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映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2017.05.18 「カフェ・ソサエティ」 みゆき座

2017.05.18「カフェ・ソサエティ」みゆき座

 

NY育ちの若者ボビー (ジェシー・アイゼンバーグ) が成功した叔父のフィル (スティーブ・カレル) を頼ってハリウッドへ行き、そこで出会ったヴォニ― (クリステン・スチュワート) に恋をするも、彼女はフィルの密かな愛人。積極的なボビーに心揺らぐも、遂に妻子と別れる決断をしたフィルのもとに彼女は走る。一途な恋は終わる。傷心のボビーはNYに戻り、兄のナイトクラブを引き継ぎ、これが大成功、店はNYのセレブが集まる社交場 (カフェ・ソサエティ) となる。ヴェロニカ (プレイス・ライブリー) という素敵な人とも出会い結婚、一児をもうける。

そこに欧州からの帰りと称してひょっこりフィル叔父と若き新妻ヴォニ―が現れた。人生とはそんなもの。お互いにあの頃の思いが甦る。今の生活に不満がある訳じゃない。今の相手に不満がある訳じゃない。でも二人でマンハッタンの夕陽を見ているとあの頃の一途な思いが甦る。日々の生活の中で、二人は時々遠くを見つめる様な眼をする様になる。そこで映画は終わる。

こんな話を、1930年代ハリウッド華やかなりし頃を背景に、ジャズをBGMとして軽妙にカマす。進行役ナレーションはウッディ自身。脱力芸は名人の域。

好きな美人女優を並べて、好きな音楽を流して、しつこくならない様にサラリと、深味など出ない様に、細心の注意を払って描き出す。

思いが制御不能になり今の生活を破壊することになるかは解らない。おそらくそうはならないだろう。なんせ、人間は柔らかい心臓の持ち主であることを知り尽くしているウッディ、きっと日常の中に起きた心のカットバックを映画にしたかったのだ。あの感情、あの思い、だからこそ遠い眼をすることで終わらせたのだ。そこから先はどうでも良いこと。つまらぬ詮索は無粋。一瞬の永遠、至福の時、人生を振り返り、そんな忘れ得ぬ一瞬を映画にする。何て贅沢。こんなことをやれるなんて何と幸福な人か。

ジャズをBGMに映画による語り芸の極致。

音楽は全曲、ウッディお好みのジャズの既成曲 (多分?)。

 

監督  ウッディ・アレン  音楽家のクレジットは無かった( 確か? )

2017.05.11 「追憶」 新宿ピカデリー

2017.05.11「追憶」新宿ピカデリー

 

しっかりした脚本、的確な演出、詩情溢れる撮影、人気者を適材適所に配したキャスティング、役者たちの熱演、映画をフィルムで撮影していた頃の落ち着きと格調を持つ作品である。(今、映画はVTRで撮影しそれをフイルムに変換する、確か)

 

不幸な境遇の三人の少年、彼らを救った、場末に生きながら心に天使が住む女・涼子 (安藤サクラ)、涼子につきまとうヤクザ、涼子を救うべく三人の少年が事件を起こす。

罪は涼子が全て引き受けた。このことは全て忘れなさい。遠い過去…

 

今、篤 (岡田准一) は富山で刑事、悟 (柄本佑) は東京で小さなガラス店の経営者、啓太 (小栗旬) は輪島で土建業を営む。三人は過去を消す為に二度と合わない約束をしていた。ところが経営に行き詰まった悟は啓太を頼り、借金をしていた。

偶然、篤と悟が富山で出会ってしまった翌日、悟は死体で発見される。捜査するのは篤。篤は悟が昔の事件をネタに啓太を強請っていたのではと疑う。啓太が犯人なのでは。犯人捜しのサスペンスを軸に、過去の事件と三人の現在が語られて行く。目新しい話ではないがしっかりとした構成である。

啓太には身重の妻がいる。篤は妻 (長澤まさみ) と別居中。自分を捨てた実の母 (リリィ) が今になって纏わりついている。悟は婿養子として迎えてくれた今は亡き義理の父親の為にも店と家族を守る為に必死である。難しい年頃の小学生の娘が一人。三者三様。でもベースには子供の頃恵まれなかった ”家族” への渇望がある。

 

結局は、悟の妻 (西田尚美) と店の若い従業員が結託しての保険金目当ての殺人だった。この急転直下の解決には少し唐突感があった。店と家族を守る為に必死だった悟は何だったのか。この結果は辛い。残された娘はこれからどんな人生を生きて行くのか。今の日本の現実は、本当はここにある。

 

笑わない長澤まさみが良い。長澤は笑わせてはいけない。あの屈託のない笑顔はドラマを超えてしまう。

子供の設定はもう少し小さい方が良かったのでは。

全体に品がよく、抑制の効いた描き方。最後の方、メンマの話で嗚咽する篤に寄るかと思ったら、啓太とのツーショットで引いたまま、私は良いと思ったが、あざとさに慣れている今のお客には物足りなさが残ったか。

ひたすら明るい木村文乃も良い。明るさの奥に何かを感じさせてくれる。

いつもながら同僚刑事の安顕は存在感を発揮する。

陽光の下の子供たち、一つだけ明るいカットが欲しかった。全体に暗くグレーな世界の中で一つだけ明るい三人の黄金の日々のカット。

車椅子の安藤サクラ林真理子に似ていた。

 

最後に悟の墓参りをする娘のアップで終われば、ままならない家族の不幸の連鎖は続くとなり、重く余韻は残る。が、この映画の企画意図からは外れて、別の映画になる。未來は啓太の家族に託されている。篤もきっと妻とは別れない。それで良いのかも知れない。

 

冒頭、女声のヴォ―カリーズ。ゆったりとしたメロディー、これがメインテーマ。正確でクラシカルな発声で譜面通りキチンと歌われていて、収まる。エンドもこのヴォ―カリーズ。

このテーマ、三人の子供の頃の懐かしい思い出黄金の日々、”雪割草のテーマ” と言ったところか。劇中ではハーモニカとギターでも印象的に奏される。汚れ無きテーマ、人間社会のドロドロを超えた永遠のテーマ。映画の頭と尻をこれで括る。女声を使ったことでその意図は解る。だとしたらもっと神性がほしかった。メロディーも弱いのでは。小手先だがせめてもう少し声を加工してはどうだったのか。かなり生っぽい。声量も余裕がない。

もう一つのテーマはVCで奏される暗く重い曲。これは過去のあの事件に付けられた曲。劇中何度もVCやOBで繰り返される。人間社会のドロドロの方のテーマ。今風ベタ付けではなく、要所にキチンと付けている。ちょっと説明過多な気もする。

音楽、千住明。しっかりとしたクラシカルなオーケストレーション、大きくない編成できちんと演奏している。尺もしっかりと合わせていて、逆に窮屈なくらい。

きちんと纏まった映像に譜面通り正確に演奏されたクラシカルな音楽、もしかして収まりの二段重ねになっていやしないか。

 

音楽は映画全体のテイストを作ることが出来る。あるいは変えることが出来る。クラシカル、ジャズ、ロック、前衛現代音楽、どこかの国の民族音楽、異質な音楽をぶつけた時、映像は想像もしない拡がりや深味を醸し出すことがある。その時起きる映像と音楽の掛け算的化学反応で、映像は創り手の意図を超える。もちろんぶち壊しになることもある。リスキーだから監督と音楽家の余程の信頼関係が無い限り、やらない。無難な線で行く。

無難な線で行ったのだ。敢えてリスクは侵さなかった。だから何の違和感も無く、きちんと纏まった。纏まり過ぎた。

ハーモニカはもう少しジャジーだったら、ヴォ―カリーズはケルト風だったら、VCは喰いつくような激しい弾き方だったら、パーカッションだけでやる曲があってもよかった、パンフルートの音色なんて良いかも…、これはどうしても趣味の問題、好みの問題になってしまう。だとしても掛け算的トライをしてみる価値はあったのでは。その時、もしかしたらもう一つの「追憶」が生まれたかも…

勝手なことを言ってすいません。これはこれで、とっても良く纏まった完成度の高い作品であることは間違いないのです。

 

監督 降旗康男   音楽 千住明

2017.05.08 「無限の住人」 丸の内ピカデリー

2017.05.08「無限の住人丸の内ピカデリー

 

三池ワールド全開。アバンでキムタクが無限の住人になった経緯がモノクロで語られる。コントラストを利かせた画面が黒澤時代劇を彷彿とさせる。「十三人の刺客」(2010) 以来、僕は黒澤時代劇を継ぐ者は三池ではないかと思っている。見せ方の上手さということで。

八百比丘尼 (山本陽子)に虫を注入され無限の住人になってしまった万次 (木村拓哉) が死ねないまま何十年かが過ぎ、今となったところで画面はカラーとなる。そこで凜 (杉咲花) の仇討ちの助っ人となるという話。話の深さや整合性を云々するものではない、死なない体のキムタクが切って切って切りまくる。役人だったり、悪役の集団・逸刀流だったり、凜に危害を加えようとする者をひたすら切りまくる。見渡す限りの屍、エキストラをケチる事なく盛大にやる。その面白さに尽きる。

黒澤にはしっかりとした脚本があった。話が良く出来ている。こちらは始めからそこには拘らない。立ち回りを繋ぐ程度のストーリー。

海老蔵が同じ虫を宿す者として数シーン出るが存在感は圧倒的、もっと絡むのかと思った。もったいない。戸田恵梨香はお色気担当で太もも露わ、見せ物に徹する。石橋蓮司田中泯もお決まりを成り切って演じている。福士蒼汰だけは若くアクが無いせいか、見せ物に徹してない感じだ。しかしこれだけの役者を揃えて見せ物だけではあまりに勿体無い。

音楽は、アクションの絵面に合わせてほぼベタ。しかし細かく付けている。所々に三味線か琵琶のような邦楽が入る。人声も入る。邦楽が洋楽劇伴にサンドイッチされて、でも違和感はない。上手く充てている。結構大変な作業だったのでは。映像をしっかりサポートする音楽である。

勝手なことを言えば、虫のシーンに音楽的工夫はできなかったか。それ以外にも、ディジュリドゥを使うとか、戦いを打楽器だけでやるとか、サムルノリ (韓国の打楽器集団)を使うとか、インドネシアとかタイとかの民族音楽を使うとか、人声で唸りとか声明とか、音楽もっと荒唐無稽に遊んでも良かったのではないか。こういうこと、三池作品でしか出来ない。

キムタクは相変わらずキムタクのマンマ。キムタクが片目潰して着物着て、キムタクのマンマ台詞を言う。偉大なるワンパターンはスターの証拠とも言えるが、そのカッコ良さにいささか飽きた。アクションでは本当に頑張っているのだが。

 

監督 三池崇史   音楽 遠藤浩二  

2017.05.02 「午後八時の訪問者」 ヒューマントラスト有楽町

2017.05.02「午後八時の訪問者」ヒューマントラスト有楽町

 

フランスの地方都市 (?) の小さな診療所の若き女医ジェニー( (アデル・エネル) 、男の研修医と二人だけで運営する。怪我から心臓から認知症から、ありとあらゆる患者を診る。お金を持っている者も、そうでない者も。大学病院への話も蹴って奮闘する。フランス版女「赤ひげ」だ。

診療終了の8時を超えて鳴ったベルにドアを開けなかった。翌日その訪問者は死体となって発見された。ベルを押す訪問者の姿が防犯カメラに写されていた。若い女だった。女医に落ち度はない。警察も認める。女の身元は解らない。ドアを開ければ死なずにすんだ。ジェニーはその女が誰なのか知りたくて調べ始める。医者らしい手掛かりを見つけてその地区の人々の中に入っていく。移民が住む地区。そこでフランスの地方都市の移民の現実が暴かれて行く。

絶えず携帯が鳴る。患者は次々に来る。車を運転しながら携帯を通じて患者に連絡を取り、休む間もない、過酷な日々だ。調べる過程で麻薬の売人に脅されたりもする。

予告編では、医療倫理の根幹に関わる問題に突き当たるのかと思った。あるいは背後の巨大な悪が立ちはだかるのかと。どちらでもなかった。移民の現実というところで話は纏められた。それはそれでとってもリアルに描かれている。

小さな診療所は大変だし、移民の現実は厳しい。身元捜査のプロセスはそれなりにサスペンスフルである。しかし期待していたものより、本当に本当にこじんまりとした映画だった。

音楽は既成曲のみ、劇伴は無かった。ヘタな劇伴を付けたら作り物感が出てしまう。これは正しい。

 

監督  ジャン=ピエール・ダルデンヌ、 リュック・ダルデンヌ

音楽クレジット無し (不確か)

2017.05.07 「草原の河」 岩波ホール

2017.05.07「草原の河」岩波ホール

 

チベット遊牧民の家族を淡々と描く。父、母、幼い娘、間もなく妹か弟が生まれようとしている。行者様と呼ばれる祖父と父は仲が悪い。

羊の群れと共に高原を移動する。乳離れをし切れていない少女は弟か妹が出来ることを素直に受け入れられない。可愛がっていた羊が狼に襲われその死体を見る。村の子供が祖父に優しくしない父親の悪口を言っていた。些細な日常が大ロングの自然の中で米粒の様に描かれる。何千年と続く自然の摂理に則した生活。太古から続く悠久の時間。

直ぐそばまで文明が押し寄せている。文明とは人間の都合だ。人間の都合に合わせて自然は捻じ曲げられ、時間は人間化する。これを止めることは出来ない。父親はバイクに乗っているも、まだここには悠久の時間が流れている。ギリギリだ。

少女の ”私” はまだ目覚めていない。こちらも時間の問題だ。遠からず文明を選び ”私” が鎌首を持ち上げてくる。”私” の集合体である社会や国家に遭遇する。ましてやチベット、いやでも中国と向き合わねばならない。こちらもギリギリだ。

直ぐそこまで来ている文明と ”私の目覚め” を前にして、ギリギリで描く少女の黄金の日々。これを神話と言わずして何と言おう。神話は間もなく崩壊する。失ったものを思い出して郷愁だけが残る。

 

少女も父親も素人だそうである。母親だけは歌手とのこと。少女はほとんど役と同じ生活をしている子なのかも知れない。しかしドキュメンタリーではない。劇映画としての凝縮がある。ハリウッド並みではないにしても何人かのスタッフの前で演じているのだ。これは驚愕に値する。少女の自我を宿し始めた眼を忘れることが出来ない。

 

音楽は頭のタイトルバックと尻のエンドロールだけ。タイトルバックはバンジョーの様な琴の様な、余韻のない弦を弾いてソロで奏される曲。メロディは多分チベット高原の民族のメロディなのだろう。劇中に音楽は無い。通り過ぎる風の音、雨音、狼、人間の気配、等の音が音楽以上に雄弁である。エンドは男声が民族色有るメロを歌い上げて、背後にVC中心の弦楽器群が厚くそれを支える。トラッドな曲なのかオリジナルなのか。エンドの弦はきちんとした西洋音楽の書法だった気がする。神話の額縁をしっかりと作っている。

 

「ラサへの歩き方」 (2016.08.02拙ブログ) は二つの時間が並存していた。人間尺取虫をしている脇を車が通り過ぎる。「草原の河」は片方だけを描く。しかも少女の眼を通して。これはやっぱり神話である。

河を越えるとおじいちゃんの居る聖域だ。聖域には簡単に行けた。死は自然で当たり前のことだった。

 

編集は余分な説明を削ぎ落として簡潔、今風である。

 

監督・脚本 ソンタルジャ  音楽デザイン ドゥッカル・ツェラン

エンドクレジット音楽 テンジン・チョーギャル

2017.03.31 「バンコクナイツ」 テアトル新宿

2017.03.31「バンコクナイツ」テアトル新宿

 

昔、「ダウン バイ ロウ」を見た時と同じ衝撃だった。音楽の使い方である。映画の内容は全く違う。音楽の種類も違う。でもどちらもいわゆる劇伴ではない、独立した楽曲。それをぶっきら棒に充てている。ルーズさは似ている。そして音楽がなかったら映画は成立しないという位、映像と対等ということも。

下世話でキャバレー音楽の様、しかも歌は現地語 (タイ語? イサーン語? )。初めはご当地の雰囲気を出す為の現実音として使っているのかと思った。それがそうではない。全編このテイストの音楽。有り物音源を使ったのか。映画の為に録音したのか。多分両方なのだろう。エンドロールのクレジットに音楽関連が一杯出て来たのだが読み切れなかった。

アジアン(インドシナ? )・レゲエだ。それを映画の演出の音楽として使っている。あるいは音楽に引っ張られるように映像を撮ったのか。音楽の入りはカットに合わせたりシーン替わりに合わせたりして映画音楽らしい。しかし尻は全く気にせず、シーン途中で終わったり、バサッと無くなったり。でもそんな技術的重箱の隅、気になったのは初めだけ。ハマった。

ドラム、ベース、EG、Percケーン (笙のような民族楽器。初めキーボードかと思ったら途中で演奏の映像があった)、そしてVocal。洗練とは真逆の泥臭さ、それがいつのまにか最先端の音楽に聴こえてくる。レゲエの様であり、タイの民族音楽の様であり、コーランの様であり、沖縄民謡の様であり、日本の歌謡曲の様であり、60年代アメリカンポップスの様であり。

観終わった後、チラシやら慣れないネットやらで調べてみた。偶然NHKTVで、タイに古いレコードを買い漁りに行くSoi48という二人組のDJ (?) の旅番組をやっていた。これは参考になった。この二人は映画に関係しているようだ。

それからネット (アドレス末尾記載) で監督と脚本家がイサーンの音楽について語っていた。これは多いに参考になった。知らないことだらけだった。

 

タイのイサーン地方とはバンコクの東北に位置する貧しい地域、メコンを挟んで向こうはラオスベトナム戦争の頃、バンコクの反体制運動の連中がこのイサーンの森に逃げ込んだ。ボブ・ディランジョーン・バエズの影響を受けて、彼らは唄い、それがタイのロックとなり、カリスマ的人気を誇る男スラチャイ・ジャンティマトン (今は仙人の様な爺さんになっていて映画に出てくる) を誕生させる。プア・チーウィット(生きるための歌) というらしい。

貧しいこの地方は女がバンコクに出て体で稼いだ金で成立している。まるで戦前の日本の東北。日本ではそれを何とかしようと純粋な将校たちが2.26を起こした。こちらはそれを歌で表す。時代が違う、歴史が違う、気候が違う、アメリカ文化の影響がある。それにしても、こっちは明るい。事あるごとに歌って踊る。

映画に出てくる得度式 (入隊式? ) のお祝いのシーン。 あぜ道を列を作って練り歩く。これが何とリヤカーに使い古したPAの卓を積んで、EGが歌謡曲の様なメロを弾き、スネアを叩いて、Vocalがのり、まるでエレキ・チンドン屋だ。その回りを沖縄のカチャーシーの様な踊りが取り囲む。

性が唯一の産業であり、それを担う女たちには誇りに思う伝統さえある。でも大根っこでの白い眼は彼の地もこちらも変わらない。そんなことを唄う物語性のある歌が生まれる。

一方、イタコの様な女の説教がいつしか歌になっていくという土着の歌 (モーラムというらしい) の伝統がある。

 

体を売る女の叙事詩的歌や瞽女歌の様な伝統、バンコクから逃れて来た反体制派の抵抗のフォークやロック、ベトナム戦争時のアメリカン”60ポップス、それらがチャンプルーされてイサーンの音楽 がある。音楽自体がイサーン地方の近代史を物語る。

 

バンコクには日本人御用達の一角、タニャ通りがある。そこで働くのはイサーンの女たち。日本のスケベ爺がイサーンを支えている様なものだ。アイス (覚せい剤をそう言うらしい)もいくらでもある。時々来る分には楽園だ。日本に居場所の無い連中がそこに吹き溜っている。客引きをやったり、日本の観光開発業者の最末端の手先をしたり。そんな中の元自衛隊員オザワ (富田克也) とNo1ホステス・ラック (スベンジャ・ポンコン)の恋。オザワを演じるのは監督自身。これが実に胡散くさくてリアル。ちょっと細面で甲高いケロケロ声。誰かに似ている? 昔の小室哲哉だ。特に喋り声がよく似ている。

役者はほとんどが素人らしい。しかも夜の仕事の本物たちとのこと。よくぞここまで演じさせたと感嘆する。片言の日本語でのやり取りが多いのでかえってリアル、不自然さは無い。むしろ日本人の男 (こっちは役者か、内輪のスタッフか) にボロが出る。

前半の人間関係は錯綜して良く解らない。編集も解り易くしようとは考えない。エピソードからエピソードへぶっきら棒に飛ぶ。顔馴染みの役者が演じている訳ではないので余計混乱する。ラックが今暮らす男・ビンちゃん (伊藤仁) とオザワの風貌が似ているので始め混乱した。雑然とした世界を作る為に意図的にやっているのかも知れない。が、もう少し親切でも良いか。細かく解らなくても、オザワとラックがバンコクを出ざるを得ない状況になったことが分かればよいのかも。

クレーンや移動車を使って、夜のバンコクの良いカットが幾つもある。潤沢な製作費があったとは思えないが、ロングの引いた画が随所にあって手間暇お金をおしんでないことが良く分かる。時々インサートされるバンコクの高層ビル群のロングショットが効いている。発展するタイの表の顔、その下で蠢くタニャ通りの住民たち。

二人はラックの故郷イサーンに旅をする。オザワは国境を越えてその先のラオスまで行くつもりだ。日本の観光開発業者の現地調査の請負である。

イサーンにはラックの母が居た。ブルースが似合いそうな母親は父親の違う3人の子を産み、弟は米兵との間のハーフ。ラックが建ててくれた家に住む。ラックは一族を支えている。

オザワはそこでイサーンの森に逃げ込んだ反体制派の幽霊を見る。

村のバーには行き場のない白人が溜っている。ベトナム戦争のさらに前、仏領インドシナ独立戦争の頃からの、もういい歳の男たちだ。さり気なく生々しくイサーンの近代史が語られる。

ラックはここでオザワと暮らしたかったのかも知れない。でも弟たちの為にもまだまだ稼がなければならない。オザワはラックの一族と馴染むがそこに根を張る覚悟はない。

ラオスにはベトナム戦争時の米軍の空爆で月の裏側の様な地形になってしまった場所がある。画面がそこの空撮になった時、これ以上無い音量で爆撃音が被った。度肝を抜かれた。それ位極端にデカい音量。居眠りしていた者は飛び起きる。米軍の爆撃がいかに凄かったかがすんなり解る。上手い演出。

突然ゲリラが現れて、その中の数人は日本人だった。メンバーとの会話がいつの間にかラップになる。オザワが ”共産ゲリラ? ” と聞くと軽く鼻で笑って立ち去っていった。この辺、よく解らない。ただイサーンに来てからの描き方は、バンコクのリアルとちょっと違う。少し神懸っている様な気がする。イサーンという地方自体がそれを醸し出しているのかも知れない。

バンコクへ戻る途中のバスターミナルで顔見知りの金城に会う。金城は ”バンコクで金払っている内は素人ですよ、地方へ行けば金なんか払わずにヤレる、オザワさん一緒に行きませんか (不確か)” と誘う。オザワは断る。別れ際、オザワは ”金城さん、日本人で良かったね!” と言う。金城は怪訝な顔をしながら立ち去っていく。オザワは架空の銃を構えて、金城を射殺する。”バン! ” (ズドンだったか) とオサワのケロケロ声の口鉄砲。象徴的な秀逸のシーン。だが殊更それを強調する見せ方はしない。普通にさり気なく。あざとく本物の銃声を付ける演出だってあったろうに。

かつてフランス人、アメリカ人、そして今日本人、日本人であるということは大変な利用価値のあることなのだ。金城のような男は日本人であることを目一杯利用して女を垂らし込んで女衒のようなことをやっているのかも知れない。オザワはこと女に関する限り、日本人であることを利用しない。バンコクでオザワは、ラックがいいと言っても金を払っての関係だった。オザワは胡散くさいが生真面目なのだ。

搾取の構図、差別の構図、蔑視の構図、例えば「愚行録」の内部生と外部生、地方と東京、日本人とタイ人、バンコクとイサーン、体を売る女…、

政治や経済が作り出す搾取と差別、それにノッて、何の疑問も持たずにおいしい思いをする者たち。タイにたむろする日本人を見ると今の日本が解る。アジアの近代史が解る。日々を生きる庶民の生活の中に歴史や政治や経済が深く反映していることが解る。

蔑視の視線は日本国内にも充満している。そのルーツをたどって、バンコク、イサーン、ラオスと、長きに渡り現地の素人に演じさせて劇映画を作り上げた空族 (クゾク) は凄いとしか言いようがない。エンタメとしても充分に面白い。

僕はこの映画の製作集団・空族 (クゾク) を全く知らなかった。かなり音楽に近い人たちの様だ。蔑視と差別のルーツをたどる道筋が、期せずして音楽のルーツをたどることになっているのが面白い。むしろ音楽が先にあったのかも知れない。

余計なことだが空族の連中、生活はどうしているんだろうなんて考えてしまう。映画に憑りつかれているのだ、きっと。

 

「サウダーヂ」という作品名は小耳に挟んだことはあるが、外国のアート系の映画かと思っていた。空族はパッケージ化拒否の方針だそう。これは全く同感。DVDで見る映画は別物だ。ただ映画の輪郭位は解る。今「サウダーヂ」をとっても見たい。パッケージ化拒否は同感だが、ちょっと不便ではある。

エンドロールに囲みで撮影風景のメーキングが流れた。女たちもスタッフも楽しそうだ。現場は大変なこともたくさんあっただろう。でもみんな楽しそうにやっているのは素晴らしいことだ。映画を作る過程でみんなどんどん変わっていってるのだ。

 

監督・主演 富田克也  脚本・相澤虎之助  

音楽・スラチャイ・ジャンテイマトン(伝説の反体制歌手。幽霊役で出演)

   アンカナーン・クシチャイ (モーラムの女王。説話が段々歌になる役で出演) 

   歌物以外の音楽は誰がやったのだろう。サントラを聴かないとわからないのか

   なぁ?

参考

バンコクナイツ』から聴こえる、東南アジアの”抵抗”の音楽

http://rollingstonejapan.com/articles/detail/27726

2017.04.25 「ジャッキー ファーストレディ 最後の使命」 日比谷シャンテ

2017.04.25「ジャッキー ファーストレディ 最後の使命」日比谷シャンテ

 

1963年、ケネディ暗殺。動転するジャクリーヌ・ケネディ (ナタリー・ポートマン) の葬儀までの日々を追う。但し動転をそのまま映画にしたので、時系列は飛び、その都度の連想や思い出がランダムに入る。綺麗に整理するより混乱した構成がリアルだ。

副大統領ジョンソンのエアフォース・ワンでの大統領就任式、葬儀の段取り、即刻立ち退かねばならないホワイトハウス、幼い二人の子、夫ケネディとの関係、取り残された私はどうすればよいのか、私って何だったのか… 

歴代の暗殺された大統領のケースはどうだったか、夫をリンカーンの様に送りたい。

大聖堂から議事堂までは車を降りて棺と共に歩いて行きたい、世界各国の要人も一緒に歩くのか、警護は? フランスは、ドゴールは狙われているからそれは出来ないという。

ジャッキーの混乱と思いつきに世界は振り回される。弟のロバート・ケネディは兄の大統領としての評価はどうなるかを考える、

TVが、オズワルドが殺害されたと伝える。歩くのは危険だ、いや、やっぱり歩く、葬儀の主役はあくまでジャッキー、そんな混乱をそのまま並べる。

哀しみにくれるジャッキー、それを見てこちらも涙する、なんてことは一切無い。泣きを狙った演出は全て排除する。ふとした時に突然嗚咽する。動転しているのだ。泣きたいおばさんたちは、何これ? となるかも知れない。混乱の中心にいるのはジャッキー、その混乱が回りをさらに混乱させる。成り切ったN・ポートマンの存在が、これはジャッキーの物語であることをしっかりと担保する。彼女の熱演が無かったらこの映画、破たんしていたかも知れない。

 

冒頭から違和感たっぷりの音楽が流れる。画面や感情に合わせることを全くしない。2音のゆっくりとしたシンプルな動機が繰り返される。ほとんどこれだけ。一音ずつ弦が厚く重なる。普通に聴こえた弦が次の音で回転ムラを起こした様にグニョグニョと不快な音になる。もちろん回転ムラなどではない。重なる弦に不協和音が入ってその効果を作っているのだ。FLやClaが弦に代わって同じ様なことをする。音楽は始めから、この物語の中のある感情をサポートするとか、話の運びをスムーズにするとか、そういう意図はないのだ。

音楽は違和感を唱えているのだ。今だにすっきりとしないこの事件への違和感、世界で最も進んだ文明国であるはずのアメリカという国の暗殺の歴史への違和感、そして動転するジャッキーの心の底に横たわる何故?

この音楽、ストーリーやジャッキーの感情を追いたい人にはさぞ邪魔だろう。しかしお構いなしに同じ音型が繰り返される。音楽がこれ程主張する映画を近年観たことがない。絵面にベッタリと合わせることが主流の昨今の風潮の中で、絵面と音楽が完全に乖離している。これが成功しているかどうかはそれぞれの受け止め方だ。ただこの試みに僕は監督と作曲家に拍手である。

どこか一箇所でも、音楽の意図と画面が一致するシーンがあれば、とは思った。そんな中途半端は監督も作曲家も拒否したのだろう。

お涙と自立する女なんてことを期待したおばさんたちにとっては、きっと想像を超えた激辛映画だ。

ジャーナリストにジャッキーが語るという大枠の体裁は作ってある。絶えず煙草を燻らせながら。

プロデューサーは「ブラック・スワン」の監督をやった人。監督はチリの人らしい。音楽にはアメリカへの違和感も練り込まれているのかも知れない。

作曲家、ミカ・レビ、アカデミー作曲賞にノミネート (受賞はしなかったが)。アメリカ・アカデミー協会会員の人々は凄い。

ジョン・ハート、良い顔しているなぁ。

 

監督 パブロ・ラライン  音楽 ミカ・レビ