。それを追う彩。老人ホームに入ることになるのか、三人で住むようになるのか、どっちか解らない。

 

家族のかたちが変わり始めて久しい。離婚も多いし、シングルマザーやシングルファーザーも増えている。必ずしも結婚というかたちを取らない夫婦だっている。そこに正規非正規の経済的要素も加わる。「家族はつらいよ」みたいな従来型の家族なんて今や少ない。疑似家族の時代なのだ。

長男の家は従来型、彩と伊藤さんは新しい形と言える。どちらが幸せか、これは当事者にしか解らない。彩と伊藤さんだって、時間が経ち子供でも出来れば考えが変わるかもしれない。長男夫婦も、時が経ち子供が成長した頃、離婚なんてことだってある。斯くあるべきという枷 (かせ) が無くなり、家族は多様化した。子供と収入(正規・非正規)と愛情と年齢で、家族は様々に変わる。

 

音楽、世武裕子、ほとんどPfソロである。バックに少しSynが入っていたかも。でも聴こえるのはPfソロだ。とっても洗練された曲。この映画で音楽が果たす役割はドラマに則して感情の増幅とかいうものではない。全体の雰囲気を作ることだ。それはとっても上手くいっている。日本的湿気は極力排除されている。音楽が一役買っている。

3人の役者の演技も同様だ。上野樹里は自然体でほとんど地のままという感じがする。

リリーは飄々としていて、演じる度合は絶妙だ。台詞は優しく、でも明瞭で、或る種の意志を感じる。藤竜也だけが少しカリカチュアして演じている。良いアンサンブルだ。

 

監督 タナダユキ  音楽 世武裕子 

2016.10.3 「ある天文学者の恋文」 日比谷シャンテ

2016.10.3「ある天文学者の恋文」日比谷シャンテ

 

光の速さをしても届くのに何百年何千年と掛かる彼方の星は、空を見上げてその光を確認した時、すでに消滅しているのかも知れない。かつて放った光だけが残る。

初老の天文学者で大学教授のエド (ジェレミー・アイアンズ) とその教え子エイミー (オルガ・キュリレンコ) の恋、エドには妻子があるから今風に言えば不倫、老いらくの不倫、あまり美しいイメージではない。それを知恵と技術と役者の力を駆使して美しくするのが映画だ。

二人はそう頻繁には会えない。合えない時はメールでやり取りする。絶えず携帯の着信音が鳴る。時々贈り物も届く。そのエドの講義が休講となり、そこで数日前死亡したことが告げられる。エイミーには頻繁にメールが届く、死亡が告げられた今も。信じられないエイミーはエドの住むエジンバラへ向かう。エジンバラの古い街並みが美しい。

まるでエイミーがエジンバラへ来ることが解っていた様にメールが入る。DVDが送られてくる。DVDの中でエドはそこに居るかのように語りかけてくる。誰々に会えという指示もする。エドの家の前で張り込みをするエイミー。一緒に夏を過ごした湖のコテージではあたかも今さっきまでエドが居たかのように暖炉の火が燃えていた。

死を前にしてエドは手の込んだ虚構を作り上げた。自分が死んだ後もあたかも生きているかのように思わせること。何年も前に消滅した星の光を今見ている様に、生前に星の光をプログラムしておくこと。大学の講義でエドの死が告げられると、その何分後かにメールが送信される。エイミーは信じられず、エジンバラへ向かうか別の行動を取るか。考えられ得る可能性を想定してメールやらDVDやら様々な物を用意する。それらを実行するには協力者がいる。エドとは幼馴染の弁護士が壮大な指示書に従い指令を出す。コテージの女将は、もしエイミーが来たら、見つからないように暖炉の火を灯し続けるよう指示されていた。

DVDは編集されている。編集前のテープがあるはずだ。ようやく見つけたテープには無理に笑顔を作ってカメラに話しかけるも上手くいかず、苦しそうに苛立つエドの後ろ姿があった。彼は死が確実なものになった時、残りの全てをかけて、この虚構作りに没頭したのだ。それはエドからエイミーへの恋文であり遺書だった。

死者からの手紙という素朴なタイムラグは昔から映画ではよく使われた。今は携帯がある。メールがある。ほとんど瞬時に世界は繋がる。設計図は複雑かつ緻密を極めたに違いない。協力者で意図が解っているのはおそらく弁護士だけ、あとは配送業者の様に指示に従って機械的に対応するだけだ。脚本・エド、監督・幼馴染の弁護士というところか。それが見事に展開する。エイミーにとっては、まるでエドがどこかで生きているかのように。

エイミーが抱えていた母との間のトラウマもエドの指示で良い方向に向かった。学士論文もエドの指示で上手くいった。そのあたりからメールにズレが生じ始める。済んでしまったことへの意見が来たりする。エイミーは思わず泣きながら笑ってしまう。もう虚構は限界の様だ。もしかしたらすでに君の隣には若い男性が立っているかも知れない、私を忘れて新たな一歩を踏み出すように(不確か)、そんな意味のメールが届く。

 

エドは本当に死んだのか。メールや贈り物を届けているのは誰なのか。途中までは恋愛ミステリーで引っ張った。ミステリーとして突っ込み処は沢山ある。しかしそれはどうでも良い。いつの間にかこの二人の老いらく不倫は深く儚く掛け替えのないものとして輝き出すのだ。謎解きはエドの死を受け入れる過程である。受け入れた時、宇宙の時間と空間の中で、エドとエイミーという存在として出会えた奇跡に感謝の気持ちで一杯になる。この世に生まれ、たかだか7~80年で宇宙の塵と化す、人間って何だろう。そんな人間が人と出会い、愛するという時空を超えた精神の高まりを知る、愛って何なんだろう。そんな思いが匂い立ってくる。老いらく不倫などと言う人間社会のゲスな話を宇宙が匂い立つまでの映画に作り上げた、それは脚本であり演出であり役者の存在感 (ジェレミ―・アイアンズが演じるからそうなる)、そして欧州の街並み、それらが総合した時、背後に宇宙が起ち現れた。惚れた張れた、フラれた病気で死んだ、人間社会にドップリの恋愛映画が氾濫する中で、宇宙が匂い立つ恋愛映画なんてめったにない。

音楽はトルナトーレと盟友のモリコーネ。弦を中心のオケで優しく包み込む。結構沢山付けている。この映画がファンタジーではないがリアルでもないことを示している。印象に残るメロは無い。それがちょっと物足りなく感じたのだが、そうではなかった。モリコーネのメロは人間の喜怒哀楽の中に物語を的確に纏めてしまう。メロディー押しのモリコーネがそれをしなかったのはきっとそれを避けるためだ。世界観は作るがメロは印象に残らないようにする。感情移入をさせないようにする、きっとそうだ。

「鑑定士と顔の見えない依頼人」といいこの作品と言い、トルナトーレは知的作為に満ちた工芸品の様な作品を作った。作為の謎解きが目的ではない。背後に匂い立つもの、それを描くのが本当の目的だ。

 

監督 ジョゼッペ・トルナトーレ  音楽 エンニオ・モリコーネ

2016.10.4 「ハドソン川の奇跡」 新宿ピカデリー

2016.10.4「ハドソン川の奇跡」新宿ピカデリー

 

鳥によるエンジントラブルから、冬のハドソン川へ着水して全員無事だったという2009年の実話に基づく映画。搭乗、操縦席、事故発生、管制官とのやり取り、ハドソン川への不時着、救出、どれも徹底的にリアルに描く。CGや合成技術の痕跡は見分けがつかない。本物の飛行機を不時着させて撮影した訳ではないのだから、それらはあらゆる技術を駆使して作り上げたものであるはずだ。それが普通に溶け込んでいる。CGや合成はここまで来たか。

冒頭、マンハッタンの摩天楼をギリギリかすめながら飛ぶジェット機、ついに片翼がビルに接触したところで目が覚める。機長サリ― (トム・ハンクス) の悪夢。明らかに9.11がある。それに続いて事故調査委員会。時系列としてすでに事故は起きている。委員会はラガーディア空港に着陸出来たはずだという。彼らは航空会社や保険会社の思惑でハドソン川に着水したことが誤った判断だったと証明したい。

一方では155名を救ったヒーローとして騒ぎ立てられている、ヒーロー扱いと調査委員会との間で苦悶するサリー。その間に事故がカットバックで挿入される。

結果が分かっている事を描く難しさ、そこで委員会での立証を山場に持ってきた。上手い構成である。

委員会の席上、コンピューターによるシミュレーションが行われる。何度やっても無事空港に着陸出来る。サリーの判断は間違っていたのか。サリーがタイムラグに気付く。鳥が巻き込まれてエンジントラブルが発生するなんてケースの対処法のマニュアルはない。想定されていたものなら決められた対処法に拠って即座に対応出来る。が、この場合、逡巡する時間が必要だ。旋回して空港へ向かえば、建物に接触する恐れがある。高度と建物と空港の位置とエンジンの総合判断が必要だ。コンピューターには逡巡する時間が考慮されていなかった。サリーがそのことを言う。委員長はそれを仮に35秒と仮定した。するとコンピューター上で飛行機はビルに接触して空港には着けなかった。冒頭の悪夢である。この委員会のシーン、手に汗握る。

ボイスレコーダーをその場で聴く。それに合わせて映像が忠実に事故を再現する。208秒 (離陸してから着水までか) のドラマ、サリーも副機長アーロン (ジェフ・スカルズ) も冷静で正しい判断をした。

個々の乗客を描いて過剰に涙を誘うようなことはせず、さり気なく幾つかのエピソードを挟むその度合いは絶妙。無事着水するも真冬の川の水はすぐさま流入してくる。そこからの脱出、主翼に並ぶ乗客。通報に即座に駆けつけた巡視艇、落ちる飛行機を見て駆けつけた民間艇、岸に救急車、NYが一丸となって救出にあたった。サリーが言う。これは我々乗務員の力だけではない、NYの市民がみんなで作り上げた奇跡だ。イーストウッドの考える、あるべきアメリカの姿がここにある。

 

アメリカはヒーローが大好きだ。解り易いヒーローがいないと纏まらない。トム・ハンクスは、悩みつつ、それを表には出さず、冷静、仕事に責任感を持ち、家庭を思いやる、ヒーロー扱いされようと決して驕り高ぶらない、理想のアメリカンを嫌味なく演じる。「ブリッジ オブ スパイ」でもそうだったが、太めの体躯が、人を押しのけてでも勝ちたい! という、勝者としてのアメリカンヒーローとは違った、もう一つの優しく包容力のあるヒーロー像を示している。

どうしても「フライト」(2013.3拙ブログ) のデンゼル・ワシントンと比べてしまう。こちらはアルコール漬け、薬漬け、セックス漬け。飛ぶ直前にセックスと薬でキメ、背面飛行を行って不時着、でも犠牲者を最小限に止め、一度は英雄視される。しかしその後はバッシング。組合と会社が裁判をパーフェクトにコントロールして、彼がひと言”イエス”と証言しさえすれば無罪となるところまで段取りする。しかし彼は言わなかった。それは嘘だから。

二人は真逆だ。しかし資本の論理で動いていないところは同じだ。そしてどちらも、強い者が勝つ、勝った者がヒーローだ、というアメリカンヒーロー伝説とは全く違ったヒーロー像を作っている。

 

サリーは無事着水出来るという確信があったと証言する。彼の操縦技術がいかに優れているか、いかに経験が豊富であるかが描かれる。しかしそれよりも彼には9.11のトラウマがあった。あの惨劇を再び起こしてはならない。だからハドソン川を選んだのだ。地上の管制官はその時全員助からないと確信した。155名、全員無事。確かにこれは奇跡なのだ。

 

音楽はほとんどがPfソロである。クレジットにはクリスチャン・ジェイコブという個人名と、ザ・ティアニー・サットン・バンドというバンド名がある。前半、サリーの細かい感情にPfソロが短くアドリブの様に入る。これ、イーストウッドが自分で弾いているのではないか。イーストウッドはよく自分でやる。「エドガー」(2012.3) は確か全編彼のPfだった。ローリングのクレジットを読み切れなかったので確かなことは言えないが。このチョコチョコと短く入るPfソロ、無くても良かった様な気がする。

全員無事と分かった一番の盛り上がり、そこもPfソロだった。でもこの優しいソロは良かった。このさりげなさは素敵だ。弦はPfの後ろに薄く入っていたかも知れない。でも弦として解るように鳴るのはローリングに入ってからである。ここは大きな弦楽が抑制を効かせつつ厳かに鳴る。その後、何故か女声Vocalが入った。悪いとは思わなかったが意味不明ではあった。歌詞に関連があったのかも知れない。

 

クリント・イーストウッドは誰もが知る共和党支持者である。しかし彼の中にあるアメリカンヒーロー像は、トランプとはおよそかけ離れている。

 

監督.クリント・イーストウッド  音楽.クリスチャン・ジェイコブ、ザ・ティアニー・サットン・バンド