映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2019.6.25 「町田くんの世界」丸の内ピカデリー

2019.6.25 「町田くんの世界丸の内ピカデリー

 

少女マンガが原作らしい。予備知識全く無く観た。

冒頭、LPレコードに針が落とされるドUP、レコードのジャケットには〇○○(?) とアルファベット、賑やかな音楽が流れ (これはオリジナルそれとも既成曲? 何というバンドの曲?)

子供たちが起き出す。主人公らしき少年が朝食を作る。妊婦の母親 (松嶋菜々子) が、今夜はハンバーグが食べたいという。それに頷く少年。どうもつかめない。少年を演じる役者を知らない。芝居もどこかぎごちない。ヘンな走り方をする。

 

この高校生町田くん (細田佳央太) が保健室で猪原さん (関水渚) と出会う。話が動き出す。がまだつかめない。時々同じクラスの前田敦子が訳知り顔でいちいち解説する。これがおかしい。前半はアッちゃんの解説で持った。

町田くんは勉強も運動も出来ず、しかしイノセント、博愛の人。困った人を見ると誰彼かまわず助けてしまう。全ての人間が好きだ。ヘンなぎごちなさが芝居の未熟さでないことが解ってきた。遠藤周作の「おバカさん」に通じる。でも宗教臭くはない。

みんなを好きという中の一つだけ好きの特殊現象、それが恋愛。恋愛は知っていても博愛は知らない人ばかりの中で、博愛に溢れるも恋愛を知らない少年の、恋に目覚める話なのだ。

 

町田くんも猪原さんも新人らしい。初々しい。二人を始め、前田敦子も岩田剛典も高畑充希もみんな高校生。ちょっと無理なのでは? と思ったのは始めだけ。不思議と違和感はなかった。

 

石井裕也作品の主人公はどれもピュアだ。今ピュアは生きずらい。周りと摩擦を起こす。それを何とかかいくぐり、ピュアを貫徹する。最後は必ず楽観的だ。「川の底からこんにちは」も「舟を編む」(拙ブログ2013.5.14) も「夜空は最高密度の青色だ」(拙ブログ2017.5.25)も。人間として生まれてきたことは奇跡だ。それへの深い感謝。ベースにこれがある。そこから生じる優しさ、信じるということ、それを色々な形でヴァリエーションする。

僕は「夜空~」で田中哲司が言った “大丈夫、死ぬまで生きるさ”という台詞が大好きである。

町田くんは生まれた赤ん坊を抱えて”これは奇跡だ”という。僕は人間として生まれて来たことは奇跡だと感ずる様になったのはつい最近、老境に入ってから。30代でそう感じている石井監督って凄い。

ひとつ間違えてしまうと、偽善の塊みたいになってしまう話を、そうはさせじと、変形青春純愛物しかも上質なコメディに仕立て上げた力量は今更ながら大したもの。僕は石井の眼差しが大好きである。

 

クライマックスは風船で二人が空を飛ぶ。前半で木に引っかかった風船を取ってあげるというシーンがあった。この前フリが大きく花開く。これぞ映画! ただ前半は赤い風船一つ。クライマックスは何色かの風船が3つ4つ。こっちも赤一つの方が良かったのでは。アルベール・ラモリスだ。二人がぶら下がるから増やしたのか。町田くんにしがみ付く少女が可愛い。このまま空の彼方へ飛んで行っちゃうのかなと思った。けれどちゃんと水を張ったプールに落とした。しっかりと現実に戻した。そういえばこのプール、何故か町田くんが掃除をしていたなぁ。

 

50年以上前、小学生の頃、TV (CXのテレビ名画座あたりか) で見た「ミラノの奇跡」(1951ビットリオ・デ・シーカ) という映画が突然思い出された。詳しい内容は覚えていないが、追い詰められた主人公が突然ミラノ大聖堂の前でほうき(?) にまたがって舞い上がるのだ。次々に仲間も舞い上がる。子供心に鮮烈だった。今考えれば、映画はリアリズムだけではない、と知った最初の経験だった。

あの風船はまさにそれだ。風船に大拍手!

 

いくら前フリをしているとはいえ、リアリズムで来た話をクライマックスで一気に飛躍させる、これは大変な冒険だ。上手くいかないとお笑いである。飛躍を受け入れられない人はそう感じたかも知れない。僕は何の違和感もなく自然に受け入れられた。

そんな町田くんには、我々が見る悪意や不信に満ちた現実は、少し違って見えている。猪原さんとのやり取りの中でそれがうまく出ている。アッちゃんの解説も効いている。決してファンタジーで逃げているのではない。しっかりと今時の高校生のリアルな話。現実の中には見方を変えるとファンタジーに見えるものが一杯あるのだ。

 

平成という時代の間に人間の嘘と欺瞞と不信と悪意は急速に進んでしまった、本来持つ善意や思いやりは色あせた、さりげなく背後でそう語る。文春砲の様な記者・池松壮亮はそれに疑問を感じているも上司 (佐藤浩市) から”人の不幸は蜜の味” (と言ったわけではないが) と諭される。

高校生もそれに蝕まれている。そんな中で町田くんのイノセントは周りの人を変えていく。町田くんも好きの中の特種形の好きを理解していく。

 

音楽は前半、疾走するところにEGで煽るロック、これあまりにパターン、無くてよい。気持ちに即して、アコーディオン、Pf、Cla等の小編成の音楽が付けられる。これもパターン。でもわざとおきまりの付け方をしているのかとも思う。音楽の尻はブツ切りカットアウト。これが効果的。このCOがテンポを作っている。音楽は、入りばかりを気にしていたが、尻のブツ切り処理がこんな効果をもたらすとは…

川原や公園やビルの屋上や、所々に広い絵を入れて映像的に飽きさせない。車を真俯瞰で撮ったりして変化を付ける。空飛ぶ風船の追っかけになってからは、車中からやビルの屋上など日常の中のスペクタクル。そこに満を持して弦の入った大編成の、舞曲の様な遊園地の様な活劇風の音楽が入る。きっとこの音楽さえ上手く合えば他はどうでも良かったのだ。

 

二人のほとんど新人を主役に据えたのは自信の表れ、脇にこれだけのスターが集まったのは監督がいかに役者から信頼されているかの表れ。

 

エンドロールで平井堅のUPテンポの歌が流れた。バラード熱唱だけかと思ったらこういう歌も唄うんだ。劇伴で良かったのでは…

 

監督. 石井裕也  音楽. 河野丈洋

2019.6.24「ゴジラ  キング・オブ・ザ・モンスターズ」新宿ピカデリー

2019.6.24 「ゴジラ キング・オブ・ザ・モンスターズ新宿ピカデリー

 

日本の特撮映画だったらまず冒頭は主人公の紹介と日常描写だ。あるいは突然、ゴジラがどこどこに現れましたと特撮が短く入るも日常に戻る。本格的に特撮が始まるのは中盤以降。それまで人間達のゴジラとの関わりがドラマとしてある。このドラマがどのくらいしっかりと描けているかで、後半の特撮のリアリティが変わって来る。だが長い尺は割けないし、ゴジラ登場の理由づけが主となるのでどうしても深いドラマにはならない。

これまでのゴジラ映画で登場までの理由づけを一切省いたのは「シン・ゴジラ」(拙ブログ2016.7.25)だけだ。ゴジラは無前提に出現した。理由づけはこれまでに散々行っている。それはもういりません。ゴジラが現れました。さあ日本のみなさん、どうしますか?  ゴジラ=危機である。それに対する政治家、科学者、自衛隊、外交官等の動きが、今の日本の法律や軍備や外交をリアルに反映させて描かれる。この視点は新鮮だった。

 

邦画で特撮が中盤以降になる理由がある。それは特撮にはお金がかかるということ。だから後半に集中させて、しかもここぞというシーンに手間隙お金を集中させて、それをメインビジュアルとして“売り”とする、限られた製作費による、そんな事情がある。

ところがこの映画、始まって直ぐに巨大なモスラの卵の爆発(孵化)だ。あとは次から次にお金と技術を駆使した特撮のオンパレード。それが終わりまで続く。全編が、日本でいうところの “売り” とする特撮シーンの連続だ。

主人公が誰なのか、どういう状況なのか、ここはどこか、そんなことは二の次、目を見張る特撮シーンの連続。ただただ次々に登場する怪獣の戦いに呆然とする。その内豪華特撮に慣れてしまい、たまに挟まる効果音も音楽も無いコントロールルームの人間の描写にホッとしたりさえする。

セコイ我々は出し惜しみをして勿体を付けて、ここぞという特撮への期待を煽る。こちらは全くそんなことをしない。期待する間も与えず豪華な特撮を連発してくる。もう特撮満艦飾に身をゆだねるしかない。

 

ストーリーはもちろんある。主人公は家族、ファミリー物である。マーク (カイル・チャンドラー) とエマ (ベラ・ファーミガ) は科学者、二人の子供、男の子の方はゴジラの犠牲になっている。「GODZILLA」(2014)の話を引き継ぐ。エマは鳴き声を解析して、すべての怪獣に通じる発声装置 (オルカ) を作る。途中まで時々出てくるオルカという言葉が解らなかった。怪獣の名前かと思っていた。エマと娘はエコテロリスト集団に連れ去られる。エマはこの集団のシンパだった。マークは芹沢猪四郎博士 (渡辺謙) らと未確認生物特務機関モナークのメンバーとして怪獣たちと戦う。これらはあとで反芻して解ったこと、観ている時はそんなこと解らなかった。

 

芹沢博士は言う。人間は生命体としての地球を蝕んでいる。このままだと地球も人間も消滅するだろう。怪獣はそれに怒っている。怪獣は人間より先に地球にいた先住生物 (守護神)、人間は怪獣の存在に謙虚にならなければならない。

怪獣を人間のペットにするのではない。人間が怪獣のペットになるのだ。

モナークはこの思想に基づく。これは最初の「ゴジラ」(1954) の思想を継承する。

この思想を出発点とし、これまでの邦画ゴジラシリーズ及びハリウッドゴジラが積み重ねてきたストーリーを随所に巧みに散りばめる。

芹沢博士はオキシジェンデストロイアーならぬ核弾頭を持ってゴジラを蘇生させるべく体当たりをする。エマは最後に自らが発明したオルカと共に消えていく。キングギドラは地球外からやって来た怪獣、モスラは美しき地球の守護神、マニアが見ればレスペクトやオマージュはもっともっと沢山見つけられよう。

よくぞここまで、これまでの積み重ねを反映させたストーリーを作ったものと感心する。スタッフのオタク度の高さに脱帽する。

だが芹沢博士の死もエマの死も実にあっさり、そんな所でエモーショナルになっている暇はない。深い人間ドラマを期待するのは筋違い、ストーリーは特撮を並べる為の台紙の様なもの、この映画にはそんな割り切りがある。

舞台は南極だったりボストンだったり、戦艦大和のような軍艦が出てきたり、「沈黙の艦隊」の様な潜水艦が出てきたり。オスプレイは飛びまくる。場所の違いも位置関係も解らない。と言うよりそれは何の問題も無い。

地球のあらゆる怪獣が目覚め、キングギドラに操られて世界中で暴れまくる。世界はパニック阿鼻叫喚。逃げ回る群衆シーン。あゝ、昔あんなシーンにエキストラで参加したっけ。しかしそのリアリティはない。必要ない。観たいのは特撮だろう?

 

音楽と効果音はのべつ幕無し。ゴジラの鳴き声は日本のものに近い。音楽は画面に合わせて丹念な劇伴である。スコアを書くのは大変だったと思う。ゴジラの登場シーンには伊福部昭テーマが流れる。モスラには古関裕而メロ。僕はそれだけで充分だった。ゴジラに伊福部テーマは007のテーマと同じで不可分。このハリウッド映画はそれをキチンとやってくれた。劇中での両テーマはフルサイズでは流れない。それでもオリジナル劇伴がメロというよりサウンドであるのに対し、二つのメロは圧倒的。特に伊福部メロは、贔屓の引き倒しかもしれないが、多を圧倒して燦然と輝く。

何ヶ所か宗教的テイストのシーンには混声コーラスが分厚いオケの後に這って効果的。贅沢な使い方である。男声が同じ音程をお経の様に朗唱する。私の耳のせいか”アーシーアナロイ~” と言っているような… 一度観なので不確か。マニアの方,分かったら是非教えてほしい。

エンドロールで伊福部テーマと古関メロがようやくフルサイズで奏される。スタッフの並々ならぬレスペクトを感じる。モスラはあの歌謡曲っぽい間奏まで奏している。

一つ気になったこと、伊福部テーマのゴジラ登場の12音階の方、終わりの2拍3連の前2分音符3つ、抜けているのでは? 体勢に影響はないのだが長年聞きなれているので、あれっ? と思った。聞き違いかも知れない。マニアの方、これも分かったら是非教えてほしい。

エンドロール前のクレジットで流れた歌、あれはブルーオイスターカルトの歌? 昔の音源? それともまさか新録? これも分かったらお願いします。

 

時々気の効いた台詞があった。ダイアローグライターの手になるものなのだろうか。シャレてると思うもほとんど忘れてしまった。ギドラ? ゲリラ? だけ覚えている。

前作でもそうだったが、核はアメリカ人にとっては“最も強力な兵器”でしかないことは変わっていなかった。

画面左奥にキングギドラ、右手前に木製の十字架というワンカットがあった。こんなことが起きようとは30年前には想像もしなかった。

伊福部テーマは世界を席巻した。

 

目覚めたゴジラキングギドラを倒して、地球の怪獣たちが頭を下げひれ伏す。あなたがキングです!  次作はついにもうひとりの王キングコングと対決するわけか。邦画のゴジラは一体どんな手でこの豪華絢爛に対抗するのだろう。

 

監督.マイケル・ドハティ   音楽.ベアー・マクレアリー

2019.6.03 「コンフィデンスマンJP」 TOHOシネマズ新宿

2019.6.03「コンフィデンスマンJP」TOHOシネマズ新宿

 

TVドラマの映画化であることを全く知らず、最近輝きだした長澤まさみへの興味から観た。そして「スティング」や「オーシャンズ11」の様なコンゲーム物、邦画では無理なんじゃないかなぁと思いつつ…

結論から言うと、やるじゃん! 中々! である。

 

脚本 (古沢良太) が良い。TVを観ていない僕は素直に話を信じ、それが裏切られて、その内慣れてくると、あっ、これ仕組んでるなと解る様になってきて、それをも越えてどんでん返しがあった。やられた! である。最後の種明かしも説明臭くなくスムーズスマート。小ネタの回収も要領よい。ラストの掃除する氷姫は笑ってしまった。眼にハメたダイヤはもっとあざとく光らせても良かったか。

 

僕は何より役名が好きだ。“ボクちゃん”はまあまあとして、“ダ―子”は良い。あの役、ダ―子という役名がついて一気に膨らんだ。楽天的で行き当りバッタリ、騙すけど憎めない、でも本当は緻密で仲間思いで純真さが残る、長澤と“ダー子”という名がめぐり逢って素晴らしいキャラが生まれた。ハ二―でもヨーコでもター子でもない。ダ―子だから膨らんだ。これはきっと長澤の代名詞になる。

そして“リチャード”(小日向文夫)、僕はこの名前、とっても好きだ。ジョンでもポールでもチャーリー (これも悪くはないが) でもない。リチャードである。理由も理屈もない。僕はあの役をリチャードと命名した感性が好きである。

ダ―子とリチャードと聞いて、この映画は面白くなると思った。

 

長澤の七変化は楽しい。役者ではなくなってしまう、あの100%笑顔 (福田彩乃がやるやつ) もこの映画ではコントラストになって気にならない。「海街ダイアリー」(拙ブログ2015.6.18) 以降、立派な女優になった。蒼井優黒木華二階堂ふみや、そこに居るだけで存在感のある女優の中で、容姿は圧倒的なのだが、居るだけではただ綺麗で健康的ですくすく育った女の子でしかなかった長澤まさみ

大河ドラマ功名が辻」(2006) で確か女忍者の役で2~3回出た時、驚いた。コマとして使われる忍び、笑顔は一つも無い。暗い。これが良かった。長澤を笑わせてはいけない。笑わない長澤が見事に開花したのが「散歩する侵略者」(拙ブログ2017.09.11)、侵略する宇宙人に人格を乗っ取られた主人公 (松田龍平) の妻という役。人類滅亡の危機の中で種 (人類?) を越えて愛し合うというかなり無理筋の役を笑わない長澤は見事に演じ、無理な設定にリアリティを与えた。凄くなったなぁと思った。

嘘を愛する女」(拙ブログ2018.2.07 ) は映画も長澤も今一つだった。

「マスカレードホテル」(2019.1月) ではしっかり者のホテルウーマンを演じ映画を支えていた。美男美女ではなく美男美女優である。話がそれるが「マスカレード~」長澤とともに映画を支えたのは音楽 (佐藤直紀) である。初め分厚い弦の音楽がやたらベタに付いていて暑苦しい、もっと削れ! と思った。しかしあの音楽が無くなったらゴージャス感が無くなってしまう。長澤と音楽が無くなったら、マスカレードホテルはビジネスホテルになってしまっただろう。「散歩する~」も「マスカレード~」も笑わない長澤が存在感を発揮した映画だった。

「キングダム」はまだ観ていない。

そして「コンフィデンス~」、笑う長澤、寡黙な長澤、弾ける長澤、どれも楽しそうにのびのびと演じている。何より演じている楽しさが伝わって来る。立派な女優になったものだ。

 

冒頭NYのシーン、結婚詐欺師ジェシー (三浦春馬) との本気か嘘か愛の日々。ド頭である。これは歯が浮く位綺麗なシーンにしてほしかった。予算を気にせず言えばNY夜景の大ロング、そしてこれ以上無いくらい長澤を綺麗に撮って欲しかった。コンゲーム物、ゴージャスでカッコよく所々にこれ以上無いくらいの綺麗なシーンが必要なのだ。映像的にも綺麗に感じなかった。導入はアップより大ロングで入って欲しい。ゴージャスに。

 

所々にボサノバの歌物が入る。オリジナルなのか既成曲なのか。充て方がとってもセンス良く映画をオシャレにしている。

 

東出 ”ボクちゃん” は決して上手くはない演技が逆に”ボクちゃん” の純真さ (詐欺と矛盾するが) を表わしている。小日向は、優しくソフトな語り口で冷静に全体を見ているジェントルマン風、しかしどこかではしっかり騙している?、でもダー子とボクちゃんには溢れる愛を抱いている、やっぱりこれはリチャードである。

 

舞台が変わるトップシーンは空撮 (ドローン?) で入って欲しい。これぞ香港という画。007は必ず空撮で入る。そして音楽は大編成の生オケで。Synでそれなりの音楽が付いていたが、こういうところは生オケだ。

劇伴は定番のところに入り手堅い。ただ一つ明解なテーマが欲しい。明解なダー子のテーマがあれば、余計な説明は不要になる。音楽による見せ場、聴かせ所がほしい。

 

結婚詐欺師ジェシーの三浦、前半超二枚目後半無様が良かった。三浦、見直した。

ダ―子の弟子モナコ (織田梨沙) 、熱演もしていたがこれは儲け役、こんなイイ役滅多にない。ジェシーモナコも、ネーミングが良いなぁ。

五十嵐 (小手伸也) が時々ちょろちょろして可笑しい。この役者知らなかった。「検察側の罪人」(拙ブログ2018.09.13) の酒匂芳といい、良い役者が年を経てからブレイクするのは嬉しいこと。二人とも「集団左遷」(TBSドラマ) に出ていた。

 

エンドロール後のお遊びも気が利いている。カメオ出演もさりげなくて可笑しい。監督のセンス良い軽さが心地よい。こんな遊びをやらせるプロデューサーのフットワークの良さが伝わって来る。そんなこんなを含めた製作現場のノリが伝わって来る楽しい映画。

第二弾が決定したとのこと。このノリを守り続けてほしい。

製作費を削ることなく、よりゴージャスに。そして音楽も生オケを使ってゴージャスに。期待しています。

 

監督. 田中亮  音楽. Fox capture plan   主題歌. official髭男dism  

2019.5.06 「岬の兄妹」 イオンシネマ板橋

2019.5.06「岬の兄妹」イオンシネマ板橋

 

兄・良夫 (松浦祐也) は足が不自由、妹・真理子 (和田光沙) は知的傷害、そんな兄妹の底辺の生活。母はどこか遠くへ逃げてしまったらしい。ボロ家は段ボールで窓をふさぎ外から遮断されている。兄が働きに出る時はそこに妹を閉じ込める。時々妹は “冒険” と称して抜け出し街を俳諧する。

映画は夜 “冒険” に出たマリコを捜すところから始まる。“マリコ! マリコ! ”  びっこの揺れをそのまま反映したような手持ちカメラが生々しい。そしてヤクザ映画のタイトルの様な毛筆殴り書きで画面一杯に『岬の兄妹』と出る。音楽も同時に暴力的に入る。Pf、打楽器、アコーディオンによる打音、殴るように入って痛い。音量もデカい。

 

兄が傷害を理由に建設現場 (?) を解雇され収入が無くなる。電気は止められゴミの中から食べられるものをさがす。悲惨この上ない。

“冒険”から帰ったマリコが金を持っていた。やがて妹に売春 (オシゴト) をさせるように なる。

売春で稼いだ金で食べ物を買い、二人は貪り食う。窓に貼り付けていた目隠しの段ボールを取っ払い、外から光が差し込む。まるで反社会的なオシゴトを通して社会に居場所を獲得した様だ。幼馴染の普通に良い人・溝口 (北村雅康) が心配する。

自分で脱糞してその糞を喧嘩相手に投げつけたり、妹の陰部に薬を塗り乍ら“少しオシゴト休んだ方がいいかもね”と言う。悲惨を通り越して笑ってしまう。髭ずらの兄のキャラクターか、売春を“オシゴト”として楽しんでいる風な妹のせいか。

裸とセックスは頻発するが不思議とエロティシズムは感じない。生活描写の延長として描いているからか。

おそらく行政には様々な救済の手立てがあるはずだ。でもそういう問題ではない。自分たちの生き方を見つけたのだ。だから暗くない。前向きだ。

 

手持ち、俯瞰、ローアングルで引いていく砂浜のカット、ワンカットの中で相手の男が次々に入れ代わっていくセックスシーン、海辺の雲間の太陽、心に残るカットが幾つもある。凝った撮影、削ぎ落とした早いテンポの編集、これらと二人の役者のアッケラカンとした明るさ、殴るような音楽が、この悲惨極まりない話を映画たらしめている。大きな事件が起きる訳でもないが、グイグイ引っ張られて飽きることがない。

 

時々マリコが水の中で泳ぐシーンが入る。

マリコと初体験をした高校生が “海の香りがしました。生きているといいこともあるんですね” (?) なんて清々しい台詞を言う。マリコは水の精? あるいは比丘尼?  岬の突端の祠に住み、夜な夜な求めに応じて快楽を与えにいく…、神話的な匂いさえする。

最後の振り返ったマリコの顔、あれはまるで実は正気なんですよ、と言ってるようにも見える。

 

マリコが妊娠した。兄が、マリコの馴染みの客となった小人に、マリコと結婚してくれないかと頼む。“僕だったら結婚すると思ったんですか?” と返って来る。弱者同志でツルもうとした、あれは良夫への強烈な批判だ

 

妊娠したマリコはどうなるのだろう。オシゴトも出来なくなる。いずれ “普通“ から制裁を受けるのだろう。映画は今を描き先は語らない。

 

音楽は少ないがどれもデカく殴るように入る。カットインのインパクト、尻はブツ切り。Pf中心。怒りにまかせて叩きつけるように弾く。客引きのビラが舞う唯一ファンタジックなシーンにはPfの早いフレーズ。エンドロールだけは静かな前衛ジャズっぽい。

音楽が入ると映画の重い世界との間に距離が生まれ、詩情が漂う。

 

これは岬の突端に住む兄妹の “普通“ へ反旗を翻す映画だ。メインタイトルの手書きの文字は “普通“ に喧嘩を売っているのだ。殴るように入る音楽もしかり。

「湯を沸かすほどの熱い愛」(拙ブログ2016.12,20) の終わり近くに入るバカでかいタイトル文字と、それに合わせて入るEGのデカい音を思い出した。この映画のタイトル文字も音楽も充分デカい。しっかりと喧嘩を売っている。“普通“ の人からのお情けはいらない。勝ち目はないかもしれないが、俺たち兄妹はしっかり生きてやる! そんな映画だ。

 

無名の役者たちが演技を越えて役になり切っている。メジャーでは考えられない手間暇掛けた丁寧な作り方をしているらしい。製作費も自前とのこと。志の高い、でもちゃんと面白い映画である。

 

監督. 片山慎三    音楽. 高位妃楊子   挿入歌. 佐藤玖美

2019.5.08「記者たち 衝撃と畏怖の真実」TOHOシネマズ・シャンテ

2019.5.08「記者たち 衝撃と畏怖の真実」TOHOシネマズ・シャンテ

 

アメリカがイラクを攻撃した理由として大量破壊兵器保有があった。後で解ったが、実はデッチ上げだった。初めにイラクとの戦争有りき。ラムズフェルトを中心にそのシナリオに則して情報が都合良く並べられていく。オサマ・ビン・ラディンフセインは裏でつながっている、大量破壊兵器はあるに違いない、それを裏付ける様な事実だけをチョイスして並べた時、“かもしれない”はいつの間にか確信へと高まり、世論は一気にその方向へと流れて行く。TVの三大ネットワーク、ニューヨーク・タイムス、ワシントン・ポストクリントン民主党議員も、イラク攻撃すべし! に流れた。一旦出来てしまった流れを変えるのは難しい。最後まで反対したパウエルも遂に国連で攻撃支持の演説をする。

煽られた若者は軍隊に志願する。いつも庶民は単純な愛国心に燃える。それは戦場に行くということであり、殺し殺される世界だ。国を思う気持ちと他国民を殺し殺される現実には大きな乖離がある。映画は冒頭、志願しイラクへ行き、脊髄を損傷して今は車椅子の若者が裁判で “なぜ戦争をしたのか?” と問うところから始まる。

アメリカには自分たちの民主主義が全世界の人々を幸福に導く最良のシステムであると本気で思っている人がいる。我が民主主義を拡めねばならない。中東全域のイスラエル化? その背後には産軍複合体としてのビジネスがあり石油がある。理念と利害が複雑に絡み、そこに2001年、9.11 が起きた。そこからは雪崩を打つ。

“なぜ戦争をしたのか?”の問に映画は政治や経済や理念や国際情勢といったロングの視点からではなく、身近なヨリの視点で答えようとする。具体的には二つの問題に絞る。政権が嘘をついている。それによって自国の若者が死んでいく。イラク側の視点は無い。これはアメリカの映画だ。アメリカが自らの過ちを認める映画だ。

 

地方紙へニュースを配信する会社ナイト・リッダー社のジョナサン・ランデ― (ウッディ・ハレルソン) とウォーレン・ストロベル (ジェームズ・マースデン) が政府発表のニュースに疑問を抱く。本当だろうか。二人は裏を取る為に取材を始める。ニューヨーク・タイムスやワシントン・ポストなら大物政治家への直接取材が可能だが、彼らにはその伝手がない。下級職員や下っ端への取材だけだ。結果を支局長 (ロブ・ライナー) に上げると、これではまだ確証には至っていない、と突き返される。

時々二人の家庭生活が入る。ジョナサンはバツイチ、隣に越してきた美人学者が気になっている。ウォーレンは妻 (ミラ・ジョボビッチ) に取材案件を話すとこの家盗聴されているかも知れないと騒ぐ。彼女は旧ユーゴ出身なのだ。

政府の発表にはニュースフィルムを使っている。ブッシュもラムズフェルドもパウエルもそのまま本人だ。イラクのニュースも実写である。政治の決断で多くの若者を死に至らしめた、他国に介入する悪しき前例としてベトナム戦争のフィルムも挿入される。

取材する二人、家庭、ニュースフィルムが絶妙なバランスで配置され、本物の政治家をほとんど役者扱いで取り込んでいる。展開は早い。追い切れない。一つ一つの事実を暴いていくのだが、こちらがそれをちゃんと理解して、遂に全体の嘘が解ればより面白いのだろうが、老人 (私?) の視力と理解力では追いつけない。でも踊らされる世間の流れに、それは嘘だと言い続けるナイト・リッダー社の熱と使命感は解る。それで良い。

多くの証言を得て、支局長が、“よし、これで行け”とGoサインを出した時は、時既に遅し、世間はイラク攻撃一色に染まり、この配信を記事化する地方紙は一つも無かった。

苦い終わり方である。最後に“イラク攻撃の理由がデッチ上げと言い続けたのはナイト・リッダー社だけだった” (不確か、そんな意味) というテロップが流れる。

 

音楽は取材の進行に合わせてサスペンスを盛り上げかなりベタ付け、ドラマに合わせてグイグイと引っ張って行く。今風のエンタメ映画の音楽としては王道、職人技である。しかし音楽の効果もあってかあまりに一直線。途中自分たちの取材に対して疑問は起きなかったのか、社内は果たして一丸となっていたか、政治的圧力は無かったか。出来ることなら音楽を全部外して観てみたかった。そこに一直線ではない微妙なニュアンスが立ち現れたかも知れない。

音楽を付けることによってより分かり易く明解になり、でも単純化される。そうしなければ持たない映像ならともかく、これは音楽で引っ張って行かなくても充分持つ。ハリウッド流、解り易く作ることも必要だがモノによっては観る側に考える余地を残すことも必要なのではないか。

そう言えば「スポットライト 世紀のスクープ」(拙ブログ2016. 5.12) もマイナーなPf曲がベタについて感情を規定してしまっていた。真実追及一直線のところはよく似ている。どちらも音楽外したらきっともっと良くなった…

 

支局長が監督自身であることを観終わって知った。中々の名演。缶コーヒーの宇宙人(トミー・リー・ジョーンズ) が気骨あるベテラン記者でちょっとだけ登場して渋い。

 

世論は作られる。大衆は感情的情緒的で雰囲気に左右される。今政治はかつてより世論を気にするようになった。上手く世論を操作すれば政治的力となる。世論作りで大きな力を持つのがマスコミだ。しかし今TVは大衆迎合ウケ命、世論に合わせて行くメディアでしかない。かつて世論形成に大きな力を発揮していた新聞はネットに押されてマスコミの主役の座から追われつつある。ネットはどうか。新聞雑誌の記事をつまみ食いして面白おかしく流す、ブログもツイッターも思いつき瞬間芸ウケれば何でも良いの世界。ペラッペラで底の浅いツイッター政治家が蔓延している。言った者勝ちの世界。そこで作られる世論なるものは一体何なのか。

イラク戦争 (2003) は何年前だったか。でもこの映画で感じることは何よりまだマスコミ、新聞というものが世論形成に責任と力を持っていたということだ。“あの頃は良かったなぁ“ である。でも、こういう映画が生まれるアメリカ、まだ捨てたものではない。

 

監督. ロブ・ライナー  音楽. ジェフ・ビール

2019.5.07 「麻雀放浪記 2020」 渋谷TOEI

2019.5.07「麻雀放浪記2020」渋谷TOEI

 

阿佐田哲也の「麻雀放浪記」は夢中になって読んだ。和田誠の映画 (1984) も大好きである。高品格の出目徳は絶品だった。それが2020年にタイムスリップして甦るという。しかも監督は白石和彌、期待してしまった。

1945.11月、坊や哲 (斎藤工)、出目徳 (小松政夫)、ドサ健 (的場浩司)、女衒の達 (堀内正美) が大勝負をして、坊や哲が九蓮宝燈の五筒を積った瞬間雷が落ちてタイムスリップ。2020年、突然戦争が起きてTOKYOオリムピックが中止になった直後の浅草に五筒を握りしめたまま現れる。第二次大戦が終わって焼野原と化した東京、思いもよらぬ戦争でオリムピックが中止になった2020,年の東京、どちらも同じような状況と台詞で説明がある。でも2020年の東京、焼野原になっている訳ではない。焼野原になって放射能で汚染されているのかも知れないが、そういう映像はない。ひと気は少ないが浅草路地裏は今と大して変わらない日常である。「ブレードランナー」の様なビチャビチャとした路地ではなく、どこかのんびりした下町の路地。直前に戦争があった? あるいは今戦争中? そんな気配は微塵もない。

回想の1945年はチープなセットとCGだがそれなりの安物リアリティはある。2020年の舞台は言葉だけの説明。戦後のアナーキーを引き摺ってテンション高く登場した斎藤工、今がどういう時代かということが定まっていないから、本当の勝負をしたいというハイテンションは空回り。出会った麻雀メイド喫茶のドテ子 (チャランポランタン・もも) もマネージャー・クソ丸 (竹中直人) も熱演するも同じく空回り。

バーチャルリアリティーを使ったシマウマFACKとか幾つか笑えるアイデアはあるのだが何せ話のベースが出来ていないので単品のコントでしかない。

そして中止になったオリムピックに代わって世界麻雀大会である。

チープさと馬鹿馬鹿しさは嫌いではないが、このイイカゲンは楽しめなかった。

番組に穴が空いて急遽デッチ上げの企画か。火事場泥棒的瞬発力で、熟考した企画よりも生き生きとしたものが出来ることはある。今、邦画でそんな瞬発力を期待出来るのは東映だけかも知れない。しかも白石監督、ハチャメチャ珍品を期待したのだが…

まさかこれを長い間温めて来た企画なんていわないでしょうね。

ピエール瀧問題でクソ同調圧力に屈せず公開したことは良し。でも作品はちゃんと作らなくちゃ。

 

アンドロイド・ベッキーが良かった。演技以前のあのルックスが生きていた。エンドロールの後のターミネーターもどきのオマケ、あれはオッパイがバカッと開いて麻雀パイがパカパカ飛び出す位してほしかった。

ドテ子、初めははるな愛かと思った。熱演でありD級地下アイドルくらいの感じは出ていた。エンドロールでチャランポランタンのももと知って驚いた。「ゴジラ伝説ライブ」(拙ブログ2017.09.15参照) の時、モスラの妖精役を彼女たちがやっている。何度もステージでは見ているが、声とアコーディオンは解っていたが顔は認識していなかった。TVドラマにも出ているらしい。芝居経験はあったのか。今後役者もやっていくのだろうか。

 

音楽、映画を観てから大分経つのでほとんど記憶に残っていない。主題歌も同様。多分良くなかった? 良くない映画で音楽だけが良いなんてことはまず無い。

 

 

監督. 白石和彌   音楽. 牛尾憲輔   主題歌.CHAI

2019.2.27「翔んで埼玉」バルト9

2019.2.27「翔んで埼玉」バルト9

 

漫画は「ゼロマン」(作.手塚治虫 少年サンデー 1960) を最後に読まなくなった。それまでは少年雑誌の漫画はほとんど読んでいた。突然、画が動いて見えなくなったのである。 

今でも漫画とアニメとミュージカルは嫌いだ。でもそれ以降で読んだ漫画が二つだけある。一つは「火の鳥」、そしてもう一つが「翔んで埼玉」だった。友達に、“いいから読め! ” と言われて。

あまりのブッ飛びように驚いた。何じゃ?こりゃ! そのオチョクリ (今はディするというのか) ようは当時としては衝撃だった。兎に角笑えた。けれど真面目な僕は笑いながらもその奥にアパルトヘイトを見てしまった。深読みの真面目人間だった。スパイク・リーの映画がヒットしていた頃の話である。

時は流れ時代は変わり、世界は変わり日本も変わり埼玉も変わり、僕も変わった。埼玉にも僕にもオチョクリを素直に笑う余裕が出来たのだ。誇張する、その誇張の仕方を楽しめるようになった。そこにセンスを感じるようになったのだ。

 

原作の細部はほとんど覚えていない。虐げられた埼玉県民を救う英雄の話をカーラジオから流れる話にして、それを今の埼玉県民の夫婦 (ブラザートム麻生久美子) と娘 (島崎遥香) が聴く。上手い脚本化である。かつての英雄とは麻美麗 (GACT) であり、壇ノ浦百美 (二階堂ふみ) であり、埼玉デューク (京本政樹) であり、チバニアンの阿久津翔 (伊勢谷友介) である。

彼らは東京人による埼玉県民への差別と通行手形の撤廃を掲げて、埼玉解放戦線を組織して戦った。そんな辛い歴史があったんだと夫婦は涙する。娘はシラケる。

隠れ埼玉狩り、草加せんべいの踏み絵、伝染病サイタマラリア等、抱腹絶倒のアイデア満載。

共に虐げられながらも対立する埼玉と千葉。江戸川を挟んでの対峙。合戦となるのかと思ったら、昇りを立ててのお国自慢合戦。千葉が最初に立てた昇りがYoshikiだったのにはひっくり返った。そのたんびに、GACTと伊勢谷がコメントする。千葉のアルフィー・高見沢にGACTは “ウッ、嫌いじゃない”、千葉の小倉優子に伊勢谷が “弱い!” 他を思い出せないが、どれも気が利いていて笑い転げてしまった。

埼玉内でも浦和と大宮の対立がある。熊谷、あれは半分群馬だ。千葉は東京でもないくせにやたらとTOKYO何々と付けたがる。千葉の東京属国化。でも海があるんだよなぁ。

 

僕は今、半分秩父で生活している。秩父がほとんど出てこなかったのは残念だった。自慢合戦で「この花~」のアニメの昇りでも立ててほしかった。GACT “あれは何だ?” “秩父を舞台にしたアニメです” “知らん!” あるいは秩父夜祭の昇り“どうだ、世界遺産だぞ!”

 

映画は対立した埼玉と千葉が手を組み、都庁を囲み、通行手形で私腹を肥やしていた都知事を弾劾して勝利する。都知事赤城山の奥に金塊をため込んでいた。赤城山の黄金伝説である。でもこの悪事、あまりに単純過ぎる。もう少し手の込んだものに出来なかったか。東京に対し、五県 (神奈川は東京に付く) が関東連合を作り都庁を取り囲む、そんな構図に出来なかったか。

 

GACTが良い。GACTはGACTのまんまで演じていて、それが良い。この人はこれからもGACTのまんまで演じられる役だけをやるべきだ。大河ドラマ上杉謙信役の時もそれでとっても良かった。優しさ溢れる上から目線。少し鼻にかかった、でも口跡の良い声、そして立ち姿がカッコイイ。伊勢谷は色んなキャラを演じられる。GACTはGACTしかやらない。それで良い。それがこの映画ではピタリとはまっている。

実は二階堂ふみの設定にちょっと違和感があった。原作は男なのかも知れないが、映画では男装の麗人で、最後に女であることを明かすのかと思っていた。二階堂ならではのブッ飛び様で熱演なのだが、どう見たって女にしか見えない。最後に告白して、“そんなの最初のキスでわかっていた” あたりがオチかと思っていた。最後まで無理なボーイズラブで終わったのはちょっと残念だった。

 

この監督はクラシックに造詣が深いようだ。「テルマエ・ロマエ」でもクラシックを随所に充てていた。この作品でもそれをしている。あるいはクラシックに似せたオリジナルかも知れない。その辺、僕の素養では判別出来ず。ただ音楽のテイストはクラシック音楽である。おそらく絵合わせでの録音ではなく、選曲で充てているのだろう。話が作り物なので大仰な音楽は合う。

 

世界埼玉化計画、ラストカットはドラクロワの「民衆を導く自由の女神」のパロディにしてほしかった。旗を掲げ胸を肌けて民衆を導く二階堂女神。

GACT “Oh! 貧乳”

 

エンドロールの“はなわ”の主題歌で、もうひと笑い出来る。

 

埼玉とは、“差別からの解放と自由” である。

 

監督. 武内英樹  音楽.Face 2 fake  主題歌.はなわ