映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2019. 7. 20 「狙撃」(1968) 京橋フィルムセンター

2019.7.20 「狙撃」(1968) 京橋フィルムセンター

 

2018年に物故した映画人を追悼する上映会が京橋フィルムセンターで7~8月と行われている。その中のプロデューサー・貝山知弘さん追悼の「狙撃」(1968) を観た。

貝山さんは映画プロデューサーであると同時にオーディオ評論家でもあり、その仕事は多岐に渡っていた。僕は色々な仕事でご一緒したが、どちらかというとレコード製作の方が多い。「日本の映画音楽シリーズ」(全11枚) は貝山さんが居なかったら出来なかった(拙ブログ2018.1.07)。

「狙撃」は僕が貝山さんと出会う前、映画プロデューサーとして一番突っ張っていた頃の作品である。

 

冒頭、早朝の有楽町、ガードが見下ろせる屋上、昔の日劇 (今はマリオン) の前あたりのビル、そこから加山雄三が銃を構える。無線 (携帯なんか無い) で指示が来る。標的は新幹線7両目の最後部席の男、但しその車両最前列に座る男が帽子を被って居たら決行、被っていなかったら中止。男は帽子を被っていた。狙撃決行。帽子を確認してから決行までは車両一両分、ほとんど一瞬だ。一撃で仕留める。その間ほとんど静寂。銃を扱う音、息づかいが僅か。早朝とはいえ街ノイズはあったはずだ。それともあの頃の早朝の有楽町はあんなにも静かだったのか。全編、音は限りなく削ぎ落とされている。普通なら付ける街ノイズ、グランドノイズの類は極力付けない。台詞も少ない。フランス映画、フィルムノアールである。その代わり、ジャズがそこを埋める。

音楽・真鍋理一郎。改めて真鍋先生を見直した。アルトサックス (ソプラノも?) 、ドラム、ベース、ギター、ピアノはあるが前面には出ない、アフリカ系パーカッション、そして女声のスキャット。この音楽が映画全体のテイストを作る。主役級の存在感。

真鍋理一郎は言わずと知れた伊福部門下 (拙ブログ2016.2.15) 。大きなオーケストラも書くし現代音楽も書く。けれど映画音楽では、その要請に従って何でも書く。「ゴジラ対へドラ」(1971) では主題歌を書いたし、「あゝ馬鹿」(1969) では歌まで唄っていた。この作品ではカッコいいジャズをやっている。これは貝山さんの趣味の様な気がする。貝山さんは、この次の作品「弾痕」(1969) では武満徹で全編ボサノバでやっている。

加山は狙撃の名手。優しく引き金を弾く、その瞬間にしか生きる充実を感じられない男。敵対する老殺し屋が森雅之 (これが何ともカッコイイ) 。加山が唯一心を許してしまう女に浅丘ルリ子、モデルで蝶の収集に憑りつかれている。ニューギニアの太陽に憧れる。憧れはダンスで示される。ホテルの一室という狭い空間、アフリカPercに合わせて浅丘が見事なパフォーマンスを繰り広げる。振付は竹邑類。スレンダーな全身を使い何とセクシーで美しいことか。’60年代メイクの浅丘の何と魅力的なことか。

二人でいつかニューギニアへ行くことを夢見る。「冒険者たち」(1967) のアフリカだ。

 

撮影は都内や湘南や山中湖周辺あたりか。それが日本のどこかであるということを徹底的に排除する。同時に役柄の説明や属性も語られない。銃に憑りつかれた男、男を愛する女、それ以外は不要だ。日本的抒情や喜怒哀楽の感情表現は極力排除される。無国籍である以上に観念的だ。けれど東宝邦画系、前衛映画は許されない。話は必要最小限、削ぎ落としたシンプルなストーリーがある。そこにジャズが流れ、これまでの邦画には無かったクールな世界が作り出されていく。日本的感情表現に飽きていた僕ら若造には新鮮だった。日本でもこんなカッコイイ映画が作れるんだ!

 

最後に息絶えようとする加山の上に“俺は生きる、そして殺す ―アルベール・カミュ”と文字が出る。大昔観た時こんな文字が出ていたなんて全く気が付かなかった。生きることは否応なく殺人者となることである的なカミュの思想をベースにしていたのかも知れない。でもそれは感じる人が感じれば良い。静寂とジャズが支配する、これまでとは全く違った映画だった。

 

加山は若大将とは真逆の使い方である。社長シリーズや若大将が東宝カラーと言われていた時代、よくこんな映画作ったもの、さぞ戦ったのだろう。若き日の貝山さんの突っ張り様が目に浮かぶ。

 

監督. 堀川弘道  音楽. 真鍋理一郎

2019.6.20 「泣くな赤鬼」新宿バルト9

2019.6.20 「泣くな赤鬼」新宿バルト9

 

高校野球の監督(堤真一)と教え子ゴルゴ (柳楽優弥)、ゴルゴは妻 (川栄李奈) と幼い子供を残して癌で死ぬ。典型的な泣ける映画である。今だったらパワハラで訴えられる様な、かつてシゴキと言われた一歩手前の強権的な指導とその根底にある教師と生徒の信頼を描く。

 

かつて小渕 (堤真一) は甲子園有力校城南工業で赤鬼と恐れられていた。赤鬼先生は、自信過剰と自己顕示欲の塊の様な生徒をみんなと一緒に生きるチームプレイヤーにすることが野球部監督の教育と考えている。有力野球部にはそんな奴らがかき集められていた。斉藤通称ゴルゴ(柳楽優弥)はその典型だった。しかし途中でゴルゴは簡単に野球を諦めてしまう。堤も甲子園出場を果たせなかった。

それから10年近くが過ぎ、今は進学校の野球部監督として腑抜けたようになっている堤と,一児の父として一人前の社会人となったゴルゴが病院で再会する。ゴルゴは癌に侵され余命僅かと宣告されていた。

 

ゴルゴの高校時代は別の役者が演じる。無理すれば柳楽がそのまま演じられたはず、それを敢えてしなかった。眼光の似た役者が演じている。それに合わせてライバルの和田君(竜星涼) も高校時代は別の役者が演じる。初めちょっと混乱したがこれは正解である。成長して今はかつてとは別人の様になっていることが強調される。堤だけは変わらない。人生の次のステップに行った生徒たちと、かつてと変わらない、むしろ後退していることの対比。

 

高校時代と今がランダムに入り組んで、しかも役者が違う。しかし不思議に混乱せずスムーズに見ることが出来る。この構成と編集と演出は中々のもの、音楽で色分けをしたりもしていない。

 

ひとり過去と今を通して演ずる堤は赤鬼と腑抜け教師をしっかりと演じ分ける。

息を引き取る間際の柳楽に”悔しいか悔しいか”と言いながら堤が垂らす鼻水を見て泣かない者はいないだろう。柳楽がそれに笑って答える。鋭い眼から涙が流れる。

柳楽は良い役者になった。「誰もしらない」の少年は見事に大人の役者になった。

もう一人特筆すべきはゴルゴの妻役の川栄李奈だ。なんと達者なことか。大河でもチラっと観て違和感ないなぁとは思っていたが、ここまで見事に演じるとは。地方の高校でちょっと突っ張っていて、同じように突っ張っていた柳楽とくっついて早々と子供が出来て、今はしっかり者の妻として夫を支えて、姑と同居する、それが何の説明もないままちゃんと解る。あの何とも言えない愛くるしさの中にきちんと表現されている。今、彼女でなければやれないという役が一杯あるはずだ。

堤、柳楽、川栄が一人欠けても、映画は成立しなかったかもしれない。

 

音楽は前半、ほとんど記憶にない。多分、音楽は極端に少なかったのではないか。

クライマックス、回想の群馬大会決勝、これで勝てば甲子園という試合、ここで城南は負ける。退部したゴルゴもスタンドに来ていた。ゴルゴが何かを叫ぶ (この台詞、失念してしまった)、と同時に音声オフになりノンモン、堤のUP、そこに女声をメインにした (弦も入っていたか?) 綺麗な音楽が入る。宗教的な響きさえする。それが今の病室に繋がる。この一連、編集も上手かったが、音の演出が良かった。ここだけの為に音楽はあった。

そしてローリングで竹原ピストルの歌、あんなにぴったりのエンドロール主題歌を他に知らない。細かい歌詞は聞き取れなかったが、あの声、あの声がどうしようもない運命を受け入れるしかない人間を哀しみ、癒し、応援した。あの声で涙はさらに流れ、そして少しづつ落ち着いていった。

 

監督. 兼重淳  音楽. 北城和美、北城浩志  主題歌. 竹原ピストル

2019.7.17「愛がなんだ」テアトル新宿

2019.7.17「愛がなんだ」テアトル新宿

 

「旅のおわり世界のはじまり」があまりに肩透かしの薄味だったので、続けて同じテアトル新宿で「愛がなんだ」を観てしまった。何とこちらも薄味、というか今時アラサー女の恋愛事情、僕には全く感じるものが無かった。二本続けて心は動かされず。文句溢れて感動無し。

角田光代の原作、今時のアラサー女のリアルがあって解る! と感じる人はいるのかも知れない。

都合良く勝手な男マモル (成田凌) と都合良く遊ばれている女テルコ (岸井ゆき) 、都合良く男を侍らせている女葉子 (深川麻衣) と解っていても献身的な男ナカハラ (若葉竜也)、どっちもどっち。要は惚れてしまった弱み。それを手変え品変えて色んな理屈を付けて描く。最後はその関係を卒業して次の段階へと行く? 見事逆転して相手に惚れさせる? そこが明快ではないのでカタルシスがない。こいつら恋愛以外に考えることがないのか。きっとそうなのだ。そんな奴らは決まってデザインだの雑誌の編集だのの仕事をしている。

そんな青春をおくらなかったヤッカミかもしれないが、何かペラッペラだ。

 

音楽・ゲーリー芦屋。タイトルバックでGがカットインしたのはカッコ良かった。GとEPfとパーカッションのバンド編成、少ないが付けるべき所に的確に付けている。 後半は弦カルが簡単な白玉だが効果的。主演の岸井ゆきと音楽だけが良かった。

 

監督. 今泉力哉      音楽. ゲイリー芦屋

2019.7.17「旅のおわり世界のはじまり」テアトル新宿

2019.7.17「旅のおわり世界のはじまり」テアトル新宿

 

随分、壮大且つ大仰意味深なタイトルである。しかも監督は黒沢清、きっと人間存在の核に触れるような物語に違いない。

初めにウズベキスタンという僕らにとっては未知なる国がある。そこに前田敦子という女優を放り込んだらどんな化学反応を起こすか。その為の設定が作られる。

 

葉子 (前田敦子) は日本のバラエティー番組のレポーター、“私の居場所はここではないのでは?” 感一杯の自分探しに取りつかれた日本の女性。そんな女性にとってウズベキスタンという未知の国は打って付けだ。サマルカンドタシケントも彼女にとっては自分探しの迷宮、ラヴィリンスとなる。

冒頭、ロケバスに遅れた葉子が民泊宿から飛び出す。一斉に向けられる好機の目。ロケ地は琵琶湖の五倍はある水溜り。ここにいるらしい巨大な魚がロケ隊の目当てだ。渡された防水服、“これ穴空いてました” AD (柄本時生) がすかさず “修理しておきました” “準備出来たら本番!” の声、それを聞いて葉子、溜息一つ。これだけでこのTVクルーの状況が手に取るように解る。

クルーは、早く撮り終えて帰国したい風のディレクター(染谷将太)、寡黙なカメラマン(加瀬亮)、 従順で気遣いのAD、そしてレポーターの葉子。昔で言えば日テレの矢追番組やテレ朝の川口探検隊のようなもの、雪男発見!というやつである。(最近のその手のTVを見てないので、例えが古くてごめんなさい) 三人に特段の意欲は無い。葉子も本番のカメラが回る時だけは取って付けたような笑顔になる。アッちゃん、これ見事!

 

葉子はグルグル回る拷問の様な二人乗り観覧車に何回も乗る。火の通っていない現地の食べ物も美味しそうに食べる。“出来る? ”“ ハイ出来ます”、どんな無理も聞き入れる。でも食事もオフ時間もスタッフとは別行動、最小限の接触しかしない。空き時間はひたすら街をテクテクと彷徨う。すし詰めのバスに乗り、バザールを突き抜けて、怪しい男たちがたむろする地下通路を壁際に張り付きながら小走りで通過する。坂を駆け下り、クラクションのなる道路を横切る。どこでも好奇の目が向けられる。好奇の目をそのまま演出に転用して、カメラは手持ち、隠し撮り、望遠で、彷徨う「不思議のウズベキスタンのアッちゃん」を追う。アッちゃんに自由にやらせているのかも知れない。ほとんどドキュメンタリーだ。

ようやくホテルにたどり着くと携帯に飛びついて日本の彼氏にメールする。カーテンを揺らして怪しげな迷宮の風が吹く。

 

巨大な魚はみつからない。これじゃ番組が成立しないとディレクター。葉子が提案し、町外れで見つけた檻の中の山羊オクを草原に帰してやる絵を撮ったりする。

 

めずらしく朝食でカメラマンと同席する。アッちゃんは本当は歌手になりたいこと、帰国したらミュージカルのオーディションを受けて、そこで「愛の賛歌」を唄うことを話す。カメラマンは、自分も本当はドキュメンタリーを撮りたかったこと、でも今の仕事も君のドキュメンタリーを撮っているようで面白いと言う。レポーターの仕事も歌手に通じるんじゃない? “違います、レポーターは反射神経でやれるけど歌は心がないと唄えません”

 

彷徨う葉子はオペラハウスのようなところに迷い込む。劇場前の噴水の音がオフになり葉子は建物に吸い込まれていく。そこはナヴォイ劇場、戦後ソ連に抑留された日本人が壁画を描いたといういくつかの小部屋。そこを通過する主観移動の絵も編集も迷宮に迷い込むホラーのよう。その先ではオーケストラに合わせてオペラ歌手らしき女性が歌っていた。葉子はその歌手と同化し入れ替わり、いつのまにかそこで「愛の賛歌」を唄いだす。

 

自分で回してみたらとカメラマンに言われ、小型カメラを持って葉子が気の向くままに歩き出す。それをカメラが追う。いつのまにかはぐれて、軍事基地のようなところに迷い込む。そこは撮影禁止区域だ。警官が近づいてくる。葉子は逃げる。警官が追う。捕まった葉子に警察署長が、逃げたから追ったんだ、コミュニケーションを取らないと何にも始まらない、と言う。

その時警察のTVに東京湾大火災の映像が映し出される。葉子の彼氏は海上消防士なのだ。携帯が繋がらない。親切な警官はWi-Fiが繋がる部屋に案内してくれる。夜中ホテルで携帯が鳴り、彼氏が無事と分かった。私って何て幸運なんだろうとつぶやく。

翌朝、東京湾火災報道の応援でディレクターとADは一時帰国、カメラマンと葉子は残って撮影を続けることになった。葉子は少し積極的になっている。魚は相変わらず見つからない。山奥に別の巨大な生き物がいるという。二人はシルクロードの山々に囲まれた高地へ赴く。葉子はそこで自由にしてあげた山羊のオクを見る。そして「愛の賛歌」を大オーケストラの伴奏に合わせて唄いだす。そこで終わる。

 

話を詳述した。何故かというと僕には、どこが旅の終わりでどこが世界の始まりなのか解らなかったからである。レポーターとして頑張る葉子、自分探しで彷徨う葉子は、とっても等身大で自然。でもどこで「愛の賛歌」を唄える心になったのか?

拷問観覧車に乗っかって脳味噌がおかしくなったからか (冗談です)

自分を投影した山羊を自由にしてあげたから? そして山奥でその自由な姿を見たから? (僕はこのエピソード、あまりに薄っぺら取って付けたみたいで、驚いた)

食堂のおばさんが撮影のあと、ちゃんと焼き上げた料理を持たせてくれた、ウズベキスタンの人の優しさに触れたから?

少しだけ心を開いたカメラマンに、君のドキュメンタリーを撮っているようで面白いといわれたから? 歌手になりたい、歌は心がないと唄えないと気持ちを吐露したから?

警察署長が、コミュニケーションを取ろうとしないと何にも始まらないと言ったから? (こんなことを台詞で言うことに僕は鼻白んだけれど)

彼氏が無事で、自分は何て幸運なんだろう、と感じたから?

おそらくこれらの全てと、ウズベキスタン大自然と人々、これらがどこにあるかもしれない本当の自分を探すという旅が徒労であること、現状を見つめ受け入れ周りの人との関係を作っていくことで新しい世界が始まる、ということを教えてくれた? だからいつも着ていたオレンジのパーカーを脱ぎ捨て脱皮して、「愛の賛歌」を唄った? なるほど。

 

こんなことを文字で書くのは無粋なことだ。映画は映像と音を使ってこれらを丸ごと納得させてくれる、話も意味も良く解らないけど納得した、ストンと落ちた! というのが映画だ。僕にはストンと落ちなかった。突然 「愛の賛歌」 が唄いだされた時の違和感! これで大団円?

トウキョウソナタ」(拙ブログ2008.10.24) の家族それぞれが彷徨った末に迎えた朝は決定的な何かがあったわけではないが昨日とは違う新しい朝と納得出来た。

例えばジュリー・アンドリュースが圧倒的歌唱力という力技で強引に説き伏せてしまうのでも良い。まぼろしの巨大魚が突然飛び上がったでも良い。唐突な飛躍は映画の醍醐味だ。「町田君の世界」 (拙ブログ2019.6.25) のように風船にぶら下がって舞い上がったって良いのだ、納得さえ出来れば。

 

それまでのエピソードの積み重ねにそれだけの説得力がなかった。

そして何で「愛の賛歌」なのか? という選曲の問題。

「愛の賛歌」は壮大な愛を歌い上げるが、けっして人類愛とか博愛ではない究極のLOVEソング、そんなことはどうでもいい。この歌、ピアフであり、越路吹雪であり、大竹しのぶであり、いずれも声量あり、歌唱力あり、説得力あり、の人たちだ。(そういえばブレンダ・リーも歌っていたなぁ) アッちゃんの歌はアイドルの歌い方である。これは上手い下手の前にこの曲に向いていないのだ。いくら頑張ってもあの唄い方では、大自然の山々をバックにしての空間は埋まらない。オケと対等にはならない。あるいは大オーケストラの中でか細いアッちゃんの声、世界の中で一人という感じは監督の狙いだったのかも知れない。そうだとしたらそれは頭で考えたもの、音は音で考えなければ。

唐突感を和らげる為のナヴォイ劇場での前フリはある。それでも唐突感は変わらない。

もうひとつ技術的なこと。「愛の賛歌」でいくのなら、せめて唄いだしはアカペラで入って、少ししてオケがスーっと入ってくる、と考えなかったのか。初めから壮大なオケの前奏が入る。唄い出す前に、一体何が起こったのだ? である。突然別世界に飛躍する訳だから小手先を労する必要はないと考えたか。確かにそれも考え方ではあるが。

シルクロードの山々に囲まれ、積極的に生きようと歩き出した葉子の表情、カメラがしっかりとそれを捉え、そこに音楽が入り、それは「愛の賛歌」の前奏となってエンドロールの黒味から歌になるでも良い。すくなくとも今よりは納得出来るのでは。

今の形、僕には違和感しかなかった。

 

設定はとっても上手かった。四人の役者+通訳(アディズ・ラジャボフ)の人も自然で本当に良い。言外にそれまでの人生か語らずとも見える。撮影も色々と工夫している。構成はカットバックが一つもないシンプル一直線、これも良い。ただエピソードがあまりにありきたり薄っぺら。僕には旅が終わったことも、「愛の賛歌」によって新しい世界がはじまったことも、ストンとは落ちなかった。ちょっと気分が変わったので唄えるようになっちゃった、である。

初めから「愛の賛歌」は想定されていた。ウズベキスタンに始まり「愛の賛歌」に終わる。その間に前田敦子を置いて繋げる。残念ながら繋がらなかった。僕には久保田早紀の「異邦人」が聴こえて来た。

 

音楽・林祐介、「散歩する侵略者」(拙ブログ2017.09.11) では面白い曲を書いていた。今回の劇伴は葉子の心の動きのところ、例えば山羊のエピソードとかホテルにひとりになるところとか数箇所にトロンボーン(?)のアンサンブルでゆったりとした短い曲を付けている。付けている場所は良いしそれ以上音楽を付ける映画ではない。街ノイズが彷徨う葉子の背後に音楽の様に付けられているのは効果的だ。

音楽は「愛の賛歌」につきる。大編成の編曲自体はとっても良い。けれど映画音楽としての違和感は前述の如し。歌とオケは音質的にも混ざっていない。オケは後かぶせか。オケと歌との微妙なズレに苦労の痕が見て取れる。エンドロールは「愛の賛歌」のVLソロ・バージョン。安心して聴けた。

 

散歩する侵略者」、上手いタイトルだったなぁ。あれは「旅のはじまり世界のおわり」だった。こちらは「旅のおわり? 世界のはじまり? 」、立派なタイトルも時に考えものである。

 

監督. 黒沢清  音楽. 林祐介

2019.7.26 「凪待ち」日比谷シャンテ

2019.7.26 「凪待ち」日比谷シャンテ

 

白石和彌らしい映画、ほっとした。「麻雀放浪記2020」(拙ブログ2019.5.07 )ではどうなってしまったのか心配した。本来の姿に戻ってくれた。

 

主演は香取慎吾、圧巻である。

 

冒頭、印刷工場をリストラされた郁男 (香取慎吾) とワタナベ (宮崎吐夢) 、二人にとって競輪場は唯一世間から開放される場所、カメラが川崎競輪の看板を斜めに写す。車券を買って当たったり外れたりして、飲み屋でコップ酒をあおる。ここへ来るとホッとするよねとワタナベ、白髪混じりの無精ひげで優しく笑う、郁男は唯一優しくしてくれた人。ここを見ただけで白石健在を確信!

郁男は明日、同居する亜弓 (西田尚美) とその娘美波(恒松祐里)と三人で川崎から石巻に引っ越す。石巻は亜弓の故郷、そこでの郁男の仕事は充てが付いていた。印刷工としての技術はあるらしい。郁男は乗っていたロード用自転車をワタナベに使ってくれと差し出す。その自転車に乗り、慣れないハンドルにヨタヨタしながら“落ち着いたら連絡するよ”(不確か) と言って夜の闇へ消えていくワタナベ。「夜空は最高密度の青色だ」(拙ブログ2017.5.07) の田中哲司の ”死ぬまで生きるさ” の別れ際を思い出した。

 

亜弓は先に石巻に向かったようだ。郁男と美波は、引越屋が来ても、“ちょっと待ってもうじきだから”(不確か)、とゲームに興じる、二人は気が合うようだ。石巻に向かう車の中、“好きなんでしょ、何で結婚しようって言わないの?”(不確か)と美波に言われる。郁男は曖昧に答える。郁男は大して働きもせず、時々亜弓から金をくすねては競輪につぎ込んでいる。美波は引きこもりの不登校、ともに他人に迷惑をかけながら生きているという負い目を抱いている。“郁男はあたしと同じだ”

 

石巻の新しい生活。癌を患い先のない、けれど今だに漁に出る父親勝美 (吉澤健) 、何くれとなく世話を焼いてくれる近所の小野寺 (リリー・フランキー)、新しい職場は地元の印刷工場、引きこもりだった娘も定時制高校に通いだし、幼馴染 (佐久本宝) {彼は確か「怒り」(拙ブログ2016.9.21) に出ていたか} とも再会して話し相手も出来た。

小野寺に連れて行かれたバーで亜弓の元夫、美波の実の父親 (音尾琢真) と遭遇する。元夫は一癖ありそうな中学教師、DVが原因で別れた。きっと綺麗ごとだけではないこれまでがある。

競輪の予想をしていた印刷工場の若い者に誘われて、ついノミ屋に足を踏み入れてしまう。石巻でも競輪はやれた。引越に際し、ギャンブルと酒は止めることになっていた。それが少しずつ崩れていく。

 

美波はいつも郁男の父親としての言葉を待っていた。さりげなく視線を向ける。しかし郁男はいつも曖昧だ。美波の夜遊びを亜弓が頭から叱り付ける。郁男の言葉を待っている美波。他人に対し、はっきりとした言葉が言えない、自信がないのだ。曖昧かキレるか。ようやく言う、”あんまり遅くなるなよな!” 美波はその言葉を嬉しそうに聴く。

その夜、帰らない娘を心配して亜弓と郁男は車で夜の街を探し回る。煮え切らない郁男に腹を立てる亜弓、”実の子じゃないからよ” 、郁男はキレる。亜弓を車から叩き出す。ゲーセンにいた娘は直ぐに見つかった。お母さんに連絡しろ、美波携帯を掛けるが繋がらない。亜弓は高速の下で遺体となって発見された。あまりの急展開、けれど話の発端となる事件、少し唐突だが仕方ないか。

美波は自分を責める。郁男も自分のせいだと思う。まわりは実の父親が娘を引き取るのが良いと話を進める。先方も了解した。親父は美波が郁男に懐いていることを知っていた。このままここで暮らせばいい。美波もそう望んでいた。郁男もそうしたいがそれを切り出せない。郁男には美波の父親になるという自信がないのだ。

郁男は競輪にのめり込んでいく。ノミ屋が斜めに写る。ギャンブル依存が始まる。

ノミ屋から借金をし、それはどんどん膨らんでいく。警察は亜弓殺しの犯人として郁男を疑う。印刷工場でも社員がノミ屋通いをするようになり事務所から金も無くなった、郁男が来てからだと言われる。印刷工場で乱闘事件も起こす。尻拭いは小野寺がしてくれた。俺はダメな男だ。

 

郁夫の過去は全く語られない。おそらく郁男は家族というものを知らない。もしかしたら施設で育ったのかも知れない。ギャンブル依存症で直ぐ頭に血が上る。人に迷惑ばかりかけている。自分が家庭を持つなんて考えもしないし、そんなことをしてはいけないとさえ思っている。家族への憧れと恐怖心。俺はダメな男だ。けれど子供の様な純粋さがある。

こんな役を香取慎吾が見事に演じている。香取は上手い役者でもなければ器用な役者でもない。台詞は一本調子、けれどその台詞には子供の様に素直な純真さがある。郁男は口籠もるタイプ、唯一多く発するのは車の中での亜弓とのやり取りくらい、あとは時々ポツリポツリ、これは香取の特性を考えた時、上手い設定だ。その代わり肉体、顔、目で多くを語る。時々入る、少し顎のあたりが弛み、胡散臭い髭を生やしたUPには、親になる決心も出来ず、ズルズルと競輪にはまり、隠してあった亜弓のへそくりにまで手を出してしまう、善良で口下手でキレやすくギャンブル依存の男の自虐が滲み出ている。香取は演技力で郁男を演じたのではない。存在そのもので郁男になり切った。

 

胡散臭い美波の実父は今はフィリピーナ(?)の妻を持つ。市場で、その妊娠中の妻が美波や郁男が居る前で急に産気づいた。病院へ運ぶ。生まれた赤ん坊を美波が抱きかかえる。そこに父親が駆けつける。この父親がガラス越しに美波が抱える赤ん坊を見て、ポロポロと涙を流す。涙がDVの過去を洗い流してしまうようだ。カメラは父親から後に立っていた郁男にフォーカスしていく。ここは自分の居る場ではないとそっと立ち去る郁男。やっぱり実の親子なのか。このまま血の繋がる親子で纏まり、郁男はこの地を立ち去るのか。

 

親父が漁船を売って金を作ってくれた。これで綺麗にしろ! この親父、只者ではないと思っていた。この時初めて自分も前科があること、石巻で妻に出会い、亜弓が生まれ、真っ当な生活を送れるようになったと話す。その妻は3.11で流されてしまった。それを救えなかったことを親父は今も引き摺っている。

郁男は借金を清算し、残った金で一点買の大勝負をする。ノミ屋がそれを受ける。3-6、これが当たった。ちょっと出来すぎこれでハッピーエンド? ここでちょっとフェイント、中継画面に「認証」(?) と出る。まだ決定ではない、認証でひっくり返るかもしれない。競輪場のアナウンスが、ひっくり返りませんでした(不確か) 、映画館に笑いが起きた。けれどノミ屋がそんな大穴、払うわけがない。車券はノミ屋がノミ込んでしまう。

 

自分はダメな男だ。居れば周りに迷惑ばかりかけてしまう。郁男は置き手紙を残し、街を去ろうとする。駅まで行った時、待合室のTVが、ワタナベが印刷所を襲ったという事件を報じる。俺も! と思ったかヤケクソか、街に戻ると折りしも祭り、そこでヤクザに食って掛かり大立ち回りを演ずる。このカメラは圧巻。ここも小野寺が取り成してくれる。

翌朝、ノミ屋に一人乗込んだ郁男は店をグチャグチャに破壊する。そしてヤクザにボコボコにされる。

何でわざわざ殴りこみを翌朝にしたのか。駅から真っ直ぐノミ屋へ殴りこむで良かったのでは? この溜めのワンクッションには引っかかった。

 

親父がひとりヤクザの事務所に乗込む。ボコボコにされた郁男が横たわっている。麿赤兒が若い奴に孫の写真を見せている。亜弓の葬儀の時、焼香に現れた麿に曰くがない訳がない。どう絡むのか楽しみだった。ここだった。

親父 ”こいつは貰っていく”  

麿 “手をだすな、俺は昔こいつに命を助けられた借りがある” 

“なんでこいつをかばう? “

親父 “こいつは俺のせがれだ! “

一気に涙腺決壊!!!

名優の力というものは凄い。吉澤健と麿赤兒、かなり強引な纏め方にも拘わらず口挟む余地もなく納得させられてしまう。ただただ涙流れる。

 

外へ出ると郁男はガキのように大泣きする。両脇を親父と美波が支える。きっと郁男は初めて心から泣いた。甘えた。美波がしっかりとして母親のようにさえ見えた。世間に居場所が出来たのだ。家族は血ではない。山田洋次に聞かせてやりたい。

亜弓との婚姻届に郁男が署名し、船出した三人で沖合いに流す。ようやく訪れた凪である。海の実景がそれを雄弁に語る。けれど凪の海のその下に何があるかを僕は全く気がつかなかった。

 

三人を乗せた漁船、朝の雲が低く漂う三陸の海、Pfがほとんどソロ、ローリングがせり上がる。僕はいつもエンドロールは音楽を聴くこと、クレジット、特に音楽関係を確認することに集中する。婚姻届が水中を漂いそれを追っての水中撮影、と軽く見ていた。実はこの映画二度見した。二度見の時も良い音楽だなぁと気を取られ途中まで全く気がつかなかった。しばらくして、あれっ? これただの海の中じゃない、ピアノがあったり家財道具があったり、何とそれは3.11で流された物たちだった。流された人たちの生活だった。僕は何と恥ずかしいことに一度見の時は全く気がつかなかった。三人の新しい生活の下には3.11が横たわっていたのだ。

3.11は何気ない実景の中にもさりげなく触れられていた。カメラがパンするとただ造成だけがしてある広い土地があったり、遠くには不釣合いの高いビルが見えたり。こんな壁作る前は綺麗な海だったと亜弓が言ったり、川崎での美波の不登校も3.11が原因だった。郁男はヤクザから福島の放射能除染で一ヶ月働くように言われていた。内臓売るか原発か、ヤクザが食い詰めたダメ男を送り込んでいるのだ。至る所に3.11があった…

 

音楽、安川伍郎。Pf、AG、Syn、ひかえめのDr、パーカッション、後半に少人数の弦。必要最小限に付ける。小編成の時の安川はほんとうに良い。上手い。エンドロールはほとんどPfが単純素朴なメロを爪弾くようなソロ。そのなんと雄弁なことか。

音楽を詳述するにはもう一度観る必要がある。ここでは素晴らしかったとだけ。

 

亜弓殺しの犯人は小野寺だった。ちょっと唐突な気もした。印刷工場で工員が金を抜き取るのを亜弓が見てしまうという、引っ掛けもあった。僕はてっきりこの線かと思っていた。納得させてくれるエピソードが一つくらいあっても良かったかとも思う。亜弓と小野寺にも語られない多くの物語があるに違いない。

リリー・カメレオン・フランキーはここでもカメレオンぶりを遺憾なく発揮している。役者は脇役に至るまでみんな良い。ネームバリューに拘らない適材のキャスティング。ワタナベは言うに及ばず、元夫もノミ屋の発券のお兄ちゃんもゲロ吐いて逃げる工員も、男優は白石映画に出るとみんな輝く。

そんな中で負けじと西田尚美恒松祐里が頑張る。恒松、僕は知らなかった。こんな可愛い子、田舎にいたら超目立つ。いつ変な方向へ行ってしまうか気が気じゃなかった。過酷な環境に耐えて健気だった。それをしっかり演じていた。

 

香取は多くの賞を取るに違いない。白石和彌は健在だった。

 

監督. 白石和彌  音楽. 安川伍郎  

2019.6.25 「町田くんの世界」丸の内ピカデリー

2019.6.25 「町田くんの世界丸の内ピカデリー

 

少女マンガが原作らしい。予備知識全く無く観た。

冒頭、LPレコードに針が落とされるドUP、レコードのジャケットには〇○○(?) とアルファベット、賑やかな音楽が流れ (これはオリジナルそれとも既成曲? 何というバンドの曲?)

子供たちが起き出す。主人公らしき少年が朝食を作る。妊婦の母親 (松嶋菜々子) が、今夜はハンバーグが食べたいという。それに頷く少年。どうもつかめない。少年を演じる役者を知らない。芝居もどこかぎごちない。ヘンな走り方をする。

 

この高校生町田くん (細田佳央太) が保健室で猪原さん (関水渚) と出会う。話が動き出す。がまだつかめない。時々同じクラスの前田敦子が訳知り顔でいちいち解説する。これがおかしい。前半はアッちゃんの解説で持った。

町田くんは勉強も運動も出来ず、しかしイノセント、博愛の人。困った人を見ると誰彼かまわず助けてしまう。全ての人間が好きだ。ヘンなぎごちなさが芝居の未熟さでないことが解ってきた。遠藤周作の「おバカさん」に通じる。でも宗教臭くはない。

みんなを好きという中の一つだけ好きの特殊現象、それが恋愛。恋愛は知っていても博愛は知らない人ばかりの中で、博愛に溢れるも恋愛を知らない少年の、恋に目覚める話なのだ。

 

町田くんも猪原さんも新人らしい。初々しい。二人を始め、前田敦子も岩田剛典も高畑充希もみんな高校生。ちょっと無理なのでは? と思ったのは始めだけ。不思議と違和感はなかった。

 

石井裕也作品の主人公はどれもピュアだ。今ピュアは生きずらい。周りと摩擦を起こす。それを何とかかいくぐり、ピュアを貫徹する。最後は必ず楽観的だ。「川の底からこんにちは」も「舟を編む」(拙ブログ2013.5.14) も「夜空は最高密度の青色だ」(拙ブログ2017.5.25)も。人間として生まれてきたことは奇跡だ。それへの深い感謝。ベースにこれがある。そこから生じる優しさ、信じるということ、それを色々な形でヴァリエーションする。

僕は「夜空~」で田中哲司が言った “大丈夫、死ぬまで生きるさ”という台詞が大好きである。

町田くんは生まれた赤ん坊を抱えて”これは奇跡だ”という。僕は人間として生まれて来たことは奇跡だと感ずる様になったのはつい最近、老境に入ってから。30代でそう感じている石井監督って凄い。

ひとつ間違えてしまうと、偽善の塊みたいになってしまう話を、そうはさせじと、変形青春純愛物しかも上質なコメディに仕立て上げた力量は今更ながら大したもの。僕は石井の眼差しが大好きである。

 

クライマックスは風船で二人が空を飛ぶ。前半で木に引っかかった風船を取ってあげるというシーンがあった。この前フリが大きく花開く。これぞ映画! ただ前半は赤い風船一つ。クライマックスは何色かの風船が3つ4つ。こっちも赤一つの方が良かったのでは。アルベール・ラモリスだ。二人がぶら下がるから増やしたのか。町田くんにしがみ付く少女が可愛い。このまま空の彼方へ飛んで行っちゃうのかなと思った。けれどちゃんと水を張ったプールに落とした。しっかりと現実に戻した。そういえばこのプール、何故か町田くんが掃除をしていたなぁ。

 

50年以上前、小学生の頃、TV (CXのテレビ名画座あたりか) で見た「ミラノの奇跡」(1951ビットリオ・デ・シーカ) という映画が突然思い出された。詳しい内容は覚えていないが、追い詰められた主人公が突然ミラノ大聖堂の前でほうき(?) にまたがって舞い上がるのだ。次々に仲間も舞い上がる。子供心に鮮烈だった。今考えれば、映画はリアリズムだけではない、と知った最初の経験だった。

あの風船はまさにそれだ。風船に大拍手!

 

いくら前フリをしているとはいえ、リアリズムで来た話をクライマックスで一気に飛躍させる、これは大変な冒険だ。上手くいかないとお笑いである。飛躍を受け入れられない人はそう感じたかも知れない。僕は何の違和感もなく自然に受け入れられた。

そんな町田くんには、我々が見る悪意や不信に満ちた現実は、少し違って見えている。猪原さんとのやり取りの中でそれがうまく出ている。アッちゃんの解説も効いている。決してファンタジーで逃げているのではない。しっかりと今時の高校生のリアルな話。現実の中には見方を変えるとファンタジーに見えるものが一杯あるのだ。

 

平成という時代の間に人間の嘘と欺瞞と不信と悪意は急速に進んでしまった、本来持つ善意や思いやりは色あせた、さりげなく背後でそう語る。文春砲の様な記者・池松壮亮はそれに疑問を感じているも上司 (佐藤浩市) から”人の不幸は蜜の味” (と言ったわけではないが) と諭される。

高校生もそれに蝕まれている。そんな中で町田くんのイノセントは周りの人を変えていく。町田くんも好きの中の特種形の好きを理解していく。

 

音楽は前半、疾走するところにEGで煽るロック、これあまりにパターン、無くてよい。気持ちに即して、アコーディオン、Pf、Cla等の小編成の音楽が付けられる。これもパターン。でもわざとおきまりの付け方をしているのかとも思う。音楽の尻はブツ切りカットアウト。これが効果的。このCOがテンポを作っている。音楽は、入りばかりを気にしていたが、尻のブツ切り処理がこんな効果をもたらすとは…

川原や公園やビルの屋上や、所々に広い絵を入れて映像的に飽きさせない。車を真俯瞰で撮ったりして変化を付ける。空飛ぶ風船の追っかけになってからは、車中からやビルの屋上など日常の中のスペクタクル。そこに満を持して弦の入った大編成の、舞曲の様な遊園地の様な活劇風の音楽が入る。きっとこの音楽さえ上手く合えば他はどうでも良かったのだ。

 

二人のほとんど新人を主役に据えたのは自信の表れ、脇にこれだけのスターが集まったのは監督がいかに役者から信頼されているかの表れ。

 

エンドロールで平井堅のUPテンポの歌が流れた。バラード熱唱だけかと思ったらこういう歌も唄うんだ。劇伴で良かったのでは…

 

監督. 石井裕也  音楽. 河野丈洋

2019.6.24「ゴジラ  キング・オブ・ザ・モンスターズ」新宿ピカデリー

2019.6.24 「ゴジラ キング・オブ・ザ・モンスターズ新宿ピカデリー

 

日本の特撮映画だったらまず冒頭は主人公の紹介と日常描写だ。あるいは突然、ゴジラがどこどこに現れましたと特撮が短く入るも日常に戻る。本格的に特撮が始まるのは中盤以降。それまで人間達のゴジラとの関わりがドラマとしてある。このドラマがどのくらいしっかりと描けているかで、後半の特撮のリアリティが変わって来る。だが長い尺は割けないし、ゴジラ登場の理由づけが主となるのでどうしても深いドラマにはならない。

これまでのゴジラ映画で登場までの理由づけを一切省いたのは「シン・ゴジラ」(拙ブログ2016.7.25)だけだ。ゴジラは無前提に出現した。理由づけはこれまでに散々行っている。それはもういりません。ゴジラが現れました。さあ日本のみなさん、どうしますか?  ゴジラ=危機である。それに対する政治家、科学者、自衛隊、外交官等の動きが、今の日本の法律や軍備や外交をリアルに反映させて描かれる。この視点は新鮮だった。

 

邦画で特撮が中盤以降になる理由がある。それは特撮にはお金がかかるということ。だから後半に集中させて、しかもここぞというシーンに手間隙お金を集中させて、それをメインビジュアルとして“売り”とする、限られた製作費による、そんな事情がある。

ところがこの映画、始まって直ぐに巨大なモスラの卵の爆発(孵化)だ。あとは次から次にお金と技術を駆使した特撮のオンパレード。それが終わりまで続く。全編が、日本でいうところの “売り” とする特撮シーンの連続だ。

主人公が誰なのか、どういう状況なのか、ここはどこか、そんなことは二の次、目を見張る特撮シーンの連続。ただただ次々に登場する怪獣の戦いに呆然とする。その内豪華特撮に慣れてしまい、たまに挟まる効果音も音楽も無いコントロールルームの人間の描写にホッとしたりさえする。

セコイ我々は出し惜しみをして勿体を付けて、ここぞという特撮への期待を煽る。こちらは全くそんなことをしない。期待する間も与えず豪華な特撮を連発してくる。もう特撮満艦飾に身をゆだねるしかない。

 

ストーリーはもちろんある。主人公は家族、ファミリー物である。マーク (カイル・チャンドラー) とエマ (ベラ・ファーミガ) は科学者、二人の子供、男の子の方はゴジラの犠牲になっている。「GODZILLA」(2014)の話を引き継ぐ。エマは鳴き声を解析して、すべての怪獣に通じる発声装置 (オルカ) を作る。途中まで時々出てくるオルカという言葉が解らなかった。怪獣の名前かと思っていた。エマと娘はエコテロリスト集団に連れ去られる。エマはこの集団のシンパだった。マークは芹沢猪四郎博士 (渡辺謙) らと未確認生物特務機関モナークのメンバーとして怪獣たちと戦う。これらはあとで反芻して解ったこと、観ている時はそんなこと解らなかった。

 

芹沢博士は言う。人間は生命体としての地球を蝕んでいる。このままだと地球も人間も消滅するだろう。怪獣はそれに怒っている。怪獣は人間より先に地球にいた先住生物 (守護神)、人間は怪獣の存在に謙虚にならなければならない。

怪獣を人間のペットにするのではない。人間が怪獣のペットになるのだ。

モナークはこの思想に基づく。これは最初の「ゴジラ」(1954) の思想を継承する。

この思想を出発点とし、これまでの邦画ゴジラシリーズ及びハリウッドゴジラが積み重ねてきたストーリーを随所に巧みに散りばめる。

芹沢博士はオキシジェンデストロイアーならぬ核弾頭を持ってゴジラを蘇生させるべく体当たりをする。エマは最後に自らが発明したオルカと共に消えていく。キングギドラは地球外からやって来た怪獣、モスラは美しき地球の守護神、マニアが見ればレスペクトやオマージュはもっともっと沢山見つけられよう。

よくぞここまで、これまでの積み重ねを反映させたストーリーを作ったものと感心する。スタッフのオタク度の高さに脱帽する。

だが芹沢博士の死もエマの死も実にあっさり、そんな所でエモーショナルになっている暇はない。深い人間ドラマを期待するのは筋違い、ストーリーは特撮を並べる為の台紙の様なもの、この映画にはそんな割り切りがある。

舞台は南極だったりボストンだったり、戦艦大和のような軍艦が出てきたり、「沈黙の艦隊」の様な潜水艦が出てきたり。オスプレイは飛びまくる。場所の違いも位置関係も解らない。と言うよりそれは何の問題も無い。

地球のあらゆる怪獣が目覚め、キングギドラに操られて世界中で暴れまくる。世界はパニック阿鼻叫喚。逃げ回る群衆シーン。あゝ、昔あんなシーンにエキストラで参加したっけ。しかしそのリアリティはない。必要ない。観たいのは特撮だろう?

 

音楽と効果音はのべつ幕無し。ゴジラの鳴き声は日本のものに近い。音楽は画面に合わせて丹念な劇伴である。スコアを書くのは大変だったと思う。ゴジラの登場シーンには伊福部昭テーマが流れる。モスラには古関裕而メロ。僕はそれだけで充分だった。ゴジラに伊福部テーマは007のテーマと同じで不可分。このハリウッド映画はそれをキチンとやってくれた。劇中での両テーマはフルサイズでは流れない。それでもオリジナル劇伴がメロというよりサウンドであるのに対し、二つのメロは圧倒的。特に伊福部メロは、贔屓の引き倒しかもしれないが、多を圧倒して燦然と輝く。

何ヶ所か宗教的テイストのシーンには混声コーラスが分厚いオケの後に這って効果的。贅沢な使い方である。男声が同じ音程をお経の様に朗唱する。私の耳のせいか”アーシーアナロイ~” と言っているような… 一度観なので不確か。マニアの方,分かったら是非教えてほしい。

エンドロールで伊福部テーマと古関メロがようやくフルサイズで奏される。スタッフの並々ならぬレスペクトを感じる。モスラはあの歌謡曲っぽい間奏まで奏している。

一つ気になったこと、伊福部テーマのゴジラ登場の12音階の方、終わりの2拍3連の前2分音符3つ、抜けているのでは? 体勢に影響はないのだが長年聞きなれているので、あれっ? と思った。聞き違いかも知れない。マニアの方、これも分かったら是非教えてほしい。

エンドロール前のクレジットで流れた歌、あれはブルーオイスターカルトの歌? 昔の音源? それともまさか新録? これも分かったらお願いします。

 

時々気の効いた台詞があった。ダイアローグライターの手になるものなのだろうか。シャレてると思うもほとんど忘れてしまった。ギドラ? ゲリラ? だけ覚えている。

前作でもそうだったが、核はアメリカ人にとっては“最も強力な兵器”でしかないことは変わっていなかった。

画面左奥にキングギドラ、右手前に木製の十字架というワンカットがあった。こんなことが起きようとは30年前には想像もしなかった。

伊福部テーマは世界を席巻した。

 

目覚めたゴジラキングギドラを倒して、地球の怪獣たちが頭を下げひれ伏す。あなたがキングです!  次作はついにもうひとりの王キングコングと対決するわけか。邦画のゴジラは一体どんな手でこの豪華絢爛に対抗するのだろう。

 

監督.マイケル・ドハティ   音楽.ベアー・マクレアリー