映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2016.12.05 「佐藤勝の命日」

2016.12.05「佐藤勝の命日」

 

1999年12月5日、佐藤勝は死去した。

その年の秋の叙勲で佐藤先生は勲四等旭日小綬章を受賞した。同じく黒澤組美術の村木与四郎さんも受賞、お二人のお祝いの会が、ちょうど終わったばかりの「雨上がる」 (2000.1月公開、監督・小泉堯史) スタッフを中心に黒澤組が集結して、成城の中華料理店マダムチャンで催された。確か午後4時の開宴だったか。主役の佐藤先生は少し遅れて、息をハアハアさせながら二階の会場に上がって来た。”前のインタビューが長引いちゃって”  前のインタビュアーは確か片山杜秀氏である。きっと盛り上がってしまったのだろう。

野上照代さんが、”始める前にマサルさん、勲章見せてよ”  “よっしゃ! “

掲げた勲章の房が落ちた。先生はそれを拾おうとして前に屈んだ。ウッ! そのまま苦しそうにうずくまってしまった。"マサルさん、どうしたの?"  みんなは慌てて椅子を並べてそこに先生を横たえた。

先生は重い糖尿病の持ち主で週に2回人工透析を受けていた。スタジオにこもっていると時々調子が悪くなる事があり、そんな時は肩と首を揉んであげると治まった。それを知っていたから、先生、大丈夫ですか、と軽い気持ちで声をかけた。”いつもと違う…” それが僕が聞いた最期の言葉だった。直ぐに鼾をかき出した。

大急ぎで救急車を呼ぶ。来るまでの間も鼾をかいていた。救急隊員は先生を床に横たえて、気管切開をしますと言い、野上さんがお願いしますと了承した。そのあと救急車で杏林大学病院に向かった。野上さんに指示されて僕と宇野さんが救急車に同乗した。僕は先生のお付きみたいな立場で会の末席に参加しており、宇野さんは私などとは比べものにならないほど先生と長いお付き合いがあり、最後のマネージャーでもあった。途中信号待ちの時、電気ショックというのをやった。ベッドから離れて下さい、ドン!  初めて見た。それでも意識は戻らなかった。杏林では救急医療室に直行して、それっきり会うことは無かった。

お祝いの会は心配しつつ行われた様で、終わってから野上さん始めみんなが駆けつけた。その間、僕と宇野さんは、携帯が珍しい頃だったので、10円玉を持って赤電話で関係者に電話を掛けまくった。

救急医療室の前で、出入りする医者の開けたドアの隙間から一瞬中が見えた。広い部屋の中央の台に横たえられた先生が見えた。病院に着いてからも意識は戻らなかった。正式な死亡時刻は何時だったか。

夜の9時過ぎ、遺体は病院の霊安室に移された。検視が必要だそうで、それは明朝になるという。聞きつけた人たちが次々に駆けつけた。澤島忠監督は遺体の横で別れの杯をされていた。家も近く、その頃先生とは一番頻繁に会っておられた様である。哀しいが賑やかな時間が流れていた。先生の自宅にマスコミが来ているらしいと誰かが言っていた。11時のNHKのニュースで流れたらしい。

 

言うまでも無いが、佐藤先生は質量共に日本の映画音楽を支えた第一人者である。黒澤明岡本喜八山田洋次山本薩夫森崎東等、関わった監督の名を上げたら切りがない。作品名はさらに切りがない。担当した映画は300本を超える。「用心棒」(1961 黒澤明監督作品) と「幸福の黄色いハンカチ」(1977 山田洋次監督作品) を取り敢えず上げる。ある時期の邦画の良質なエンタテイメント作品をほとんど担っていた。

早坂文雄の唯一の内弟子であり、「七人の侍」では早坂の脇で武満徹と共に机を並べてオーケストレーションを手伝った。その頃のクラシック系で映画音楽を書く作曲家の中では珍しく、というか唯一初めから映画音楽の作曲家を目指していて、クラシックへのコンプレックスを持たなかった。自分は映画音楽作曲家であると明解だった。ポピュラー系の仕事も何のこだわりも無く引き受け、「若者たち」(1966 作詞・藤田敏雄、歌・ブロードサイドフォー) や「恋文」(1973 作詞・吉田旺 歌・由紀さおり) というヒット曲もある。美空ひばりが唄った「一本のえんぴつ」(作詞・松山善三) という知る人ぞ知る名曲もある。俺は首根っこまで商業主義に浸かった作曲家だと言って憚らなかった。

武満徹は映画音楽の録音の時は必ず指揮を佐藤先生に頼んでいた。

マサルさんは映画音楽を解っているから”

“武満は、この譜面のココからこっちの譜面のココに繋げてコーダはこの譜面って、指揮台に置ききれないんだよ”

もしかしたら武満の映画音楽を一番理解していたのは佐藤先生だったのかも知れない。

 

亡くなる三日前、「雨あがる」のサントラのMixをコロムビアのスタジオで行った。早めに終わり、新宿でご馳走になった。

”今回、黒澤組に呼んでもらって、もう思い残すことは無いよ”

“先生、思い残すことは無いなんて、そんなこと言うもんじゃないですよ”

「影武者」 (1980) で黒澤監督と行き違いが生じ、それ以来黒澤組とは離れてしまっていた。監督の遺稿の「雨あがる」をお弟子の小泉堯史さんが監督するということで、佐藤先生が呼ばれたのだ。野上さんを始めとする黒澤組スタッフとの再会は本当に嬉しかったらしい。

 

翌朝7時、検視が行われた。透析を長く続けている人は心臓に負担が掛かっているので、こういうことはよくあることなのだそうである。

先生は大塚の西信寺に、2007年に亡くなった千恵子夫人と共に眠っている。

そんなこと、言うものではない。本当にそんなこと言うものではない。