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映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2017.02.06 「マグニフィセント セブン」 新宿ピカデリー

洋画

2017.02.06「マグニフィセント セブン」新宿ピカデリー

 

七人の侍」「荒野の七人」のリメイク。それにしても「マグニフィセント セブン」というそのままタイトルはいかがなものか。でも確かに上手いタイトルが浮かばないなぁ。

デンゼル・ワシントンが勘兵衛(志村喬)役、ゴロっとした鼻が志村喬に見えてくる。イーサン・ホークもイ・ヴョンホンも良い。イ、カッコ良くてびっくり。七人が人種の寄せ集めというところが今風、話を深くしている。アメリカはこの頃から色んな人種が集まっていたのだ。悪党は白人の成りあがり。俺は自分の手を汚してやる、ロックフェラーの様に自分の手を汚さずにやるのとは違う、という台詞が出てくる。ちょうどこの頃東部ではロックフェラーやカーネギーや、今のアメリカの財閥があくどい手を使って独占資本に成長するべく邁進していた頃だ。

話の骨格は「七人」と概ね同じ。盗賊は成り上がりの白人悪党になり、七人を集める様子は簡潔にされ、悪党との合戦が丁寧に描かれる。一人一人の見せ場を作って娯楽映画の大道。

音楽はちょっと付け過ぎ。無くて良いところまで付けているのだが、今時としては仕方ないか。それより何より「荒野の七人」エルマー・バーンスタインのあのテーマのリズムが随所に出てきて泣けてきた。テーマメロは出てこない、リズムだけである。パーカッションの叩きものでやっている。これが泣けるだけでなく効果的。他にも太鼓が後ろでずっと鳴っていたりして、こっちは「七人の侍」」の様。大編成のオケと打ち込みを両方使ってゴージャス。

CGなんかではない走る馬の列を長い移動で撮ったりしてこれぞ映画。拳銃さばきもナイフも、多分CGではない(?)、カッコイイ。これぞ血沸き肉躍る西部劇。

黒人もメキシカンも白人も東洋人も元南軍も元北軍もみんな一緒に戦って死んでいった。カッコよく死ぬことが男の美学だった時代の熱い映画である。

みんな拳銃さばきを練習したんだろうなぁ。馬の曲乗りもやったんだろうなぁ。

ローリングで「荒野」のテーマがリズムだけでなくメロもある大編成で流れた時は本当に涙が溢れた。「七人」と「荒野」をリスペクトしつつ、ちゃんと今の作品として作り上げた。喝采である。

 

監督 アントン・フークワ  音楽 ジェームズ・ホーナー、サイモン・フラグレン

 

2017.03.28 「わたしは、ダニエル・ブレイク」 ヒューマントラスト有楽町

洋画

2017.03.28「わたしは、ダニエル・ブレイク」ヒューマントラスト有楽町

 

ダニエル (デイブ・ジョーンズ) は熟練の大工、60歳位、妻に先立たれ子供はいない。地道に働いてきたが心臓病と分かり、医者から働くことを禁じられる。そこで支援手当の申請をするも、審査官はマニアル通りの質問しきせず、働けると判断される。役所へ行くと、失業保険の様なものを申請するよう言われる。書類はダウンロードしてください。手続きはオンライン、高齢者には酷な話だ。手続きのスタート地点にすら立てない。PCにトライするもエラーばかりでイラつく。良く分かる。履歴書が必要と言われ、書き方の講習を受ける。手書きの履歴書を持って仕事探しをしたという実績を作る為に歩き回る。役所は証明するものが無い、と取り合わない。

ダニエルは良く歩く。何回も役所に足を運び、PCを使う為に図書館に通い、履歴書の講習を受け、職探し実績作りの為に町中を歩く。少し偏屈だが真面目に生きて来たことがよくわかる。この役者、初めは素人を使ったのかと思った。それ程自然でドキュメンタリーの様。しかし劇映画としてしっかりとした脚本と演出がある。この人の演技がそれだけ見事だということだ。

行政は様々な福祉のシステムを作る。システムを作るとそれがマニュアル通りに運用されることが至上目的となる。困っている人をサポートするという本来の目的は忘れられ、それを最も受けるべき人から遠いものになってしまう。PCを扱えない者は死ね! そこにひと手間、人間的対応があれば随分違った結果となっただろうに。

役所で知り合ったシングルマザーのケイティ (ヘイリー・スクワイアーズ) と二人の子供にダニエルは心を通わす。子供が好きなのだ。ケイティは掃除や日雇いの様な仕事で必死に子供を育てている。でも学校で上の娘が、破れた靴を履いていたこと、フードセンター(食料支援のボランティア?) に出入りしていたこと、でイジメに合う。ケイティは娘からそれを聞いて、お金の為に売春をしてしまう。育児放棄せず頑張っているがゆえに辛い。

ケイティの尽力で行った弁護士事務所のトイレで、ダニエルは心臓発作で死ぬ。

 

NHKスペシャル「貧困老人」「孤独死」「格差社会」「ホームレス老人」(タイトル不確か)、そんなドキュメントを緻密に再現ドラマ化した様な映画だ。映像的小手先は一切無い。余計な感情移入も起こさせない。心情的余韻など削ぎ落とし、事実を描くと直ぐにFOだ。それがかえってこちらの心を動揺させる

ひたすらダニエルやケイティの日常を積み重ねて描き、政治的メッセージは無い。紋切型のメッセージや”こうあるべき”に収斂させなかったところが、この映画を痩せたものにしなかった。”I、Daniel Blake” この一言に収斂させた。個人の尊厳、曖昧な様だが最も基本だ。

ダニエルやケイティは一つ間違えれば、移民排斥の方に振れたっておかしくない。そこはデリケートだ。しかしケン・ローチはもっとその奥にある、人間の尊厳、という基本から現実を照射する。そこから、移民排斥という底の浅い考えは出てこない。

 

音楽はエンドロールだけ。劇中の現実音としてラジカセやら幾つかの音楽はある。でも劇伴と言えるものはエンドだけ。VCとSynによるアンヴィエントな一曲。劇中にはどんな音楽も付けられない。付けたら嘘になる。

”貧者の葬儀”と言われる午前九時からの葬式 (金持ちはこんな時間を予約しない)、そこでケイティによって読み上げられるダニエルが残した素朴なメッセージ、そしてエンドロールの音楽、この一連の荘厳さ、この映画の唯一の演出かも知れない。これがないと映画にならない。

2016年のカンヌは芸術性よりも社会性を選んだ。欧州はそれだけ切迫しているということだ。

ダニエルと一緒に歩き、役所で一緒にイライラし、PCのエラーに一緒に腹を立てる、見ていてグッタリ疲れる映画だ。もちろん悪い意味ではない。

 

監督 ケン・ローチ  音楽 ジョージ・フェントン

2017.03.21 「たかが世界の終わり」 ヒューマントラスト有楽町

洋画

2017.03.21「たかが世界の終わり」ヒューマントラスト有楽町

 

題名につられて見てしまった。有名な監督らしい。カンヌで賞を取ったことも後で知った。

冒頭の深い闇。効果音がFIしてそれが夜の機内であることが解る。いかにもな思わせぶり。思わせぶりな入りは好きだ。思わせぶりをかませてくれないと興味が持続しない。

どうもこの男(ギャスパー・ウリエル) 、死期が近づいているらしい。そのことを家族に話す為に十何年ぶりかで故郷へ帰って来たということの様だ。母(ナタリー・バイ)、兄(バンサン・カッセル)、その妻(マリオン・コティアール)、妹(レア・セドゥー)。みんな暖かく迎えてくれた (?)。

家族は些細な言葉尻で口論を始める。男は微笑みながらそれを傍観する。自己主張と思い込みの塊の様な家族で、その言い合いは凄まじい。

フランス人はオシャベリだ。大昔フランスへ行った時、驚いた。フランス人の会話は1秒間に30発撃てるマシンガンの撃ち合いだ。同じことを伝えるのにフランス語は日本語より多くの音を必要とするのかもしれない。聞いていて疲れてしまった。

男は静かに、それを聴いている。

男は十数年前、この家を出て都会で劇作家(?)として成功しているらしい。つまらない言葉尻で突っかかる会話の背後には家族それぞれの男への思いがある。

元は芝居らしい。登場人物は5人、家の中だけ、いかにも舞台だ。マシンガントークで面白おかしく引っ張りながら、やがて背後に、死んでいく男と、この広い宇宙で出会ったこの家族との関わりが、喜びが、”ありがとう”が、立ち昇る。

ところが映画は立ち昇らなかった。何でこんなことに突っかかるの? で終わってしまった。

舞台での台詞は詩である。舞台自体がデフォルメだ。ところが映画は映像はどうしようもなく即物的でリアル、そこで発せられる言葉は中々詩にならない。映画の台詞を詩にまで高めるには映画自体をリアルから少し浮上させなければならない。これは大変なことだ。

家族のリアルな描写の中で台詞は詩に昇華せず背後には何も立ち昇らなかった。

役者は名優揃い、皆熱演、しかしこの脚本をそのまま熱演しても上滑りするだけ。所々にMVの様なイメージショットを入れたところで逆に安っぽくなるだけだ。

音楽、ガブリエル・ヤーレ、久々に聞く名。ハリウッド調劇伴とは少し違う響きに、ヨーロッパの映画音楽を聴けるかと期待するも、のっけから説明調、その上トップエンドも含めて、要所要所に話の説明調の歌が入る。オリジナルなのか既成曲なのか。歌詞はかなり直截に映画の内容とシンクロ。サウンドは大人が無理やり今時若者サウンドに合わせた様なダサさ。ダメだ!

結局、自分の死期のことは話せず、事件らしきことは何も起きず、過去のわだかまりが解決した訳でもなく男は立ち去る。あれ? これで終わっちゃうの?

男が死のうが生きようが、家族の生活は続く。生きている者の日常は強い。やがて時間が男の存在を少しづつ消していく。誰だってみんなそうだ。でも出会った、一時同じ時間と空間の中で泣いたりわめいたり怒ったりした。それで良い。私が存在したことを少しだけ覚えといて。自然に忘れるまで。

なんてことが全く感じられない映画だった。本当にカンヌで賞を取ったのか。

原題 Its only the end of the world 

これを”たかが世界の終わり”としたのは出版社か映画の配給会社か。”たかが”に騙された。見事!

 

監督 グザヴィエ・ドラン  音楽 ガブリエル・ヤーレ

 

PS

偶然、武満徹の「波の盆」を聴いた、久々。例えば、この曲を頭とお尻に付けたら、一気に宇宙的広がりが出る。非日常となった男が、日常真っ只中の家族にお別れを言いに行く物語になる。映画の中の現実音楽は別として、背景音楽は頭とお尻の2曲だけ。思いつきだが、説明調の歌なんかよりずっと良いはずだ。

2017.03.17 「ラ・ラ・ランド」 日比谷シャンテ

洋画

2017.03.17「ラ・ラ・ランド」日比谷シャンテ

 

ハリウッドへ向かうハイウェイは夢を抱えた若者の車で大渋滞である。カーラジオから流れる音楽のコラージュが凄い。クラブDJもビックリという巧みな繋ぎで何曲並べているのか分からない。エンドロールで使用楽曲クレジットが延々と続いていた。Japanese traditional folkなんてクレジットもあった(?) とても聞き分けなんか出来ない。

ふと素が出来てそこから女性ドライバーのVocalがアカペラで極自然に入る。唄い出しの女声のハスキーボイスが良い。ミュージカルといえば正統な発声と決めつけていたので意表を突かれる。歌は次々にリレーされ、車のボンネットや屋根にのってのダンスが始まり、大スペクタクル・ミュージカルシーンとなる。寄り・引き・移動・クレーン、これらがワンカットだ。本物のハイウェイでのロケであることは間違いない(はずだ)。あれだけの長いプレイバックをワンカットで、一体どうやって撮ったのか。フレームインする役者のアクションに音楽はシンクロし、所々でアカペラにしてメリハリを付けている。カット割りと撮影の段取りだけで気が遠くなる。ハリウッドの技術力を見せつけられる。

車の群れの中の二人、ミア(エマ・ストーン)は女優への夢、セバスチャン(ライアン・ゴズリング) はジャズピアニストへの夢。そんな二人が交差する。

話はシンプル、女はオーディションに落ち続け、男は本物のジャズを目指して現実の壁に阻まれ続ける。愛し合うようになった二人はお互いに励まし合い、諦めずに頑張る。山の様にある話。ミュージカル嫌いの僕には前半はちょっと退屈なところもあった。ただゴズリングのPfのプレイが半端ではない。実際に相当弾けるのか、それとも「セッション」のような鬼の特訓をしたか。演奏シーンはどれも長回しで指先だけを吹き替えにするようなつなぎはない。超絶速弾きシーンもある。運指は音とちゃんと合っている。多少の心得で対応出来るレベルではないのだ。ゴズリングのVocalはちょっと辛いところがあったが。

一方、エマのVocalは素晴らしかった。あのハスキーVoiceは素敵だ。さすがに役者、歌に表情がある。「City of Stars」のエマの唄い出しは本当に素敵だ。

音楽がジャズをベースにしているのでオペラ的発声のナンバーが無かったのはミュージカル嫌いの僕には入り易かった。突然唄い出すミュージカルの違和感を相当意識したのか、ミュージカルシーンへの入り方は繊細である。その結果、どうしてもアカペラかそれに近い状態での入りが多くなる。オケも大仰に入るような所はなく、小さな編成でそっと入り、フルオケへと繋ぐパターンが多い。結果、入りでヴァイブとハープの多用となってしまったことはもう一工夫ほしい所ではある。

ハリウッドの夜景を見渡せる公園でのタップダンス、ヒールを脱いで靴に履き替える所から入るのも良かった。音楽も演出もミュージカルシーンへの入り方は相当意識している様だ。そのお陰で、僕としては随分違和感なく入っていけるミュージカル映画ではあった。

ただ、メロディーが弱いのでは? メロディーラインに刺さってくるものがないなぁと思った。悪くはないがもう一つだ。

後半、セバスチャンがポップスバンドにキーボードとして加わる。このバンドのライブのキーボードの演奏も様になっていた。演奏シーンのプレイバックは完璧だ。

セバスチャンの収入が安定し多忙となったあたりから二人に隙間が出来始める。ミアは自作自演の一人芝居を行なうも観客はほとんどが身内だけ。でも見ている人は見ていた。キャスティング事務所から連絡が入る。オーディションで何でも良いからやれと言われ、”願いが叶うまでセーヌ川に飛び込み続けた私のお婆ちゃん” (不確か) の歌を唄う。この歌にバックのオケは付いていたか。付いていたかも知れないが僕にはほとんどアカペラに聴こえた。夢を諦めずに頑張った自分を重ねて、それをオーディションで歌として唄わせる、こういう音楽の使い方ならミュージカル映画も悪くない。演技者エマ・ストーンの見事な歌唱である。

ミアは撮影の為パリに行かねばならない。セバスチャンはバンドのレコーディングとツァーがある。二人は夢を選ぶ。

それから一気に5年後、ミアはスターとなり結婚して子供も授かり、スタジオへと帰ってくる。かつてウェイトレスをしていたコーヒーショップでスターがした振る舞いを今度はミアがする番だ。そしてその夜、偶然入ったジャズクラブ、そこはセバスチャンの店だった。セバスチャンは本当のジャズを演奏する自分の店を持つのが夢だった。彼はそれを実現させていたのだ。セバスチャンが二人の思い出の曲を演奏する。それに合わせて過去が甦り、夫はセバスチャンに入れ替わって、あったかもしれない二人の生活が走馬灯の様に展開する。

演奏が終わり、ミアと夫が席を立つ。あれ? このまま? 否々ちゃんと振り返りました。お互いに微笑みを交わしました。

お互い、あの頃は若かったよな、自分は才能があると信じるしかなかったよな、君が励ましてくれたから信じられたんだ、自信と不安に揺れていたけれど二人とも必死だったね、お互い何とかあの頃の夢に近づけているようだね、幸せそうじゃないか、今振り返ると充実していたし楽しかった、ありがとう、しあわせに…

携帯の番号聞いたり、夫を紹介したり、そんな無粋なことはしない。こんな解説書くのも無粋、過ぎ去った日々なのだ。

最後の十数分で、この映画は青春映画の傑作となった。

 

監督、30代前半、「セッション」に続いてまだ2本目。自信と不安は自分自身と重なっていたはずだ。そして夢を実現させた。ミアは監督自身なのかもしれない。

やっぱりメロディーが弱い気がする。セバスチャンがソロで弾く思い出の曲は果たしてスタンダードに成り得るか。サントラを聴くとまた違って聴こえるかも知れないが、映画を観た限りではそうはならないのでは。

決して美人ではない、目玉のお化けのような女優だが、エマ・ストーンは凄い。歌唱力もある。

オーケストレーターはさぞ大変だったことだろう。

 

ほとんどの者は夢破れた者である。破れ方や折り合いの付け方が映画のネタになる。夢適った者はむしろ昨今の映画には成り難い。代償はあるものの夢適った者を正面から捉えた映画は最近ではめずらしいかも知れない。

 

監督 デイミアン・チャゼル  音楽 ジャスティン・ハーウィッツ

作詞 ベンジ・バセック、ジャスティン・ポール 

エグゼクティブ音楽プロデューサー マリウス・デ・ブリーズ

音楽監修 スティーブン・ギシュツキ

2017.03.10 「愚行録」 丸の内ピカデリー

邦画

2017.03.10「愚行録」丸の内ピカデリー

 

冒頭、夜の混んだ乗り合いバスの中、座っている妻夫木にお節介なオヤジが、脇に立つ老婆に席を譲れと促す。カットは中途半端に長い。しかも手持ち。今風メリハリの演出とは違う。導入としては絵的なインパクトもない。無言の妻夫木、無表情で席を譲る。立ち上がった妻夫木、足を引き摺っている。急にバツが悪そうなお節介オヤジ。バスを降りる妻夫木。車窓にオヤジを映しながらバスが走り去り、ぴっこを引いて何歩か歩いた後、普通に歩き出した。その足元からのローアングル。こいつ何者なんだ、この屈折は何なんだ。

音楽、バスの中一杯に弦カルでマイナー5拍子の動機が反復する。カメラがバスの外に出ると同時に音楽は止み、街ノイズになる。同じ音楽がエンドロールにも流れる。音楽らしい音楽は頭と尻のこれだけである。

これから何が起きるのか、繰り返す5拍子動機がサスペンスを盛り上げる。物静かだが世間に対して生半可ではない拒絶を持つ主人公田中 (妻夫木聡) 登場の秀逸な導入。掴まれた。

田中が向かった先は留置所の接見室。そこに妹の光子 (満島ひかり)、“あたし秘密って大好き”

田中は週刊誌の記者、一年前に起きた未解決の一家惨殺事件をもう一度取り上げたいとデスクに申し出る。今更の企画だがデスクはOKを出す。デスクの机の上に新聞、実の娘を虐待した廉で女逮捕の見出し。この女とは光子のこと。”仕事でもしてなきゃいたたまれないんだ” とデスク。ここまで妻夫木、ほとんど無言。

 

それからは、幸福そのもの誰からも恨みを買うようなことのない、郊外に一戸建を構える夫婦と幼い娘の、一家惨殺という事件の謎解きが、田中の関係者への取材という形で始まる。謎解きが進むにつれ、何の関係もないように見えた光子とこの事件がひとつの愚行の塊という姿を現してくる。その手際は鮮やかだ。

殺された夫・田向 (小出恵介) の同僚・渡辺 (眞島秀和) は”何であんなイイ奴が殺されなあかんのですか”と言う。二人とも一流大学一流企業というエリート。殺された妻・旧姓夏原さん(松本若菜)も同じ大学、同級生の宮村 (臼田あさ美) が羨望と妬みを込めて夏原のことを話す。稲村 (市川由衣) は上昇志向丸出し目的の為には女を利用する田向の実像を話す。

幸せそのものだったはずの夫婦が、取材を通じて、関係や立場や思惑や嫉妬や羨望込めて語られ、決してクリーンとは言えない実像を現していく。

稲村が言う。”格差社会って言うでしょう、本当は階級社会なんですよ”

愚行は階級社会の中で這い上がろうとするあがき。みんな陽の当たる場所の住人になりたい。かつては努力すれば何にでも成れると思い込めた。実際は違うとしても思い込めた。今は陰湿な階級社会の壁が到る所に見えない行き止まりを作る。

本当にそうなのだろうか。こんな価値観、一握りの勘違いハイソの中だけの話なのでは?

しかしニュースで大学のサークルが運営する海の家での暴行事件や医大生の暴行事件などを見るとあながちかけ離れているとも言えない。

 

大学から入って来た者と付属から上がって来た者とは違う。付属からの人はお金持ちで家柄も良くハイソ。そこには歴然と階級が。夏原は唯一外部から入ったにも関わらず、容姿気品態度等で内部生の仲間入りを果たした、外部生の憧れの存在だった。

昔こんな話を聞いた。慶應には日吉と志木に高校があり志木から上がって来た者は、”あいつは志木だから”と言われていたという。さらには本当の慶應生は”天現寺” だと言う。天現寺とは慶應幼稚舎があるところだ。

馬鹿みたいな話だ。途中で胸糞悪くなって来た。しかし、貧乏父さん金持ち父さん、人間見た目が全て、東大生の親は医者か弁護士か一流企業の役員、等の言葉を目にする時、努力すれば何にでもなれるという自由さは遠い昔の話になってしまったと感じざるを得ない。

光子は悲惨な境遇から抜け出そうと必死に勉強して文應に合格した。美貌ゆえに名誉内部生 (南アフリカアパルトヘイトが厳しかった頃、日本人は白人ではないが白人と同等の扱いとするということで名誉白人と言われた) になれた。そこで内部生のおもちゃとなった。満島の迎合するしかない曖昧な笑いが哀しい。そしてそれを手引きしたのが夏原だった。

 

映画を観る限り、僕には一家惨殺事件の犯人が田中なのか光子なのか解らなかった。光子が精神分析家に話す様に、偶然絵に描いた様に幸せそうな夏原とその娘を見て衝動的に起こしたでも良いし、田中の妹の為の復習と捉えても良い。いずれにしてもこの兄妹は母の再婚相手、つまり義理の父との間で悲惨この上ない思いをしているのだ。だからこそお互いが唯一の支えであり生きる力となったのだ。

ここまでの話だったら松本清張橋本忍野村芳太郎、「砂の器」トリオの向こうを張り、社会派大感動エンタテイメント映画に仕立て上げることだって出来る。脚本の向井康介も石川慶監督もそうはしなかった。したくてもその先があるから出来なかった。

光子の子供の父親は義父ではなかったという事実。お互いが唯一の支えである兄妹がふとしたことから性的な関係になってしまっても不思議ではない。それ位辛かったのだ。ただこれ後味は良くない。ファザーファッカーより遥かに良くない。

愚行は人間関係の中で引き起こされた、打算計算に裏打ちされた、ロングで見ればくだらないと解る行為だ。社会的だ。しかしこの兄妹の関係は愚行ではない。反社会的だ。愚行を超えた反社会的立場から妹に加えられた愚行の数々を田中は裁いていく。これを社会的規範で云々することは難しい。

 

音楽は前述の通り、5拍子のテーマが頭と尻を締める。劇中、殺人現場や、象徴的に出てくるくねった指のアップなどには呻き声のようなSynが背後に這い、楽音よりエフェクトに近いが効果的である。真ん中あたりに一箇所、Pfの早くて明るいエチュードの様な曲があった。確か光子が大学に受かった時か (?)。音楽として意識されるのは頭と尻と真ん中のPfの三つ。でもこれで充分。センスの良い、映画の内容を良くつかんだ音楽である。

役者がみんな良く考えて演じているのに感心する。撮影も白いシーンと黒いシーンを極端に作ってこの映画が兄妹の内面の話であることを明快にしている。 

最後まで観て、冒頭の ”私、秘密って大好き” が通奏低音の様に流れていることが初めて解った。

 

ひとつ気になること。”愚行” というと、どうしても”報われないと解っていながら行ってしまう” という肯定的なニュアンスを僕は感じてしまう。”愚直”が混じってしまう。何か他に言い方はないものか。

 

監督.石川慶  音楽.大間々昂

2017.02.20 「武満徹 21回目の命日」

コラム

2017.02.20 「武満徹 21回目の命日」

 

(1996年1月? 2月? あるいは1995年12月か…)

武満先生から突然電話が入った。びっくりした。

“武満です”

一瞬分からなかった。

「燃える秋」や「乱」のサントラ以来お付き合いは続いていたが、気軽に電話を頂くような関係ではないと思っていた。一呼吸置いてから “あっ、先生ですか?”

宇野さん (先生のマネージャー) から入院していることは聞いていた。

ようやく落ち着いて、“お体の具合はいかがですか”と言えた。まあまあだと返って来た。

 

少し前から武満徹映画音楽を出来る限り集めてCD全集を作ろうと、大阪のサウンドトラック・リスナーズ・コミュニケーションズ (略してSLC、サントラ特化のインディーズ) の和田さんと企画を立てていた。先生は一作品一枚で纏めたいと言った。

映画音楽はM数だと17~20、音楽総時間だと20分前後が大体良い映画音楽だと言っていた。勿論作品によって違う。しかし大体この位のタイムの音楽を付ける映画は良い映画だ(記憶あやふや、正確ではないかもしれないが、概ね間違いない)。 先生が音楽を一杯付ける時、それは映画の出来をあんまり良くないと思っている時。 逆にDBで自分の書いた音楽を外す時があった。“ここ音楽無しで行けますね、音楽外しましょう”そういう時の映画はみんな良い仕上がりだった。

一作品一枚だと、CD一枚の収録時間が20分前後になってしまう。先生、作品によっては1枚2作品収録はどうでしょう、1作品1枚がイイなぁ。そんな話をしている内に体調を崩された。

先生はサントラを作る時、必ずしも映画の使用順に並べるとは限らない、曲間にも非常に拘る。だからこの企画は先生立ち合いで編集することになっていた。曲間の沈黙も作曲の内である。

とりあえず「燃える秋」と「乱」からリリースするよう指示されていた。この2作品は先生立ち合いで編集したもの、あとは退院したら一緒にやろうと言うことになっていた。

“「燃える秋」と「乱」のあとはどうしましょう?”

“「食卓のない家」がイイなぁ、あれソニーからLPが出ているから、その通りにやって。あとは退院してから”

それから間もなくして亡くなった。1996年2月20日。

数日後の深夜、NHKが臨時の特別番組を放送した。何のセットも無いところで立花隆が語り、そのガランとした感じが妙にリアルだった。番組の最後で、それまで冷静に語っていた立花隆が突然嗚咽した。その頃、立花隆は直接だったり電話だったりで、先生から膨大な聞き取りをしていた。初めは閉口したらしいが、その内何でも話す様になったと聞いていた。雑誌の連載の為だったが、昨年、それが単行本になった。素晴らしい本で、武満研究の基礎資料である。昨年は「武満徹 ある作曲家の肖像」(著.小野光子) という生涯を俯瞰した良い本も出ている。それらの本を読みながら、ある時期、僕はその周辺をチョロチョロしていたんだなぁと感慨無量になる。

2月29日、千日谷公会堂で葬儀が行われた。風の強い、寒い日だった。

 

僕は受話器を取った時の“武満です”という声が忘れられない。失礼を承知で言えば、先生の声はコロコロとしていて、可愛いらしい。少し鼻にかかってくぐもり、角と言う角がみんな取れている。あの宇宙人の様な風貌と絶妙にバランスが取れている。角のある鋭角的な声だったらちょっと近寄りがたかったかも。

それから間もなく、SLCの和田さんも亡くなり、全集は「燃える秋」と「乱」で立ち消えとなってしまった。

2001年、小学館が武満全集を出すということで声を掛けて頂いた。武満の全作品を集めるという企画、映画音楽も全作品を集めたいという。僕としては願ったり叶ったり。それから足掛け3年、映画音楽は全集の3、4巻としてCD21枚に纏まった。「食卓のない家」も勿論収録している。ようやく約束を果たせた。

全集の編集にあたり、先生がいないから曲間は恐れ多くも僕が決めてしまった。曲順、これは映画での使用順にした。僕の武満体験は昨年の命日のブログ(拙ブログ2016.2.20) にも書いたが、27歳の時「はなれ瞽女おりん」の音楽録りをアオイスタジオで見た聴いた時である。「はなれ瞽女おりん」は先生と一緒に編集したかった。

2017.02.13 「キセキ あの日のソビト」 丸の内TOEI

邦画

2017.02.13 「キセキ あの日のソビト」丸の内TOEI

 

“命懸け”という言葉は死語になったのかもしれない。かつて若者は命を懸けて成りたい者に成ろうとした。演歌歌手を目指すものは命懸けで東北から上野へと上京した。シンガーソングライターを目指す者は親元を離れ命懸けで福岡から上京して四畳半で頑張った。そして成りたい者に成れた者、成れなかった者、明暗分かれつつ、やるだけやった、燃焼した、悔いはない、そんな姿を成功譚や青春の挫折の物語として映画は題材とした。必死だった、命を懸けた、それが人の心を打った。

この映画で言えば兄JIN (松坂桃李) の方、JINは“命懸け”の末裔だ。才能が有るかどうかなんて分からない。あると信じてやるっきゃない。兎に角音楽が好きだ。突っ走るしかないのだ。

才能の有る無しはイコール売れる売れないだ。売れなくても才能有りと評価されることが少し前まではあった。今は才能イコール売れる、言葉を挟む余地はない。

医者になってほしいという親の期待を裏切り、家を出てロックミュージシャンを目指すもメジャーデビューを果たせず。レコード会社のディレクター (野間口徹 いつでもどこでもイイ役でも悪い役でもしっかりと存在感をだしている) が言う。もうメタルなんか売れないよ。

弟HIDE (菅田将暉) は兄に代わって医者を目指す。途中医者は歯医者に軌道修正される。母の歯がガタガタという取って付けた様な理由付けがされる。浪人の末、歯科大学に合格。元々兄同様、音楽は好きだった。歯科大の仲間とバンド活動を始める。兄とは違いラップの楽しい曲だ。行き詰まっていた兄が弟のデモを聞いてそれをレコード会社に持ち込む。それが大ヒットしてしまう。それが顔出しを一切しないバンド、GReeeeNだ。

余裕でカマした方が売れて、命懸けた方は売れなかった。弟の方が才能があった。本当にそうだろうか。でも結果が全てだ。JINは元のバンド仲間に、人には役割ってものがあるんだよな、と自嘲気味に言って弟の裏方を引き受ける。この屈折は辛い。松坂桃李は良い役者になってきた。

売れたは良いがHIDEは学業との両立に悩む。一度はバンドを止めることも考える。JINは、自分が掴めなかったものを掴んだ弟がそれを捨てるなんて何事かと怒る。子供のお遊びじゃないんだ。でも歯医者を捨てて音楽で生きる、という選択肢はHIDEには無い。命は懸けてない。

父親 (小林薫) は今時居るのかと言う位の絶対的父権の人。JINは、弟が音楽をやることを許してやって下さい、と正座して頼む。医者は世の中に絶対に必要だ、音楽は医者ほど必要なものではない。解りました、心の医者になって見せます。時々父親が担当する重い心臓病の少女のエピソードが入る。この娘の応援歌となることはここで読めた。

この映画で“疾走するチンピラ”ではない、疾走しない菅田将暉の姿を初めて見た。こっちも充分イケる。女の子たちは、スダクン、カワイイ! と騒ぐだろう。

JINは、弟を見送ってバンザイと叫ぶ「シング・ストリート 未来へのうた」(拙ブログ2016.8.18) の兄貴とWる。HIDEはWらない。「シング・ストリート」の弟は命を懸けて荒れ狂う海峡をロンドン目指して旅立ったのだ。いつのまにか日本では“必死”は流行らなくなった。“退路を断つ”ところから今風の楽しいものは生まれないのかも知れない。

 

兄と弟の間には、音楽的音楽業界的に大きな隔たりがある。GReeeeN、がデビューしたのが2007年、プロツールス (音楽用PC) が一気に安くなり、誰もが手に入れられる様になった頃だ。その頃僕は、これ聞いてみてと知人から一枚のCDを渡された。全部宅録 (自宅録音のこと) とのこと。「相対性理論」というユニット、音楽的クオリティも高かったが、音のクオリティはプロ用の時間何万もするスタジオで何日も掛けて作ったものと何の遜色も無かった。この頃からCDは誰でも簡単に作れるものになった。プロと素人 (ソビト) の垣根が取っ払われた。もう一つ、ラップがJ-POPの中に自然に取り入れられるようになった。初期の頃、取って付けた様にインサートされたラップも、この頃になると違和感なく自然に組み込まれる様になった。

弟はこの流れの中に位置づけられる。音楽をやる、ということが命を懸けて退路を断って、ということから、何かでありつつ、という余裕で出来るようになったのだ。販売流通もインディーズメーカーが出来始めていた。メジャーデビューと気負わなくても、それと変わらないことがアマチュアレベルで可能になったのだ。GReeeeNユニバーサルミュージックというメジャーでのデビューである。けれど背景にはこれらのことがある。

レコード会社が介在しないということは、そこに売るための意向が入らないということだ。未熟かも知れないが稚拙かも知れないが、素人 (ソビト) の思いはそのままストレートに届く。売れなかったらそれまで。もう一つの何者かに戻れば良い。

これが良いのか悪いのかは解らない。ただ技術的にも社会のシステム的にも可能になったということだ。

兄は旧体制の最後のアーティスト、命懸けの末裔。しかもメタルだ。明るく楽しいという曲ではない。音楽性も、録音機材も、音作りも、考え方も、兄弟の間には大きな隔絶がある。強引に括ってしまえば、アナログとデジタルということだ。JINはアナログ命懸け、HIDEはデジタル素人 (ソビト) の良さ。時代はHIDEに味方した。

 

だからこそ最初の方、JINのバンドのライブシーン、綺麗な音ではなくライブの音にしてほしかった。松坂の低い声がしっかりと聴こえてしまう。ライブであんな低い声は聴こえない。きちんと聴こえなくても良いのだ。ライブのモアモアの中で叫びとして聴こえれば良いのだ。一方、サイドギターの絶叫が画にはあるも、音になっていない。ここは歌としてきちんと整えるよりもライブ感の音作りで行ってほしかった。松坂の声や歌唱力でこうせざるを得なかったという事情も透けて見えるのだが。

弟達のクローゼット・スタジオでの歌入れ、その4分割はアイデアである。

 

心臓病の少女がGReeeeNの歌を聴いていたことを期に父親もHIDEの音楽活動を認める。今GReeeeNのメンバーは歯医者をしながら音楽活動をしている。

 

話が深い訳ではない。何よりも松坂と菅田のカッコ良さと音楽のカッコ良さである。それはしっかりと担保している。言わずもがなの台詞はカットして話のテンポも良い。GReeeeNの歌は映画に上手く充てられているし、Pfを主体の劇伴は最小限にしか付けず、これも正しい。兼重監督、手堅く纏めた。

忽那汐里が「マイバックページ」以来の輝き。

どうでも良いことだが、初めの方、友人と横断歩道を渡りながら、結局ビートルズがみんなやってしまっている、今はフォークを聴いている、というHIDEの会話が出てくる。その後CD屋に入り、「海援隊」(間違いではないと思う) のCDを買う。何故「海援隊」なのか。音楽寄りの者としては気になってしまう。

 

監督.兼重淳   音楽.GReeeeN       音楽プロデューサー.JIN        劇伴.大野宏明