映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2021.03.04「天国にちがいない」新宿武蔵野館

2021.03.04「天国にちがいない」新宿武蔵野館

 

映画は映像と音で物語を語って来た。少し物語に頼り過ぎてやしないか。物語に依存しない映画独自の表現、そんなものはあるのか、可能か。

この映画に特段の物語はない。主人公が発する台詞は“ナザレ”“パレスチナ”の二言のみ。記録映画やイメージフィルムなどではなく、実験映画でも前衛芸術映画でもない、102分の立派な劇映画。僕は飽きることなく居眠りもしなかった。

 

監督・脚本・主演.エリア・スレイマン。この監督を知らなかった。

主人公はスレイマン自身。ナザレ出身パレスチナイスラエル人。職業、映画監督。企画を売り込みにパリとニューヨークを訪れる。設定はこれだけ。ランダムなエピソードに物語的繋がりはない。どのエピソードでもまず初めに画面中央にスレイマンが現れる。瞬きもせず無表情で。

“私は見つめている”という声がどこかから聞こえる (よう) 。

隣りのレモン泥棒男、こん棒を持って両脇を通過する若者の群れ、レストランで妹をネタに因縁を付ける兄弟。カメラはフィックス、画面はシンメトリ、人の動きは対角線か遠近法、それを見つめるスレイマンはいつも中央で一言も発せずただ見つめる。時に動作や音をシンクロさせたり、映像的音響的遊びを散りばめる。それが何とも言えないユーモアを醸し出す。

レストランの兄弟とスレイマンのお酒を飲む動作とグラスの音のシンクロには笑ってしまった。何でこんなことで笑えるのか。

雨の中の隣りの爺さんの“ヘビの恩返し”はほとんど落語の小噺である。

唐突に“ベドウィンの水運び女”が出てきても違和感は無かった。その頃にはこの映画が物語を語るものでないことは解ってきた。

 

私は見つめる。見つめるものは様々で脈絡はない。私の視点ということだけが一貫している。ナザレ出身のパレスチナイスラエル人スレイマンということだけが一貫している。視点が定まっていると脈絡のないエピソードの羅列の背後に何やら訳の分からぬものが立ち現れてくる。

 

語り口はそぎ落としてシンプル、現実を独特の視点でデフォルメする。そのデフォルメからユーモアが生まれ、詩が立ち昇る。僕はそのデフォルメの仕方に俳句を連想した。

 

隣人はレモン盗みて胸を張り

三人のグラスシンクロ睨み合い

ショーベンの止まらぬ男雨止まず

花の巴里ジジイの目線ケツを追う

ひと気無き街戦車行く見えぬかや

ニューヨーク幼児お迎え銃肩に

騎馬隊の後のボタボタ清掃車

舞い降りし天使包囲すメガポリス

昇天の天使残せし白き羽

地下鉄で眼(ガン)付けられて逃げ場無し

パソコンや小鳥の自由空の碧

 

季語も無く映画のエピソードを17文字にしただけ、才能無し凡人の俳句というより下品な川柳である。これは無視して、現実を見る、それをデフォルメする、その仕方に注目してほしい。僕はとっても俳句に通じるものを感じた。それを“軽み”を持った映像で表現する。

但しこの“軽み”の映像、役者の動き、美術、カメラ、照明、録音等、細心の注意が払われている。緻密この上ない。

これは俳句映画なのではないか。スレイマンは俳句を知っていたのか。

 

少し前に「ホモサピエンスの涙」(2019スウェーデン、監督ロイ・アンダーソン) という映画を題名に引かれて観た。同じ様にエピソードの羅列、一貫した物語はない。台詞は有るがエピソードの中で話に落ちがある訳ではない。ほとんどワンエピソード・ワンカット、カメラ位置、役者の動き、美術等、練りに練って計算し尽されている。エピソードどうしには関連したものもある。十字架を背負い街を引き回されるキリストのエピソードがあり、信仰を失ってしまったと嘆く司祭の話がある。背後に“信仰”の問題を通底させた哲学的散文集、格調高く芸術の香りがする。しかしいささか退屈眠気も襲い、観終わって全体としての感銘やメッセージというものを感じられなかった。“軽み”も感じなかった。

 

「天国~」には“見つめるスレイマン”が映画の中に実像として登場する。初老の、思慮深く、品の良い、少しスケベも残っている、あの顔が“軽み”を作っている、僕はそう感じた。そして“軽み”の奥に、ナザレ出身パレスチナイスラエル人という重みが横たわっている。無表情な顔が僕には少しづつ暗くなっていく様に感じられた。最後のクラブで踊り狂う若者を見つめながらグラスを傾ける顔は、最初にベランダから顔を出した時より明らかに暗くなっていた、僕はそう感じた。

そうか、この映画はスレイマンという物語なのだ。物語とは、好きになったり嫌いになったり、殺したり殺されたり、だけではないのだ。僕は物語を語る映画は必要だと思っている。しかし安手の物語から自立した映画的表現も可能なのだ

この映画は物言わぬスレイマンという物語を淡々と描く。スレイマンを通してパレスチナが見えてくる、世界が見えてくる、壮大な世界の今の物語が見えてくる。

 

エピソードとエピソードの間には時々歌物の既成曲が入る。おそらくイスラエルのヒット曲なのだろう。今風というより少しレトロ、日本で言えば昭和の香り、これが繋ぎとして絶妙。この映画をきちんと下世話に踏み留めている。哲学的散文集にしていない。俳句的“軽み”を持ったエンタテイメント劇映画。選曲のセンスは世代的共感もあるのか、とってもとっても良い。

唯一知っている曲は「I put a spell on you」、誰のバージョンだか、英語の歌詞で入っていた。突然のブルース聞き覚えあり、あれ何だっけ? 思い出すまで少し時間が要った。この曲、僕はCCRで最初に聴いた。 この曲も含め、既成曲はみんなマイナーだった様な気がする。

オリジナルの劇伴はあったのだろうか。全く記憶にない。

 

タイトルの「天国にちがいない」It must be heaven、これには色んな解釈が成り立つ。

今の世界に対する最大の皮肉?

パリ、ニューヨークと巡り、戻ったナザレ、盗みの隣人はレモンの木に接ぎ木をして世話していた。ベドウィンの女は相変わらず頭に瓶を載せて水を運ぶ。ここが天国にちがいない?

 

“軽み”の奥から、世界への警鐘と諦めがひしひしと伝わって来る、どんな物語よりも雄弁に…

 

アラファトはカラファトとなり時は往く

 

監督. エリア・スレイマン  音楽. 既成曲多数