映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2020.02.03 「ジョジョ・ラビット」 日比谷シャンテ

2020.02.03 「ジョジョ・ラビット」日比谷シャンテ

 

ビートルズの「抱きしめたい」ドイツ語バージョンがC.Iした時には度肝を抜かれた。

その歌を背景にはしゃぎまわるナチ少年ジョジョ(ローマン・グリフィン・デイヴィス)、記録映像でヒットラーに熱狂する群衆、ヒーローとはこういうもの、ビートルズヒットラーも変わらない、キャラクターと状況があった時、群衆は熱狂するのだ。そしてその背後にはそれを仕掛けた者が必ずいる。

ジョジョ10歳、戦争ごっこが大好きで、華奢だから強いものに憧れる。その時そこにアドルフ・ヒットラーがいた。アドルフ (タイカ・ワイティティ) はジョジョのヒーローとなる。すんなりナチの考え方、ユダヤ人悪、が入る。ユダヤ人には角が生えている、臭い、でも見た目は変わらないんだけど…

ヒットラーユーゲントの子供教育のキャンプで、ウサギを殺せと言われて殺せなかった。みんなからジョジョは、ラビット! と馬鹿にされる。手榴弾の訓練で怪我もする。華奢な体の上に顔に地図の様な傷が出来る。でもジョジョには守り神のアドルフがいる。時々現れては励ましてくれる。アドルフは本物のヒットラーに似ていない。ココリコ・田中にちょっと似てるか…

母 (スカーレット・ヨハンソン) は自分の考えを持った人、密かに屋根裏にユダヤ人少女エルサ( (トーマシン・マッケンジー) をかくまっていた。ジョジョはそれに気づく。でもバレると母も自分も殺されると知っているので、そのままにする以外にない。

街の広場にはナチに逆らった人、ユダヤ人、ユダヤ人を匿った人などが、縛り首にされてぶら下がっている。みんなその脇を平気で通る。本当は平気ではないのかもしれないが。時流に流されるとはそういうことだ。

死んだ姉に似たユダヤ人少女は角も無いし臭くも無かった。ジョジョを喰おうともしなかった。同じ人間だ。ジョジョの中にナチの言うのとは違うユダヤ人像が出来て行く。ほのかな恋心の様なものも芽生える。

 

ジョジョの可愛らしさは「ニューシネマパラダイス」の少年を思い起こさせる。子供目線の天真爛漫さは、仏映画「わんぱく戦争」やTVの「ちびっこギャング」を思い起こさせる。

 

長い物には巻かれろ、同調圧力、自由からの逃走、思考停止、鬼畜米英、朝鮮人差別、一度熱狂すると平常時では考えられない様なことを人間は平気でやる、人を殺す、安易な方へ安易な方へと流れ、制御不能の大きな流れとなってしまう。ジョジョは強力な同調圧力の中で、自分の考えでウサギを殺さなかった。

昭和30年代前半、TV黎明期の頃、ドラマ「私は貝になりたい」(1958ラジオ東京テレビ、現TBS) という名作があった。戦地で上官の命令に従い捕虜を銃剣で刺して処刑する。目をつむって必死に刺した。戦後C級戦犯裁判でその罪を裁かれ、絞首刑となる。上官の命令に従わなかったらどうなるか分らなかった…

ジョジョは子供で相手はウサギだった。笑い者で済んだ。でも母親はユダヤ人を匿っていたことがバレて広場に吊るされた。少しオシャレな靴の足元で大泣きせず堪えながらいつまでもいつまでも蹲っているジョジョ、忘れられないシーンである。

一人ぼっちになったジョジョは自分の目でものを見始める。世界はアドルフの言うものと随分違っていた。アドルフを心の親友にしておくには無理が生じて来た。

 

街が戦火に覆われる中、エルサとジョジョは必死で生き延びる。ここに流れたのがトム・ウェイツだったかデヴィッド・ボウイだったか、記憶が曖昧である。

 

やがてアメリカ軍が進駐してくる。街でアドルフの次に親友だったヨーキー(アーチ―・イェーツ)と遭遇する。二人は無事を抱き合って喜ぶ。もうナチなんてやってられないよ、ヒットラーはピストルで自殺したし攻めて来るロシア人は赤ん坊を喰うらしい。ヨーキーは早くも次の流れに乗っている、悪気なく時々の流れに乗る庶民の代表だ。その晩飛び込んで来たアドルフはこめかみから血を流していた。これには笑った。ジョジョはアドルフを外に放り出す。そしてエルサと扉を開け、外に出て、ヘンテコな自由のダンスを踊りだす。涙流しながらの大笑いである。

 

画面から漂う雰囲気、どう考えてもこれはヨーロッパ映画、決してアメリカ映画ではない。けれどそんな分け方は無意味なのかもしれない。言葉は英語、フランス語でもドイツ語でもない。米軍が進駐してきて小突き回された時、言葉が解らないとジョジョが言う。あそこだけはちょっと気になった。ジョークとして受け止めるべきか。

 

音楽、マイケル・ジアッキノ。ジョジョのテーマといえるメロが一貫する。出だしはちょっとリリー・マルレーンに似た雰囲気、ヨーロッパの香りがする。ハープやVlやPf、女声で奏でる。小編成、弦も入るが大きくない。しっかりと一貫したメロのある劇伴である。

ただポイントは既成曲だ。冒頭タイトルバックの「抱きしめたい」(ビートルズ)、母とのサイクリングには「ママ」(ロイ・オービソン)、シーンが曖昧だが「大人になんかなるものか」(トム・ウェイツ)、「ヒーローズ」(デヴッド・ボウイ) 、どれもここぞというところに流れる。その頃、ビートルズは存在しなかったし、トム・ウェイツデヴィッド・ボウイも同様だ。劇中音楽ということではなく、演出の音楽として付けられている。サウンドとしての効果と歌詞やアーティストのイメージから選曲されている。「ジョーカー」の既成曲の扱い方と同じだ。これまで既成曲を使う時は劇中の時代に存在した曲という暗黙の了解があった様に思う。あるいは歴史的文化遺産となっているクラシック曲等。この映画や「ジョーカー」は何の制約も考慮することなく、演出上の視点からのみで選んでいる。「ワンスアポンナタイムインアメリカ」や「アイリッシュマン」の既成曲とは全く扱いが違うのだ。邦画では「この世界の片隅に」(拙ブログ2016.12.05) の「悲しくてやりきれない」がこれと同じ考え方だ。どれも的確な選曲をして絶大な効果を上げている、従来だったらオリジナル劇伴が担うべき所を。「ジョジョ」と「ジョーカー」の既成曲使用の成功例は今後大きく波及するのでは。劇伴作曲家の領域は間違いなく狭まり、選曲する者、もしくは監督自身による音楽のコントロールという、これまで唯一コントロール出来なかった音楽という領域のある部分を手中に収めるということになるのかもしれない。成功すれば絶大な効果、失敗すれば無残。劇伴作曲家は、それ見たことか! と思うに違いない。

けれど本作のマイケル・ジアッキノは要所を既成曲に譲りながらも、全体としての音楽の統一感をしっかりと作っている。僕は最近の劇伴では出色の出来だと思う。

その他に時代を表わす曲として「タブー」始め何曲か、ラジオやSP盤の音としてある。これは「ワンスアポン~」や「アイリッシュマン」の既成曲と同じ考え方だ。

 

キャプテンK (サム・ロックウェル) はちょっとアメリカンの匂いがするが、全体を通してコメディーの部分を担う。小芝居を打ってジョジョを救うも、オフで銃声が響いた。悲しい。子供を18人産んだ(?) というナチおばさんのミス・ラーム (レベル・ウィルソン) 、ヒョロリとして眼鏡を掛けた親衛隊長ディエルツ大尉 (スティーブン・マーチャント) が可笑しい。知らない良い役者が居るものだ。

スカーレット・ヨハンソンは勝気で自分の考えをしっかりと持ち、でもナチ少年のジョジョを決して頭から否定しない。自分で考えるように導く。相変わらずの美貌、「アベンジャーズ」で使った無駄な時間 (未見でこんなこと言うのもナンだが) を早く取り戻してほしい。

何といってもジョジョとヨーキーである。この二人で何か企画が出来るのではないか。

僕はウサギを殺さない、僕は僕だ! ジョジョ、ラビットとは、僕は、僕だ! と言うことだ。

 

監督. タイカ・ワイティティ  音楽. マイケル・ジアッキノ

2020.02.06 「アイリッシュマン」シネリーブル池袋

2020.02.06 「アイリッシュマン」シネリーブル池袋

 

アイリッシュマンというタイトルからゴッドファーザーアイリッシュ版かと思った。前に見たジョニー・デップの映画「ブラック・スキャンダル」(拙ブログ2016.2.9) がボストンを舞台にアイリッシュとイタリアンの縄張り争いを描いた実話に基づくものだったので、アングロサクソンから差別されていたアイリッシュが結束してマフィアの様なファミリーを作り、遅れて来たイタリアンと抗争を展開するものと勝手に思い込んでいた。浅知恵の思い込み、反省である。

ロバート・デ・ニーロ演じるシーランはイタリア・マフィアの中で唯一イタリア人ではないのに、汚れ仕事を引き受けることに寄って幹部から信頼されたアイルランド人、それでアイリッシュマンだったのだ。

 

冒頭、老人介護施設の廊下を手持ちカメラが移動していく。そこに老いたシーラン (ロバート・デ・ニーロ ) がいる。語り出す。

 

1975年、シーラン夫妻とラッセル (ジョー・ペシ) 夫妻が共通の知人の娘の結婚式出席の為に車で長旅をしている。ラッセルが飛行機嫌いだからだ。二人の妻はラッセルが禁煙しているにも関わらず煙草を吸い続ける。猛禽類の様な目のラッセルだが、ゆとりある初老の二組の夫婦という感じにも見える。途中田舎のドライブイン、シーランが、覚えているか? 覚えているとラッセル。1950年頃、トラック運転手だったシーランはここでラッセルにトラックの修理をしてもらった。それが二人の出会いだった。

“家のペンキは自分で塗る”(不確か。依頼された殺しは自分の手でやる、という隠喩らしい) というシーランをラッセルが気に入り、それをきっかけにシーランがファミリーの一員としてのし上がっていくという過去が語られる。

シーランは第二次大戦でイタリア戦線に従軍しイタリア語を話した。戦争の名の下に正当化される“殺し”を実践してきた。

音楽が50年代ポップスを間断なく繋ぎ、時代を表わす。ラッセルからの依頼、それを完璧にこなすシーラン、妻と三人の娘を抱えたシーラン、シーランとラッセルの友情、そして時々入る政治状況。キューバからアメリカを追い出したカストロは敵だった。何とか再びキューバのカジノ利権を取り戻したい。その為の大統領? マフィアはJFKに肩入れしていた。密造酒で儲けたJFKの父の頃からの繋がりもあった。それらが当時のヒット曲に乗せてテンポ良く描かれる。

ラッセルからジョー・ホッファ (アル・パチーノ) を紹介される。全米トラック運転手組合のリーダー。僕も子供の頃、名前くらいは知っていた。大統領の次に力のある人と言われていた。’50でいえばエルビス・プレスリー、’60でいえばビートルズの様な存在だっだ。

ホッファは全米のトラック運転手を束ね、年金組織を作り、刃向かう組合を潰し、集めた金をマフィアの資金源として運用していた。当時銀行はマフィアに金を貸さなかった。そこをホッファが狙った。マフィアとホッファは持ちつ持たれつ、ラスベガスはホッファの金で作られたと言う。

シーランはホッファとホテルの同室で寝るほどの仲となる。それ程信用していた。父の仕事を怪しんでなつかなかった下の娘も、表向き組合員の為に働くホッファにはなついた。

 

老人介護施設の“今”から1975年へ、さらにそこからの回想、テンポ良くエピソードを並べながら時間軸は激しく動き、さらには似たような名前 (トニーだらけ)、似たような顔、始めは少し混乱した。冒頭とエンドの老境の“今”は額縁として置いておく。過去語りの中の1975年、ここが話の中心。それが始めは解らなかった。一度見をした後、少しネットでその頃のアメリカを調べた。その上で二度見した。俄然面白くなった。

 

1961年、JFKが大統領に就任する。その直後ピッグス湾事件が起きる。シーランはこれにも関わっている。ケネディの弟のロバートが司法長官になり、マフィアとトラック組合の関係を追及、ホッファを目の敵にする。ホッファは、マフィアがJFKを援助したのに対し、ニクソンに資金援助をしていた。

1963年、JFKが暗殺される。これを誰が喜んだか、誰が得をしたか、アメリカ史に詳しければもっと楽しめるのだろう。ラッセルが言う、“大統領を殺る様な奴らだ”

ホッファは逮捕され服役、出所した時はホッファが据えた委員長がマフィアと良好な関係を築いていた。委員長に返り咲こうとするホッファとマフィアとの間に隙間風が吹き出す。シーランは両者の間の板挟みとなる。ラッセルの指示でホッファを説得するも聞く相手ではない。表向きはトラック組合の支部長であるシーランの永年表彰、そのパーティー、家族を始め関係者が一同に集まった晴れ舞台、生バンドが次々と当時のダンスナンバーを演奏する。その裏でシーランが必死にホッファの説得を行う。年金生活に入るなんて真っ平だ! 「アルディラ」をバックにホッファはシーランの末娘 (アンナ・パキン)と平然とダンスを踊る。ラッセルが言う。俺たちは出来る限りの努力をした、でも限界だ! シーランはその意味を解っている。「アルディラ」の何と合うこと、これぞ黒澤の言う、コントラプンクト!

「アルディラ」FOして1975年のドライブする4人、回想が1975年の“今”に追い付く。音楽だらけだったこれまでと打って変わって、ここからは音楽全く無し。この音楽無しの緊迫感を作る為にその前を音楽だらけにしていたのかも知れない。音楽がサスペンスを盛り上げるというのは嘘である。映像がしっかりとサスペンスを描けている時、音楽を付けるとあざとく感情が一方向に流れるだけだ。

ラッセルから告げられる。一人で飛行場へ行け、小型飛行機が用意してある、それでデトロイト(?) に行って3時間で戻れ。シーランは友人ホッファを殺す。住宅街の曲がり角、そこを現場へ向かう車、ことを終えて立ち去る車、同ポジ・ロングショット、これぞ映画! 段取りは完璧だった。

ズリ上がりで結婚式のBGM。ようやく音楽が入る。参列するシーラン、ラッセル、その顔のUP、一連の流れ、声も出ない。

そこで終わったって良い。あるいは介護施設の車椅子のシーランを1シーン入れて終わったって良い。しかし映画はその後を丁寧に描き、介護施設の“今”に繋げる。

 

ホッファは謎の失踪をとげたことになっている。ホッファの妻から泣きながらシーランに電話が入る。シーランは必死に対応し励ます。関係者は真相が解らないまま、何らかの罪で刑務所送りとなる。消された者もいる。シーランもラッセルも敵対したマフィアのトニーもみんな刑務所で老いていく。フガフガになったラッセルにシーランがパンを千切ってあげるシーンは可笑しいやら哀しいやら。ラッセルは刑務所内の教会に通い出す。

シーランは出所し、妻の葬儀に立ち会えた。肺がんは当然であるというナレーションが入る。参列した末娘は未だシーランを受け入れてはくれなかった。

ホッファ失踪の関係者で生き残ったのはシーランだけになった。ジャーナリストが遺族の為にも真相を話してはとインタビューする。誰だれに聞け! とシーラン、亡くなりましたとジャーナリスト、誰が殺った? 癌です!

ここまで来てようやくスコセッシが描きたかったものが解って来る。1975年以降のみんな老いていく姿を描きたかったのだ。

シーランも老いた、ラッセルも老いた、それはデ・二―ロとジョー・ペシに重なる。アル・パチーノも老いた。そしてスコセッシも老いた。みんな老いる。この映画はこれら映画人の総決算、卒業制作の様なものである。それが同時に戦後のイタリア移民の裏社会の歴史でもあり、アメリカの歴史にもなっている。

ゴッドファーザー」「ワンスアポンナタイムインアメリカ」等のマフィア物の集大成なのだ。

 

父親にとって娘の存在は大きい。僕にも娘がいるので良く解る。娘に受け入れてもらいたい、これさえあれば生きた証となる。人生の成り行きで殺し屋となってしまった父を娘が受け入れないのも解る。みんなその時を生き延びる為に必死だった。弱かったからこそ掟を作り纏まり、それを維持する為に人も殺した。今、シーランは人生の終わりを前にして、人生を意味あるものと言ってほしい娘からそれを拒絶されている。シーランもラッセル同様、牧師に向かって懺悔をするのである。

 

音楽は前半、ほとんど既成曲、それが時代を表わすと同時に話の展開を支えて上手く充てている。既成曲『グリスビーのブルース』(映画「波止場」のテーマ) が劇伴の様に使われる。ロビー・ロバートソンのオリジナルの劇伴がハモニカで入る。ブルースのよくある音型、『グリスビーのブルース』と区別がつかない。後ろのリズムは違うのだがどちらもハモニカがメイン。スネアが加わり、EGが加わり、裏に低弦が這ったりする。後半はほとんどがこれ、CBがソロでこのメロを奏することもある。ヘンな劇伴を付けるより気が利いている。ただ見分けが付かない様な既成曲と劇伴だったら、どちらかに統一した方が良かった気がする。

随所に気の利いた台詞がある。どれも忘れてしまったのだが一つだけ残った。ホッファが言う、ラッセルの妻、あれはイタリアのマフィアの名門の娘、イタリア・メイフラワーの一員だよ、なるほど。

役者の素晴らしさは言い出したら切りがない。みんな乗り移っている! と一括り。

 

ネットフリックスが配信をしているとのこと、出資者ということで仕方ないが、スコセッシはこれをTV画面で見るということを想定して作ってはいないはずだ。やはり劇場の大きな画面と真っ暗な闇の中で見てほしい。TVではこの映画の輪郭だけしか伝わらない。

ノンフィクションの原作を良くぞここまで映画のシナリオに作り上げた脚色、見事!

 

監督. マーティン・スコセッシ  脚色. スティーブン・ザイリアン

音楽. ロビー・ロバートソン 音楽監修. ランドール・ポスター (既成曲担当ということか?)

2020.01.26 M・I グランプリ2019

2020.01.26 M・Iグランプリ2019 

 

2019年度は邦画28本、洋画15本、昨年同様これでグランプリを選ぶのは気が引けるのだが「2019私が見たもの」というカッコ付で強行することにいたします。

 

〇音楽賞 「蜜蜂と遠雷」音楽スタッフ

挿入曲「春と修羅」作曲. 藤倉大  オリジナル劇中音楽. 篠田大介

ピアノ演奏. 川村尚子、福間洸太朗、金子三勇士、藤田真央 

音楽プロデューサー. 杉田寿宏

クラシック、ポピュラーに限らず、既成曲をふんだんに使って構成する作品が増えている。一人のオリジナル音楽の作曲家に集約する映画音楽とは別の映画音楽が、今後は増えて行くのだろう。

「凪待ち」の安川午朗、アニメ「怪獣の子供」(久石譲)なども印象に残った。「マスカレードホテル」は佐藤直紀の音楽が辛うじてホテルの格を作っていた。けれど「蜜蜂と遠雷」の音楽はオリジナル、既成曲含め、全体として見事だった。

 

〇主題歌賞 「宮本から君へ」主題歌『Do you remember?』宮本浩次

映画本編と主題歌がほとんど拮抗していた。付け足しの様なものばかりの中で、これは主題歌として意味があった。

 

〇作品賞 「蜜蜂と遠雷

「岬の兄妹」「凪待ち」「火口のふたり」「宮本から君へ」との争い。どれにしても良かった。

 

〇監督賞 真利子哲也 「宮本から君へ」

これも上記5作品「蜜蜂と遠雷」(石川慶)「岬の兄妹」(片山慎三)「凪待ち」(白石和彌)「火口のふたり」(荒井晴彦)「宮本から君へ」(真利子哲也) の監督の中から。誰にしても良かった。

 

〇主演男優賞 池松壮亮 「宮本から君へ」

香取慎吾(「凪待ち」)と迷ったが、しっかりした演技ということでこうなった。

 

〇主演女優賞 松岡茉優蜜蜂と遠雷

蒼井優(「宮本~」)か瀧口公美(「火口~」)か松岡茉優(「蜜蜂~」)、これは迷った。明日になると気が変わるかもしれない。松岡は「ひとよ」でも存在感を発揮していた。

 

助演男優賞 宮崎吐夢「凪待ち」

対抗馬は、一ノ瀬ワタルと井浦新 (ともに「宮本~」)。けれどこれは迷わず。宮崎がいなかったら香取の存在感は半減していた。

 

助演女優賞 やしろ優(「ダンスウィズミー」)

何とも言えない哀愁がある。昨年の江上敬子(ニッチェ「犬猿」)といい、ブルゾンちえみ(「蜜蜂と遠雷」)といい、女芸人がイイ味を出しているなぁ。

 

〇新人男優賞 鈴鹿央士 (「蜜蜂と遠雷」)

ぶっち切り、文句なし

 

〇新人女優賞 恒松祐里 (「凪待ち」)

新人賞は、細田佳央太、関水渚という「町田君の世界」の二人が健闘したが、鈴鹿、恒松には及ばなかった。

 

〇外国映画賞 「ジョーカー」

「ワンス アポン ナ タイム イン ハリウッド」が次点。

2019.11.28 「蜜蜂と遠雷」日比谷TOHOシネマズ

2019.11.28 「蜜蜂と遠雷」日比谷TOHOシネマズ

 

母と幼い娘が連弾をしている。クラシックの良く聴くピアノ曲 (曲名が出てこない) 、母が主旋律を弾き、娘が高音域で自由に戯れる。リバーブを一杯に効かせた高音が雨音に重なる。雨の雫のスローモーション、その背後に黒い馬が神々しく入って来る。それに合わせて重低音の唸り。画面は暗く深く神秘的だ。ピアノ高音と雨音、黒い馬、重低音、まるで宇宙の涯で音楽が誕生する瞬間に立ち会っている様。一体何が始まるのか。

画面・音ともカットアウトしてピアノコンクール会場の明るい表、そこにジャズベースのソロがカットインする。その鮮やかさ、意味など関係無くしびれた。ここにベースソロを持ってくる発想、尋常ではない。そこにメインタイトルが出たか、それとも冒頭だったか、音楽の流れに気を取られメインタイトルの記憶が残っていない。

 

そこからはピアノコンクールで競う四人の天才の話である。

冒頭から7年が過ぎ少女・栄伝亜夜 (松岡茉優) は二十歳になろうとしている。その間に母は亡くなり、天才少女と持てはやされるも音楽する喜びを見失い、コンサートの舞台から逃げ出すという事件を起こしている。二十歳を前にしての復活を掛けた最後の挑戦である。

 

マサル (森崎ウィン) はジュリアード (音楽院) の貴公子と言われ、大本命の優勝候補でマスコミからの注目度も高い。ミスなく正確に弾くことを第一義と教え込まれている。偶然にも亜夜の母から幼い頃ピアノの手解きを受けていた。その頃のあだ名は泣き虫マー君、亜夜と母親の連弾を憧れを持って聴いていた。いずれ作曲もしてクラシックの枠を越えたコンポーザーピアニストになることを目指す。

 

高島明石 (松坂桃李) は音大を出て今は地方の楽器店で働く。妻と子のある27歳、コンテストの年齢制限ギリギリ、最後のチャンス。“生活者の音楽”を目指す。地元の希望の星であり、ローカル局のディレクター (ブルゾンちえみ) がドキュメントとして追い続けている。

 

破れた靴からのパンアップで登場した風間塵 (鈴鹿央士) は最年少、ピアノの神様と言われ先年亡くなったホフマン先生の推薦状を持って登場した。身近にピアノを弾ける環境ではなかったので、音の出ない鍵盤だけのピアノで指先から血が出るまで練習していた。この少年を受け入れるか拒絶するかは審査員次第と推薦状に記されていた。

 

一次予選を経て、二次予選は「春と修羅」(作曲・藤倉大) という宮沢賢治をモチーフとしたコンテストの為のオリジナルの課題曲だ。この曲の後半はカデンツァ、ジャズでいうアドリブだ。真っ白な譜面の上には確か“自由に、そして宇宙的に”(不確か) と書いてあった。

マサルは自らのカデンツァを譜面に起こし繰り返し練習してミスのないものにしていた。明石は宮沢賢治の「春と修羅」の中の“あめゆじゅとてちてけんじゃ”という言葉に触発されたものを考えていた。亜夜は何も浮かばない。風間塵は意に介さない。

明石のカデンツァを聴いて亜夜は急にピアノが弾きたくなる。今弾きたい。けれど練習室は一杯。明石の紹介で街の楽器工房のピアノにたどり着く。そこに風間塵が現れる。“お姉さんもピアノ弾きたくなったんだ” 天才たちに通ずる何かがあったのだろう。窓から射し込む月の光を見ながら、ドビッシーの「月の光」、「ペーパームーン」、ベートーベンの「月光」(「ペーパームーン」を挟み込んだのが秀逸) を指の赴くままに連弾する。月と交歓している様に聴こえる。僕の様な凡人にも音楽する喜びが伝わって来る。

翌日二人はカデンツァを見事にこなし、マサル、明石とともに二次予選を通過した。

最終選考の六人は他の二人が棄権して四人に絞られた。そこではオケとの共演である。

 

オケの指揮者は巨匠と言われている小野寺 (鹿賀丈史)。一人で弾く時と違って思う様にいかない。マサルは一箇所、テンポを自分のピアノに合わせてほしいと要望するも小野寺にねじ伏せられる。亜夜は母との連弾のトラウマか、低音部の一箇所がどうしても弾けない。小野寺に鍵盤を叩かれ、音が出ないのかと思った、と皮肉られる。鹿賀丈史の巨匠ぶりが上手い。風間塵のリハの様子は会場スタッフの会話で語られる。“結局コンバスの位置を動かしただけで終わったな、それにしても小野寺相手に楽器の位置を変えさせるなんていい度胸だ” ステージマネージャー田久保 (平田満) が “あそこは去年床を貼り換えて響きが違っているんだ、彼はそれが解ったんだ” 尋常ならざる天才ぶりをさり気なく会話で処理した脚本が上手い。

 

亜夜はどうしてもステージを逃げ出したトラウマを克服出来ない。

審査委員長 (斉藤由貴)との洗面所での会話 “コンサートピアニストとしての覚悟が足りない、かつてあなたと同じように天才少女と言われた者からのアドバイスよ” (不確か)

明石の “年齢制限ギリギリ、これでダメだったら音楽は諦める” という言葉に “私だってこれが最後の…” と言って泣き出す。

塵からは “お姉さん、帰って来るよね” と言われる。

雨の中、スーツケースを引っ張って逃げ出す。地下駐車場の出口に置かれたグランドピアノ。雨音と黒い馬。決定的な何かがあった訳ではない。でも踵を返して階段を駆け上がりステージのそでに立った時、塵が “お姉さん、お帰りなさい” もう滂沱の涙。音楽する喜びを取り戻した、それを理屈ではなく、映像で説得されてしまった。

塵はホフマン先生 (音楽の神様) が遣わした使者だったのだ。

亜夜の演奏が終わると小野寺が握手を求めた。

コンクールの結果が文字で示されローリングタイトルとなる。結果はどうでも良いのだ。

 

映画を見ながらずっと音楽って何なんだろうと考えていた。世界は音楽に満ちている。蜜蜂の羽音、遠雷、大自然が発する音。静寂の中にも音楽は隠されている。風が吹く中に棒を立てると音が生まれる。虎落笛なんて言葉もある。自然の中に満ちている音を様々な方法で引き出して、それを整理して、長い月日を経て、引き出す道具を楽器という形に作り上げた。世界中にある音楽の中で西洋がそれをドレミという平均律に整え、ピアノという道具を作り出した。それを作曲家と演奏家が一瞬にして消えてしまう音楽として聴覚化し、それが人に感動を与える。これってほとんど宇宙の神秘に触れているようなものだ。作曲家や演奏家は巫女のようだ。

 

海辺の四人、塵が砂浜に足跡を付ける。“これ何だ?” “ウ~ン、アイネク(アイネクライネナハトムジーク)” “それじゃ、これは?” と亜夜。それを見てブルゾンちえみのディレクターが “凄い世界、私には解らない” “俺にも解らないよ” と明石。水平線に遠雷が光る。地球が奏でている。それを見る天才四人。

音楽と選ばれた天才をワンシーンで語る。原作にあるのか、それとも映画のオリジナルか。

 

話は単純なのだ。音楽する喜びを見失ってしまった少女がコンテストで出会った3人の天才たちからの刺激を受けてそれを回復するまでの話。けれど “音楽する喜び” をどうやって映像化するのか。普通の音楽好きが吹奏楽のコンクールで優勝して良かった、というレベルの話ではない。神様に選ばれた天才たちの話だ。どうしても音楽の根源に触れざるを得ない。そんなことを映像化出来るものだろうか。同じことが原作にも言える。いつもながら原作は未読、すいません。原作者は映画化の申し出があった時、驚いたという。きっと文字で表現し得たという自負があったからだろう。だから即物的具体的な映像で表わすのは無理だと思ったのだろう。

けれど映画を見ながら僕は音楽って何かをずっと考えていた。音楽の原初の姿を考えていた。少なくとも底の浅い感動ものを遥かに超えた映画になっていることは確かだ。

 

四人にはそれぞれピアノの吹き替えが付いている。亜夜 (川村尚子)、明石 (福間洸太朗)、マサル (金子三勇士)、風間塵 (藤田真央)、みんな役柄の四人の様に天才と言われる人たちの様だ。人選は四人のキャラクターを考慮している。「春と修羅」のカデンツァは藤倉大がキャラクターに合わせて作ったか、それともこの四人のピアニストに託したか。お月さまメドレーのアレンジは誰なのだろう。川村と藤田に自由にやらせたのだろうか。

指のアップの吹き替えもこの四人が行っている (はずだ)。多くを占めるピアノの演奏シーンだが、撮影は様々なアングルで工夫し、監督自ら行った編集 (多分) も見事、役者本人が弾いている様にしか見えない。塵役の鈴鹿央士はある程度弾けるのでは。憑りつかれた様な弾き方が指も含めて引き画で入っている。プレイバック撮影は丁寧だ。

 

音楽はほとんどがピアノの既成曲、それをズリ上げズリ下げで劇伴の様に充てている。オリジナルの劇伴は前述したジャズベースのソロ、この曲は途中からチェロのピチカートが入って来るもテイストはジャズ、それ以外には劇中の何ヶ所かにブリッジの様にハープのソロが付いている。ピアノだらけの中で良いアクセントになっている。課題曲の「春と修羅」、劇中ではこの曲のカデンツァが物語の重要部分なので、全容が聴けるのはエンドロールのみである。

 

良い映画の役者は脇役も含めてみんな良い。

松坂桃李は努力して成った天才、天賦の才能の前に漂わせる寂しさを良く演じている。役者として幅が出て来た。森崎ウィンを僕は知らなかった。いかにもピアノエリート然とした貴公子をきちんと演じている。鈴鹿央士は役そのまま、この新人を見つけたことが映画を成立させているとさえ言える。

松岡茉優、コメディもやれればシリアスもやれる。「ひとよ」では真逆、これも見事だった。松岡の笑顔は限りなく優しい。天賦の天才であり努力の天才でもある。そしてとっても人間的だ。四人は選ばれたものとしての苦しみを共有してお互いを思いやる。四人は優しい。

現実はみんな福島リラのようなのではないか。もっと熾烈でトゲトゲしいはずだ。師事する先生の派閥や力関係、ビジネスも含めた思惑の中で争われているのだろう。それを描くと単なる人間ドラマになってしまう。それらを全て切り捨てて、“音楽とは何か”を中心に据えた映画にした、しかも立派な商業映画として成立させたことが凄い。

“栄伝さん、入ります” (不確か) と言う田久保役・平田満の圧倒的存在感、小野寺が “さすがに田久保さんがステージマネージャーのホールだけのことはある” (不確か) とさり気なく言っている。脚本も細かい。座っているだけの片桐はいりがこびり付く。斉藤由貴臼田あさ美ブルゾンちえみ (役者開眼) もアンジェイ・ヒラもみんな良い。良い映画だから脇が光るのか、脇が良いから映画が光るのか。

 

映画的メリハリも考慮したクラシックの選曲と使用箇所は誰が決めたのだろう。それも含め、藤倉大、四人のピアニスト、オリジナル劇伴作曲家 (篠田大介) 、それらを纏めた音楽プロデューサー (杉田寿宏)、この「蜜蜂と遠雷」音楽スタッフは良い仕事をした。出来ることならスタッフとして音楽賞の対象にしてあげたい。映画音楽の賞を一人の作曲家に収斂させて授賞させるのは無理な作品が増えている。この映画はまさにそんな例である。

 

石川慶監督、僕は「愚行録」(拙ブログ2017.03.10) しか見ていない。あの導入は見事だった。映像作家としての力は並々ならぬものを感じる。この監督を選んだプロデューサーの英断にも拍手である。

 

さて、僕の主演女優賞候補に、瀧口公美、蒼井優、さらに松岡茉優が加わってしまった。

 

監督. 石川慶  挿入曲「春と修羅」作曲. 藤倉大  オリジナル劇中音楽. 篠田大介

ピアノ演奏. 川村尚子、福間洸太朗、金子三勇士、藤田真央 音楽プロデューサー. 杉田寿宏

2019.11.11「真実  特別編集版」日比谷シャンテ

2019.11.11「真実  特別編集版」日比谷シャンテ

 

大女優ファビエンヌ (カトリーヌ・ドヌーブ) が自伝を出版するという。娘リュミール (ジュリエット・ビノシュ) はゲラの段階で見せるようにと母に頼み、わざわざアメリカから夫(イーサン・ホーク) と小さな娘を連れてやって来る。本は既に出版されていた。ゲラの段階で見せると約束していたのに。あらそう? そんな約束したかしら。

 

大女優と娘、長年の心のわだかまり、それをドヌーブとビノシュが演じる。ドヌーブがドヌーブ本人を演じているような虚実皮膜で描く。脚本も是枝、到る所に過去の些細なわだかまりを散りばめ、それを台詞だけで見せる。回想は使わない、会話劇だ。

サラというかつてのライバルであり、私生活でも近かった女優が触媒の様に耐えず背後にいる。彼女は若くして自殺(?) したのかも知れない。自伝本にサラは出てこなかった。

 

ファビエンヌが現在撮影中のSF映画、母が地球では生きられない病(?) に犯され、宇宙で生活しながら、何年に一度だか地球に戻り娘に再会するというもの。宇宙にいる間母は歳を取らない。サラの再来と言われている若手女優が歳を取らない母を演じ、ドヌーブが老いて行く娘を演じる。年老いて行く娘と若々しい母、これには原作があるらしい。調べたら、ケン・リュウの「母の記憶に」。ケン・リュウは「メッセージ」(拙ブログ2017.05.23) の原作者。何やらそそられるものがある。

老いた娘と若い母という設定は「アデライン、100年目の恋」(拙ブログ2015.10.28) にもあった。可笑しく辛く哀しかった。

 

若手女優との映画の演技をめぐるやり取りがそのままリュミールとの関係に反映される。リュミールはかって女優を目指すも果たせず、今は脚本家として成功している。一時は母と同じ女優だった。サラに対してもリュミールに対しても、ファビエンヌは友人や母である前に、女優だった。若手女優とファビエンヌとのやり取りを見ながら、大人となったリュミールはそれを理解していく。

女優は最後まで真実は語っても、事実は語らない。リュミールの、母の自伝本への不満が溶けて行く。

まるでドヌーブが自分の人生を語っているよう、是枝の企みは見事に成功である。

 

そんなファビエンヌを優しく見つめる男たち。長年のマネージャー、現在のパートナー、突然現れ消えた元夫(リュミールの父親)、そしてリュミールの夫。振り回されつつ優しく見つめる、成熟した大人の男たち。

妖精の様な孫娘が大人たちを繋ぐ。是枝にはめずらしく、自由に演じさせて切り取るというドキュメンタリーな手法ではないようだ。きちんと書いた台詞と演出がある様(?)。是枝作品で子供をこういう風に描くのはめずらしい。この子役がしっかりとそれに応えている。

 

海外ロケと聞くだけで凄い! と思っていた僕ら世代には、フランスとアメリカの大スターを使って臆することなく演出した是枝は頼もしい限りである。

演じるということに一生を捧げた女優という化け物の内面をパリの秋の風景の中に描いた映画、ラストカットの毅然と歩くファビエンヌがドヌーブ自身に見える。

ファビエンヌ、絶えずタバコを吸うのが良い。女優を生きるということは大変なことなのだ。

ただ、結末は見えていた。女優という生き方を選んだ者を描く時、現在を肯定するなら纏め方はこれしかない。ここに至るまでには血の出る様な思いがあったはずだ。リュミールはきっと母を憎んだ。けれど時間が経ち今は大人となり、そんな母を理解出来るようになった。むしろ孤独と老いがファビエンヌの方にかかって来ている。それがあんまり感じられなかった。大人となって大きな心を持つようになった“今”に重点がある。どうしても和解に向けた予定調和になる。回想を使わない描き方は会話劇として洗練されているがデリケートな台詞を聞き逃すと浅いものになってしまう。一度見なので、僕は重要な台詞を聞き逃したのかも知れない。

 

音楽、明るく軽快、ホームドラマのBGMの様、Pfがメイン。

パリの秋に似合う音楽、シャレて軽やか、映画を邪魔せず主張せず、いつも少し離れたところから爽やかに奏でる。付け方も程好い。感情を増幅するようなこともしない。ただ、出来ることならもう一つ離れた視点からの音楽があれば、と思った。同じ時間と空間を母と娘という関係で共有した者同志を包み込むように見つめる視点、そんなところからの音楽 (言うのは簡単であるが)、 それがあると映画はもう一つ深くなった。

映画の方も、敢えてなのか、老いと死を描いていないと感じた。娘と母に流れた時間は描かれる。けれどそれを含めて大きな時間が流れている。それが感じられなかった。

映画にそれが描かれ、そこに遠い視点の音楽が付いた時、随分深いものになったのではないか。

 

脚本・監督. 是枝裕和  音楽. アレクセイ・アイギ

2019.11.12 「イエスタディ」日比谷TOHOシネマズ

2019.11.12 「イエスタディ」日比谷TOHOシネマズ

 

ビートルズ世代としては見ない訳にはいかない。

ギター一本で唄うシンガーソングライター・ジャック(ヒメーシュ・パテル)、夢を諦めようとした矢先、12秒間の世界停電が起き、それが原因の交通事故に遭う。回復した時は前歯が二本折れ、世界が変わっていた。いや何も変わっていない。ただビートルズが存在しない世界だった。Googleビートルズを検索するとカブトムシが出て来た。「イエスタディ」を唄うと何て良い曲、いつ作曲したの? と驚かれた。

でもSFの正確な並行宇宙ものではない。ビートルズの他にコカコーラとハリーポッターが無くなっていた。コーラというとペプシが出て来た。この三つに何かの法則はあるのか。ビートルズ以前? コカコーラ以前? ハリーポッター以前? この三つに僕は法則性を見つけられなかった。解った人は教えてほしい。ただ、検索するとストーンズデヴィッド・ボウイも出てくるがオアシスは出てこなかった。この辺は何となく解る。周りの日常は全く変わっていない。停電前と停電後には同じ時間が流れている。現代の話だ。

要はビートルズを知らない世界で一人だけビートルズを知っているという設定が出来ればよいだけの話だ。発端は他愛無い。

ビートルズの曲をやるとやたらウケる。世間はそれを当然ながらジャックの曲と思う。自分のオリジナルをやっても見向きもされなかったのに。短時間で次々に名曲を生み出して天才と騒がれスーパースターへと駆け上がる。エド・シーランがエド・シーランとして出演していて、彼はモーツァルト、僕はサリエリだという。

慣れ親しんだ曲はいくらでも演奏出来る。でも意外と正確な歌詞は覚えていないものだ。ジャックは必死に歌詞を思い出し、わざわざリバプールまで行き、エリナー・リグビーの墓やペニー・レインを訪れる。

モスクワ公演では「バックインザUSSR」をやって大うけする。いつ作ったんだ? 来る途中の飛行機の中。わざわざ無くなったUSSRにするなんてシブい! (この言い方、今は死語?)

 

ビートルズの音源を使っているのはエンドロールの「ヘイ・ジュード」のみ、あとはこの映画の為の演奏である。役者自身が歌っているのだろうか。きっと歌もギターも役者自身がやっている、吹き替えには見えない。演奏歌ともリアリティがある。そうとう練習したに違いない。ギターだけでやる演奏と歌は、ジョンとポールが最初に曲を作った時はこんなだったのでは? と連想させる。

 

売れない頃から支えてくれたエリー(リリー・ジェームズ)とは、好きなのに告白出来ないままで、カリフォルニアに渡ってしまった。この純愛が映画のもう一つの柱。

レコーディングのスタジオに彼女から、新しい彼氏が出来たと連絡が入る。この衝撃と自分の曲ではないという後ろめたさが重なって、ステージで「HELP」を絶叫する。これがオリジナルと一番かけ離れたパフォーマンス。でも映画的には合っている。

楽屋を黄色い潜水艦の玩具を持った男女が訪ねてくる。ビートルズを知っている人で、盗作を指摘するのかと思いきや、ビートルズの曲を広めてくれてありがとうと言う。この辺がちょっと解らない。この世界にはジャック以外にもビートルズを知っている人がいたということか。

疲れきっているジャックに彼らはメモを渡す。それに従い人里離れた地へ赴くと小屋から出て来たのは78歳のジョン・レノンだった。そっくりさんが演じているのだろう。しかし一瞬驚いた。CGで何でも出来る時代だがやっぱり驚いた。ビートルズが存在しない世界、ビートルズにならなかったジョンやポールが居てもおかしくない。やり取りをよく覚えていない。船に乗り世界中を旅したと言ったか。

ジョンは「Let it be (あるがままに)」と「All you need is Love (愛こそはすべて)」という言葉を授けてくれる。

 

コンサートでジャックはスクリーンに映し出されたエリーに愛を告白する。そして自分が作った曲ではなく、ビートルズというジョン、ポール、ジョージ、リンゴという四人の若者が作ったものであることを告白する。そして楽曲のダウンロードを無料で開放する。怒りまくるアメリカ音楽ビジネス界の面々。

ジャックとエリーは故郷のイギリスで幸せな家庭を築いた。子供は二人。目出たし目出たしという話。

 

他愛も無いといえばそれまでだ。でもビートルズの歌から史実を踏まえつつ上手いエピソードを作り上げるものだと感心する。好きでも歌詞の意味まではしっかりと理解していなかった僕などには対訳が字幕で出るだけでも嬉しかった。読みきれないうちに次に行ってしまい残念な箇所がいくつもあった。

 

音楽史的にはモーツァルトやバッハに匹敵すると言われているのに知らない世代も出始めている。この映画、ビートルズ世界文化遺産にせよ! というアピール映画みたいな気がする。

イエローサブマリンのおじさんとおばさんには、ちょっとカルトの匂いを感じた。

映画として底が浅いとかご都合主義の話の作りとか色々批判も出来ようが、それでも僕ら世代は胸が熱くなる。僕らはビートルズと共に成長した幸運な世代なのである。

 

監督. ダニー・ボイル  音楽. ダニエル・ペンバートン

2019.11.08 「ジョーカー」日比谷TOHOシネマズ

2019.11.08 「ジョーカー」日比谷TOHOシネマズ

 

自分の存在理由を全て否定されたらどうなるのだろう。アーサー(ホアキン・フェニックス)はこの世のものとは思えない異様さで笑い出す。そして自分から意図せぬも、周りから与えられて、負の存在理由を得ることになる。ジョーカーの誕生である。

 

僕は「バットマン」はティム・バートン作品しか見ていない。印象に残っているのは「バットマンリターンズ」(1992)のミシェル・ファイファーキャットウーマンダニー・デヴィートのペンギン男くらい。バットマンは全く印象に残らず。「バードマン」(拙ブログ2015.4.30) で改めて“この人だったのかとマイケル・キートンを思い出したくらい。クリストファー・ノーランバットマンは未見である。

 

冒頭、アーサーの異様なUP、福祉相談員セラピストに向かって“僕が狂っているのか、世間が狂っているのか”(不確か) というのが最初の台詞。“日記は付けているの?”という毎回同じセラピストの質問、薬を増やしてほしいと弱々しくアーサー。映画のラストも同じセラピストとの対峙。この時、ジョーカーとなったアーサーは自信に満ちている。この間に何があったのか。それがこの映画である。

 

アーサーはコメディアンを目指しているが今は出張ピエロ(チンドン屋みたいなもの?) の仕事をしながら母親の介護をしている。ピエロのメイクをして閉店セールの看板を持って店の前に立つ。賑やかな街中でおどけたステップを踏む。それに合わせてホンキートンクPfでラグタイムが流れる。これが最初の音楽。それに合わせてオールドファッションのタイトル文字が出る。50年代60年代のアメリカ映画の匂いがする。

悪ガキが現れて看板を奪い、追ってきたアーサーをボコボコにする。アーサーは抵抗しない。弱い。親方に看板を弁償しろと言われる。同僚が護身用にと押し付けがましくピストルを貸してくれる。子供病院慰問の仕事でダンスを踊っている時ピストルが床に落ちた。それが問題となって首になる。

 

ボロアパートでは母が帰ってきたアーサーに向かって、郵便ポスト見てくれた? と必ず言う。30年前に働いていたというウェイン家に母は毎日手紙を書いている。トーマス・ウェインはお金持ちの良い人、きっと私たち二人の苦境を救ってくれる。ウェインはゴッサムシティの市長選挙に立候補している。

 

アーサーは意味無く笑い出すという病を持つ。おそらく心の許容範囲を超えた時それが起こる。そして貧乏ゆすりも。周りは気持ち悪がる。バスの中で振り向いた子供を笑わせた時、脇の母親が “かまわないで!”(不確か) と言った。それに反応して笑いが止まらなくなる。異様であり気持ち悪い。笑いながら名刺を出す。そこには “笑うのは病気の為です” 裏に “読み終わったら返却して下さい” (不確か、そんな意味) と記されていた。

確かに気味悪い。

 

首になった日、地下鉄でエリートサラリーマン風の三人の男が若い女性客をからかっているところに出くわす。落書きだらけの地下鉄、夜一人で乗ってはいけないと言われていた70年代NYの地下鉄だ。それを見たアーサーが笑いの発作を起こす。何笑ってんだ!、無抵抗のアーサーに襲い掛かる。咄嗟に持っていた拳銃を撃つ。一人が吹っ飛び、二人目も倒れる。三人目は追い駆けて人気のない駅の階段で撃つ。拳銃がアーサーの怒りの出口を作った。初めて抵抗した。そこに「Smile」(Jimmy Durante) がC.I、一瞬だみ声にナット・キング・コールかと思ったが違った。でも女声コーラスが入って映画に合ったアレンジである。一気に高揚する。世界が開ける。興奮に任せその足で密かに憧れて居たアパートの隣人の部屋をノックして、彼女を抱きしめる。幻想か現実か分からない。

拳銃は怖い。怒りを異様に拡大し解放し形にしてしまう。「タロウのバカ」(2019) を思い出す。

暗かった映画がここで一気に負の明るさを放つ。

三人の男はウェインの会社の者だった。ウェインはTVで社員は家族同然、それを殺害されたと怒りを顕わにする。巷では困窮した者たちが金持ち憎しからピエロの扮装をした犯人をヒーロー扱いする。アーサーは密かに社会が自分の存在を認め始めたと感じる。ゴッサムシティ(ブルックリン?) の裏町の階段を、捜査する刑事を尻目に、「Rock and Roll Pt.2」(Gary Glitter、多分) のEGに合わせ、軽快なステップで踊りながら駆け降りる。

 

偶然、母がウェイン宛てに書いた手紙を見てしまう。そこには昔、母とウェインは関係があったこと、身籠って母は身を引いたことが書かれていた。もしかして自分はウェインの子…

 

海沿いを郊外に向かう中距離列車の空撮大ロング、実に効果的。少し前にはゴッサムシティ(NY)の摩天楼の真ん中を垂直に通る道の空撮大ロングがあった。この二つは映像的アクセントとして効果絶大。但し僕はこの2カット、ちょっと生過ぎると感じた。暗い色調の中に突然「世界の車窓から」の様な映像が入った気がした。少し映像的処理をした方が良かったのでは。

 

郊外のウェイン邸の門を挟んで中の子供と向き合う。アーサーは手品をして気を引く。子供は無表情だ。この子供、ウェインの息子ブルース・ウェイン、後のバットマンである。コミックとの繋がりにちゃんと気を配る。駆けつけた老執事は母の名前を覚えていた。“あの妄想癖の女! ”

 

TVショーのホスト・マレー(ロバート・デ・二―ロ)はアーサーの憧れだった。若き日、公開収録の場で、掛け声がきっかけで彼にステージへ招き上げられたことがある。“君にはコメディアンの才能がある” (不確か) この言葉がアーサーの人生を決定づけた。思い込みか、それとも幻想か。

 

慈善団体の集まりの会場に潜り込んだアーサーはトイレでウェインと二人だけで向き合う。母親と関係は無かったこと、極度の妄想癖で病院に収容され、その後養子を貰うもその子を虐待したことを話される。アーサーは優しい言葉が欲しかっただけだった。それに対しウェインは強烈な一発で応えた。アーサーは吹っ飛ぶ。この一発、これがアメリカの正義だ。デカいこと、強いこと、そして金持ちであること、アメリカンマッチョだ。アーサーは、痩せて、弱くて、貧乏だ。会場の外にはアーサーと同じ様な人たちがピエロのお面を付けて集まっている。

 

母が入院していたという病院、そこの資料室にそれらを裏付けるものが残っていた。アーサーは養子であり、出生は不明、妄想癖の母とその同居人から虐待を受けたこと、が記されていた。養子申請の書類も残っていた。アーサーはそのファイルを奪う。アーサーのルーツは全否定され存在理由は無となった。アーサーは母を殺害する。

 

投稿した異常な笑い方の映像が変な評判を呼び、TVのマレー・ショウに呼ばれる。ピエロのメイクのアーサーに外で暴動を起こしているピエロの仮面の集団を煽るのではと危惧するプロデューサー。アーサーは自分に全く政治的意図はない、そして本番では自分をジョーカーと呼んでほしいと言う。何故ジョーカーなのか。これが解らなかった。僕が聞き逃したか見逃したのか。

番組の本番で、地下鉄の殺人は自分であると告白し、マレーをその場で射殺する。カメラに向かって話そうとしたところで放送は中断、テストパターン映像となりハーブ・アルパートの「ティファナ・タクシー」がノー天気にC.Iする。このメリハリが良い。

 

アーサーを形作っていたもの、コメディアンになりたい、母、自分はウェインの子? それらがみんな崩れ去った。自分で葬った。そしてアーサーはジョーカーとして生まれ変わる。敵はデカくて強くて金持ち。つまりはアメリカンドリームを実現させ、今は既得権者となった階層。ウェインその妻その息子、三人が並んだ姿はまさにトランプとその妻とトランプJrだ。息子の目の前で、ウェインと妻を撃つ。

ジョーカーを乗せたパトカーがピエロのお面の集団が溢れる街を走る。そこに「White room」(Cream) がカットインする。パトカーは体当たりされ大破、その中からジョーカーが現れる。ボンネットの上に登り、口の中の血を両手で引き上げてジョーカーの口元を作る。群衆の歓呼に応える。虐げられ貧困に喘ぐ人々のヒーロー、ジョーカーの誕生である。

次のシーンが白いサイコロジカルな部屋でのセラピストとの対峙だったか、間に何かシーンが入ったか、記憶が曖昧である。ただ捨てる物の無いジョーカーは、貧しき人々から存在理由を与えられ、自信に満ちている。病院なのか、取り調べ室なのか、白い廊下をステップを踏みながら、血の足跡を残して奥へ消えて行くジョーカー。「That’s Life」(Fank Sinatra) が軽快に流れる。古き良き時代の自信に溢れたアメリカ…

その後エンドクレジットになって、おっとりとしてホルンや木管の入った「Send in the Clowns」(Frank Sinatra) が流れる。その後劇伴になりローリングがせり上がる。歌詞の意味が解らないのだが、音楽の流れとしては「Send~」は無くて良かったのではという気がする。わざわざ二段構えにする必要はあったのか。多分歌詞に意味があるのだろう…

 

強烈なホアキン・フェニックスの顔が絶えず映し出されて緊張を緩める瞬間がない。ぐったりと疲れる。筋立てはむしろ真っ当ストレート、ただし、どれが現実でどれが幻想か、わざと曖昧にしている。あるいは全部がアーサーの内面の話とも取れる。こういう心のプロセスを経てジョーカーとなったということが解れば良い。

アーサーは、優しくて弱くて華奢で逆らわず、貧乏だ。それらの真逆がウェインであり、それがアメリカンマッチョだ。家族を守り、女子供を守り、悪い奴は成敗する、そして金持ちになる。アメリカの正義。言い換えればアメリカファースト、ある集団の中ではそれは正しい。その外側には、弱くて小さくて貧乏で、さらには肌の色の違う人だっている。ある集団とは既得権者だ。これ程明解に反トランプを宣言した映画は他に無い。この映画はバットマンというコミックの枠組みを借りて描いた見事な反トランプ・エンタティメントだ。バットマンとは正義の名の下に既得権者を守る守護神の様な者、既得権階級の決め事を破り財産を強奪する、そんなジョーカーは既得権階級から見れば悪。しかしどちらが悪か、見方を変えれば容易に反転する。

 

劇伴は重い。Synと生で低音を分厚く作る。全音符、二分音符が長く音を這わせる。メロディらしいものはない。その後ろにSynや打楽器でゆっくりとドンドンドンという打音が入る。何ヶ所か歪ませたようなVCがソロで前面に入る。作曲家はチェロ奏者らしい。この音楽がアーサーの内面を語る。格差社会ゴッサムシティの底辺の人々の蠢きを表現する。

対して既成曲がふんだんに散りばめられる。沢山有り過ぎて覚えきれない。

その中で「Smile」(映画「モダンタイムス」1936のテーマ)、これはジョーカーへ生まれ変ったアーサーへの祝福のテーマだ。地下鉄で拳銃を撃った後、この曲が高らかに流れる。他にも何ヶ所か。アーサーの憧れはチャップリンだ。マレーは単にキッカケ、その先にチャップリンがいる。ウェインを追って慈善団体の催しに忍び込んだ時、そこで上映されていたのはチャップリンの映画(「モダンタイムス」?) だった。ただチャップリンのリベラルは人種を越えない。アーサーの憧れの人は黒人の子持ちである。

そしてもう一つ、「That’s Life」(シナトラ)、これはまさに自信溢れるジョーカーのテーマだ。シナトラが余裕で唄い、謂わばアメリカンドリームを実現させた勝ち組の歌だ。本当はトランプのテーマとして相応しい。監督には今の既得権者達が、成り上がり輝いた、50年代60年代のアメリカとアメリカ映画への憧憬がある。冒頭・エンドのタイトルも含めそれが随所に感じられる。それが今は敵となってしまったという皮肉…

最後のセラピストとの対話から廊下に掛けてジョーカーはこの歌に合わせて軽快にステップを踏む。映画の実質的締めを担う。この曲も他に何ヶ所かで出てくる。が記憶し切れなかった。

「Rock and Roll Pt.2」(Gary Glitter) は階段を意気揚々と下りて来るところ、「Whit room」(Cream) はアーサーを乗せたパトカーがピエロの群衆の中へ突っ込むところで鮮やかにC.I 、這う劇伴の中でしっかりとしたメリハリを作る。既成曲の選び方と付け方は劇伴と互角である。

 

格差社会の中で虐げられた人々を描く、例えば「わたしは、ダニエルブレイク」(拙ブログ2017.3.28) の様な生真面目で真正面からの映画がある。この映画はバットマンという枠組みを使って、それを見事なエンタテイメントにした。口開いて見ても解る映画に慣れてしまった人には、現実と幻想を敢えて曖昧にする描き方は解りづらいかも知れない。それは怠惰なだけだ。しっかり見れば解る。解らなくても思いを感じれば良い。ハリウッドがよくこんな映画を作ったものである。重いが面白い映画にしたところが立派である。そう言えばデ・二―ロは反トランプの急先鋒だったなぁ。

 

銃規制の問題が浮かぶ。香港がWる。世界中にジョーカーが出現する時代に突入したのかも知れない。

一つだけ、病院から持ち出したファイルの中に、養子申請書だけがなかったことにすると、さらに魑魅魍魎が深くなったか…

 

続編はBAT(rump)MAN vs JOKERで決まりだ!

 

監督. トッド・フィリップス  音楽. ヒドゥル・グドナドッティル