映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2016.9.27 「オーバーフェンス」 シネリーブル池袋

2016.9.27「オーバーフェンス」シネリーブル池袋

 

人生思い通りに行く奴なんていない。函館の職業訓練校の建築コース(大工コース)には思い通りにいかなかった連中が集まっている。みんな若くない。一人大学を中退して早くもそこに通う奴(満島真之介)もいるが。そこに通っていると失業保険が延長されるというのが本音。本気で大工になろうなんて奴はいない。みんなそれなりに何かを抱えている。今更、夢も無い。でも何十年ぶりかの学校だ。教官がいて時間割があって、もたもたすると怒られて、夏休みがあって、体育の時間があってソフトボール大会があって、この歳になって再び学校を経験するヘンなウキウキ感はある。授業が終わって、クラス仲間(?) と飲みに行って、“ナンパしましょうか、僕たち学生だけど”って。一度社会でイヤな思いをした者に突然訪れたモラトリアムな時間。

そんな連中の日常を淡々と描く。大した事件も起こらない。役者の醸し出す存在感で映画を成立させる。主役のオダギリジョ-の存在感が大きい。

別れた妻と子供に未練を残しつつ、元に戻れないことはちゃんと解っている。かつて自分は気が付かずに他人に何かを強いていた。ノイローゼになった妻が生まれたての子供を手に掛けようとしていた。そんな自らを全否定する様な経験を経て、何となく解って来た。流れに任せる、ただ受け入れる、積極的に人生に関わらない、そこから生じる優しさ、鷹揚さ、きっとこれが人に安心感を与える。教室では一番信頼されているようだ。

そんな男の前に鳥の羽ばたきを真似るキャバクラの女(蒼井優)が現れる。オダギリは関わるつもりはなかったが女の方が積極的だった。女は多分オダギリに一歩踏み出す希望を感じた。避けていたオダギリだが少しずつこの女を受け入れる気になっていく。この女に付き合ってみる気になっていく。最後は学校のソフトボール大会で、女の前でフェンス越えのホームランを打つ。ヒョロヒョロと上がったボールが、アレ?アレ?と本人もみんなも見守る中でフェンスを超える。カットアウト、久々にすっきりとした終わり方。ダラダラとした終わり方の映画が多すぎる。

オダギリの声や喋り方は、若さの自己主張が抜け、少し諦めはしているものの生きてはいこうとするこの主人公にピッタリの声だ。落ち着いて優しくソフトなあの声がなかったらこの主人公のリアリティはなかった。いい声いい喋り方だ。「FUJITA」の時もそうだったが、どこか絶望しつつ人に対して心を閉ざさない、そんな鷹揚さがある。絶叫とは真逆。この声で映画は成立した。

それにしても中年モラトリアムを映画にするのは難しい。どこかをデフォルメして映画的強調を作らなければ引っ張っていけない。山下敦弘は解った上でそれをしない。淡々としたドラマの微妙な変化で映画を引っ張っていく。これは中々大変なことだ。明解で解り易いが好まれるご時世、ターゲットは狭くなる。私もちょっとだけ退屈した。

飲み屋でヘラヘラ笑う若い女に向かって、“お前たち、今の内にそうやって笑っていろ、その内直ぐに笑えなくなるんだから”(不確か)と言って座をシラケさせる。

いっそのこと暗い映画にする方が簡単で一般性が出たかもしれない。絶望はしつつ明るくはないが暗くもない、難しい所を狙ったものだ。やっぱり山下は「天然コケッコー」や「リンダリンダリンダ」や「モラトリアムたまこ」の方が淡々さが生きていて好きだ。

中年モラトリアムの新たな第一歩ならぬ、なんとなく半歩踏み出す映画、さわやかにすると嘘になる。リアルにやると暗くなる。その間でちょっと嬉しくなるような映画、淡々でも退屈することなく引っ張っていける映画、これは難しい。でも山下はその一番近い所にいるのは確かだ。

音楽はAgがブルースっぽい弾き方で効果音の様に入る。音楽という流れでは入らない。それとかつての幽霊登場音楽のミュージカルソー。ヒューッと入るのでSynかと思ったらクレジットに、のこぎり楽器とあった。不安と曖昧さを現すのか、所々に入る。これが演出音楽として効果的だったかどうかは僕には解らない。監督の思い入れの範疇だ。

呉美保の作品をやっている音楽家だ。センスで勝負するタイプか。

蒼井優松田翔太北村有起哉満島真之介も役者は自然で良い。演じる度合が難しかったと思う。

 

監督 山下敦弘  音楽 田中拓人

2016.9.21 「怒り」 日劇マリオン

2016.9.21「怒り」日劇マリオン

 

東宝マークの途中からSynのパッドが静かにスネークインして空撮の夜の住宅街を覆う。Pfのリヴァーブを深くかけた高音域の打音がゆっくりとオフで入る。その一角、”怒り”が、ふとした切っ掛けで爆発する。凄惨な殺人、妻と夫の無残な死体、血文字で“怒り”、かなりドギツイ導入である。

突然、歌舞伎町の騒音がC.Iして右往左往する洋平 (渡辺謙) の後姿。風俗店への手持ちカメラでの突入、そこに居た、3ヵ月前に家出した娘・愛子(宮﨑あおい)。愛子はちょっと人とは違う。何でも受け入れてしまう優しい娘、その娘が目の前でヨレヨレになっている。

娘を連れ帰る車中。イヤフォンで聴いていた音楽を父親にも聴かせる。イヤフォンレベルでF.Iしたかと思うと一気にフルボリュームとなり、それに合わせて画面は踊り狂うゲイたち。プールサイドのゲイパーティー。男同士のキス。浸りきっているエリートサラリーマン・藤田( 妻夫木聡)。喧噪がC.Oしてケアハウスの静寂。寝たきりの母を見舞う藤田。母がどこかへ行った時の話をする。また行けばいいじゃないか。

それを受けて波音とボートのエンジン音、東京から越してきたばかりの泉 (広瀬すず) と地元の少年・辰哉 (佐々本宝) を乗せたボートが画面下から画面上の無人島に向かって沖縄の海を真一文字に走る俯瞰。

事件の発端と3つの舞台が簡潔に乱暴に提示される。3カ所に脈絡はない。編集は強引、それを躓くことなく音が運ぶ。Pfの音楽、歌舞伎町の喧噪、イヤフォンから入り爆音となるゲイパーティーの音楽、ケアハウスの静寂、海とボートの音…、有無を言わさぬ音のメリハリ。

 

藤田が男 (綾野剛) とハッテン場で出会う。やがて一緒に住むようになる。男の素性は解らない。が、優しい男だ。ケアハウスの母親にも引き合わせる。母も心を許し、最期の看取りも男がした。一緒の墓に入る話もする。一緒は無理でも隣なら。安っぽいヒューマンドラマにならない様、会話が一ひねりも二ひねりもしてある。このダイアローグ、中々。

愛子は父の下で働く無口な流れ者の男・田代クン(松山ケンイチ) を好きになる。この男も素性は解らない。田代は愛子の前だと心が楽になると言う。

泉と辰哉が向かった無人島にはバックパッカーらしき男 (森山未來) が居た。田中と名乗った。ジェット機の爆音と共に現れたこの男、やはり素性は解らない。

時々事件を追う刑事 (ピエール瀧三浦貴大) の様子が入る。すでに事件から一年が経過、モンタージュ写真を公開する。それを取り上げるTVのワイドショー、犯人は整形をしているかも知れません。モンタージュ写真が映し出される。3人は似ているかも、いや違う、疑念が少し湧く。

 

素性が解らないということ、様々な事情で社会的認知の外に置かれた者に法律の庇護は無い。じっと耐えて生きる。発することの出来ない”怒り”は充満する。引火のきっかけは何でもよい。沸点の低い奴が爆発する。誰が犯人であってもおかしくない。

 

映画は東京、千葉、沖縄の話を短いセンテンスでランダムにつないで行く。普通はエピソードごとにある程度の長さに纏めてつなぐものだ。どの話も、信じるということと、犯人かも知れない、という間の緊張で成り立つ。だから愛子のエピソードに泉がカットインしても、田代の話に大西 (綾野剛) が突然インサートされても、気持ちは共通しているので違和感がない。さらに同じエピソードの中で時間軸を前後させたりもしている。それらを台詞のずり上げずり下げ、音楽をまたいで付ける、効果音等で、躓くことなく運んでいく。台詞が前のめりでリードし、効果音が流れを遮断し、音楽が感情を継続させる。あるいはずり上がった効果音に導かれる様に台詞が入り、音楽がインサートをまたいで継続する。先に作ったサウンドトラックを物差しに画をはめている様だ。もちろん実際には画が先にある。でも音が編集替えを要求するなんてこともあったかもしれない。音によって3つのエピソードは境目が無くなり一つの塊となる。信じることと疑うことのゴチャマゼの巨大な塊。

 

誰が犯人でもおかしくない。映画はそのミステリーで引っ張っていく。

愛子は人とは違うと同時に無垢の意志を持つ。信じ疑った極限で発する透明なオーラ。宮崎あおいが観音様に見えた。

藤田も大西を疑った。大西を兄の様に慕っていた薫 (高畑充希) が話す喫茶店のシーン。大西は藤田という存在が出来たことを嬉しそうに語っていたと話す。たったワンシーンだが高畑充希が印象深い。ここの音処理、喫茶店のノイズが段々無くなり台詞だけとなる。台詞と台詞の間の無音がこんなにも圧迫感のあるものとは。息詰まる。藤田が外に出るとスーッと蝉の声やらノイズが戻る。

人をどこまで信じられるか。藤田も愛子もそれを全うし切れなかった。大西も田代もそれを解っていた。でも一時社会の中に自分の場所を得た夢を見た。

沖縄の話は重い。決して今の沖縄の置かれた状況を訴えることが目的ではない。”怒り”の為に沖縄の状況を借りているだけだ。がしかし、”どうしようもない怒り”の度合が高過ぎる。それに遭遇してしまったのが田中だ。この男の屈折は尋常ではない。それだけ怒りが溜っており、引火もし易いということだ。田中を信じていた辰哉に ”怒り” が飛び火する。

 

音楽はほとんどPfのソロで、ゆっくりとしたコードにシンプルなメロがのる。3拍子だったり4拍子だったり。その後ろにSynのパッドが這う、時に高音の歪んだような音で。サスペンスと疑念。

前半は選曲で充てたと思われる。少なくともPfの曲はきっとそう。台詞のずり上がりずり下がりと複雑な編集の中で上手い充て方をしている。ゲイパーティーやコンビニのBGM等の既成曲も演出の音楽としてしっかりと役割を果たしている。

ケアハウスの廊下から入るPfの練習曲、アレ? と思ったら次のシーン、公園に面した家の窓にPfを練習している女の子がいた。母親が見て見ないふりをしてカーテンを閉め、Pfは止まる。あとのシーンの音楽をずり上げて付けていたのだ。この辺も上手い音の演出だ。

後半、疑念が膨らんでいくあたりからは弦が加わる。こちらはかなり細かい充て書の様。曲は練習曲の様にシンプルだ。アルペジオの曲をエンドロールで2Cellosが演奏している。

総じて音楽は優しい。言い換えればメロがあるということだ。音楽が果たしている役割は大きい。

三浦貴大が ”指紋鑑定が出ました” と言うシーン。観ているこちら側には犯人とも違うとも解らない。叫びを上げる愛子の画。そこにSynの弦で音階の様に単純な音楽がこれ以上無いボリュームで入る。この音楽にちょっと引っ掛った。これを確認したくて二度観をした(9.24 Tジョイ大泉)。これで良い! と思った。

(関係者より聞いた。Syn弦ではなく、生弦の12型とのこと。我が耳いい加減です)

 

この映画の素性の知れない3人の様に、誰に当ってよいか解らない、そんな思いを抱えた人間が沢山居る。社会に居場所を持たない者は勿論、居場所を持つ者でもやり場のない思いを抱えている。形に出来ない思い、例えば「辺野古基地反対」というスローガンにすると零れ落ちてしまう様な思い。

うんと引きで見た時、その原因は概ね格差社会という言葉に集約されるかも知れない。しかし寄りで見りゃ一つ一つはみんな違う。原作の吉田修一と李相日監督は「悪人」に引き続きこの形に出来ないものに形を与えるべく挑んだ。よりリアルな現実を表現として形にするには具体的なケースを並べるしかない。一つだけを掘り下げるのは「悪人」でやった。二つで塊とは言いにくい。3つ並べて初めて”怒り”という塊になる。個別であると同時に大きな”怒り”の塊を作り上げた。

 

ラスト、警察の取調室で犯人を知っているという男が腑に落ちるような説明をする。これは必要だったか。多分エンタメにするにはこの位解り易く腑に落ちるようにしなければならないのだ。その為、犯人が分かってからエンドまでがちょっと長い。出来ることならこの男を出さずに納得させて欲しかった。ここを簡潔にして大ラスの泉の叫びになれば。

重箱のスミだが、大ラスの泉の叫びの画、叫びのピークでCOではなく、叫び終わって一呼吸あってからCOとなっている。この辺は好みの問題だが…

 

良い映画は役者がそれ以外考えられない位みんな適役に思える。この映画は正にそうだ。みんな素晴らしい。ひとりひとりの素晴らしさを言い出したら切りがない。主要人物はもちろん、ちょっとだけの池脇千鶴も圧倒的存在感だ。スター揃いの中で一人違和感を放ちつつアクセントを付ける辰哉の佐々本宝もそうだ。儚げなゲイの綾野剛、僕が今年観ただけでも「リップヴァンウィンクル~」があり「64」があり「日本で一番悪い奴ら」がある。何という役者か!

 

監督. 李相日   音楽.坂本龍一  

 

(初めてネタバレに注意した)

2016.9.14 「セトウツミ」 テアトル新宿

2016.9.14「セトウツミ」テアトル新宿

 

映画にはこういう可能性もあったのか。

漫才のようなやり取りをそのまま映画として映し出す。カメラも基本は二人を正面から映す。もちろんそれだけでは持たないので、時々は後ろ斜めから撮ったり、ゆっくりとした移動もある。が、基本は公園の階段に座る二人、その後ろをひとが通ったり車が通過したりする。

瀬戸(菅田将暉)、サッカー部のエースだったが怪我をして退部、ポッカリ空いた時間、やることがない、ネアカ。内海(池松壮亮)、成績優秀、理屈屋、クール、ちょっと人を見下すような、授業が終わって塾までの間の1時間半の潰し方を模索中、ネクラ。ともに高3か。

この二人が川岸の公園の5段程の階段で出会う。毎日決まった時間に石段に並んで座って、とりとめもない会話をする。映画はそれを第一話、第二話、と言う様にブツ切りで6つ並べる。

会話は大体瀬戸が言い出し、内海がそれを理路整然と整理して返し、それに瀬戸がムカつく。

お前、俺のこと、どっかで見下してんのとちゃうか? それでも決して喧嘩にはならず、また翌日同じ時間に同じ場所で同じような会話を交わす。

会話はひねりが効いている。決してストレートでは返さない。ひねり具合はかなり高度でシュールでさえある。それを独特の間でやり取りする。言葉は今の高校生の会話そのもの、台詞的に整理などしていない。それを、特に瀬戸が本当に自然に話す。やり取りに飛躍や突然のすり替えなどがあるので、見ている方は相当集中する必要がある。やり取りに慣れてくると下らない事が面白く感じられてくる。これは笑いとしては相当洗練されたものだと思う。

もしかしたら映画館でしか笑えない種類のものかもしれない。暗闇と大きなスクリーン、感度は日常の10倍位上がっているか。それだからこそ感じられるデリケートな笑い。茶の間のTVでは気の抜けたサイダーの様だ、きっと。映画館でしき成立しない笑い。こういう映画初めてである。

瀬戸が好きなクラスのマドンナ、彼女は内海が好きだ。でも内海は関心無し。瀬戸と彼女と内海の携帯メールを使ったやり取りも面白い。

 

音楽はド頭からタンゴがカットイン。大阪の運河を主観移動して階段の二人まで続く。会話が始まると音楽はない。第一話の終わりにブリッジとして入り第二話に繋げる。音楽はエピソードを繋ぐブリッジとしてのみ機能する。輪郭や句読点として角張ったタンゴが実に効果的だ。おそらくこの映画、音楽はこのタンゴ1曲だけでまかなっている。充分である。

 

菅田将暉池松壮亮も自然で何気ない風ながらかなりの演技力を要求される役をしっかりこなしている。この二人がしっかりしないことには映画は成立しない。大変なプレッシャーだったと思う。演じている二人はこれが面白い映画になるかどうか、解らなかったのでは。それはきっと監督も同じ。大丈夫、とっても笑える良い映画になっています。

菅田将暉、久々に意味なく殺されて様になる役者の登場である。

 

これから二人は社会の中で何者かにならなければならない。まだ何者でもない二人が交わす何気ない会話。これは黄金の時間だ。人生の中で奇跡的に訪れるそんな時間。二人はそれを共有する。悠久の時間の中で、こんな時間と出会いが持てた、二人はなんて幸せなんだろう。

 

監督.大森立嗣          音楽.平本正宏

2016.9.14 「超高速! 参勤交代 リターンズ」 新宿ピカデリー

2016.9.14「超高速! 参勤交代 リターンズ」新宿ピカデリー

 

前作に引き続き、娯楽映画の王道を守って絶好調。話は単純、登場人物のキャラも上手く色分けされ、それに個性ある役者をはめれば、話は自動的に転がっていく。そう持って行った脚本監督は中々の職人だ。かつての娯楽時代劇映画をテンポアップして今風にリニューアルした痛快な映画、こういう映画、好きである。

藩主内藤役の佐々木蔵ノ介、財布を預かる西村雅彦、使い手の寺脇康文、料理上手な六角精児、猿と一緒の柄本時生、可愛い弓の達人知念侑季、小さな娘の手を引くさすらいの忍者伊原剛志、江戸詰めの上地雄輔七人の侍よろしく皆得意技を持っており、見せ場がある。将軍吉宗の市川猿之助大岡越前古田新太、悪役・陣内孝則渡辺裕之、みんな楽しそうに演じている。

紅一点のお咲役・深田恭子、久々のお姫様女優の誕生。女優数多居れど、文句なくお姫様を演じられるは深キョンを置いて無し。お姫様を演じられるのは私以外に無い! と深キョンは胸を張るべし。おっと忘れた富田靖子、とっても綺麗なおばさんになった。

いつもながら、今にも死にそうで死なない神戸浩(百姓)の台詞を聞くと何だか嬉しくなる。

目線はいつも民百姓と共にあり。藩主とは、つまりリーダーとは斯くあるべきという筋もしっかりと通る。

一万五千石にしては立派過ぎる城、将軍暗殺の企てといういささか粗っぽい筋立て、いとも簡単に城を乗っ取られた、エッ? 棺桶から転がり出た二人、いくら何でもバレるでしょう、突っ込み処多々あるも、それは無粋というもの。映画に辻褄合わず、話が無理、は付物。それを納得させてしまうのが演出。

 

音楽、周防義和、こんなにも映画音楽のツボを心得たかと感心した。弦、リズム帯、木管Perc、バンド系の人なのでアレンジはシンプル、それがこの映画に合っている。城の外観が映ったり、大きな政治向きのシーンには、スペクタクルで大仰な弦が格調を添える。いざ出発!となればリズム帯がなる。前作よりも増えた殺陣のアクションにもマリンバの入るリズム帯、どれもジャストで入りへんな溜めは作らない。明解で解りやすい。その上、一貫したテーマメロがしっかりとある。ちょっと民謡風というか和系のマイナー、でも決して重くも暗くもならない。このメロを上手く料理して内藤とお咲のラブシーンにも生かす。

カメラが悪党陣内に寄るとちゃんとFG(?) がメロを取ったりして、細かい合わせもやっている。かつての映画音楽の技法をテンポアップして今風にリニューアルした真っ当な映画音楽。こういう映画音楽は久々だ。

エンドロール、斉藤和義のロックは合わなくはないのだが、ちょっと浮いていたか。

考える映画も良いが、口開けて楽しめる映画も良いものだ。

時々入る猿のカットが絶妙。

 

監督.本木克英    音楽.周防義和   主題歌.斉藤和義

2016.9.12 「太陽のめざめ」 シネスイッチ銀座

2016.9.12「太陽のめざめ」シネスイッチ銀座

 

16歳のどうしようもない悪ガキ・マロニー(ロッド・バラド)。6歳の時、母親に捨てられた経験を持つ。その時担当した判事がカトリーヌ・ドヌーヴ。10年を経て今ドヌーヴと再会する。母親は相変わらず荒んだ生活をしているがマロニーとは一緒に暮らし肉親としての絆はある。弟もいる。

判事は何とか更生させようとする。刑務所行きを少年更生施設扱いにしたりして。それでもマロニーは結局ダメで、挙句は泣きながら母親に電話したりしている。人のせいにばっかりする。もっと酷い現実はいくらでもあるだろうに。こんな甘えた白人の悪ガキ描くより移民の悲惨はゴロゴロしているだろうに。

かつてはワルだった指導教官やら最後まで見捨てない判事やら、純情な彼女が出来て妊娠させて子供が出来て、それで更生するやら、俺には仲間が居るなんて最後に呟くやら、どう見てもこの映画、ズレてる。

ドヌーヴはさすがの貫禄演技、時に奈良岡朋子を彷彿させるような表情をする。悪ガキも新人にしては健闘だ。しかしこの映画、フランス不良少年更生事業はこんなにも本人に寄り添い忍耐強くきめ細やかにやってますよ、というアピール映画にしか見えない。エスタブリッシュと化したオールドリベラルがさも私たちはリアルな現実を解っていますよと頭の中だけで作り出した映画。そんな風にしか見えない。

ネットを見たらカンヌ映画祭のオープニング!ドヌーヴへの気遣い? それとも政治的何かでもあるのか? ブーイングは起きなかったのか。ドヌーヴだから起きないか。

 

音楽は多分みんな既成曲。カーラジオだったり現実音としての扱いがほとんど。クラシックだったりラップだったり。劇伴にあたるものは無い (と思う)。ラスト、子供を抱えてマロニーが警察の廊下を歩くシーン、ソプラノのクラシックっぽい曲が取って付けた様に流れて感動を無理矢理作る。そのままエンドロール、その曲が終わるとアニメ声の女声のラップ。ラップ流せば今風、というレベルの低い音楽センス。

 

原題 La Te”re haute  仏語解らず。直訳すると ”高い頭” らしい。多分判事のことを指して、「志の高い人」「高貴な人」くらいの意味なのだろう。それがなんで「太陽のめざめ」なんだ。

「太陽」という言葉は僕ら団塊にとっては、「太陽がいっぱい」だったり「太陽はひとりぼっち」だったり「太陽は知っている」だったり「太陽のかけら」だったり「太陽は傷だらけ」だったり、邦画では「太陽の季節」だったり「太陽の墓場」だったり、青春,反抗、欲望、のイメージだ。「太陽を盗んだ男」(これは原子力)とか「沈まぬ太陽」とか「下町の太陽」とか、これは”希望”の象徴、なんてのもあったが。

フランス映画で ”太陽” とくれば、つい ”青春、反抗、欲望” をイメージする。その思い込みを利用したか。

洋画の邦題は、直訳,意訳、オリジナル邦題、と色々あって自由だ。かつては「勝手にしやがれ」という名邦題があった。映画の持つ雰囲気をグワッと鷲掴みにして日本語として吐き出す、詩心があった。

内容と関係なくたって良い。騙される方が悪い。宣伝マンとしてはしてやったりだ。「太陽のめざめ」、この邦題、見事な詐欺心。

亡くなった筑紫哲也が洋画の邦題の賞をやっていた。この邦題を付けたおかげでヒットした、という賞。映画を愛し言葉に拘る、良い賞だった。ご存命だったらこの邦題を何と言っただろう。

 

監督.エマニュエル・ベルコ   音楽家クレジット、チェックし切れず 

2016.9.05  「アスファルト」  シネリーブル池袋

2016.9.05 「アスファルト」 シネリーブル池袋

 

フランスの郊外の吹き溜まりの様なアスファルトの団地。我々的にはコンクリートと総称してしまう方が通じるか。故障したエレベーターを修理すべきかどうかの住民集会から始まる。

車椅子の初老の男、夜中に病院に忍び込み自動販売機を蹴飛ばして出て来たスナック菓子をむさぼる。そこの喫煙場所で出会った訳あり風中年女の夜勤看護士との純愛。母がほとんど不在の高校生と、隣に引っ越してきた30年前には映画に主演したらしいプライドだけが残る女優。突然宇宙から降って来たNASAの宇宙飛行士とそれを息子の様に迎えるアラブ系のお婆ちゃん。3つのエピソードが並行して進み、どれにもちょっと希望の光が差し掛けた、というところで終わる。フランス下層階級の吹き溜まりの中のささやかなハートウォーミングな小噺。

ほとんど団地内、時々映る外は人影もないアスファルトの光景。そして重く淀んだ空。カラー映画なのに灰色のモノクロ映画の様だ。

ドアの開け閉めの音、蹴飛ばす音、エレベーターのガチャンという音、金属性の音がコンクリートに響いて痛い。この音がシーンを繋いで行く。時々、ヒューという風の様な、金属の淵を擦るような、子供の悲鳴の様な、音が聞こえる。団地に住むみんなに聴こえるのか、この映画の登場人物だけに聴こえるのか。アスファルトが発する虎落笛。掃き溜めが発する悲鳴。

フランスの団地は荒涼としている。ここからアサシンが生まれた。マシュー・カソヴィッツだ。郊外の貧民と移民の現実。でもこの監督は何とかそれをユーモアで乗り越えようとしている。触れ合う心はアスファルトの壁に勝てるのか。でも明日は今日より少しだけ明るくなっている、そんな映画だ。

日本の団地とフランスの団地では随分意味するところが違う様だ。かつて我々団塊の世代にとって団地は文化的生活の象徴だった。団地から新しい文化が生まれるのではと思っていた。「みなさん、さようなら」(2012中村義洋)は、夢の団地を守ろうとする少年 (濱田岳)の成長記であり、団地が時代の役割を終える物語だった。「海よりもまだ深く」の是枝裕和監督にとって団地は心のふるさとだ。「団地」(阪本順治)は見逃した。

今、日本の団地も老人や低所得者の場になりつつある。その内アジア系移民も増えるかもしれない。フランスの団地に近づいていくのだろうか。

やっぱりアスファルトの虎落笛はイヤなものだ。地の底からの声がアスファルトを通じて初めて音という波動になって助けを求めているようだ。

 

音楽はほんの数カ所。Pfソロで3拍子のエチュードのようなシンプルな曲。ローリングではバックにSyn弦が鳴っていた。音の主役はアスファルトに響く効果音。音楽はそれを立てるように控えめで正しい。

少年 (ジュール・ベンシェトリ、監督の息子、ジャン・ルイ・トランティニアンの孫だそうな) が美しい。イザベル・ユぺールが落ちぶれた女優を好演。宇宙飛行士のマイケル・ピットもアラブ系のお婆ちゃんも良い。足の悪い男も看護士も。良い役者揃い。

 

監督.サミュエル・ベンシェトリ          音楽.ラファエル

2016.8.30 「後妻業の女」 新宿ピカデリー

2016.8.30「後妻業の女」新宿ピカデリー

 

「後妻業の女」このタイトルが内容をすべて語ってしまっている。どんな映画だろう? と推測する余地がない。そこに大竹しのぶと来た。もう観る前から想像がつく。面白いに決まっている。

高齢で資産があり持病が有ればなお結構、津川雅彦の酸素マスクを外す画にそんな豊川悦司のナレーションが被った予告編。観る前にこれ程的確に内容が伝わり、”面白いに決まっている感” 漂うのは、シリーズ物を除いて最近では珍しいのではないか。だから期待と予想を超えなければならない。少しでも下回れば、ナ~ンだ、である。これは大変なプレッシャーだ。

結果は、良くやった!  脚本は手際よく纏まっており、くせ者役者をチョイ役にまで配して更にデフォルメ、出演者全員濃いキャラ (長谷川京子ミムラは違うか) の小悪党大競演、”面白いに決まっている” をクリアして大人向けエンタテイメントが出来上がった。

口が立ってジジイをそそる色気があって悪を全く悪と感じない根っからの悪女・小夜子、これを大竹しのぶがこれでもかとばかりにやる。あまりに憎たらしくて、ついに可愛い。その女を操りつつその悪党ぶりに一目も二目も置く柏木 (豊川悦司)。この二人のキャスティングでこの映画の成功は決まった。

善人面した永瀬正敏の私立探偵 (最近永瀬復活の兆し)、笑福亭鶴瓶スカイツリーを持つ竿師、小夜子の犠牲者・伊武雅刀森本レオ、鍵師の泉谷しげる、獣医の柄本明、小夜子と取っ組み合いをする尾野真千子水川あさみはこの作品でイメージチェンジを図った。そして津川雅彦、今やスケベ老人をやったら右に出る者はいない。安藤サクラが出た映画「0.5ミリ」(2014 監督.安藤桃子) でも見事なスケベ老人をやっていた。後妻業同業者・余貴美子のエピソードが一つあっても良かった。面食いでカスばっか掴む、小夜子と対照的なキャラとして。「えっ、1万円?」だけじゃ勿体無い。 

この映画、出てくる人間、みんな金に憑りつかれている、時間の無くなった老人だけが金から自由である。津川の遺言状にはこんな内容が記されていた。娘たちに家だけは残す。人生の最後、小夜子はイイ思いをさせてくれた。小夜子は面白い女だ。津川は全て承知の上だったのだ。

伊丹十三だったら、森田芳光だったら、なんてつい考えた。でもその内それも忘れた。TVでの実績を掲げ「愛の流刑地」「源氏物語 千年の謎」を撮るも残念な結果となっていた鶴橋監督、ようやく映画らしい映画を撮った。

このネタ、描きようによっては「復讐するは我にあり」(1979今村昌平) とか「凶悪」(2013白石和彌) の女版になる。何せ遺産目当てで公正証書を書かせた後は殺してしまっているのだ。殺さないで金だけ取ってりゃ比丘尼様だった

編集もテンポ良い。さりとて今時の、話が追えなくなるような目まぐるしさではない。そして音楽がとっても効果的だった。少しSynは入るものの、ほとんどギターのバンド音楽。ロックではない。ボトルネックだったりのブルースやジャズだ。これが要所要所に入り、コテコテで泥臭くなるところに洗練をもたらしている。ピッキングが画面にスピード感を与えている。こんな音楽よく思いついた。 

所々に既成曲、この選曲も的を得ている。この手の話、どうしても何でこの女がこうなってしまったのかという内面に触れたくなる。それをやるとジメついてくる。さりとて全く触れないのも不満が残る。それをこの映画、小夜子に「黄昏のビギン」をアカペラで唄わせてサラリとかわした。小夜子が内省的になる唯一のシーン。このアイデア、選曲、大竹の歌、どれも秀逸。

何か所かに「Do you wanna dance」(Bette Midler) が流れる。何でもない所にこんな外国曲使ってなんて余計な気を回していたら、小夜子が死ぬ (実は死んでないのだが) シーンでも流れた、柏木と息子を前にして。このシーン、「Do you wanna dance」によって何と怪しげでエロティックになったことか。息子は騒ぐ、柏木は直ぐに後始末を考える、観てる我々は小夜子がこんなに簡単に死んじゃっていいのかと半信半疑、それを小馬鹿にする様に超然と流れるのだ。こんな既成曲の掛け算効果を最近見たことが無い。狙ったのか偶然か。黒澤の言うコントラプンクトだ。

死体を詰め込んだスーツケースから髪がはみ出ている。それをハサミでカットする。何とオシャレ! その後のシーン、スーツケースから平然と生還した小夜子の、髪のカット跡がもっとハッキリ分かれば良かった。一瞬寄ったら説明的過ぎるか。さらに歩き出した小夜子のうしろ姿にもう一度、「Do you wanna dance」を被せたら…

この映画で劇伴も既成曲も含め、音楽が果たしている役割は大きい。

音楽・羽岡佳。「リアル」(2013 黒沢清) でトイピアノを使った人だ。あのアイデアも良かった。今回のギターサウンド、そして既成曲を見事に演出音楽として生かした作曲家を始めとする音楽スタッフへ拍手である。

 

中高年で当たっているよう。続編の匂いがする。続編は殺された男たちが小夜子にまとわりついてあの世とこの世を超えたホラーコメディーだ。

 

監督.鶴橋康夫  音楽.羽岡佳