映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2019.5.08「記者たち 衝撃と畏怖の真実」TOHOシネマズ・シャンテ

2019.5.08「記者たち 衝撃と畏怖の真実」TOHOシネマズ・シャンテ

 

アメリカがイラクを攻撃した理由として大量破壊兵器保有があった。後で解ったが、実はデッチ上げだった。初めにイラクとの戦争有りき。ラムズフェルトを中心にそのシナリオに則して情報が都合良く並べられていく。オサマ・ビン・ラディンフセインは裏でつながっている、大量破壊兵器はあるに違いない、それを裏付ける様な事実だけをチョイスして並べた時、“かもしれない”はいつの間にか確信へと高まり、世論は一気にその方向へと流れて行く。TVの三大ネットワーク、ニューヨーク・タイムス、ワシントン・ポストクリントン民主党議員も、イラク攻撃すべし! に流れた。一旦出来てしまった流れを変えるのは難しい。最後まで反対したパウエルも遂に国連で攻撃支持の演説をする。

煽られた若者は軍隊に志願する。いつも庶民は単純な愛国心に燃える。それは戦場に行くということであり、殺し殺される世界だ。国を思う気持ちと他国民を殺し殺される現実には大きな乖離がある。映画は冒頭、志願しイラクへ行き、脊髄を損傷して今は車椅子の若者が裁判で “なぜ戦争をしたのか?” と問うところから始まる。

アメリカには自分たちの民主主義が全世界の人々を幸福に導く最良のシステムであると本気で思っている人がいる。我が民主主義を拡めねばならない。中東全域のイスラエル化? その背後には産軍複合体としてのビジネスがあり石油がある。理念と利害が複雑に絡み、そこに2001年、9.11 が起きた。そこからは雪崩を打つ。

“なぜ戦争をしたのか?”の問に映画は政治や経済や理念や国際情勢といったロングの視点からではなく、身近なヨリの視点で答えようとする。具体的には二つの問題に絞る。政権が嘘をついている。それによって自国の若者が死んでいく。イラク側の視点は無い。これはアメリカの映画だ。アメリカが自らの過ちを認める映画だ。

 

地方紙へニュースを配信する会社ナイト・リッダー社のジョナサン・ランデ― (ウッディ・ハレルソン) とウォーレン・ストロベル (ジェームズ・マースデン) が政府発表のニュースに疑問を抱く。本当だろうか。二人は裏を取る為に取材を始める。ニューヨーク・タイムスやワシントン・ポストなら大物政治家への直接取材が可能だが、彼らにはその伝手がない。下級職員や下っ端への取材だけだ。結果を支局長 (ロブ・ライナー) に上げると、これではまだ確証には至っていない、と突き返される。

時々二人の家庭生活が入る。ジョナサンはバツイチ、隣に越してきた美人学者が気になっている。ウォーレンは妻 (ミラ・ジョボビッチ) に取材案件を話すとこの家盗聴されているかも知れないと騒ぐ。彼女は旧ユーゴ出身なのだ。

政府の発表にはニュースフィルムを使っている。ブッシュもラムズフェルドもパウエルもそのまま本人だ。イラクのニュースも実写である。政治の決断で多くの若者を死に至らしめた、他国に介入する悪しき前例としてベトナム戦争のフィルムも挿入される。

取材する二人、家庭、ニュースフィルムが絶妙なバランスで配置され、本物の政治家をほとんど役者扱いで取り込んでいる。展開は早い。追い切れない。一つ一つの事実を暴いていくのだが、こちらがそれをちゃんと理解して、遂に全体の嘘が解ればより面白いのだろうが、老人 (私?) の視力と理解力では追いつけない。でも踊らされる世間の流れに、それは嘘だと言い続けるナイト・リッダー社の熱と使命感は解る。それで良い。

多くの証言を得て、支局長が、“よし、これで行け”とGoサインを出した時は、時既に遅し、世間はイラク攻撃一色に染まり、この配信を記事化する地方紙は一つも無かった。

苦い終わり方である。最後に“イラク攻撃の理由がデッチ上げと言い続けたのはナイト・リッダー社だけだった” (不確か、そんな意味) というテロップが流れる。

 

音楽は取材の進行に合わせてサスペンスを盛り上げかなりベタ付け、ドラマに合わせてグイグイと引っ張って行く。今風のエンタメ映画の音楽としては王道、職人技である。しかし音楽の効果もあってかあまりに一直線。途中自分たちの取材に対して疑問は起きなかったのか、社内は果たして一丸となっていたか、政治的圧力は無かったか。出来ることなら音楽を全部外して観てみたかった。そこに一直線ではない微妙なニュアンスが立ち現れたかも知れない。

音楽を付けることによってより分かり易く明解になり、でも単純化される。そうしなければ持たない映像ならともかく、これは音楽で引っ張って行かなくても充分持つ。ハリウッド流、解り易く作ることも必要だがモノによっては観る側に考える余地を残すことも必要なのではないか。

そう言えば「スポットライト 世紀のスクープ」(拙ブログ2016. 5.12) もマイナーなPf曲がベタについて感情を規定してしまっていた。真実追及一直線のところはよく似ている。どちらも音楽外したらきっともっと良くなった…

 

支局長が監督自身であることを観終わって知った。中々の名演。缶コーヒーの宇宙人(トミー・リー・ジョーンズ) が気骨あるベテラン記者でちょっとだけ登場して渋い。

 

世論は作られる。大衆は感情的情緒的で雰囲気に左右される。今政治はかつてより世論を気にするようになった。上手く世論を操作すれば政治的力となる。世論作りで大きな力を持つのがマスコミだ。しかし今TVは大衆迎合ウケ命、世論に合わせて行くメディアでしかない。かつて世論形成に大きな力を発揮していた新聞はネットに押されてマスコミの主役の座から追われつつある。ネットはどうか。新聞雑誌の記事をつまみ食いして面白おかしく流す、ブログもツイッターも思いつき瞬間芸ウケれば何でも良いの世界。ペラッペラで底の浅いツイッター政治家が蔓延している。言った者勝ちの世界。そこで作られる世論なるものは一体何なのか。

イラク戦争 (2003) は何年前だったか。でもこの映画で感じることは何よりまだマスコミ、新聞というものが世論形成に責任と力を持っていたということだ。“あの頃は良かったなぁ“ である。でも、こういう映画が生まれるアメリカ、まだ捨てたものではない。

 

監督. ロブ・ライナー  音楽. ジェフ・ビール

2019.5.07 「麻雀放浪記 2020」 渋谷TOEI

2019.5.07「麻雀放浪記2020」渋谷TOEI

 

阿佐田哲也の「麻雀放浪記」は夢中になって読んだ。和田誠の映画 (1984) も大好きである。高品格の出目徳は絶品だった。それが2020年にタイムスリップして甦るという。しかも監督は白石和彌、期待してしまった。

1945.11月、坊や哲 (斎藤工)、出目徳 (小松政夫)、ドサ健 (的場浩司)、女衒の達 (堀内正美) が大勝負をして、坊や哲が九蓮宝燈の五筒を積った瞬間雷が落ちてタイムスリップ。2020年、突然戦争が起きてTOKYOオリムピックが中止になった直後の浅草に五筒を握りしめたまま現れる。第二次大戦が終わって焼野原と化した東京、思いもよらぬ戦争でオリムピックが中止になった2020,年の東京、どちらも同じような状況と台詞で説明がある。でも2020年の東京、焼野原になっている訳ではない。焼野原になって放射能で汚染されているのかも知れないが、そういう映像はない。ひと気は少ないが浅草路地裏は今と大して変わらない日常である。「ブレードランナー」の様なビチャビチャとした路地ではなく、どこかのんびりした下町の路地。直前に戦争があった? あるいは今戦争中? そんな気配は微塵もない。

回想の1945年はチープなセットとCGだがそれなりの安物リアリティはある。2020年の舞台は言葉だけの説明。戦後のアナーキーを引き摺ってテンション高く登場した斎藤工、今がどういう時代かということが定まっていないから、本当の勝負をしたいというハイテンションは空回り。出会った麻雀メイド喫茶のドテ子 (チャランポランタン・もも) もマネージャー・クソ丸 (竹中直人) も熱演するも同じく空回り。

バーチャルリアリティーを使ったシマウマFACKとか幾つか笑えるアイデアはあるのだが何せ話のベースが出来ていないので単品のコントでしかない。

そして中止になったオリムピックに代わって世界麻雀大会である。

チープさと馬鹿馬鹿しさは嫌いではないが、このイイカゲンは楽しめなかった。

番組に穴が空いて急遽デッチ上げの企画か。火事場泥棒的瞬発力で、熟考した企画よりも生き生きとしたものが出来ることはある。今、邦画でそんな瞬発力を期待出来るのは東映だけかも知れない。しかも白石監督、ハチャメチャ珍品を期待したのだが…

まさかこれを長い間温めて来た企画なんていわないでしょうね。

ピエール瀧問題でクソ同調圧力に屈せず公開したことは良し。でも作品はちゃんと作らなくちゃ。

 

アンドロイド・ベッキーが良かった。演技以前のあのルックスが生きていた。エンドロールの後のターミネーターもどきのオマケ、あれはオッパイがバカッと開いて麻雀パイがパカパカ飛び出す位してほしかった。

ドテ子、初めははるな愛かと思った。熱演でありD級地下アイドルくらいの感じは出ていた。エンドロールでチャランポランタンのももと知って驚いた。「ゴジラ伝説ライブ」(拙ブログ2017.09.15参照) の時、モスラの妖精役を彼女たちがやっている。何度もステージでは見ているが、声とアコーディオンは解っていたが顔は認識していなかった。TVドラマにも出ているらしい。芝居経験はあったのか。今後役者もやっていくのだろうか。

 

音楽、映画を観てから大分経つのでほとんど記憶に残っていない。主題歌も同様。多分良くなかった? 良くない映画で音楽だけが良いなんてことはまず無い。

 

 

監督. 白石和彌   音楽. 牛尾憲輔   主題歌.CHAI

2019.2.27「翔んで埼玉」バルト9

2019.2.27「翔んで埼玉」バルト9

 

漫画は「ゼロマン」(作.手塚治虫 少年サンデー 1960) を最後に読まなくなった。それまでは少年雑誌の漫画はほとんど読んでいた。突然、画が動いて見えなくなったのである。 

今でも漫画とアニメとミュージカルは嫌いだ。でもそれ以降で読んだ漫画が二つだけある。一つは「火の鳥」、そしてもう一つが「翔んで埼玉」だった。友達に、“いいから読め! ” と言われて。

あまりのブッ飛びように驚いた。何じゃ?こりゃ! そのオチョクリ (今はディするというのか) ようは当時としては衝撃だった。兎に角笑えた。けれど真面目な僕は笑いながらもその奥にアパルトヘイトを見てしまった。深読みの真面目人間だった。スパイク・リーの映画がヒットしていた頃の話である。

時は流れ時代は変わり、世界は変わり日本も変わり埼玉も変わり、僕も変わった。埼玉にも僕にもオチョクリを素直に笑う余裕が出来たのだ。誇張する、その誇張の仕方を楽しめるようになった。そこにセンスを感じるようになったのだ。

 

原作の細部はほとんど覚えていない。虐げられた埼玉県民を救う英雄の話をカーラジオから流れる話にして、それを今の埼玉県民の夫婦 (ブラザートム麻生久美子) と娘 (島崎遥香) が聴く。上手い脚本化である。かつての英雄とは麻美麗 (GACT) であり、壇ノ浦百美 (二階堂ふみ) であり、埼玉デューク (京本政樹) であり、チバニアンの阿久津翔 (伊勢谷友介) である。

彼らは東京人による埼玉県民への差別と通行手形の撤廃を掲げて、埼玉解放戦線を組織して戦った。そんな辛い歴史があったんだと夫婦は涙する。娘はシラケる。

隠れ埼玉狩り、草加せんべいの踏み絵、伝染病サイタマラリア等、抱腹絶倒のアイデア満載。

共に虐げられながらも対立する埼玉と千葉。江戸川を挟んでの対峙。合戦となるのかと思ったら、昇りを立ててのお国自慢合戦。千葉が最初に立てた昇りがYoshikiだったのにはひっくり返った。そのたんびに、GACTと伊勢谷がコメントする。千葉のアルフィー・高見沢にGACTは “ウッ、嫌いじゃない”、千葉の小倉優子に伊勢谷が “弱い!” 他を思い出せないが、どれも気が利いていて笑い転げてしまった。

埼玉内でも浦和と大宮の対立がある。熊谷、あれは半分群馬だ。千葉は東京でもないくせにやたらとTOKYO何々と付けたがる。千葉の東京属国化。でも海があるんだよなぁ。

 

僕は今、半分秩父で生活している。秩父がほとんど出てこなかったのは残念だった。自慢合戦で「この花~」のアニメの昇りでも立ててほしかった。GACT “あれは何だ?” “秩父を舞台にしたアニメです” “知らん!” あるいは秩父夜祭の昇り“どうだ、世界遺産だぞ!”

 

映画は対立した埼玉と千葉が手を組み、都庁を囲み、通行手形で私腹を肥やしていた都知事を弾劾して勝利する。都知事赤城山の奥に金塊をため込んでいた。赤城山の黄金伝説である。でもこの悪事、あまりに単純過ぎる。もう少し手の込んだものに出来なかったか。東京に対し、五県 (神奈川は東京に付く) が関東連合を作り都庁を取り囲む、そんな構図に出来なかったか。

 

GACTが良い。GACTはGACTのまんまで演じていて、それが良い。この人はこれからもGACTのまんまで演じられる役だけをやるべきだ。大河ドラマ上杉謙信役の時もそれでとっても良かった。優しさ溢れる上から目線。少し鼻にかかった、でも口跡の良い声、そして立ち姿がカッコイイ。伊勢谷は色んなキャラを演じられる。GACTはGACTしかやらない。それで良い。それがこの映画ではピタリとはまっている。

実は二階堂ふみの設定にちょっと違和感があった。原作は男なのかも知れないが、映画では男装の麗人で、最後に女であることを明かすのかと思っていた。二階堂ならではのブッ飛び様で熱演なのだが、どう見たって女にしか見えない。最後に告白して、“そんなの最初のキスでわかっていた” あたりがオチかと思っていた。最後まで無理なボーイズラブで終わったのはちょっと残念だった。

 

この監督はクラシックに造詣が深いようだ。「テルマエ・ロマエ」でもクラシックを随所に充てていた。この作品でもそれをしている。あるいはクラシックに似せたオリジナルかも知れない。その辺、僕の素養では判別出来ず。ただ音楽のテイストはクラシック音楽である。おそらく絵合わせでの録音ではなく、選曲で充てているのだろう。話が作り物なので大仰な音楽は合う。

 

世界埼玉化計画、ラストカットはドラクロワの「民衆を導く自由の女神」のパロディにしてほしかった。旗を掲げ胸を肌けて民衆を導く二階堂女神。

GACT “Oh! 貧乳”

 

エンドロールの“はなわ”の主題歌で、もうひと笑い出来る。

 

埼玉とは、“差別からの解放と自由” である。

 

監督. 武内英樹  音楽.Face 2 fake  主題歌.はなわ

2019.3.02「THE GUILTY ギルティ」ヒューマントラスト渋谷

2019.3.02「THE GUILTY ギルティ」ヒューマントラスト渋谷

 

耳にインカムを付けた緊急通報室オペレーター・アスガー (ヤコブ・セ―ダ―グレン) のみを映し続けるカメラ。舞台も緊急通報室のみ。しかも焦点はアスガーだけに絞られている。

 

一本の通報が入る。女は名前も場所も言わない。息づかいの様子から、ただならぬ様子を察知する。誘拐かも知れない。傍の、人の気配は犯人か。気付かれないようにこちらの質問にイエスかノーだけで答えよ。車の色は、赤? 青? 白? イエス、セダン? ノー、ワゴン? イエス。大よその位置は掛けて来た携帯電話で自動的に解るようだ。別の回線でパトカーを手配する。

普通はここで画面は誘拐された女に切り替わる。通報室のアスガーと疾走する車中の女が交互に映し出され、サスペンスはイヤが上にも盛り上がる。通報室の静と走る車のなかの動。

ところがこの映画は普通じゃなかった。画面はひたすらアスガーをUPで映し、女の様子は電話の音声でしかわからない。アスガーと我々は全く同じ状態だ。女の背後に聴こえるノイズで状況を推測するしかない。こんな映画ってあるのか。嫌でも聴覚は集中する。その内こちらの想像力が働きだす。ヒントとなる音を聴き逃してはならない。真剣勝負だ、疲れる。

カメラを止めるな! ではない。電話を切るな! でも時々電話がバサッと切れる。犯人が電話に気付いたか。このカットアウトは怖い。

少しずつ状況が解り、女の自宅を突き止め、そこに残されていた子供と話す。犯人は女の夫らしい。おぼろげながら全体像が見えてくる。それはアスガーの想像であり我々の想像でもある。画面は相変わらずアスガーの表情と、状況に合わせてパトカーの指令室に連絡するアスガーの電話交換手の様な動きだけ。もう我々の緊張と想像力はパンパンである。広い画や動きのある画なんて一つも無い。通報室のみを映すだけでこれだけのことが出来るのだ。映像ではなく、音が語る映画ってあり得るのだ。

 

アスガーと我々の想像は後半見事に裏切られる。我々の想像力は先入観の範囲でしかなかった。映画は先入観を越えて鮮やか、脚本の勝利である。

 

 

僕はネタバレを全く気にせずこのブログを書いている。しかしこの作品に限り、これ以上の詳述は控える。まだ公開して間もない。おそらく「カメ止め」ほどではないにしても公開館数は拡がるだろう。この展開と結末は劇場で直接体験してほしい。

 

ポップコーン食べながら一時現実を忘れることが出来るのも映画、社会の歪みを映し出してそれを考え怒るのも映画、色んな映画があって良い。しかしリラックスする為に映画を見る人には勧めない。ポップコーンを音立てて食べる人は入場を拒否すべきである。途中入場もNGだ。ガサガサした足音が集中する聴力の邪魔になった。

 

ここまで、台詞というよりも音というものを中心に据えた映画を他にみたことがない。音にこんな可能性があることを知ったのは目からウロコである。

ツブ立ちの車の音とか銃声とか、そういうあざといものではない。バックノイズ、息づかい、人間の動きが発する些細な音が、こんなに映画の中心になるとは。

 

音楽はエンドロールだけである。教会のオルガンの様な音、それがゆったりと長い音符を奏でる。宗教がかっている。そういえば最後のアスガーの後姿のシルエットはちょっと神性を感じなくも無かった。この辺を詳述するとネタバレになるので止める。

前半で女の声の背後に薄っすらと音楽が聴こえていたような気もするが不確か。

 

意識しなかったが映画の時間と現実の時間は同じだっただろうか。

 

監督. グスタフ・モーラー  音楽. オスカー・スクライバー

脚本. グスタフ・モーラー、エミール・ナイガード・アルベルトセン

2019.2.14 M・I グランプリ 2018

2019.2.14 M・I グランプリ 2018

 

昨年は邦画25本、洋画13本しか観ていない。これでグランプリを選ぶのは気が引ける。それでも僕が昨年劇場で観た映画、というカッコ付で敢えて強行する。評価の高かった「きみの鳥はうたえる」「孤狼の血「斬」等は未見。今年に入り「菊とギロチン」を観られたのは良かった。

 

音楽賞 世武裕子 「日日是好日」(拙ブログ2018.11.09)

しっかりとしたメロディを持つ映画音楽。しかもドラマの世界を冷静に見つめ距離を置いている。画面にきちんと合わせて付けられていて、動きの少ない映像に躍動感を与えている。世武裕子の個性が全面開花した。音楽家にも監督にも幸運な出会い。

 

作品賞 「万引き家族」(拙ブログ2018.7.02)

是枝監督は「海街ダイアリー」「そして父になる」あたりから作家性と商業性のバランスを上手く取るようになった。そのバランスが見事に結実した作品。今の日本の社会が抱える問題をしっかりと捉えつつ、エンタテイメント作品としても一級品と成し得た。この作品についてはビジネスの側からも作家性の側からも文句は出まい。今年の邦画の様々な性格を持つ映画賞の多くが集中するだろう。色々な考えの人が観ても感動する作品が映画の本流。捻ったものよりここは素直に本流の作品に賛辞を贈る。

 

監督賞 瀬々敬久 「菊とギロチン」(拙ブログ2019.2.02)

是枝監督と迷ったが、すでに海外も含め多くの賞を獲得しているので、ここは瀬々監督とする。長い間企画を温め、ついに実現にこぎ着けたという、その粘り強さも含めて。女相撲とギロチン社という水と油の様に見える素材を見事な力技で一つの骨太な作品に仕上げた。誰が見ても面白いエンタテイメント。公開が小規模なのが残念である。

友罪」も良い作品とのこと。未見なのが残念。

 

脚本賞 相澤虎之助 (空族) 、瀬々敬久 「菊とギロチン

空族という集団 (2人?) はどんな人たちなのだろう。音楽の知識が半端ないのは「バンコクナイツ」(拙ブログ2017.03.31) で証明済み。何よりその視点が日本を越えてアジアなのだ、それも極自然に。邦画をこんな視点で作る人たちを僕は他に知らない。相澤を脚本家として入れたことにより、「菊とギロチン」は国境を越えた映画になった。相澤を選んだ瀬々監督の選球眼が素晴らしい。

 

主演男優賞 該当者無し

敢えて言えば「万引き~」のリリーフランキーだが、リリーは「SCOOP」(拙ブログ2016.10.14)のチャラ源の方が僕は好きだ。

 

主演女優賞 門脇麦 「止められるか、俺たちを」(拙ブログ2018.10.15)

門脇が演じためぐみの様な女はあの頃確かにいた。あの時代を生きた者としてシンパシーを込めて門脇とする。次点は「日日是好日」の黒木華。「万引き~」の安藤サクラ

 

助演男優賞 新井浩文 「犬猿」(拙ブログ2018.2.24)

糞真面目な窪田正孝の、ムショ帰りの真逆の兄貴役。デリヘル嬢の間ではちょっと知られていると豪語する。それを新井は実際にやってしまった。“罪を憎んで人を憎まず”がこのケースに当てはまるかどうかは解らない。だが映画の公開見送り、出演作品のDVD化中止は、あまりに過剰反応だ。映画やドラマには刑務所帰りは沢山出演している。お裁き下った後の役者新井の復帰を熱烈に要望する。

犬猿」での柿の種入りチャーハンの、味に芯が出来た、を今でも思い出し笑いする。

それにしても良識ある世間様の同調圧力は一体何なんだ!

 

助演女優賞 樹木希林万引き家族」「日日是好日」「モリのいる場所」(拙ブログ2018.10.01)

寄せ集め家族の精神的支柱、お茶の先生、仙人の様な画家の妻、三者三様見事に演じて、しかもみんな樹木希林。演じてさっさと旅立ってしまった。もしこの人が居なかったら、三作とも成立しなかった。お見事!

 

新人男優賞

これと言った人、思いつかず。

 

新人女優賞 木竜麻生 「菊とギロチン」「鈴木家の嘘」(拙ブログ2018.11.29)

新人ではなく、主演女優にしようかと迷った。それくらい花菊に成り切っていた。良く見りゃ美形なのだが、田舎から逃げて来た、どこかもっさい感じを良く出していた。「鈴木家~」では兄の自殺を延々と語る長回しを見事に演じていた。文句なし。 

次点、「犬猿」の江上敬子(ニッチェ)。ブスで真面目な姉を演じて大したもの。経験を積めば良い役者になる。

 

外国映画賞 「スリービルボード」(拙ブログ2018.2.09)

脚本も演出も役者も、みんな良い。

 

イデア賞 「カメラを止めるな」(拙ブログ2018.8.27)

映画の撮影現場には面白いネタが一杯ある。ワンシーン・ワンカットの大変さを逆手にとって、それをドタバタゾンビ映画にしたアイデアには拍手。しかしここまで当たるとは…

2019.2.02「菊とギロチン」早稲田松竹

2019.2.02「菊とギロチン早稲田松竹

 

昨年、見逃したもので一番気になっていた作品。それを早稲田松竹でやるという。初日に行った。3時間の大作。衝撃だった。

 

まず驚いたのは大掛かりなオープンセットと的確なロケ地の選択。出演者の多さ。これ以上カメラが引けないといったインディペンデントの哀しき貧しさが微塵もない。まるで大河ドラマの様なスケール。インディの先入観が見事にぶち壊された。「バンコクナイツ」(拙ブログ2017.03.31) を見た時と同じだ。

次に女相撲とギロチン社を見事に結びつけた脚本の力技、これには感嘆。

面白いという噂以外、事前情報は持ってなかった。多分ギロチンというあだ名の主人公が天皇暗殺でも仕掛けるくらいの話かと思っていた。名前しか知らなかった実在のギロチン社がモデルとは。初めのほう、ギロチン社が起こした事件を手持ちカメラが追う。どんな事件で、誰がギロチン社で誰が労働運動社かも解らない。東出昌大井浦新くらいは解ったが、あとは同じような年恰好の若者が威勢よく動き回っているとしか見えなかった。あとから公式HPを見て良く解った。先にチェックしておけば良かった。

でもそんなの関係ない。関東大震災が起こり、大杉栄が甘粕に殺され、朝鮮人の虐殺があった。大正12年9月、その時日本にいた女たちと男たちの物語だ。

 

農村で家畜以下の扱いをされていた女・花菊 (木竜麻生) が身重の身体で女相撲に飛び込む。嫁いだ姉が死んでその後添えとして嫁いだ。“逆縁”(正しくは逆縁婚) というらしい。昔は田舎ではよくあったと母から聞いたことがある。夫の暴力に耐えかねて農村から逃げ出し “強くなりたい” という一心で女相撲に身を投じる。

女相撲は旅回りの芝居に近い。エロを売りにするところもある興行だ。農村から逃げ出した者や家出した女、遊女上がりもいる。そんな訳あり女たちが親方の下で世間からはみ出した生活集団を作る。河原乞食だ。

 

一方のギロチン社、頭でっかちの若造たち、社会への憤りと正義感だけはある。生活感は全くない。革命を唱えながら日々酒と女に現を抜かす。短絡した志向によるテロは政治以前だ。リーダー格の中濱鐡 (東出昌大) とその弟分的存在の古田大次郎 (寛一郎) を中心に描く。

 

女相撲とギロチン社、この二つから共通項を見つけ出した時、この映画は成立した。それは“自由”だ。

女を人間扱いせよという叫び、貧困からの自由、男の暴力からの自由。“元始、女性は太陽であった” なんて宣言からまだ程無き頃、相変わらず女は男の圧倒的支配下にあり、世間はそれに何の疑問も感じていなかった。それに耐えられなくなった一部の女。男女平等なんて大それた要求ではない。ちょっとだけ自由に生きたいという願いだった。生活に根ざした地に足付いた願いだ。

男たちの “自由” は生活感がない。けれど国が一丸となって一つ方向へ向かうべく、そこからはみ出すものを弾圧しだした時代。自由にものが言えること。天皇の名の下に凄まじい同調圧力が加わり始めたことに対する反発。その思いだった。

どちらも国を一つ方向へ向かわしめようとする者たちにとっては整理しなければならないものである。全く違うようでいて、立場も運命も同じだった。生活に根ざした自由への希求、観念的ゆえによりピュアで強い自由への希求。たまたま興味半分で見に来たギロチン社の男たちと女相撲の女たちが出会い、共に同じ方向へと向かうことになる。その辺の脚本が上手い、面白い。

 

浜辺で中濱や大次郎が花菊や十勝川 (韓英恵) ら女相撲の面々と踊り狂うシーン。カーニバルと盆踊りとカチャーシーがごちゃ混ぜになった様なシーンだ。音楽はサムルノリ。みんなが目指すものは同じであることを肉体で確認するシーン。良いシーンだ。

 

中濱と十勝川、大次郎と花菊は惹かれあうようになる。中濱が、いつか満州に日本人も朝鮮人も差別せず、貧乏人も金持ちもなく、働く者が報われる平等な国を作る (不確か、そんな内容? ) と言う。夢物語かも知れない。しかしみんなはその夢を信じる。夢を語る奴は必要なのだ。

この映画は決して政治的ではない。政治という現実のベクトルに収斂する前の真っ直ぐな思いを描く。政治の次元になった時、有効性やら実現性やら妥協やらが入ってきて夢はスポイルされる。この映画はそれ以前の真っ直ぐな思いと夢を抱く若者たちの青春映画なのだ。

ただ、国を一つ方向に強引に纏め、天皇の名の下にそこからはみ出たものは容赦なく弾圧した、その背景をしっかりと踏まえているという点では極めて政治的である。

当時の世界を見渡して、為政者たちが選んだ方向、それが正しかったかどうかは歴史の問題だ。しかしそのシワ寄せは確実に末端に及ぶ。膨大な犠牲を強いられる。そこに居た若者たちの、“自由に生きさせろ!” という叫びの物語。それは同調圧力増す今の日本へと直結する。

 

理想の国を満州に作る、夢として語るのは良いが一つ間違えると危険な考えだ。岸信介は彼の理想の国の経営を満州で行った。甘粕は満映を作りそこで中国人と日本人が共存するような映画を作った。けれどそれは植民地政策であり、大東亜共栄圏といいながら共栄ではなかった。本当に共栄を考えていた者もいた。けれど結果としてそれらの人は植民地政策を支えることとなってしまった。中濱の夢は紙一重なのだ。

 

満州浪人”と言う言葉がある。息苦しさの増した国内に対し、満州にはそれに捉われない自由がある、そんな幻想があったのかも知れない。“満州で一旗揚げる” も似た様なものか。しかしそれが中国人の犠牲を前提とするということに無自覚だった。成り上がった日本の驕り、為政者はそれを上手く利用した。

バンコクナイツ」では満州浪人ならぬバンコク浪人が描かれる。主人公は驕れるバンコク浪人を指ピストルで撃つ。これは現代の話。

 

音楽はオッペケペ節や労働問題の歌等、当時唄われていた既成曲が自然に散りばめられている。あとは打楽器、時々入る太鼓とチャンチキの様な金属性の叩きものが効果的に入る。これがサムルノリなのだろう。サムルノリは個別の楽団名と思っていたが、楽団名であると同時にこの楽器編成で演奏するものを総称してサムルノリというらしい。この音楽はこの映画にとっても合っている。唯一のメロディー楽器は何ヶ所かに入る大正琴 ( ? )。 ソロによるシンプルなメロディー。安川午朗の手になるものがどれなのか、よく解らない。あるいはサムルノリも安川の作曲によるものなのか。大正琴(?)の曲が安川であることは間違いないと思う。2~3カ所だが的確で効果的だ。安川は、いつも言うが小編成の時の映画音楽は本当に良い。センスと映画の捉え方が的確なのだろう。

浜辺の盆踊りカチャーシーサンバにはジェンべとドゥンドゥンというアフリカの打楽器が使われているそうである。ネットの監督インタビューにそう記されていた。相澤虎之助の脚本に楽器が記されていたとのこと。さすが空族 (「バンコクナイツ」を作った製作集団、相澤はそのメンバー)、音楽系映画人である。この映画にどこか南方の風が吹くのは相澤のせいかも知れない。空族の目は日本人の物語をアジア・アフリカの視点で捉える。脚本に空族・相澤を選んだ瀬々監督の選球眼が素晴らしい。

 

中濱が捕まった後、倉地と大次郎が取っ組み合いをするシーンがある。ギロチン社の面々を良く見分けられない僕には突然倉地という人物が全面に出てきて違和感があった。中濱が捕まりギロチン社が方向を見失ったこと、中濱は深い考えもなく思いつきで行動する奴だったが大切な仲間だったこと等を言いたかったのだろうが、僕にはちょっと唐突だった。あのシーンは無しで良かったのでは…

 

東出がこんな弾けた芝居が出来ると思わなかった。新人・木竜麻生、僕は先に「鈴木家の嘘」(拙ブログ2018.11.29 )を見てしまった。どちらを先に見たところで絶賛に変わりはない。全く違う役を見事にこなしている。

良い映画は役者がみんな良く見える。役者が良いから良い映画になっているのか。韓英恵、新人だという寛一郎、親方の渋川清彦、山中崇在郷軍人会の大西信満女相撲の面々、そしてカメオ (役者としての実績もあるから当たらないか) で出演の正力松太郎役の監督・大森立嗣…

この企画を長い間温めて遂に実現させた瀬々監督、プロデューサー陣、僕はこの映画を作ったスタッフ、キャストを尊敬する。

 

監督. 瀬々敬久     音楽. 安川午朗

2019.1.09「家へ帰ろう」シネスイッチ銀座

2019.1.09「家へ帰ろう」シネスイッチ銀座

 

本年最初の映画。冒頭はダルシマーのUPから。ヴァイオリン、アコーディオンクラリネットコントラバス、ギター(あったか?) の賑やかな演奏。ユダヤ人の一族が集まっての大宴会。曲に合わせてみんな踊り出す。四拍子あと打ちの単純なリズム、マイナーのシンプルなメロ。コザックの踊りの様でもあり、東欧の舞曲の様でもあり、トルコやスラブの匂いもする。ユダヤ民族音楽なのだろう。僕には解らないが、このリズム、きっとナントカという名があるのだろう。幸せそうな人々。そこにクレジットタイトルが被る。

賑やかなタイトルバックから一転、孫に囲まれた偏屈そうな老人アブラハム (ミゲル・アンヘル・リラ) 、しっかりとした体躯に見えるが右足 (彼はこの右足をツーレスと呼んでいる) だけは引き摺っている。娘たちが、家を売りアブラハムを施設へ入所させることを勝手に決めてしまった。せめて孫たちに囲まれた写真を持って施設で自慢したい。ちょうどその撮影だった。一人写真に入るのを拒否している孫娘がいる。この子とのやり取りが面白い。i.Phoneを買ってくれたら入る、いくらだ?  孫娘とアブラハムが値段の駆け引きをする。孫娘は中々手強い。折り合った時アブラハムは孫娘を抱きしめる。お前は賢い商才にたけたユダヤ人だ、と言わんばかりに。

その夜アブラハムは、自ら仕立てたスーツを携えて、密かに家を抜け出し、生まれ故郷のポーランドへ旅立つ。ブエノスアイレスから飛行機でマドリードへ、マドリードから列車でワルシャワへ。老人のロードムービーだ。

飛行機の隣の席の若者はミュージシャンだった。マドリードではホテルの女主人マリア (アンヘラ・モリ―ナ) と宿泊代で孫娘の時と同じような駆け引きをする。夜、マリアに連れられてバーに行くと、マリアはそこで妖艶な老歌姫と化する。ピアノだけで唄う歌はシャレている。お金を盗まれるというアクシデントにも見舞われる。でもそのお陰で絶縁していたマドリードに住む三女と再会する。三女の腕にはアブラハムと同じ様な番号の刺青があった。アブラハムのそれはナチの収容所で入れられたユダヤ人番号。戦後生まれの三女のそれは何なんだろう。ホロコースト忘れまじと認識番号を刺青として入れる運動がユダヤ人の間であるのだろうか。僕には解らなかった。実は三女は一番ユダヤ人としての自覚があり父親思いだった。「リア王」のコーディリアだ。

 

パリでアブラハムはドイツを通らずにワルシャワへ行きたいと駅の係員に申し出る。係員にスペイン語は? イディッシュ語 (主にドイツの一部で主としてユダヤ人が使う言語) は? 英語は? と尋ねる。どれも話さなかった。パリの駅の係員が英語を話さないのだ。気高いフランス人は英語を話さないというのは今でも生きていたのだ。その時声を掛けてくれたのが文化人類学者のイングリッド (ユリア・ベアホルト) だった。私はイディッシュ語を話します、ユダヤ人? いえドイツ人、会話はそこで断ち切れた。アブラハムはドイツ人と接することもドイツの地を通ることも、ドイツという言葉を口にすることさえもしない。

結局は他に手がないということでドイツを経由してワルシャワへ向かう列車に乗る。車中でイングリッドの助けを借りることになる。途中の乗換駅で、ドイツの地を踏みたくないアブラハムは衣類を敷いてその上を歩きホームのベンチに座る。イングリッドに少しづつ心を開いていく。戦争中の話を語り始める。父母が目の前で殺されたこと、お話を作るのが上手だった妹は10歳に1ヶ月未たなかった為、トラックに詰め込まれ運ばれて行ったこと、その時の妹の見つめる目が忘れられないこと。“どれも聞いたんじゃない、実際に見たんだ”

イングリッドと別れ一人で列車に乗ったアブラハムはドイツの地とドイツ人に囲まれ、変調をきたす。戦争中の事が次々に立ち現れる。

気が付くとそこはワルシャワの病院。この無駄を省いた展開は小気味よい。切断されそうになったツーレスはちゃんと付いていた。看護師ゴーシャ (オルガ・ボラズ) に頼む。良くなったらウッチ (ポーランド第二の都市、大戦中ゲットーがあった) へ連れて行ってくれ。

次のカットはウッチへ向かう車の中、看護師が運転している。この展開も早い。かっての我が家、今は友が住むはずだ。

 

収容所から逃げて来た時、アブラハムの家は使用人のものになっていた。使用人夫婦はアブラハムを追い返したが、兄弟の様に育った息子が地下にかくまってくれた。戦争が終わり、いつかその友のスーツを作ると約束してアブラハムは南米に渡った。その後連絡は取っていない。果たして居るか。70年の時が流れている。生きているか。

半地下のガラス窓越しに老仕立職人が作業をしていた。目があった。二人は70年の時を越えて抱き合った。時を超え民族を超えて抱き合った。そして持ってきた青いスーツを手渡した。

 

死を前にして友との約束を果たす旅、それはドイツ人を許す旅でもあった。さらにはあの戦争を心の中で清算する旅でもあった。地続きなのに、多言語、多民族、多宗教、頻繁に変わる国境線、複雑な欧州が旅の途中であぶり出される。でも同じ人間であることに変わりはない。素朴にストレートにそんなことを感じさせてくれる。

出会った人は善人ばかり、綺麗ごとに過ぎるかも知れない。しかしホロコーストを経験した人は僅かとなり、多くの人の中では遠い昔の出来事と化している。だからこそ声高ではないが、ユーモアを交えジワリと沁みるこういう映画は必要なのだ。国、民族、宗教、それらの違いが強調され沸点に達した時、戦争は起きた。その教訓が、”みんな違ってみんなイイ” という視点だった。違いのその先には地続きの大地に住む同じ人間という視点がある。そこから見た時、個々の違いは止揚される。ネオナチ、極右政党、自国第一主義民族主義、移民排斥、そしてイギリスのEU離脱、大戦の教訓は効力を無くしつつある。EUは経済の先に大戦から学んだ理想を掲げていたはずだ。その理想が崩れつつある。宇宙人が攻めてこないとダメかも知れないなんて真面目に考えてしまう。

国民国家どうしがぶつかった時、最もシワ寄せを被るのは国を持たない民族である。国境に関係なく広がっている民、ユダヤ人やクルド人

 

音楽は沢山入っている。冒頭の舞踏音楽以降はこのメロをテーマにリズムがあったり無かったり、細かく画面に合わせた劇伴を展開する。クラリネットが大活躍、低音部を使ったり高音部を使ったり、時々グリッサンドを入れて効果的である。クラでない時はヴァイオリンが同じようにメロを取り効果をあげる。冒頭のバンド編成がそのまま劇伴でも生かされ、後ろには大きくない編成の弦。ドラマから距離を置く音楽ではない。しっかりとドラマの感情に則し、状況を語る。音楽がドラマを引っ張っているとさえ言える。メロディはマイナーだが決して安直に感情を煽るものではない。ユダヤメロなのかロマメロなのか、画面に細かく合わせつつ、しっかりと主張する音楽。ドラマに則したオーソドックスな劇伴として昨今では出色である。

 

冒頭の宴会に居た少年と幼い少女はアブラハムと妹だったのだ。爽やかで心温まる小品であると同時に、今の世界をジワリと考えさせる佳作である。

 

監督.アン・パブロ・ソラルス   音楽.フェデリコ・フシド