映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2018.07.26 「女と男の観覧車」 丸の内ピカデリー

2018.07.26「女と男の観覧車」丸の内ピカデリー

 

ウッディ・アレン師匠のNYマンハッタン亭、今宵のお噺はケイト・ウィンスレットを主演に迎えてのロングアイランド物語、相変わらずの軽妙洒脱な語り口、これ既に名人の域、まずはその芸をご堪能あれ。

1950年代、盛りを過ぎたロングアイランド、舞台女優の夢破れ、遊園地職員のハンプティ(ジム・ペルーシ)と一緒になったジニー(ケイト・ウィンスレット)、前夫との間にガキ一人、ハンプティにも前妻との間に娘ひとり、ともに再婚同志。娘のキャロライナ(ジュノー・テンプル)は二十歳そこそこで性悪のギャングと駆け落ち。それが突然戻って来たところからお噺は始まる。殺されるかも知れないという娘を始めは突っ返すハンプティ、だが可愛い娘、結局は一緒に住みだす。それでなくとも演劇からは最も遠いところで生きるハンプティにジニーは違和感を感じていた。そこにキャロライナが加わって一触即発。白馬の騎士宜しく颯爽と現れたひと夏のアルバイト監視員のマッチョ男ミッキー(ジャスティン・ティンバーレイク)、大学で演劇を学び、将来は劇作家を目指す。シェイクスピアから始まり、チェーホフテネシー・ウィリアムズと来れば、ジニーがコロッと行くのはいと容易。海の家(アメリカでは何と言うのだろう)の影に隠れての密会、浅はかと笑うなかれ、ジニーは現実からの脱出を夢見てしまう。ミッキーの演劇はナンパのネタだったか、若いキャロライナを見た瞬間、心はそっちへと走る。義理の娘に男を取られた。ジニーは狂う。それでなくともテンションは高め、身振り手振りも大仰で演劇的だ。全てがハンプティにもミッキーにもキャロライナにもバレる。舞台衣装らしきものを着てメイクをして、ミッキーに朗々と捲し立てる姿は哀しくも鬼気迫るものがある。ケイト・ウィンスレット、大熱演だ。

 

ケイト・ウィンスレットは気品のある綺麗な顔の持ち主、「愛を読むひと」を思い出す。だが僕は全く別の下らないことが気になって仕方なかった。何であんな頑丈な体躯をしているのだろう。夢破れた中年女だからスレンダーである必要はない。でも肩幅広く、厚い胸板、しっかりとした腰回り、身体が儚さを拒否している。その身体で演劇的大仰を演じている。熱演なのだがどうしても入り込めなかった。

キャロライナは胸を強調してお尻を振って、アメリカンバカ娘の典型、自分のことを“アタイはね”と言うのではと思っていたら、後半意外にも夜学に通い堅実、尻軽ではなかった。尻軽はギャングとの間で卒業したのだろう。芝居も唯一普通の映画的テンション。大仰肉厚な役者と芝居に囲まれて、唯一映画的で爽やかささえ漂わす儲け役だった。

音楽は全て50年代の既成曲。師匠の選曲と変幻自在な充て方は右に出るもの無し。洋楽を聞き始めた僕はちょっと背伸びして僕の世代の少し前のこの頃の曲を随分聴いた。ミルス・ブラザース、ライチャス・ブラザース、そんな名前が浮かぶ。解った曲名は「ブルーレディに赤いバラ」「キッス・オブ・ファイアー」位。でもどれも耳馴染んだ曲ばかり。ローリングの既成曲リストをゆっくり見たかった。男声ジャズコーラスを中心に選ばれている。

 

ジニーの連れ子のクソガキが出てくる。このガキ、ストーリーに関係なく突然現れて、いつも火を付けて回る。電柱、ゴミ箱、納屋…、幸い大火にはならずに済んでいる。こいつの意味は何なんだろう。あまりにシュール過ぎて解らない。まるで赤塚不二夫の考え出すキャラクターみたいだ。でもこいつが居るので映画が面白くなっていることは確かだ。師匠の語り芸の真骨頂。“火事小僧!”

 

 

監督・脚本.ウッディ・アレン   音楽クレジット無し

2018.07.02 「万引き家族」 Tジョイ大泉

2018.07.02「万引き家族」Tジョイ大泉

 

この監督の手に掛ると何で子供たちはこんなに生き生きとするのだろう。お兄ちゃんは見事に演技をしているし、妹は演技を越えて役その物として存在している。書かれた台詞を言っているのではない。恐らく設定を与えてその中で自由にやらせ、それを拾っていく、ドキュメンタリーの手法なのだろう。それにしてもあまりに自然でリアル、言葉もない。

血の繋がりというのは人間が作り出したフィクションの最後の砦だ。これが崩壊したら人間は拠り所がなくなる。だからみんなで必死に血の繋がりを守ろうとする。是枝監督は“家族”というものをずっと追い続けている。「そして父になる」(拙ブログ2013.10.11)では血に依らない家族に言及した。この映画はそれに連なる。

 

前夫(と言ってもとっくに死んでいるおじいさん)の実家に金をせびり乍ら、この寄せ集め家族の精神的支柱となるお婆ちゃん(樹木希林)、お婆ちゃんの年金を充てにして転がり込んでいる治(リリー・フランキー)と信代(安藤サクラ)夫婦、二人が拾ってきた翔太(城桧吏)、お婆ちゃんが引き取った、実の親と上手くいかない血の繋がらない義理の孫(こんな言い方はあるか?)の亜紀(松岡茉優)。映画は治と翔太が真冬のアパートのベランダで一人遊びをしていたゆり(佐々木みゆ)を拾ってしまうところから始まる。大人はみんな日雇いや臨時雇いや風俗などで必死に働く。子供は治の指導の下、万引きで家計を助ける。昔ながらの木造のボロ屋で血の繋がらない寄せ集め家族は、食うや食わずながら楽しく暮らす。

おそらく終戦直後の東京のバラックにはこんな寄せ集め家族が一杯いたはずだ。家族を失くした復員兵、空襲で焼き出された人、戦争孤児、パンパン。僕は上野のガードの浮浪児を実際に見たギリギリの世代である。母親から、近くに寄ってはいけないよと言われた。徒党を組む奴も居ただろう。チンピラになった奴もいた。バラックだろうと公衆便所だろうと、雨露しのげて中心になる人が居た時、この映画の様に助け合って疑似家族を作った人は沢山いたはずだ。助け合わないと生きていけなかった。

それが少しずつ整理され、孤児は施設へ、大人は定職を持って、実の親と子による家族というものに整理されていった。怪しげな繋がりは淘汰され、血の繋がり至上主義で小奇麗に構築されていった。核家族、マイホーム主義、経済成長に連動して小奇麗な戦後社会が出来上がった。そんな社会の最先端に「そして父になる」の家族がある。是枝はここに鋭い匕首を突き付けた。血は水よりも濃いとは限らない。

これも経済に連動しているのだろうか。小奇麗な血の繋がり家族にほころびが見え始めている。ほころびは弱い所に現れる。経済の繁栄から取り残された人たちが、戦後のバラックよろしく血を越えて肩寄せ合って助け合う、小奇麗な側から見たら胡散くさい、そんな家族がこの映画の万引き家族なのだ。ここは法律の埒外、お婆ちゃんの年金以外国からの保護保障はない。整理される前のぬくもりだけはある。

 

ゆりはこの家族に馴染んだ。翔太から万引きの手解きも受けた。何かで役に立たないと居ずらいだろう、翔太はそう考えた。信代と風呂に入った時、二人とも同じような所に同じような火傷があった。ゆりは信代のその傷を愛おしそうに撫ぜた。この家族はみんな過去に哀しい思いを背負っている。だから肩寄せ合って生きて行く。

 

おばあちゃんが死ぬ。年金が無くなると生きていけないので治と信代が死体を必死になって床下に埋める。

“妹にはさせるなよ”という雑貨屋のオヤジ(柄本明)の言葉に翔太が躓く。思春期に差し掛かった翔太は自我と社会性を意識し出したのだ。この家族が未来永劫続くとは誰も思っていない。取り敢えず日々を助け合いながら楽しく生きて来た。万引き家族の家族としての役割の終焉が近づく。

万引きに疑問を持った翔太がワザとヘマをやり、それがきっかけで世間がこの家族を裁きズタズタに切り裂く。

刑務所の窓越しに信代が治に言う。“いいじゃない、この十年、お金には代えられない思いが出来たんだから”(不確か)。涙とはこういう時に流すもの。信代が翔太に、いつどこで拾ったか、実の親捜しの手掛かりになることを教える。

ゆりは実の親の元に帰る。失踪していた子が発見されたとマスコミが騒ぐ。実の親のゆりへの虐待が再び始まる。

 

音楽、細野晴臣、僕はちょっと不満である。高レベルの不満かも知れない。この映画は音楽無しで充分に成立している。物語と感情の流れは映像と音が完璧に表現している。それを補強したり増幅する様な音楽は無しで良い。

そして父になる」では送電線や鉄塔の大ロングに、ピアノの単音がボロンボロンと付いていた、まるで宇宙からの交信の様に。あの音楽が映画の背後に宇宙を拡げた。小さな家族の話は悠久の宇宙の中に位置づけられた。恐らく監督がピアノの脇で細かく指示し何度も何度も繰り返してあのフレーズを作ったのだろう。音楽も出来る限り監督自身のコントロール下に置いた。(あくまで推測)

今回、細野と監督との間にはどんなやり取りがあったのだろう。物語に則した音楽は必要ない映画音楽の依頼である。ピアノソロなら前回同様監督との共同作業も可能である。細野は打ち込みで作っている。だから楽器的にも前回の様にはいかない。

まずは映像を見るしかない。そこから聴こえてくる音楽を細心の注意を払って聞き取るしかない。

血を超えた絆、胡散臭さの中のピュア、人間として時間空間を共有した喜び、陳腐な言葉になってしまうが、それを音楽的表現として一貫させる… 難しいことだ。それを思うと物語に則した映画音楽なんて随分容易いと思えてしまう。

 

冒頭、治と翔太の万引きシーンでピアノとパーカッションとベースの効いたジャジーな曲が流れる。このテイストで行くのか。少しするとピアノの高音のトレモロで短いフレーズ、さらに少しするとアコースティックギターのソロが入る。どれもポロンポロンと二節くらい。短くて音楽というより効果音的だ。信代の働くクリーニング工場(?)のバックにはBGMの様にベースの効いた曲が這っていた。邪魔にはなっていない。映画の流れには合っている。けれどこれらは本当に必要だったか。音楽が無いと不安になって無理して付けてしまうことがある。ベテランがそんなことはないと思うが、映像から本当にあの音楽は聴こえたのか。

縁側を俯瞰で捉えた花火のシーン、花火は見えず音だけ。それを見上げる治、信代、ゆり、神様が優しく見守ってくれている、そんな視点の映像だ。花火の音を聴かせたかったのかも知れない。次のシーンは家族での海水浴。家族としての求心力が最も高まる一連。僕は当たり前かも知れないが、ここは音楽だと思った。花火の音が途中でFOして音楽にすり替わり、そのまま海水浴シーンに流れ込んだって良い。ここに音楽は無かった。

ラスト、治が一つ布団の中で“お父さんからオヤジに戻るよ”(不確か)と言った翌朝、翔太をバス停に見送る。バスに乗った翔太、外を走る治、振り向かない翔太、別れと旅立ち。予告編にも使われているカット。ここにも音楽がなかった。泣かせる音楽なんかではない。もっと遠くから見つめる音楽。次のシーンは冒頭と同じように冬のベランダで一人遊びをするゆり、そしてエンドロール。ここは音楽ではなかったか。バスからベランダに少しこぼして、一人遊びを素で見せた後、ローリングタイトル音楽。あるいはバス内からベランダ一杯を通して音楽を付け、一間あってからローリング音楽。

縁側とラスト、この二か所はどうしても音楽が聴こえる。あるいはここも音楽を付けないとしたら、他の短い音楽も全部無しにしてエンドロールの音楽だけにする。その方が良かったのでは? 

勝手なことを言って、ゴメンナサイ。本当にゴメンナサイ。

 

この映画は要二度見である。

捕まった後、取り調べ官(高良健吾池脇千鶴)に常識と世間を背負った質問をされる。いつもはどちらかと言えば調べられる側の二人があまりに常識面をするので(それだけしっかりと演技をしているということ)ちょっと引いて集中力が落ちた。二度見して、この取り調べのやり取りに家族の面々の説明がなされているのが解った。

治と信代夫婦は信代の前夫を殺している。多分DV、裁判では正当防衛と認められた。日暮里あたりで飲み屋をやっていた、多分。信代は子供が産めない。取手のパチンコ屋の駐車場から男の子を盗んだ。翔太と名付けだ。治の本名だ。治と婆ちゃんに血の繋がりがあるかどうかは解らない。足立区あたりの猫の額ほどの木造バラックに住む婆ちゃんの所へ転がり込む。治と信代夫婦は婆ちゃんの年金を充てにしている。婆ちゃんは通帳を治に預けている。

婆ちゃんは夫と別れる時、この家を貰ったのだろう。別れた夫は再婚して息子も生まれ、山の手に立派な家を建て、随分前に他界した。息子(緒方直人)には娘が二人、山の手に馴染めなかったのが亜紀、婆ちゃんが“おいで”と引き取った。だから血の繋がりはない。お金をせびりに行き、息子が上の娘はオーストラリアへ留学中と言った時、高校生の頃の写真がインサートされ、それが松岡茉優だった。二度見で解った。

お婆ちゃんは時々信代や亜紀に、鼻筋が通っていていいね(不確か)という。樹木希林のアドレリブかと思っていた。これは血が繋がらないということへのお婆ちゃんのコンプレックスだったのだ。

治はアッチがダメだったようだ。夕立の日、ソウメンを食べながら信代が発情して治に襲い掛かる。ヤレた。事の後、嬉しそうにタバコを吸って余韻に浸る治、そこにビショビショに濡れた翔太とゆりが帰って来る。慌てて取り繕う治と信代。翔太は親のそれを見て初めて目覚めた。昔はザラにあったこと。

翔太は信代をお母さんと呼べなかった。呼ぼうかというと信代がテレた。取り調べ官が“何と呼ばれていたの?”(不確か)と聞く。正面フィックスの長回しワンカット、安藤が髪を書き上げ、顔を覆い、中々表情を見せない。表情が見えた時、そこには涙が滲んでいた。涙がこぼれたのではない、滲んでいたのだ。凄いワンカット、安藤サクラはこんなに凄い女優なったのだ。

安藤サクラは肉まで役に成り切っていた。

 

松岡茉優はコメディもやれる、シリアスもやれる、貴重な女優だ。松岡のお客の“4番さん”を演じた池松壮亮は数カットながら存在感を残す。役者が是枝作品に出たがる訳が解る。

 

樹木希林は増々神懸って来ている。台詞なのかアドリブなのか、虚実皮膜。こんな芸当やれる人、嘗ての森繁久彌くらいしか思いつかない。

 

リリー・フランキー、この人が居なかったら近年のかなりの邦画の名作は存在しなかっただろう。それ位どの作品でも存在感を示している。どの作品でも風貌は相変わらずあのマンマ、だのにしっかりと役に染まり切る。良い声良い滑舌、その底には限りない優しさが秘められている。だから「凶悪」(拙ブログ2013.10.22)の先生は怖いのかも…

 

僕は一度見の後、何故か「禁じられた遊び」を思い出した。ギターのソロがあったからかも知れない。群衆の中に取り残された少女が叫ぶ。ゆりはひとり冬のベランダで遊ぶ。叫んだりしない。この荒涼感は「禁じられた遊び」の比ではない。

どうしようもなく目黒の“ごめんなさい、ごめんなさい”に繋がってしまう。

現実が映画の続きをやってしまった。

 

監督.是枝裕和    音楽.細野晴臣

2018.07.01 「終わった人」 丸の内TOEI

2018.07.01「終わった人」丸の内TOEI

 

会社が全てだった男(舘ひろし)が定年を迎えた。何をしてよいかわからない。腑抜けの様になる。10年以上前のテーマだ。とは言いながら、今も僕の周りでは定年になって、午前中が長くって、とか、何をしてよいか分からない、とか、オレ趣味無いんだよなぁ、とか、蕎麦打ち教室に通うか、と言う人が結構いる。ということはまだこのテーマは有効ということか。

定年を迎えた日、妻(黒木瞳)は、お疲れ様と言う。しかし心がこもっていない。妻は美容師の仕事を持ち、それが生きがいになっている。腑抜けた夫にイライラしている。優しくない。イヤな女だ。黒木瞳がそうなのではない。設定がイヤな女である。

図書館へ行き、たむろする老人を見て、オレはこの仲間ではないと拒否し、カルチャースクールへ入り、スポーツジムに通う。カルチャースクールで出会った広末涼子に勝手に恋心を抱き、勝手に勘違いして生気を取り戻したつもりがあっけなくフラれる。若いIT系の経営者(今井翼)と知り合い相談に乗る内に、是非うちに来て下さい、と請われ、社長に就く。元一流銀行のナントカ部長というキャリアの人がうちの様な若い会社には必要なんです。久々の背広でシャキッとし、男は仕事を通じて社会と接点を持ち続けなければダメなんだと改めて思う。妻が髪を染めてくれる。

これは詐欺だ!僕はてっきりそう思った。

知人で、取締役になってくれと言われて引き受けたと、嬉しそうに名刺を出した奴がいた。何の会社か聞かなかったが、名刺には確かに取締役と記されていた。その後知人は一切その話をしなかったので、こちらも聞かなかった。何がしかの金を巻き上げられたのかも知れない。男の社会的認知願望に付け込んだこんな取締役詐欺みたいなものは履いて捨てる程ある。

でも若いIT経営者はジャニーズ今井である。今井に詐欺をやらせるのか。ジャニーズに汚い役はやらせません。今井は良い人のまんま突然心臓発作で死にました。この安易、開いた口が塞がらない。社員は、俄か社長にも拘らず、どうしてくれるんだ!と詰め寄る。イヤな社員たちだ。“社員が悪いのではありません、みんな設定が悪いのです”  借金は社長が負うしかない。自宅を売れば何とかなるか。この生活感の無さは何なんだろう。

故郷に帰った男を姉や母が暖かく迎えてくれる。そんな訳ないだろう。これまでほっぽらかしていたのに。幼馴染の伝手で農協だかNPOだかの事務の仕事に付く。

妻が来て、二ヵ月に一回位、髪を染めに来てあげる、と言って終わる。離婚した訳ではない。折に触れて、“卒婚”という言葉が出て来た。“卒婚”が落としどころということか。

一所懸命勉強して東大に入って一流銀行に就職して順調に出世した。でも重役には成れず、子会社の社長に出され定年を迎えた。この男にはこれまでの人生で自分の生き方を振り返る機会は無かったのか。それなりの退職金も貰って、子供は成人して、家のローンも無い。サラリーマンとしてはパーフェクトだ。なのにポッカリあいた“定年クライシス”。今まで“仕事”が全てだった、でもそれってもしかして“会社”が全てでは?

原作は内館牧子、これ多分TVの昼帯ドラマが良かったのでは。おばさんたちが、そうよその通りよ、うちの生ごみ!と溜飲を下げる。だが映画はそれだけでは成立しない。この男のこれまでの生き方価値観にクエスチョンが突きつけられているのだ。オレの人生これで良かったのか?でもそれに明解な答えなどない。ただ今までと違う何かが立ち昇らないと映画にはならない。

現実には、経済的問題、夫婦の問題、子供の問題、親の問題等、純粋に生き方として“定年クライシス”を悩むなど有り得ない。この映画はそれら現実の諸問題を全て捨象して純化した“定年クライシス”を生き方にまで遡ることなく、浅く安易にエピソードとして並べただけ。これでは映画にはならない。コメディにして笑い飛ばす訳でもない。館が悪いのでも黒木が悪いのでもない。企画が悪いのだ。安易なのだ。

男と異なる価値観で生きる者として田口トモロヲが配されているのだが、アンチとして男と対立する訳でもなく、飾り以上ではない。

音楽は付けようがなかったか。ただドラマの感情の起伏に合わせて、悲しかったりコミカルであったり、そんな増幅を当たり障りなくやっている。音楽家の責任ではない。

 

突然時代ずれした古臭い歌が流れた。主題歌だ。今井美樹だ。ただ古臭さしか感じなかった。映画が映画なので、余韻をぶち壊そうがどうしようが、どうでも良い話だが。

 

監督.中田秀夫   音楽.海田庄吾

2018.07.03 「空飛ぶタイヤ」 丸の内ピカデリー

2018.07.03「空飛ぶタイヤ丸の内ピカデリー

 

かつて邦画には社会派エンタテイメントというジャンルがあった。代表的な監督は山本薩夫である。「白い巨塔」(1966)「華麗なる一族」(1974)「金環蝕」(1975)「皇帝のいない八月」(1978)等、企業や政治の闇に切り込んだストーリーに、スターを配して、一級の娯楽作品とした。

この映画はその系譜に連なる。邦画の久々の社会派エンタテイメントである。誰が見ても面白い様に出来ている。人生を深く洞察するという様なことは無いかも知れないが、社会の不正への憤り、その中で右往左往する人間の哀しさ儚さままならなさが、万人の共感を呼ぶ。

ホープ自動車となっているが、モデルは三菱自動車あたりか。走行中のトラックのタイヤが外れ、歩道を歩いていた母娘を襲う。母親は死ぬ。運送会社の若き二代目社長(長瀬智也)が自社の整備不良をひたすら詫びる。可愛がっていた若き整備工だったが即刻クビを言い渡す。その整備工は細かくチェックリストを付けていた。整備不良では絶対にありませんと言い切る。もしかしてトラック自体の構造に欠陥があるのでは… そこから、小さな運送会社と財閥系のホープ自動車の戦いが始まる。まるで蟻と像、歯が立たない。けんもほろろだ。実はこの構造的欠陥をホープ自動車の極一部では認識されていた。それに気付いたホープ自動車のエリート(ディーン・フジオカ)が、これを正義感からではなく、出世の道具として利用する。

会社は正義では動かない。利害で動く。それが“会社の都合”という言葉になる。会社勤めを少しでも経験した者には解るはずだ。“会社の都合”が何より優先することを。それを補強するのが、従業員とその家族に責任がある、というお題目。そこに会社の社会的責任は微塵もない。企業の社会的責任なんて言ったら、何青臭いこと言ってるんだと笑われてしまう。

ただ近年コンプライアンスの名のもとに法令順守が厳しくなっており、発覚した時の騒ぎを考えて企業も神経を使う様にはなっている。ただ、後で高いものにつかない様細心の注意を払いつつ、隠せるものは隠せ!は変わらない。

従業員とその家族を守るということに於いては小さな運送会社の社長とて同じだ。ホープ自動車から黙って1億受け取れと提案がある。これで無かったことにしろという話だ。先代から仕える専務(笹野高史)はこれで会社が救われると喜ぶ。しかし二代目熱血漢は悩んだ末に喉から手が出るほど欲しいこの金を、拒否する。この正義感、大衆娯楽の真骨頂。確かに規模が小さいから出来るとは言える。巨大になれば成る程、会社の都合は侵さざるものになり、正義感は埋没する。

社長が拒否すると、それまで喜んでいた専務は、怒るでもなく、そうですか、解りました、と飄々と仕事を続ける。「終わった人」でカツラを被った笹野より、こっちの方が断然良い。

長瀬とD・フジオカを交互に描いて、問題が明るみに出ていく脚本(林民夫)が上手い。今は内部告発とPCのメールが真相究明の重要なツール。昔はそれを女が担っていた。D・フジオカとムロツヨシ等が社内情報のやり取りをする夜の酒場はホテルのラウンジかサロンの様な所、昔だったら銀座のクラブと決まっていた。そこに女が絡んだ。銀座のクラブが寂れるのはもっともだと納得。深キョンが長瀬の妻役で出ているが話に深く絡む訳ではない。女優ッ気のない映画である。

同じ様な事故があちこちで起きている。そのリストを手に入れた長瀬は全国の運送会社を訪ね歩く。構造的欠陥であることが明白になっていく。ホープ自動車の社内の隠蔽がD・フジオカ等によって暴かれていく。両方が同時並行して隠蔽の大元、ホープ自動車専務(岸部一徳)にたどり着き、クライマックスとなる。

ここは一貫した太い音楽で括って欲しかった。その方が盛り上がる。音楽・安川午朗。ドラマに則して細かく付けられていて、どれも役割を果たしている。ただひとつ、クライマックスに向かう太い旋律があれば。

山本薩夫には佐藤勝という剛腕作曲家がいた。佐藤だったらシーン変わりに引っ張られることなく、大編成の太いテーマでクライマックスに持って行ったはずだ。安川午朗は小編成の細かいドラマに合わせた音楽は的確なのだが、大きな編成で太くテーマ押しでやるべきところに物足りなさを感じる。

欠陥と隠蔽が明るみに出てリコールとなり専務は失脚、言われるままに融資していた財閥系本丸の銀行の重役も失脚、実は銀行の戦略室のエリート(高橋一生)が描いていた青図通りだったことを匂わせ、映画は終わる。程無くして、ホープ自動車は吸収合併されて消滅、財閥はお荷物だったホープ自動車を処理することが出来、政治は自動車業界の淘汰と再編を一歩進めることが出来たのである。

D・フジオカやムロツヨシはどうなったのだろう。二代目社長の運送会社は無事やっていけてるのか。結局は“会社の都合”の名の下にコマとして使われてしまうやりきれなさが残る。

 

主題歌・サザンオールスターズ。桑田が云々、曲が云々の前に、主題歌を作るということを考えるべきである。名の知れたアーティストに主題歌を歌わせて宣伝に寄与させると言う時代はとうに過ぎている。映画の余韻をしっかりと担保して観客に音として残す様な主題歌は別、そうでない限り主題歌は止めた方が良い。そんなの解り切ったことだろうに。

“会社の都合”か。

 

監督.本木克英   音楽.安川午朗

2018.04.10「素敵なダイナマイトスキャンダル」 テアトル新宿

2018.04.10「素敵なダイナマイトスキャンダルテアトル新宿

原作は雑誌「写真時代」の伝説の編集者末井昭の自伝。僕より一つ二つ上か。ほとんど我が青春と重なる。喫茶店のシーン、青臭い議論にさえ加われず、奥で一人暗く座っている僕が居てもおかしくない、それ位親近感があった。喫茶店の作り、バーの作り、キャバレークインビー、下宿の家賃、どれもあの頃のマンマ、良く再現している。

僕は「噂の真相」(編集.岡留安則) を毎月欠かさず読んでいた。岡留、末井はサブカルの伝説の編集者。何の取り柄もない僕は、二人はどんな生活をしているのだろうとあこがれを持って見ていた。

映画とほぼ同じ時代を欲求不満と何者でもない者として生きた僕には、あの頃が熱く高揚した時代だったと素直に懐かしく思うことは出来ない。

 

隣家の若者とダイナマイト心中した母 (尾野真知子) を持つ末井 (柄本佑) が、地方から上京し、キャバレーの看板描きをやり、スッポンポンで盛り場を疾走して (当時流行ったストリーキング) 道路に人拓を描き、エロ雑誌編集に関わり、“情念”を旗印にサブカルの世界でのし上がっていく様を痛快に描く。アラーキーやら田中小実昌やら南伸坊やら、それらしき人が出てきて、あの頃の新宿の匂いがプンプンする。きっとみんなそれなりの葛藤を抱えながら、才能とエネルギーでぶっ飛ばしていた。映画は時々末井の原点であるダイナマイトママをインサートしながら、痛快ぶっ飛ばしの方に軸足を置いて、決して暗くならずに描く。頭デッカチの挫折なんて糞くらえ。それは自由で好き勝手にやれた黄金時代だった? 少なくともこの監督にはそう思えたようだ。いつの間にか僕も、あの時代は面白かったんだ、という気分になってしまった。葛藤の方はサラリと流して、痛快サブカル青春物語にしたのは正解だったかも知れない。

 

音楽、菊池成孔小田朋美。Pfでアヴァンギャルドなフレーズ、ところどころにしっかりと書かれた弦カル、後半でSaxがクレイジーなフレイズ (これが菊池か)、もう一つ、タイトルバックや何ヶ所かに、かつての東宝の社長シリーズとかサラリーマン物に付いていたようなマリンバがメロを取る大き目な編成のハリウッドの匂いのする音楽が付く。全く異質な四種類の音楽が付けられ、違和感が無い。変に統一感を持たせるよりこの映画には合っていた。

ただタイトルバック等に付けられた大き目の編成の曲、あれだけはちょっと違うのでは? と感じた。Pfも弦カルもSaxも、決して明るい印象ではない。コントラストを付ける為、敢えてノー天気な音楽にしたのかも知れない。しかしあの時代、すでにあのノー天気は無かった。僕なら「太陽は一人ぼっち」(コレットテンピア楽団?) のキャバレー風Saxとか、「サンライトツイスト」(「太陽の下の18歳」主題歌) みたいな、安っぽい感じのロックを付けた。

 

夢の様な恋のテーマと言った意味合いで「夢のカリフォルニア」(ママス&パパス) が効果的に使われている。彼女との箱根芦ノ湖小旅行、遊覧船にスピーカー細工で流れるのも良かった。あのエピソード、現実には相当ドロドロしたはずだ。「夢のカリフォルニア」が爽やかな青春の一ページに無理矢理纏め上げている。

 

ローリングに主題歌。お母さん役の尾野と本物の末井が時空を越えてのデュエットである。力の抜け具合がとっても良い。

 

観終わって、劇場入口に貼り出されている新聞や雑誌の宣伝記事に目を通した。中に末井昭柄本佑 (熱演) の対談記事があり、末井の写真が掲載されていた。初めて顔を知った。とっても穏やかな顔をしていた。映画が完結した気がした。

 

監督.冨永昌敬   音楽.菊池成孔小田朋美   主題歌.尾野真知子、末井昭

2018.03.23 「羊の木」 渋谷シネパレス

2018.03.23「羊の木」渋谷シネパレス

仮釈放された犯罪者6人が北陸の小さな町魚深に新住民としてやってくる。刑務所の経費削減、町の過疎対策、両方を兼ね備えた極秘の国家プロジェクト、自治体が身元引受人となり仕事を斡旋、最低10年そこに住むという条件である。これが成功するか否かに、国の未来が掛かっている。

この一見荒唐無稽な設定、でも変に説得力がある。日本の現状を見た時、その位のことを国は密かに考えているかも知れない。

娑婆に放り出された犯罪者は皆殺人を犯している。過疎化が進む魚深の町でどんな事件を引き起こすのか。映画の宣伝はもっぱらこのミステリーを前面に出す。けれど映画は実に淡々と平凡な日常として6人の受け入れを描写していく。市役所の月末 (錦戸亮) が受け入れの係。事情を知らされていない月末は駅や隣町の空港に迎えに行き、判で押したように“いい街ですよ、魚は上手いし人情は厚い”と言う。相手からのリアクションは無い。唯一、宮越 (松田龍平) だけが“いい街ですね、魚は上手いし、人情も厚そうだし”と自分から言う。自販機の前で二人して炭酸飲料を飲む。コミュニケーションってこんなところから始まるのかも知れない。

宮越は過剰防衛での殺人、元ヤクザの大野 (田中泯) は抗争相手の親分を針金で絞殺した、カミソリで喉を搔き切った酒乱の床屋福元 (水澤紳吾)、SEXの痴戯で首絞めをしてその結果殺してしまった太田理江子 (優香)、DV夫を撲殺した栗本清美 (市川実日子)、暴力性をむき出しにする最もストレートなキャラクター、傷害致死の杉山 (北村一輝)、一度は社会の矩を超えた面々が再びそっと日常にフェードインしていく。映画はそれを丁寧に描き、受け入れる側の反応をデリケートに拾う。6人の過去をフラッシュバックでインサートするようなことはしない。わずかな描写の中で役者の力と数行の台詞がこれまでの人生を的確に語る。

 

映画の宣伝に誘導されて、ミステリー、事件物、という先入観で見てしまった。殺人は起きるのだが、その犯人捜しという趣はない。6人が複雑に絡んだり、過去とののっぴきならないしがらみだったり、話はそっちへは展開しない。ましてや過去を清算してやり直そうとする、健さん映画のような人情物でもない (そういう作りの方が一般受けするかも知れないが)。どこか物足りない。作り手の意図は別のところにある? ということで二度見をした。

 

原作は山上たつひこいがらしみきおの漫画 (未読) 、それを監督の意向を汲んで香川まさひとが換骨奪胎して脚本化。どの位変えているのだろうか。

 

大野は顔に傷を持つ一目で堅気ではないことが解る初老。かつては狂犬だった。組に入るも、そこにも窮屈な掟があった。掟とは自己の抑制と他者の承認で成り立つ。その窮屈を越えてしまった者が再びその中へ戻るというのは大変なことだ。世間は異物を敏感に嗅ぎ分ける。大野はよく解っている。“人間、肌で感じたことが一番本当なんじゃないか”

 

栗本清美は寡黙で潔癖症、もしかしたら宗教にハマっていたかも知れない。些細なことでも折り合いをつけられない生き方が透けて見える。生命の再生を信じている、多分。

 

床屋福元役の水澤紳吾という役者を知らなかった。なんと成り切っていることか。飯の喰い方に圧倒された。真面目でいつも自信なくオドオドして、酒が入ると反転する。

 

杉山に向って大野が言う。“お前は若い頃の俺のようだ”組にも入らず狂犬のまんま。社会の矩に収まろうなど全く考えていない。

 

太田理江子の性は自然である。遺伝子レベルで根源的、生存のエネルギーである。ただこれを野放しにすると人間社会は維持出来ない。それを様々な理由付けで抑制する。禁忌である。人間の文化とは自然に対する抑制であることは世界中どこを見ても共通する。時々この装置が壊れている者が現れる。芸術家はそんな人を物語の主役に据える。だが必ず社会的制裁を受けて最後は悲劇となる。そうしないと社会が維持出来ない。

優香がそんな役を見事に演じていて驚いた。介護施設で月末の父親 (北見敏之) と出会い、恋というより欲望が爆発してトイレ(?)の中で貪り合うキスシーンは、全ての抑制を剥ぎ取ってエロそのものだ。優香と月末の父親との今後を、どうしても明るく想像出来ない。優香はその内別の男と愛欲を重ねる。その時月末の父親は… 「祭りの準備」(1975) の浜村淳を思いだした。

 

月末の錦戸亮はアクの強い6人に対しひたすらニュートラルである。“コロッケ買って来たよ”という何気ない台詞の中に今の状況が込められている。高齢の父親は昼間は介護施設に通う。母親はすでに他界している。本当はこの町を出たかったのだ。しっかりと社会の枠に収まっているが心の奥底には消化しきれないものが溜っている。かつて高校生の頃は文 (木村文乃) と須藤 (松尾論) とバンドを組んでいた。文が好きだった。

 

文は都会に出て看護士として働くも医師との不倫 (多分) の末、この町に戻って来た。須藤の“不倫?”というツッコミに何とも投げやりな態度を返す木村が良い。木村がこんな気だるい役をやれるなんて。

文が戻って来たことを期にバンドを再開する。月末はまだ文に未練がある。それを須藤がからかう。月末のベースと須藤のDrがしっかりと土台を作り、文のギターがノイズの様にコードを速弾きする。木村が様になっている。メロディーラインは無い。多分この映画にぴったりの曲想だ。ギリギリで音楽の矩を超えない。

バンド練習のプレイバック撮影 (先に録音した音に合わせて撮影すること・PB) は見事というしかない。特にDrは同録ではないかと思った。松尾論はDrの心得があるのか。DrのPBは本当に難しいのだ。こんなにぴったりと合っているなんて。ただ一つ一つの音がクリア過ぎるのが気にはなった。あの場だと実際には音はモアモアでただの騒音の塊になってしまう。映画の嘘、あれで良い。音楽スタッフと三人の役者に拍手である。

 

一番描きたかったのは宮越と月末だ。宮越は今風に言えばサイコパスである。自分の都合で罪悪感無く人を殺す。杉山が“俺はお前みたいな奴が何のためらいもなく人を殺すのをみたことがある”と言う。初めから他者が欠落しているのだ。

勝手、我儘、自己中心、そんな心理学の範疇を遥かに超えて、無感情に人を殺す。でもそれって先天的なもの? 後天的なもの? いつのまにかサイコパスという名前が付けられ、その言葉が出てくるとそこで思考は行き止まりとなる。絶対悪、追及しても無駄? それではホラーでありスプラッターだ。ジェイソンだ。この映画はサイコパスに逃げない。サイコパスが他者を受け入れて人間社会の中で生きようとする物語なのだ。

月末のバンドが高校の時の仲間と聞いて、宮越が “高校の同級生? いいなぁ”と呟く。その台詞の背後には大変な物語が隠されている。おそらく監督と脚本家の間には出来上がった脚本の何十倍もの背後の物語が確認されているはずだ。それを役者が血肉化する。言葉になったものだけを伝える役者とその背後の物語までも伝えられる役者とでは映画の厚味が違ってくる。この映画、どの役者も台詞の背後を感じさせてくれる。見事なキャスティング。監督のシテヤッタリという顔が見える様。

 

宮越には自分の都合しかない。いつも突然現れる。最初にバンドの練習を覗いた時も窓越しに突然現れた。映画はこの不連続な突然性、或る意味幼児的天真爛漫をホラー仕立てにして引っ張って行く。突然現れる宮越は怖い。

その宮越が月末たちのバンドを見て、初めて他者と関わりを持とうとした。仲間になりたくなった。だからギターを始めたのだ。ギターをちょっとでもかじった人には解るはずだが、最初はコードのCとFとG7から入る。CとG7は押さえ易い。Fが最初の壁である。宮越は、文や月末から一所懸命にそれを習う。押さえのポジションをひとつひとつ教えてもらう。

練習してる? という月末に指を触らせる。指先が固くなっている。必死なのだ。他者と共鳴したいのだ。

 

宮越と文が付き合い始める。月末が嫉妬してつい宮越の素性を話してしまう。月末は後悔してそのことを宮越に話す。“それって友達として言ってるの?”頷く月末。その時宮越は嬉しかったはずだ、多分。“言ってくれれば付き合わなかった”宮越の中には月末という他者が確実に存在していた。

宮越が練習しようよと、月末の部屋に押し掛ける。暫くして疲れたと眠ってしまう。まるで勝手な子供だ。次のカットで眠っている月末、それを覗き込む宮越。ダイレクトの繋ぎ、時間経過のカットは無い。これは怖い。一瞬首を絞めるのかと思わせる。次のカットで目覚めた月末、その時宮越はギターを抱えて夜の闇を見ていた。この時宮越は何を考えていたのだろう。月末という他者、それとも文?

宮越がノロロ様の崖に行こうと言い出す。強引に月末を引っ張って、二人は海に面したノロロ様の生贄儀式の断崖に立つ。傍らには呼びつけた文もいる。ノロロ様に決めてもらおう。強引に月末の手を引っ張って二人は飛び降りる。

この一連、物語のクライマックス、一度見の時は都合良く眠ってしまったり簡単に崖から飛び降りたり、リアリティのない展開に物足りなさを感じた。二度見の時は全く違って見えた。宮越の幼児性と他者が芽生えた苦悩が入り混じって、心の中が可視化されていた。

ミステリーとして説得力を持たせる為の理由付けのカットはいくらでも入れることは出来たはずだ。でもそうすると単なる物語になってしまう。

この一連、月末は強引に引っ張られて、何が何だか解らなかったかも知れない。ここは引っ張る松田より引っ張られる錦戸の方が難しい。錦戸には一貫してニュートラルな中に微妙なニュアンスの変化がある。

審判はノロロ様が下す。社会を維持する為に措定されたノロロ様、結果は解っている。それは宮越も解っている。審判は宮越にとって救済だったのかも知れない。

 

劇伴はプリペアドPfか、サンプリングsynか、それともギターをミュートして作ったか。6人の疑念を誘うようなところにサスペンス効果も兼ねて付けられている。良く聴けば調性はあるがほとんど効果音的な音楽である。感情を増幅するようなことにならない様、細心の注意を払っている。

確か二か所、崖の上でノロロ様を説明するところ、友情らしきものをお互いが感じるところ(?) にギターの分散和音で音楽らしい音楽が鳴る。突如の音楽らしい音楽にちょっと唐突感があった。理屈としては解るが、音楽無しでも良かったか。

二人が崖から飛び降りるところ、音楽的にはクライマックス、ここだけはSynが厚く荘厳なメロディを奏した。宗教的な意味合いか。Synの響きがちょっと安っぽい感じに聴こえた。唐突に人声の大コーラスというのも映画のデフォルメとしてはありだったか。

などと勝手なことを言いつつ、全体に映画の内容を良く理解した音楽。エンディングはボブ・ディランの曲「DEATH IS NOT THE END」のNick Cave & The Bad Seedsによるカバー。歌詞が解らないのだが、音楽の流れとしては素朴な感じで良かった。

 

おそらく監督が細かい指示を出し音を一つずつ貼り付けていったのだろう。きっと監督は自分の思い通りに出来た。これは一つの完成型である。

楽家から全く違った発想が提案されることがある。その時監督の意図を超えた掛け算効果が生まれる。例えばどこかの民族音楽、あるいはそれ風、ガムランだったりイランだったり、楽器のディジュリドゥだったり、そんな全く異質の音楽をぶつけた時、映画は芳醇な別世界になる。街を覆うノロロ様のテーマだ。音楽を監督がコントロールすると監督の知っている音楽の範囲を出ない。それで充分ではあるのだが、映画が劇的に変わることはない。プリペアドPfの効果音的劇伴は西欧的知性的現代音楽の響きである。もっと土の匂いのする音楽を見つけられたら、違った映画になっていたかも知れない。

パリ、テキサス」(1984) のライ・ク―ダ―のスライドギターのテイストでやる手もあったかなどと勝手に色々考えた。

 

羊の木とは、有り得ないことが起きる、そんな意味か。

たかだか人間の理性、判断出来ないものは山ほどある。その為にはやっぱり神様は必要だ。政治化してない素朴な神様、人間が措定したノロロ様はきっとのっぺらぼうだ。

 

監督.  吉田大八    音楽.  山口龍夫   

2018. 2. 24 「犬猿」 テアトル新宿

2018.2.24 「犬猿テアトル新宿

 

予告編、多分漫画が原作の今風青春物、タイトルも「恋する君の隣には」、性懲りもなく三番煎じ企画、一体どこが作ったんだ。最後に素人の女の子の、もう感動しちゃって、というコメント映像が流れる。素人にしてはちょっと可愛い、コメントもヤラセっぽい。こりゃ仕込みかな? と突然COして黒味。予告とはいえ随分乱暴な繋ぎをするものだ。その黒味の左隅に「犬猿」という文字が浮き出て来た。アレっ? さっきのは別の映画の予告だよね?

“眞子ちゃん、映画出たんだって” “エーっ、まあ” コメントしていたあの素人だ。何という導入。別作品の予告ではなく、「犬猿」のアバンだったのだ。ここで気持ちはグワッと掴まれた。もう映画に身を任すしかない。

 

腕力だけが取り柄のムショ帰りの兄・卓司 (新井浩文)、謹厳実直、地味で小心者の弟・和成 (窪田正孝)、あまりに正反対の兄弟。

家業の印刷屋を切り盛りして孤軍奮闘、責任感が強く、それなりに頭も良い、但し不器量な姉・由利亜 (江上敬子・お笑いのニッチェの片方)、ちょっと可愛い顔と大きな胸だけが取り柄の、女優を夢見てしまっている妹・眞子 (筧美和子)、こちらも正反対の姉妹。

二組の正反対が入り組んで、恨んで嫉妬して、でもやっぱり兄弟姉妹の絆は絶ち難い、と美しく纏めることはせず、犬猿の仲はまだまだ続くという物語。

東京の下町か地方都市か、敢えてこじんまりとした世界に限定して、犬猿カリカチュアして描く。広い画は一つも無い。「ビジランテ」の様に時々そとには広い世界があるといったカットを入れて、閉塞感を強調する訳でもない。これで映画を成立させているのは見事な脚本と見事な四人の役者の演技である。そして何より自ら脚本を書き、役者からそれを引き出した吉田恵輔監督の力である。

新井浩文は直ぐにぶん殴る兄を演じて演じているとは思えず。本格的な役者としての演技はこれが初めてではないのか、ニッチェ・江上の演技賞物の成り切りは驚愕の域。

筧は、普通の生活の中では可愛いとチヤホヤされるも女優としてはとても無理という現実を勘違いしてタレントを夢見てしまう、芸能界に山の様に居る役柄を、ほとんど地でやっている様だ。普通に可愛いことを利用した要領の良さと小狡さが本当にハマっていた。この映画の唯一の色気の部分、見ている内に本当にエロくそそられてきた。

窪田は真面目で地味で、でも兄を警察に売ったりして、目だけはいつも屈折している。四人の中で唯一複雑なキャラ。

 

吉田監督作品、これまでに劇場では「ばしゃ馬さんとビッグマウス」(2013)「銀の匙」(2014) のみ、あとは「純喫茶磯辺」(2008)「さんかく」(2010)「麦子さんと」(2013)をDVDで観た。「銀の匙」のみ原作物、しかも配給は東宝。他はオリジナル脚本で単館系。吉田監督らしさはもちろん後者である。どれも身近でこじんまりとした世界。作為的で大仰なドラマは無い。殺人や病気や死やタイムスリップを安易に使わないということだ。つまり吉田作品はそれ自体が今の邦画作品への強烈なアンチテーゼということだ。導入など今の邦画やその宣伝スタイルを馬鹿にし切っている。

シナリオライターになるという夢の諦め時を探すアラサー女と今だ形にならないカオスのままの傑作を抱えて大口叩く若造(「ばしゃ馬さんとビッグマウス」)、若い夫婦の間に妻のピチピチの高校生? の妹が介入して簡単に壊れる夫婦とストーカー化する妻、妹を追うも軽くあしらわれる夫 (「さんかく」)、離婚して喫茶店を始めた父親とそれを馬鹿にしながら心配する娘(「純喫茶磯辺」)、生みの母との何年振りかの再会とその死(「麦子さんと」)、どれも本当に日常的でよくある話、そこに笑いをみつけユーモアをまぶして洗練された映画にする。これは大変な才能というしかない。こんなデリケートと洗練を受け入れてくれるのは今の映画界では単館系しかない。テレビも映画もあざとさを増す中で単館系の映画のみがこれを可能にする。本来はこれが邦画の主流であるべきなのに。

由利亜が作ったチャーハンを卓司が引っ繰り返してテーブルの柿の種が混ざる。それを卓司が喰って、イケる、味に芯が出来た!  由利亜も喰って、本当だ!  この二人のやり取り、頭にこびり付いて、しばらくの間思い出し笑いをしていた。よくぞこんなシーンを思いつくもの。吉田監督の日常を見る目が好きだ。

 

終わり方がちょっとあっさりし過ぎているような。刑務所に柿の種入りのチャーハンを差し入れする由利亜とか、由利亜と卓司がくっ付き、和成と眞子が結ばれた、という写真がローリングの下絵に入るとか。色々考えてみたがそれも纏め過ぎか。今のまんまの犬猿は続くという新井の顔で終わるのがやっぱり良いか。

音楽、めいなCo。実は観てから大分経つので記憶がない。確かほとんど音楽は無かったような。音楽を必要としない映画だったような気がする。

こういう映画にこそ四人に共通の幼い頃の "歌" が見つけられれば。「鉄腕アトム」でも「夢は夜ひらく」でも「どんぐりコロコロ」でも「讃美歌」でも、そんな音楽的仕掛けが出来る映画。こんなの滅多にない。

 

監督. 吉田恵輔   音楽. めいなCo.