映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2023. 1. 12 「ケイコ 目を澄ませて」

2023 1.12 ケイコ 目を澄ませて  テアトル新宿

 

冒頭、鏡に映る女のドUP、朝 (?) の部屋の様子、土手を走る女、荒川、鉄橋を電車が何本も通過する。’ケイコ~’  ‘’聴覚障害~’、時々無造作に入る下絵無しの文字。メインタイトルも見落としてしまうほどさりげない。車道から石段を下りた陽当たりの悪そうな、植木鉢が一杯並ぶ路地の奥のボクシングジム、ケイコはそこに着く。着替えて練習。シャドウ、ミット打ち、スパーリング (不確か)、筋肉のUP、顔のUP。

この間、電車の音、生活音はあるが、台詞は無い。ケイコは声を出さず、黙々と練習する。

終わるとノートに、ロード10キロ、ミット打ち2ラウンド、スパーリング3ラウンド (不確か) と丹念に記す。

この沈黙、聴覚障害を逆手に取った様な、冒頭で一気に捉まってしまった。台詞無しがここまで緊張を作り出すものか。絵も無造作なカット繋ぎである。

 

昼間はホテルの部屋の清掃ベッドメイキング等を黙々とこなす。同僚のおばちゃんたちとのコミュニケーションも必要最小限だ。

次の日もまたジムに行き、土手を走り、ミットを打ち、スパーリングをする。トレーナーのミット目掛けて必死にパンチを繰り出す。ケイコが一日の中で一番集中する時だ。信じられない様なリズムで、動くミットを捉えパンチを繰り出す。そのリズム初めは規則正しく、途中から変拍子となり、アドリブフリー、ケイコは動くミットを外さない。トレーナーとの闘いだ。終わって二人は満足そうに笑みをこぼす。ケイコの初めての笑顔。このシーン、岸井ゆきの、よくぞここまで ! と絶賛するしかない。そして録音は良く音を拾った。この台詞のない (もちろん周りの生活音はあるのだが) 沈黙の中で、音として際立つのは、鉄橋を渡る電車の音、そしてこのミット打ちの音だ、これが音楽だ。ほとんどプリミティブな音楽。

 

ケイコは時々、同居する弟やジムの会長 (三浦友和、渋い !) と手話で言葉を交わす。

打たれて怖くない? 怖いよ、何でボクシングをやるんだ、ハイと言え ! どれも明解な答えなんてない質問、何で生きているんだ? と同じ。

 

ケイコはプロテストの掛かった試合に出る。顔は腫れボコボコにされながらもラッキーパンチか、KO勝ちする。耳が聞こえないボクサーということで、業界紙が取材に来る。会長 が言う。” 才能 ? 見て下さいよ、小柄でリーチもない、ただ目がイイ、相手を真っ直ぐに見る”

普通の子なのだ。一所懸命生きる、普通の子なのだ。言葉を発しないケイコのボクシングは唯一のコミュニケーション、気持ちの爆発、怒り?

ケイコの過去にはほとんど触れない。弟と同居する。時々弟の彼女が来ると直ぐに自分の部屋に引き籠る。若い頃は荒れている時期もあったらしいという会長の言葉。母親は試合を見に来ていた。いつまで続けるの? と心配する。今に至るケイコについては観る者に委ねられる。

 

東京で最も古いボクシングジム、会長も高齢病気持ち。ジムを閉めることとなる。これはケイコにとっては大事件だ。会長が引き取り先を探してくれる。規模も大きく設備も良い近代的なジムだ。でもケイコは断る。遠いから。ケイコにとってこのうらぶれたジムはボクシングを通じた唯一のコミュニケーションの場であり、会長はそれを解っている。

 

ジム閉鎖前にケイコの試合が組まれる。きっとここがクライマックス、大きな展開が待っている。ところがいとも簡単にKO負けしてしまう。ここに来て鈍い私もようやく解った。この映画はドラマチックな展開など鼻から考えていないことを。

ロード10キロ、ミット2ラウンド、スパーリング3ラウンド、毎日コツコツとこれを繰り返し、日記に記す。普通に一所懸命生きるとはそういうことなのだ。でもジムがなくなるとどうするのか。弟の彼女とふとしたことで気持ちが繋がる。彼女をハーフにするなど細かい配慮が憎い。彼女は簡単な手話を弟から教わっていた。耳の聞こえないケイコは些細な繋がりに敏感で、しっかりと見抜く。ケイコが心を開く。夕方、弟、彼女、ケイコと三人で花火をする。ケイコは笑っている。

翌日、土手を走っていると女が駆け寄って挨拶して立ち去る。何と言ったか忘れた。KOを喰らった相手だった。怪訝なケイコのUP、かなり長いカット、だんだんと顔がほぐれ笑顔になっていく。僕はいつ音楽が入るかばかり気にしていた。満を持して音楽、感動の大団円。音楽は入らなかった。ほぐれた顔のUPは無造作に荒川土手のロングに切り替わり、辺り一帯の空撮、そこにクレジットタイトル、最後は真横に走るポンポン船の何気ないカットで終わる。

音楽が入って聴覚障害を持つ女の子の感動の物語として纏める、この映画そう纏めたって充分に素晴らしい。けれど感動の物語にはせず、普通の、普通の女の子の、一所懸命生きる普通の女の子の、どこにでもある。誰の物語でもあることにして、この映画はもう一段上の普遍性を獲得した。よくぞ入れなかった。

ケイコはジムが無くなっても大丈夫だ。一所懸命生きていく。

 

この映画、弟が引くギター、職場のホテルのBGM、(どちらも現実音、劇伴ではない) 以外は、音楽が無い。これは始めから意図していたのか、結果としてそうなったのか、最後の顔のUPに音楽を入れたくならなかったか、これは是非聞いてみたいところである。

 

聴覚障害者ということでコミュニケーションは最小限、意思疎通はほぼ手話、声を発することはほとんどない。一か所、最後の試合で足を踏まれダウンを取られた後、形相を変え唸り声を上げる。おそらくここが唯一の発声、これには万感の思いがこもっている。

唸り声の直前、一瞬無音にするということは考えなかったか。ケイコの無音の世界。ケイコ側に立った音世界があっても良かったか。あざといか。

 

原作がそうだからだけでなく、耳が聞こえないという設定はコミュニケーションというものをより鮮明にする。健常者にとっては何でもないことがより大きな意味を持つ。聞こえないケイコは聴覚以外の方法でより鋭く音を聴く。

 

例えば、’ケイコの孤独’ という視点で音楽を付けることは出来る。あるいは ’ケイコの意志’ という視点で、土手を走る、ミット打ちをするケイコ等に付けることは出来る。’街のテーマ’ として電車のSEや土手の騒めきをオフにして音楽に代えることも出来る。’ケイコの応援歌’ という視点での付け方だって可能だ。けれどどれも映画の中のある感情を強調することになる。それは映画の現実をいびつにする。この映画は映像が充分に語っている。岸井ゆきのの肉体が全部を内包してそこに有る、余計なことをする必要はないのだ。

 

音楽が映画の中のある感情を強調する、そういう映画があっても良い。けれどこの映画の様に全的に世界を描けている時、どんな音楽も映画を限定し矮小化してしまう。唯一、’街のテーマ’ という視点で土手河川敷鉄橋のシーンに遠くからの視点の音楽を付けることは可能だったかも知れない。それを見事に効果音が果たしている。音楽を付けなかったこと、丹念に効果を付けたこと、それゆえ音楽賞ものである。音楽は、付けないという音楽もあるのだ。

 

最後に、毎度古い例えで恐縮だが「名も無く貧しく美しく」(1961 監督. 松山善三 音楽. 林光 ) という大ヒットした名作があった。小林圭樹と高峰秀子が共に聴覚障害の夫婦、生まれた子供は健常者、この家族が様々な障害を乗り越えて生きていくという、涙無しには観られない作品だった。林光の綺麗な音楽が大感動作として盛り上げた。名作である。でも感動作で終わった。「ケイコ~」はそれを超えている。

2022. 11. 28「我が青春の大森一樹」

2022.11.28「我が青春の大森一樹

 

大森一樹逝く。2022. 11. 12  70歳

 

大森さんとの最初の仕事は「恋する女たち」(1986) だった。

その頃、僕は映画の音楽プロデューサー(東宝撮影所ではそういう役職名は無く、音楽事務と言われていた) とは何をすればよいのか分からなくなっていた。20代の頃、東宝レコード(今は無い) で邦画のサントラはたくさん作っていた。けれどそれはレコード盤の制作という以上のものではなかった。

30歳で撮影所に移動となり、そこで初めて映画の音楽の制作現場に係ることになる。監督は巨匠、音楽家も高名な方々、みんな上の上の世代、何より僕は、音楽をどこに付けるか、そこに着ける意味は、その効果は、それが全く解っていなかった。それまでの僕は映画音楽をただ音楽として聴いていただけだった。

監督と音楽家の間で全て決まる。僕はそれを予算とスケジュールの中に押し込み、時にレコード会社にサントラとして売り込む。内容には全くタッチしない出来ない、そんな段取り屋だった。けれどそこで有り難いことに映画音楽の何たるかを僕なりに学ぶことは出来た。

恋する女たち」は斉藤由貴がブレイクしての急な企画だった。監督は大森一樹、 ’エッ?’ 「オレンジロード急行」 (1978) や「ヒポクラテスたち」(1980) の人、同世代だ。「オレンジ~」も「ヒポクラ~」も吉川晃司三部作も見ていた。ああいう同世代の映画はいいなぁと羨ましく思っていた。何せ、偉大過ぎる、黒澤明市川崑である。

楽家斉藤由貴のレコード会社の関係で、かしぶち哲郎、これは決まっていた。ムーンライダーズのドラマーであることは知っていたがそれ以上のことは知らない。

撮影はほとんどが金沢ロケ、かしぶちさんとマネージャーと私とで金沢まで赴いた。夜の10時近く、撮影でヘトヘトになっている大森さんの時間がようやく取れた。旅館 (ホテルなんかではない) の玄関脇の4人掛けのテーブル、そこで最初の音楽打ち合わせ。僕は大森かしぶちとは個別に会っていたが、二人はそこが初対面、僕だって音楽打ち合わせを仕切るのは初めてである。これまでは監督と音楽家はすでに何回かやっておりコミュニケーションは取れているというケースばかり。

二人は初対面、挨拶したのち、監督、どんな音楽にしましょう? かしぶちさんのイメージは?  僕は紋切り型のボールを投げる、投げながら、どうしようと不安がつのる。気まずい沈黙、何か話さねば、言葉を発せねば。大森さんは饒舌、かしぶちはどちらかというと口は重い。饒舌の大森さんも沈黙。そりゃそうだ、撮影中の映画の音楽を言葉で語るなんて監督にも音楽家にも出来る訳がない。その間にもスタッフが明日の撮影について聞きに来る。落ち着けない。気まずい沈黙、どうしよう?  大森のベスト1は「冒険者たち」これは知っていた。かしぶちがフランス映画を好きなことも知っていた。苦し紛れにジョアンナ・シムカス (「冒険者たち」のヒロイン・レティシア役) の「若草の萌える頃」(1969) は見ました?  大森さんが大きな声で ’それや、それ! ’ あの声を今でも忘れない。「若草~」が糸口となって二人は僕を置いてきぼりにしてフランス映画の話を始めた、その音楽のことも。かしぶちはジョルジュ・ドルリュー が好きだった。実は、僕はその時「若草~」を見ていなかった。でも映画音楽のプロデューサーは監督と音楽家の間の共通言語を見つけることであるということが一つ解った。それが見つかればあとは自動的に動いていく。僕、かしぶち、大森の順に一つ違い、同じような映画を見て同じような音楽を聴いていた。ウマも合った。あとは早かった。

「恋する~」のあと「トットチャンネル」(1987)「さよならの女たち」(1987) と立て続けに3本やった。同世代でやることがこんなに楽しいものかと思った。「さよなら~」では何でもない列車のシーンで、大森さんが ‘ここ歌にせーへん? ‘ と言い出した。由貴ちゃんは他で歌ってるからここは誰か別の人、かしぶちさん唄いなよ、どうせならフランス語で、ということで、かしぶちにフランス語で唄わせたりした。3人で思ったようにやれた (やっちゃった)。製作委員会なんてない頃だった。楽しかった。

大森さんとはその後「ゴジラ」を2本やった。これも楽しかった。こちらの話もすると切りがない。大森さんは映画を作るのが、楽しくて楽しくてしょうがない人だった。

 

2010年「世界のどこにでもある、場所」で大森かしぶちと再会した。三人一緒の仕事は20年ぶりだった。斉藤由貴三部作の時は音楽をいじり回した大森さんだったが、この時は絵合わせの当て書き、大森さんは一つもいじることなく、かしぶちの音楽をそのまま映画に充てた。

2013年12月、夜中に大森さんから電話、かしぶちさんが亡くなったってラジオ(ネット?) で言ってるで。12月17日かしぶち哲郎逝く。63歳

2015年「ベトナムの風に吹かれて」、’全部かしぶちさんの有りもの音源 ( 大森作品の為にかしぶちが書き下ろした音源 ) で行こうと思うんや、権利処理して!  メインタイトルは 『サバ ヴィアン』や’

「さよなら~」でかしぶちが唄ったフランス語の歌には「もう一つの明日―Un deman de plus」というタイトルがある。けれど歌詞中に’ サ~バヴィアン ’ と印象的なフレーズがあり、いつのまにか 僕らのあいだでは『サバ ヴィアン』になっていた。

メインタイトルに『サバ ヴィアン』が流れ、かしぶちへの献辞タイトルが一枚入った。

 

30半ばで青春というのもヘンですが、大森さん、あなたは紛れもなく、僕の仕事上の’青春’でした。 あなたとの出会いで僕は初めて映画音楽のプロデューサーが面白いと思った。’青春’ なんて恥ずかし気もなく言えるのは歳を取ったからでしょうか。下の二人が先に逝ってしまい、残された者の哀しみです。

 

                                                                                                           2022. 11. 28

PS.  好きな台詞

「お前たちは何かっていうと直ぐに海に行きたがる」(不確か、原田芳雄「オレンジロー ド~」)

スピルバーグ君! 」(「ゴジラvsキングギドラ」)

 

2022. 11. 25 「土を喰らう十二か月」秩父シネコン

2022.11.22「土を喰らう十二か月」秩父シネコン

 

人は社会性をそぎ落としていくと、食と性と死が剥き出しになる。これに正面から向き合える人はそういない。早い話がリタイアしたサラリーマン、社会で何がしかであったことを引きずる。

主人公ツトム (沢田研二) は作家、社会と縁は切ってないが、ひとり信州の山奥に住む。晴耕雨読ならぬ晴耕雨書。幼い頃、禅寺で修行し学んだ精進料理を極める。原案は水上勉の食についてのエッセイだったこと、知らなかった。それを元に時々訪れる女性編集者・真知子 (松たか子) のキャラを設定しドラマ化した。上手い脚本だと思う。

長野から鬼無里 (きなさ)を通って白沢洞門、ここを抜けた時に眼前に突然広がる北アルプス、10年程前チャリ旅で通過した時の衝撃を未だに覚えている。ここを通過すると後はゆっくりと白馬に下る。ツトムの住む小屋はその辺りのようだ。

冒頭、高速を走る車の見た目、そこに流れるジャズ、”おいっ、土を喰らうだぞ? ” 導入は山間の小屋の大ロングあたりと踏んでいた。フロントガラスの主観移動のスピード感、テーマのはっきりしたジャズ、なぜか「危険な関係」を連想した (古くてゴメン)。

違和感あり。次の瞬間音楽が乱暴にカットアウト、画面も山を背景に土と戯れるツトム、グランドノイズはちゃんと付いていたかも知れないが僕には静寂に思えた。音楽のフレーズなど無視したバサッ!  映像の強引なカットつなぎ、その衝撃で生まれる一瞬の静寂、少しして音楽も映像もまた強引に元に戻った。僕はいっぺんにこの映画が好きになった。

この静寂、これは”詩”である。この”詩”をいかに物語として説明出来るか、この映画はそういうことだ。

ツトムは取ってきたばかりの芋を洗い、囲炉裏で焼いて、真知子にふるまう。芋を洗う沢田の手はちゃんと土をいじる手だ。ツトムは真知子を呼び捨てにする。今夜は泊まるんだろう?  娘なのか。 真知子が遠目でツトムを ’美しい’ と言う。不可解。

ツトムが作家で随分前に亡くなった妻の遺骨と共にこの地で隠遁生活をしていること、時々真知子が原稿を取りに訪れること等が分かってくる。

細やかな村人との交流はある。大工役の火野正平は、あの火野正平が、という位成り切っている。立春啓蟄くらいしか解らなかったが、十二の季節を表す言葉が章の役割を果たし、それに即して自然あるいは畑で取れた作物での精進料理が丁寧に描かれる。あんな事やったら原稿書く暇など無いな、肉は喰いたくならないのか、俗人はそんなことが気になる。食の描写は丁寧で美しい。

性は、時々真知子が訪れる。

妻の母親チエは息子夫婦と折り合いが悪く、この地でひとり、小屋に住む。小屋の中は結構モダン、風貌も洋風、始め奈良岡朋子だということが解らなかった。あんな婆さん山奥に居るか。そこは映画の嘘として良し。

ある日チエ婆さんは小屋で死んでいた。ツトムが葬式を仕切ることになる。嫌われ者と思っていたチエ婆さんは実はみんなに慕われていた。チエ婆さんの味噌にみんなが世話になっていた。大勢の人が来てしまい、ツトムはてんてこ舞い、栗豆腐 (これは美味しそうだった) を作り足し、手伝いに来ていた真知子に、庭から芹 (?) を取ってきて、と叫ぶ。僕は時々庭から紫蘇の葉を取って来るくらいはする。坊さんを呼んでないので、昔、禅寺で修行していたツトムは読経までする。参会者は本物の村人らしい。死と食と人々の交わりが儀式に凝縮された良いシーンだ。かつてはみんなそうやって生きていた。

ツトムが真知子に ’ここで暮らすか’ と言うのが先だったか、脳梗塞で倒れるのが先だったか。死の影が忍び寄る。救急車の中で真知子はツトムの手を握り続ける。無事生還、後遺症も無し。真知子は若い作家と結婚するらしい。もうここには来ないと言う。いつまで奥さんの骨壺を抱えているの (不確か)? と言う。確か、編集の全ては奥さんに教わったという台詞があった。真知子は亡妻の後輩編集者だった様だ。それなりのドロドロはあったのだろう。けれどそれがツトムと一緒に暮らすことを断る、全てではないにしても理由のひとつということか。ちょっとつまらない。台詞で言う必要もない。

ツトムは死を考える。死と仲良くすることを考える。寝る前に ’皆さんさようなら’ と言って眠りにつく。翌朝目覚め、冬晴れの外で伸びをして、食卓の前で ‘いただきます’ と言って映画は終わる。予想通り。

 

食を中心に据えた映画、その描写は丁寧、自然との共生、背後には禅の教えがある、多分。

性は真知子というキャラクターを通してドロドロには踏み込まず、スマートに描く。

死はどうだったか。チエ婆さんの葬式は自然に還るという形で共同体の中に違和感なく組み込まれていて良いシーンだった。ツトムの死は?

脳梗塞のエピソードに僕は死の影を感じられなかった。むしろ真知子との性を感じた。あそこでツトムが死の淵を覗いたようには思えない。だから 'おやすみなさい' も軽いジョークにしか聞こえない。睡眠は一時の死、このまま目覚めなかったらどうしようという恐怖がある。朝目覚めて、ああ生きていた! ありがとう、いただきます、という生命の不思議不可解感謝、これが迫って来ない。「東京物語」 (1953 監督.小津安二郎) のラスト、夕暮れの中に一人佇む笠智衆、宇宙の中にポツンとひとり、絶対孤独。笠智衆からはそれが立ち昇る。隣のおばさん (高橋トヨ) の 'こんばんは' (不確か)で地上に引き戻される。この映画には夕暮れの笠智衆のカットが無い!

都会生活から遠く離れ、自然と共生してそのめぐみを工夫して食べ生きる、それをとってもファッショナブルにみんなも憧れる様に描くことが主眼だとしたら、その点では佳作である。良く出来ている。でもその奥に老いと死が立ち昇った時、映画はもっと深いものになったはずだ。

役者の問題もあったかも知れない。それ以上は言うまい。

 

まるで黒澤時代劇の様に黒光りする床には時間が宿っている。実際には有り得ない一枚ガラスの大きな窓には人知を超えた光景が拡がる。日常を超えた美術である。

音楽は、映像と音楽の掛け算の、まれな成功例。なぜ大友良英だったのか、聞けるものなら是非聞きたい。ローリングも大友ジャズで良かった!

 

監督.  中江裕司  音楽.  大友良英

2022. 8. 2 「ノマドランド」再び  B-Ray

2022 .8. 2「ノマドランド」再び B-Ray

 

2021年4月6日、拙ブログにて「ノマドランド」を評した。素晴らしい映画、でも僕は音楽に疑問があると記した。B-Rayで再見した。素晴らしい映画であることに変わりはない。一度見では気付かなかった細かい発見もあった。何より僕は、ちょっと唐突かも知れないが「はなれ瞽女おりん」(1977  監督. 篠田正浩、音楽. 武満徹 ) との相似を感じた。

 

「はなれ瞽女~」は明治末、日露戦争の少し前、舞台は北陸、極貧の地で生まれた盲の少女、生きる選択肢は女郎か瞽女瞽女とは4~5人の盲の女が三味線を弾き瞽女歌を唄い、雪深き寒村を門付けして回り、お布施やおひねりを貰い生活するというもの。三味線やら女の歌声は希少でそれを楽しみに待つ人々がいた。共同体はギリギリで瞽女を許容していた。瞽女は男と交わってはいけない。妊娠や出産は足手まといになるからだ。交わった者は組から落とされて、はなれ瞽女として一人で門付けすることになる。母親代わりのカカ様は言う、瞽女阿弥陀様に守られている、男と交わってはいけない。

おりんは年頃になり男と交わり、はなれ瞽女となる。一時、元下駄屋の脱走兵と束の間の幸せを知るも、脱走兵は捕まり処刑される。おりんはほとんど乞食の様にはなれ瞽女を続け、実の親も知らず、育ててくれたカカ様を訪ねるもすでに身まかっていた。

時が流れ、鉄道工事の作業員が岬の突端の赤い布の下でしゃれこうべを発見する。カラスが飛び立つ。

宮川一夫のカメラが北陸の自然を見事に捉え、雪の中裸足で歩く瞽女の集団をロングで映し出す。そこに武満徹の音楽が流れ、僕は雪景色の上に宇宙が広がっていると感じた。編成は、ハープ,鳥笛 (ブラジルの民族楽器)、オーボエ、フルート、パーカッション、弦、他。武満の音楽を聴き、そのこの世ならざる響きにショックを受けることを、ごく一部の人の間で武満徹体験という。まさしく僕にとってのそれだった。

 

ファーンが定住する姉を訪ねた時、会話の中でそれとなく過去が語られている。中流家庭、生き方は違うも頼りにしていた妹、それが勝手に家を出て結婚しエンパイアという企業城下町で生活を始める。一時は代用教員もやっているくらいだから教養もある。資源開発で出来た街は資源がなくなるとあっという間に郵便番号も無くなる。単一目的で出来た街に文化は育たない。夫は死に街は無くなり、でも何んで定住ではなくノマドを選んだか。不動産という最大の出費を回避すれば何とかやっていけるという経済的理由がひとつ。姉の家で不動産の話が出た時ファーンは定住者たちに反論する。ノマドの集会で教祖的存在の髭のリーダーが、定住者の生活を「ドルの奴隷」と言う。でも経済の問題は背景として後ろにさり気なく置く。

もう一つの理由、家の裏は地平線まで何もなく荒野が広がっていた。それはアメリカのプリミティヴな開拓者精神ということか。それとももっと深く、人間は人間社会の価値観の外のもっと大きな自然に包まれて生きている、それを忘れてやしまいか、としいうことか。

 

その時々の経済の許容がある。かつては共同体の掟として姥捨があった。「楢山節考」である。「プラン75」(2022) の近未来の様に政府が法律を定め、人々に選ばせるということもある。瞽女は他に選択肢のないギリギリの生き方である。ノマドは身体が言うことを効かなくなったら定住の道を選ぶという選択肢がある。ノマドを選ぶということはより自覚的に選択したということか。

 

音楽の話である。

どこに焦点を当て音楽を付けるか。あるいは武満流に言えばどこを削っていくか。

ノマドランド」は、表層に経済も含めた社会の問題を置く。けれどこれを音楽で際立たせることは難しい。映画もそういう作り方をしていない。ファーンという女性の生き方に付けるという考え方がある。これが最も解り易いし一般的だ。映画はこの考え方で付けている。ファーンの ”孤独” である。ファーンと一緒に住みたいと思っていたデイブが去った後の、恐竜のシルエット、一人だけでファミレス。ジャガイモ工場、次の工事現場、スワンキーからのメール、この一連をピアノの ”孤独” で括っているのは上手い。いくつかのシーンを一つの感情で纏める見本の様である。一度見の時僕はこのウェットが堪らなくイヤだった。

一方、武満は ”おりん” の喜怒哀楽には全く付けていない。初めから、この宇宙に誕生した一人の女として遠くからそっと見つめる。盲で極貧で親も知らない。それを音楽は幸とも不幸とも語らない。感情を超えた視点。最後は骸骨である。ここでも音楽は静かに見つめる。

ノマド」はエモーショナルなところにはチェロが入って盛り上げ、涙を誘うような安手は避けながら、ファーンの ”孤独” を強調する。けれどあのマイナーメロの優しいピアノが入ると、えっ?  孤独は映像で充分に解るよ! と僕は思ってしまう。孤独の厚塗りだ。

ラストのファーンの心の原点である家の裏の地平線まで続く荒涼とした大地、歩き出すファーンにまた優しきピアノである。

ノマド」はローリングの後に荒野で朽ち果てた車、その脇に骸骨があったって良かった。「はなれ瞽女」と同じなのだ。

一度見の時、僕の中では「パリテキサス」(1984 監督. ヴィム・ベンダース、音楽. ライ・クーダー) のスライドギターが鳴っていた。きっと宇宙が現出する…

ただ今回の二度見でこんな風にも考えてしまった。「ノマド」の劇伴にあたる部分はルドヴィコ・エイナウディの既発売のアルバムからの選曲である。これは最初のブログの時気が付かず、後で解った。この映画の為の書下ろしは一つもない。ローリングには ”Featuring of Music” としてエイナウディがクレジットされている。つまりエイナウディは「ノマド」の音楽に何の責任もないのだ。選曲し充てたのは監督だ (マクドーマンドが色々言ったかも知れないが) 。責任は監督にある。

「おりん」と「ノマド」は劇伴の間に現実音としての瞽女歌、現実音としてのカントリーやブルース、が挟まり、構成はよく似ている。どちらもそれが絶妙な変化を付けている。違うのは武満の書下ろしとエイナウディの既成曲の違い。けれどエイナウディのピアノでファーンの孤独以上のものを引き出すのは無い物ねだりである。そして監督もそれを求めていない。

さらにこんな深読みをしてしまった。クロエ・ジャオは敢えて ”ファーンの孤独” に絞った、それ以上の意味は求めず、解り易い孤独に絞った。その方がより一般的な映画になる。”ファーンの孤独” ということで見れば、ほぼ完璧な選曲完璧な充て方だ。抒情的で深い孤独が音楽によって伝わってくる。これは確信犯なのかも知れない。

「おりん」の武満は四季の変化や荒涼とした日本海と同じトーンでおりんに音楽を付ける。おりんを大きな自然の中の一部として捉える。盲で極貧で親から捨てられ、愛することを知り、はなれ瞽女としてひとり生き切った、それを遠い宇宙の果てからそっと見つめる。人間であることの哀しみとでも言ったら良いか、それをそっと見つめる視点。

言葉では簡単に言えるがこれを音楽で表現出来る人は簡単にはいない。オリジナルの音楽として依頼するには大変なリスクが伴う。恐らく上手くいかない方が大きい。”ファーンの孤独” に絞った時、ピッタリの音源が目の前にCDとしてあった。こちらになびくのは自然で最良で安全だった?

孤独に絞って付けた音楽は結果として成功である。随分感情移入出来る映画になった。感情移入はエンタテイメントでは最も重要なことである。映画は一般性を勝ち得た。でも?

僕は孤独に落とし込んで付けた音楽は映画を浅いものにしてしまった気がしてならない。

 

 

監督. クロエ・ジャオ  音楽. ルドヴィコ・エイナウディ

撮影・美術. ジョシュア・ジェームズ・リチ

 

「はなれ瞽女おりん」(1977)

監督. 篠田正浩、  音楽. 武満徹   撮影. 宮川一夫

2021.11.05「ドライブマイカー」( 2022.1.14 二度目) テアトル新宿

2021.11.5「ドライブマイカー」( 2022.1.14 二度目) テアトル新宿

 

村上春樹は読んだことがない。芝居は嫌いである。車の運転もしない。この映画の感想を記すには相応しくないかもしれない。

 

話の核は全て台詞で語られる。その時カメラは語る役者をじっと見つめ、ほとんど固定だ。ふつう映画はズームや切り返しを使って話を出来るだけ解り易いようにする。それを一切しない。話の核となる独白へ至るプロセスは映画的なのだが、独白は極めて演劇的だ。ひたすら台詞に依存する。こんな非映画的映画の三時間、これが、緊張し、集中し、一気に見られる、一体何故か。

 

主人公家福 (西島秀俊) は演出家で、広島演劇祭でチェーホフの「ワーニャ叔父さん」(私は読んだことがない) を演出することになっている。オーディションをして、多国籍の役者をキャスティングし、中には韓国手話で話す聾啞者もいる。

家福は執拗に本読みをさせる。抑揚は付けるな、ただそのまま読め。日本語、韓国語、英語、韓国手話が入り混じっての本読み。役者から文句も出る。泣いたり叫んだりの過剰な高まりはない。演出として与えようとしない。ある時役者の口から台詞が自然に発せられる。演出とはそれを待つこと、その奇跡を待つことなのか。

このやり方、映画監督濱口竜介とだぶる。

 

冒頭,長いアバン。家福と妻・音 ( 霧島れいか ) の夜明けのベッドシーン、フランス映画の様に美しい。音が家福との結婚をためらったのは、名前が家福音というあまりに宗教的な名になるから。なるほど、福音か。

音は夢の話をする。朝になるとそれをすっかり忘れていて、覚えている家福の口から自分の見た夢の話を聞く。それを元に脚本を書き、脚本家として認められるようになった。家福も音も元役者。娘がいたが幼くして亡くした。それをきっかけに家福は演出家、音は脚本家となる。音は自分の脚本に出演する若い男優と情事を繰り返す。家福はそれを知っているも正面からそのことに向き合おうとしない。お互いが価値観を押し付ける様なことはしない、そんな関係。けれどお互いを認め深い結びつきがあることは二人とも解っている。

音が、”今日、早く帰れたら話がしたい”と言う。とっさに家福は ”ワークショップがあるから” と返す。音はその日、くも膜下出血で急死する。その時、正面から向き合うことを避けて家福は夜の街をサーブを走らせ彷徨っていた。

家福の為に音が「ワーニャ叔父さん」の台詞を吹き込んだカセットが残された…

 

ここまではこの映画の話の前提、そしてメインタイトル。普通はこの長いアバン (30分位 ? )、途中の回想で処理しても良い。けれど必ずしもメインタイトルが頭にある必要はない。この夫婦が抱える心の距離、あるいは問題提起。深く結ばれつつも、愛車サーブの運転を妻にさえ任せることが出来ない、そんな家福という人物。

 

タイトル明けは3年後、サーブで広島へ向かう家福、そこには演劇祭が用意したドライバーが居た。事故を起こした時のトラブルを考えてのこと、これは決まりですと押し切られる。このドライバーみさき ( 三浦透子 ) 、いつも不貞腐れた表情で隙を見つけては煙草を吸う。仕事以上の関わりはしない。

車の中で家福は毎日、音の声で「ワーニャ叔父さん」を聞き、台詞の練習をする。みさきはイヤでも聞くことになる。

韓国手話の女優 (パク・ユリム) と演劇祭事務局員 (ジン・デヨン) 夫婦の家へ夕食に招かれる。事務局員は夫婦であることを内緒にしたことを詫び、その後二人の馴れ初めを話す。妻は手話、それを夫が通訳する。その手話の美しいこと、言葉を飲む。手話という神聖なるテキストが夫によって言語化される。「ワーニャ叔父さん」が音の声で言語化された様に。

手話の中に”ハッ ! ” (?) という破裂音が音としてあることを初めて知った。突然入るとドキッとする。そうではないようだが、怒りを発しているようにも聞こえる。キツイ感じがする。韓国手話だけの音なのか。

家福はそこで初めてみさきの運転が完璧だと褒める。不貞腐れみさきは表情も変えずいつの間にかフレームアウトする。あれっ? パンダウンすると床に這って犬をかまっている。不可解とユーモアと照れ隠し。少し距離が縮まる。

 

ワーニャ役の高槻 (岡田将生) はTVなどにも出演しそれなりに知られており、音と関係があった。高槻は若い故か感情のままにコミュニケーションを取る。それしか出来ない。抑制すること、コントロールすること、それに対する自覚はある。家福の奇跡とは、それを超えた先にある ”自然” ということか。確かにそれは ”奇跡” だ。

高槻が車の中で音がセックスの際話していた物語の、家福も知らない続きを話す。話には続きがあったのだ。高槻の作り話か。岡田将生が長台詞を固定カメラ (家福) に向かって話す。この時、演出家・家福言うところの奇跡が起きていた。岡田が素晴らしかった。

みさきが言う ”嘘を言っている様には思えません”

車のルーフを開けて、初めて二人揃って煙草を吸う。車に小さな火が二本突き出る。

 

高槻が、隠し撮りした若者を殴る事件を起こす。逮捕そして当然の主役降板、公演は中止か家福自らが演じるか。3日以内に決めねばならない。家福が言う ”どこでもいいから走らせてくれ”  みさきはかつて働いていたゴミ処理工場を見せる。北海道から流れてきてここに辿り着き、ゴミ処理車のドライバーになった自分の過去を話し出す。

みさきは若いが、これまでに感情では処理仕切れない経験をしてきた。二人は階段状の岸壁で煙草を吸う。また少し距離が縮まる。

何故ゴミ処理工場だったか解らない。ただ絵的に絶妙なインパクトである。工場は平和公園から続く原爆ゆかりの線上にあった。社会性が皆無と言っていいこの映画の少しだけそれを匂わせた装飾。深く意味を持つとは思えない。

みさきの生まれ故郷、北海道のナントカ村、そこへ連れて行ってくれ!

 

上越の雪のトンネルを抜け新潟へ、そこからフェリー、コンビニでおにぎり買っての昼夜ぶっ通しの内面への旅、主観移動で深く深く心の奥へ。運転を代わるというも、仕事ですからと拒否するみさき、フェリーで眠りに落ちるみさき、それをみつめる家福、心の距離は無くなっている。

 

北海道ナントカ村、そこに着いてからの少しのノンモン (無音)、僕は堪らなくここが好きだ。あれがあるから、みさきの内面の物語にリアリティが生まれる。母親の送り迎えで運転を覚えたこと、虐待されたこと、母に別人格が現れ、その人格と居る時みさきは幸せだったこと、家が土砂崩れで流された時みさきは母を助けなかったこと、この長い長い独白には言葉もない。三浦透子の奇跡である。カメラ固定での長台詞は極めて演劇的だ。けれどカメラ位置や編集に頼らない、映画的長台詞も可能なのだ。一見演劇的だが、明らかに見事な映画だ。その為に濱口監督は奇跡を待ったのだ。

みさきの心は未だに雪で満たされている。それに耐えている。雪の中に穴を掘り、煙草を手向ける。感情を盛り上げる演出はない、音楽もない、けれど涙溢れる。

 

次は家福の番だ。”僕は音を殺した、僕は正しく傷付くべきだった”

西島秀俊という役者はいつも変わらない。本作も「きのう何食べた?」( 2021.11.3公開 ) の時も。いつも座敷犬の様な顔をして、声はしっかり活舌も良いのだが一本調子の台詞、それが持ち味といえばそうかもしれないが。まして演出家、冷静沈着は役に合ってはいる。けれどそれが音との壁になっていたのでは。”僕は正しく傷付くべきだった ” あの場でそんな言葉を吐くだろうか? これは芝居の台詞だ、映画の台詞ではない、でも芝居の演出家、だったら良いか。僕は嫌いだ。みさきの奇跡の台詞のあと。どうしようもないインテリ源ちゃんが鼻に付く。家福は相変わらずインテリとっちゃん坊やのまま。

 

音が読む「ワーニャ叔父さん」の ”音” が物語の柱だ。ワーニャ叔父さんと家福は共に内省の人、” これで良いか、これで良かったか ” 未読だが既読の人にとっては随分家福理解には役立つはずだ。まして外国の人には解り易い。上手くチェーホフを利用した。

みさきは死んだ娘と同い年という台詞が確かあった。そうか、これは存在し得なかった家族の話なのだ、と勝手に深読みする。車の中には家福がおり、少しづつ距離を縮めるみさきがいる。通奏低音として「ワーニャ叔父さん」の "音" が有る居る。脚本は「ワーニャ叔父さん」上演という意匠の下に、話としてはかなり無理あるも、強引に纏め上げた。極めて論理的、その構築力は大変なものである。そこに役者が台詞を発する時の奇跡の力を借りて芳醇な物語を作り出した。ありのままを受け入れて生きていこう。飽きることのない三時間の映画が出来上がった。その腕力は大したものである。

あとは好み。

 

音付けが上手い。車の走り、シーン代わりの頭に少しインパクトを付ける、ナントカ村のノンモン、「ワーニャ叔父さん」公演の銃声のずり上がり、デリケートな音付けである。

音楽はみさきと心が通じ合うところに少し、印象に残らなかったが、それで良い。センス良し。まとまった音楽はエンドロールのみ。映像が乱暴にCOして黒味、そこから軽いスネアが聞こえてきた時はちょっと違和感があった。曲自体に違和感は無かったのだが入り方がちょっと。軽薄なスネアの音がちょっと…

編集も無駄を省いて良い。雪の中から一気に家福演じる「ワーニャ叔父さん」の舞台に直結は家福の内面の映画であることを良く現わしている。公演会場の外観でも入ってたらぶち壊しだった。

時々入る車の走りのロングショットは効果的である。

 

煙草が心の灯の役割を果たす。久々の煙草を上手く使った映画、嬉しい。

 

最後に韓国のスーパーで買い物をするみさき、車はサーブ、中に聾唖女優夫婦が飼っていた犬がいた。これは如何様にも解釈して下さいという監督からのメッセージか。

あとは本当に好み。

 

監督.  濱口竜介   脚本.  濱口竜介、大江崇允   音楽.  石橋英子

原作.  村上春樹

2022.01.25 「あのこは貴族」(2021.03.16 池袋シネリーブル)

3.16 あのこは貴族

上流階級のお嬢様を門脇麦、頑張ってK大に合格した地方の頭のよい娘を水原希子、ミスキャストではと思いながら見る内にどんどん引き込まれた。水原が故郷へ帰るとジャージに着替える。よく見りゃカッコイイのだが、それなりに田舎の子に見える。

モデルの水原は知っていたが「ノルウェーの森」で役者に進出、そのあまりの大根ぶりに呆然、続いてNHK大河ドラマ「八重の桜」で明治時代の女の役、こちらも唖然。役者は無理、諦めたと思っていたところにこの映画。イや驚いた。見事に役者となっていた。この映画、水原で映画になった。

頑張ってK大に入ったものの、附属から上がってきた純粋K大の内部生と大学で入ってきた者との間には歴然と格差がある。これは「愚行録」(拙ブログ2017.03.10) でも描かれていた。憧れのK大生になれたものの、内部生からは一段低く見られる。

話はそれるが、高校には日吉と志木があり、“あの人は志木なんでしょ?“ という差別があるらしい。さらには “久々に天現寺が入社してきた” という言葉を聞いたことがある。天現寺とは幼稚舎があるところ、純粋K大生は天現寺な訳である。福沢諭吉もとんだものを作ったものだ。

話を戻す。主人公は上流階級のお嬢様・門脇麦、お見合いで代々政治家を輩出する名家の息子・高良健吾と結婚する。高良の彼女が水原。高良には、好き嫌い抜きで結婚は名家のお嬢様、がインプットされている。水原には当然の様に別れを告げる。

話のディテールは忘れた。結婚生活に疑問を持っていた門脇は離婚する。これは上流ましてや政治家の家柄にとっては大変なことらしい。ご両家を敵に回すも門脇は揺るがなかった。

水原は上に貴族の壁があることを知り、大学に居る意味と経済的問題で中退、水商売のバイトの時、高良と知り合う。中版以降、門脇と水原に接点が出来る。この辺から俄然面白くなった。二人して高良に復讐するなんてそんなチャチな話ではない。二人はとっくに高良を乗り越えているのだ。

水原は同郷の親友 (山下リオ、良かった) と、故郷をベースにした会社を立ち上げる。水原と親友が言う “東京は女たちを搾取する” (不確か)

門脇は自立し (何の仕事だったか?) 、用意された地盤看板鞄で政治家をスタートさせた高良と、地方の講演会で遭遇する。凛とした門脇、生気のない高良。

 

「愚行録」の中に “日本は格差社会なんかじゃない、階級社会なんですよ” (不確か) という台詞があった。確かに政治家を見れば一目瞭然、社会の至る所で既得権階層は固定化している。ガラガラポン無く75年、それは自然の流れなのかも知れない。もちろんガラガラポンを期待している訳ではない。ただ自分の人生を切り開くエネルギーの無くなった既得権層の男が増えているのは確かだ。彼らは必至で既得権を守る。高良健吾は、生まれながらに道筋を決められそれを受け入れてしまう生気無き男を上手に演じていた。

女は違う。上流階級から飛び出す者、田舎から成り上がり都会の既得権にぶつかって自分の道を切り開く者、生き生きとしている。

門脇的女と水原的女と「茜色に焼かれる」の尾野真千子的女が手を結んだら日本は変わるかも知れない、夢の様な話だが。

何より、水原希子が良かったことを記す。

音楽、覚えてない、すいません。

 

監督. 岨手由貴子  音楽. 渡邊琢磨

2020.01.25 「地獄の花園」(2021.06.09 日比谷TOHOシネマズ)

  1. 6. 09 「地獄の花園」

ただ口開いて見る分には今年No1だったかもしれない。永野芽郁広瀬アリス菜々緒川栄李奈大島美幸小池栄子室井滋等、よくぞここまで揃えた女優陣。花のOL、その裏で繰り広げられる熾烈な派閥抗争、OL版仁義なき戦いである。

大ボス小池栄子を守る四天王、これを遠藤憲一勝村政信ら男優陣が演じる。金抜き宦官というような捻りなら解るが列記とした女、OLの役。遠藤憲一の脚は綺麗で黒いタイツがよく似合う。だけど、何故この四人だけ男に演じさせているのか? 女子プロレスにいくらでも居るではないか。アジャコング、北斗、浜口京子etc 何故男優にしたのか不可解。

脚本はバカリズムのオリジナル。そのおバカさについつい「翔んで埼玉」と比べてしまう。「埼玉」には埼玉差別を逆に笑い飛ばしてしまう、“差別“ という笑いの “根“ があった。「花園」の笑いには “根“ がない。OL同志の抗争もいいが本当の敵ははっきりしているではないか。敵は「男」、そこへ何で持っていかなかったのか。そうすれば話はもっともっと荒唐無稽に広がる。OLアマゾネスである。社長をつるし上げるのもよい、セクハラを仕掛けるのもよい、日本中のOLが大同団結して男社会に宣戦布告する!  笑いには “根“ が必要なのだ。

久々スクリーンで見る室井滋、子泣き婆のようで良い。

音楽は戦いのシーンでお決まりの様にEGでロックが流れていたような。

 

監督. 関 和亮