映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2018.11.29 「鈴木家の嘘」 新宿ピカデリー

2018.11.29「鈴木家の嘘」新宿ピカデリー

 

「○○家の~」というとどうしてもコメディを想像してしまう。ましてや岸部一徳だ。これは軽いホームコメディに違いない。ところがノッケから引き籠り息子の首つり自殺だ。でも肝心なところは写さず避けている。これはその内カメラが引いて行くとTV画面になり、お茶をすすりながらそれを見る茶の間になるに違いない。“引き籠り自殺なんて可哀そうね、でも押入れの梁に紐吊って首つりなんて出来るもの?”そんな台詞がいつ被って来るか待っていた。ところがそんな台詞はあらわれず、映画はシリアスそのもの。重くて暗い。この導入、想定していたものとあまりに違うので暫く気持ちの整理が付かなかった。

 

引き籠りの長男・浩一(加瀬亮)が自分の部屋で首つり自殺する。母・悠子(原日出子)が発見しショックで記憶を失う。四十九日法要を済ませて親族が病院を訪れると、そこで母は意識が戻る。但し浩一の自殺ということだけは消されたままだ。

“浩一は?” とっさに妹・富美(木竜麻生)が、“お兄ちゃん、引き籠り止めて部屋から出て、おじさんのアルゼンチンの会社で働いているの” 父・幸男(岸部一徳)も直ぐに同調する。叔父・博(大森南朋)は確かにアルゼンチンと行ったり来たりの仕事をしていた。

それからはこの嘘を守る為にみんなが右往左往することになる。重くシリアスな通奏低音は変わらなくもその上にてんてこ舞いのコメディが乗っかる。

富美は浩一から母に宛てた手紙を書き、それを叔父の部下に頼んでわざわざアルゼンチンから投函してもらう。父は浩一の痕跡を捜してソープランドのイヴちゃんの元に通う(このエピソード、どこか見逃したか、僕には良く解らなかった)。みんなそれぞれ浩一の自殺の理由を解ろうとする。それを自分との関わりの中に見つけて自分を責める。ひとり博だけがアルゼンチンの女を妻に迎え、ラテンのノリで映画を明るくする。

嘘を守ろうとするコメディと、自分との関わりの中で自殺の理由を解ろうとするシリアスな謎解きの要素が絶妙にブレンドされて飽くことなく展開していく。それぞれが浩一の死を一所懸命考えたのだ。でも家族と言えど心の闇は解らない。

 

自殺の“何故?”は周囲に深く突き刺さる。こうしておけば良かった、こうしておけば追い詰めることにはならなかった、残された者は自分との関係の中で理由の欠片を探す。それは自分を納得させる作業なのかも知れない。

 

富美は身内の死を抱えた人が集まる心理療法のようなサークルに通う。順番に自分の経験を話すのだが、自分の番が来ると毎回パスする。終盤、遂にパスせず話した、堰を切ったように。この映画のクライマックスだ。カメラはワンカット長回しで富美を映し続ける。木竜麻生が富美と同化してのり移った様に演じる。このシーンはこの映画の白眉だ。僕はこの女優を知らなかった。「菊とギロチン」(残念ながら未見)でも好演したらしい。きっと色んな賞を取るに違いない。

岸部一徳は居るだけでユーモアとペーソスが漂う。岸部が演じると勝手にこちらでその人のそれまでの人生を想像してしまう。脚本で描いたキャラクターを十倍くらい膨らますことが出来る役者だ。

原日出子は嘘を感づいている様ないない様な、そんな淡いを見事に演じていた。本当は一番葛藤すべきは母親だったはずだ。この映画はそこを描いていない。それは映画が終わったあとに始まるのだ。きっと父と妹がそれを支える。そこまで描くともっと重いものになってしまう。映画としては程好い纏め方だと思う。

大森南朋はこんなラテンのノリも出来たのだ。

そして加瀬亮、少ししか映らないが、陰の主役としてしっかりと存在感を発揮した。受験やら就職やらが上手くいかずマザコンゆえに引き籠ってしまった。甘えているのだが、それでも本人はさぞ辛かったんだろうなあと解らせてくれる。

岸本加世子はしっかりと普通のおばさんを演じていた。役者はみんな素晴らしい。

 

やがて嘘はバレる。みんなで一所懸命嘘をついたことがこの家族の求心力となった。母はそれに感謝し、父と妹は浩一の死を納得しないまでも受け入れる。微かに光の射す終わり方である。

 

音楽、明星。主に橋口亮介作品を担当している人だ。ポピュラー系、楽器はピアノかキーボード? 音楽は最小限必要な所のみ。その音楽も考え得る限りのシンプルさ。3拍子4分音符の短い動機。これがテーマとして配置される。ピアノソロだったり、後ろにチェロが薄く入ったり。決して邪魔にならない。多分監督は優しくて邪魔にならないことを一番に考えたのだ。優しさはあるが主張しない音楽が欲しかったのだ。その通りになっている。これはこれで良いのかも知れない。

でも僕は観終わって印象に残ったのは劇中に劇伴として使われていたベートーヴェンピアノソナタ(「悲愴」第二楽章)だった。明るくもなく暗くもなく、希望でもなく絶望でもない、この有名なテーマはこの映画にピッタリだった。いっそこのテーマで通せば良かった。少なくともエンドロールはこれで行ってほしかった。明星の歌が合ってないというのではない。この映画に限らないのだが、エンドロールで突然歌が入るのはよほど奇跡的なことが無い限り、音楽の質が違うゆえに、耳馴染んでないゆえに、違和感がある。大ヒットを狙うタイアップだらけの映画なら仕方ない。宣伝効果を考えれば多少の違和感には目をつむる。しかしこの映画の様に中身で勝負する映画、エンドロールまできっちりと演出してほしいのだ。エンドはこれで行ってほしかった。

僕はこの曲、長らくベートーヴェンと知らなかった。クラシックの素養がないのでビリー・ジョエルの「This Night」(サビはこのメロに歌詞を付けている)だと思っていた。歌詞は解らないがビリーが唄うと強い意志を感じる力強いものになっている。ベートーヴェンと知って原曲を聴いた時、あまりの違いに驚いた。何とも曖昧でひ弱で明るくもなく暗くもない。でもその内、繊細で決して非力ではなく希望だって微かにある、そう聴こえて来た。この曲を映画の中に使ったのは正解である。だったらこのテーマで通せば良かった。あるいは劇中の音楽は全部無しにして、エンドにだけこれを流す、でも良かった。

しっかりした脚本で上手い構成、とても初監督作品とは思えない。良い映画だったので、つい勝手なことを言ってしまいました。ゴメンナサイ。

 

監督・脚本.野尻克己    音楽.明星    主題歌.明星

2018.11.09 「日日是好日」 シネリーブル池袋

2018.11.09「日日是好日」シネリーブル池袋

 

大森立嗣監督、麿赤児の息子、弟は大森南朋。関わった人は、荒井晴彦阪本順治井筒和幸荒戸源次郎、等(情報・ウィキペディアレベル)。「まほろ駅前多田便利軒」「さよなら渓谷」「光」といった作品群。そして風貌。てっきり武闘派かと思っていた。

その監督がお茶?間違いでは?

病気も殺人もレイプも色恋沙汰(少しはあるが)もない、等身大の女性・典子(黒木華)の20年に渡る成長記、それをお茶を通して描く。映画的スペクタクルや誇張はない。舞台はほとんどが茶室とその行きかえり、唯一広い画は海辺のみ。静かで落ち着いて普通、これが何と見事なエンタテイメントになっていたのだ。大森監督、ミスキャスト(ミス・スタッフィング?)ではなかった。

茶道の微妙な所作でエンタメを作る。袱紗の扱い、お茶のズルズルという飲み方、すり足などで笑わせる。干支に合わせた茶碗でゆったりとした人間社会の日常とは違った時間を表わす。ただ掛けられていただけの掛け軸の書が深い精神性を帯びてくる。説明的説教的なところは全くない。ごく自然に納得させてくれる。二十歳の大してお茶に興味もなかった普通の女性の目線で描かれているからだ。少女は成長し、目は深くなり、それが映画にも現れ、観る我々も一緒に茶道というものを理解していく。一人の女性の成長が我が事のように思えてくる。こんなデリケートを武闘派と思っていた監督がやりおおせたのだ。先入観で人を見てはいけない。

そういえば「セトウツミ」(拙ブログ2016.9.14)もこの監督だ。二人の高校生(池松壮亮菅田将暉)が公園の階段に座り、ひたすらオシャベリをする。カメラがそれをほとんど正面からフィックスで捉える。それだけである時期の少年の心の揺れを見事に映画的表現として成立させていた。成る程、デリケートはいけたのだ。

 

二十歳の典子は普通だ。自分が何をしたいかも解らない。勧められて大してやる気もないまま,週一辺お茶の稽古に武田先生(樹木希林)の元へ通うようになる。お茶はまず形からという先生に、それ形式主義じゃないですかと典子、そうやって何でも頭で考えようとする、と軽くいなされる。まず初めに形ありき、中身は後から付いてくる。存在は本質に先んずる、サルトルだ。禅だ。深い考えもないまま、浅薄な連想をする。ありのままを受け入れよ。人間社会の音ではなく、自然の音に耳を傾けよ。雨の音、水の音、冷水とお湯では音が違うこと、お茶を注ぐ音。一見どうでもいいことを、週一回のお茶のお稽古で叩き込まれる。その内そんな態度が身に付いていき、音の違いが分る様になり、掛け軸の“滝”という殴り書きの様な書から音が聞こえてくる。

“滝”のシーン、文字を見つめる典子、グランドノイズと蝉の声がFOして素(無音)となり、ひと間置いて滝音がFIしてくる。このひと間の素が精神世界へ入っていくブリッジの役割をする。これがあるからその後の、“そうだ、ありのままに見れば良いのだ”というモノローグが生きてくる。“滝”の音、FOして茶室の静寂。典子は一つ成長したのだ。こういうデリケートな音付けは良い。

大森監督は音に対して繊細だ。「セトウツミ」でもグランドノイズの処理が上手かった。グランドノイズ、台詞の後ろに流れる街ノイズや空気音、台詞でも効果音でもないから有っても無くてもよいようなものと思われがちだ。突然これが無くなった時初めて気が付く。普通はこれを意識することはない。しかしこれを無くすと同じ画面を突然異次元のものにすることが出来る。映像が精神世界へ飛躍する。大森監督はこの処理が上手い。僕は素を上手く使う監督は好きだ。

週一回のお茶のお稽古、それは週一回非日常の時間を持つということだ。人間社会からちょっと飛躍した時間を持つということ。そこには人間社会を超えた大きな自然世界がある。悠久の時間の流れがある。生まれて死んでいく人間。その途中にある人間社会のアクセクがどうでも良いことに感じられる時間。生命の不思議、生まれて来たことへの感謝。小さな庭の木々にカメラが寄り、それがズームして植物の中に入り、細胞を突き進み、DNAにまで達するあのシーン、「モリの居る場所」(ブログ執筆中)でモリ(山崎努)が飽くことなく見続けたあの生命の不思議だ。

茶道とは、茶室に入り、お茶をたて、茶器を眺め、、掛け軸(禅画)を見つめて、アクセクを脱ぎ捨て、心を宇宙に解放する、それを習慣化するトレーニングなのだ、多分。それが典子と共にこちらにも解って来る。

20年の月日が流れる。その間父の死や失恋や上手くいかない就職や、色んなことがある。それでも週一回のお稽古には通い続けた。いつの間にかそれが典子の心の中心線になっていた。

 

この落ち着いた映画、それに躍動感を与えたのが世武裕子の音楽だ。ピアノでシンプル軽快な4拍子のメロ、中世の香りがするエチュードの様な曲。メロはシンプルだが左手(?)のコードは決してシンプルではない。画面に合わせて転調したように聴こえる。クオリティー高く画面に細かく合わせたこのテーマがお茶の所作に躍動感を与える。映画が弾む。このテーマはチェロやフルートとユニゾンになり、少しづつ成長に合わせて変化する。

もう一つのテーマ、こちらは3拍子、ヴァイオリン・ソロがメロをとる。こちらは落ち着きのある静、感情に則した使われ方。映像は余計な説明を省くべくFOを多用。そのFOの底からスーッと入って来るヴァイオリンは秀逸だ。これらの音楽が無かったら、こんなに流れの良い映画になってなかった。エンタメになってなかった。大森にとっても世武にとっても幸運な出会い。およそ接点のなさそうな二人を組ませた人は凄い。軽快でエチュードのようなピアノテーマを発想した世武が凄い。

 

俳優(男女とも)とは、美形非美形を問わず、目鼻立ちがハッキリして主張の強い顔を持つ人がなるものだと思っていた。黒木華の顔は平べったい。目鼻立ちの主張もない。全く普通だ。僕の中では役者顔の真逆である。最初に印象に残ったのは「小さいおうち」(拙ブログ2014.1.27)。役柄が田舎から出て来た素朴な女中さんということだったので、何とピッタリな娘を見つけて来たものだと感心した。役柄に見事にハマっていた。次に「銀の匙」(2014)でお嬢様役をやった時にはやっぱり役者向きではないなと思った。「リップヴァンウィンクルの花嫁」(拙ブログ2016.4.22)で驚いた。今回の作品でさらに驚いた。今、“普通”をやらせたら右に出る者はいないのではないか。“普通”というのは役者にとって一番難しいのかも知れない。「リップヴァン~」もそうだった。この作品もそうである。どちらも“普通”の女の子でなければダメなのだ。“普通”がいつの間にか輝きだすのだ。二十歳の“普通”の女の子が二十年を経て、落ち着いて少しふっくらとして、「日日是好日」という言葉が解って来る、このデリケートを見事に演じているのだ。平べったい顔の役者は絶対必要だ。ここでもまた先入観は打ち砕かれた。

 

樹木希林は、演じているのか本人がそのままそこにいるのか、見分けが付かない。多分死期が迫っていることを解っていた頃の撮影のはずだ。武田先生と一体となって悠久の時間と生まれてきたことへの感謝を感じながら演じていたのかも知れない。

 

お父さん(鶴見辰吾)が死んだ後の、海辺のイリュージョンは無くてもよかったのでは。“ありがとう!”でお父さんは見えてくる。

 

監督. 大森立嗣    音楽. 世武裕子

2018.10.16 「散り椿」 新宿ピカデリー

2018.10.16「散り椿新宿ピカデリー

 

端正な映画である。シーンシーンがまるで一服の絵の様、完璧で美しい。きっと要求通りの天気になるまで平気で待ち続けた黒澤映画の様な撮影をしたのだろう。脚本 (小泉堯史) も出来る限り削ぎ落とす、おそらく原作 (葉室麟、未読) も端正で凜としたものなのだろう。端正の塊のような映画だ。

おそらく監督には、ドラマを作るということは二の次、美しいシーンを作るということが第一にあった? それは見事に達成されている。

話はシンプル。四天王と言われた若き藩士が家老 (奥田瑛二) の不正を暴こうとするも失敗、その中の一人瓜生新兵衛 (岡田准一) は藩を追われ、妻 (麻生久美子) と流浪の旅に出る。妻は四天王の一人、榊原采女 (西島秀俊) と添うはずも家の反対に合い、新兵衛と結ばれることになった。二人は旅の過程で助け合い深い絆で結ばれて行く。その妻が病で身罷る。妻は、今は藩政の中枢で不正と戦う采女を助けてやってほしい、そしてもう一度故郷のあの散り椿が見たいと言い残す。新兵衛は藩に戻り、紆余曲折を経て、采女と助け合い、悪家老を倒す、という話である。

家老には藩の財政を立て直すという使命があり、その為には清濁併せのむことも必要だった。新兵衛にはどこかに消し切れない妻への猜疑心があり、友である采女への複雑な思いもあった。

それらを描こうとするとドロドロするから通り一遍の描写でサラッとかわす。複雑な感情をサラッとかわすとクライマックスの感動は浅くなる。観終わった後は、岡田の殺陣が凄い、岡田の所作が見事である、絵が綺麗、土砂降りの雨が黒澤映画の様だ、になってしまう。でもドラマは二の次、端正で美しい絵を撮りたかったのだから、思いは達せられている。

映画には、映像と音を使っての様々な表現方法がある。映像にシンクロした台詞や音付けは基本だが、それをズラしたり別のシーンの台詞をぶつけたり、単純な回想やナレーション処理だけでなく、その表現方法は多様だ。この映画は敢えてそれを使わない。回想やナレーションは使うものの、基本は完璧なシーンを作りその音付けをしてシーンとして完結させることだ。狙い通り一つ一つのシーンは完璧、きちんと収まり落ち着き払う。

役者は決められた台詞をきちんと言い、決められた所作をきちんと演じる。落ち着き払ってバレはない。

これって黒澤映画の真逆なのでは? 黒澤時代劇はエネルギーが次のシーンにまで溢れ出している。シーン毎に緩急が必ずある。「散り椿」ドラマに盛り上がりが欠けるからここぞという時に噴き出す血しぶきも土砂降りの雨も気持ちが付いてこないので浮いてしまう。そしてユーモアがどこにも見当たらない。何とシーン毎に独立して美しくドラマとして感動のない、でも見事な絵巻物の様な映画か。

黒澤よりも、静寂ということで僕は「切腹」を思い出した。「切腹」も落ち着き払ったシーンの連続の映画だ。でも火の出るような台詞のやり取りがある。最後は斬り合いの大移動だ。

そして武満徹武家社会の非人間的な不条理を映画の奥の方から見つめる音楽があった。

 

この映画の音楽は情感の薄さを補う為に付けられている。

音楽の種類は3つ (?) 、メインテーマ、バロック調の曲、馬の走りに付けられる西部劇の様なリズム強調の曲。でも印象としてはメインテーマのメロ押しのワンテーマ。マイナーのメロディーラインのハッキリした曲をチェロのソロで奏する。重厚ですっきりとしている。それがピアノになり、チェロとピアノのユニゾンになり、オケとのユニゾンになる。入り方はいつもメロ頭。エモーショナルな所には必ず入る。楽器は多少は違えどワンパターン。初めは情感を補強してくれたのだが、段々と、またか? になってしまった。ドラマの表層に付けられた音楽で奥行を作るような音楽ではない。解っていながら付けざるを得なかったのかも知れない。

美しい映像、絵ズラに合った音楽、ドラマに関係なく、どこを切り取ってもそれなりに見られる美しい絵巻物。監督はそれを狙ったのだろうから目的は達せられたはずだ。

 

岡田准一は確かにこの映画を支えている。良い役者になった。

 

監督・撮影.木村大作   音楽.加古隆

2018.10.15 「止められるか、俺たちを」 テアトル新宿

2018.10.15「止められるか、俺たちをテアトル新宿

 

1970.11.25 三島由紀夫が割腹自決をした。それを若松孝二 (井浦新) が ”本気だったんだ”という。

あの頃の新宿ゴールデン街、行った事がある店が出てくる。若松、足立正生荒井晴彦大和屋竺、高間賢治、大島渚葛井欣士郎赤塚不二夫、クマさん・篠原勝之 (これは本人?) などが、役者が演じているのだが、みんな実名で出てくる。名前くらい知っている人、写真や映像で見たことある人、遠目で実物を見ている人。佐々木守が「ウルトラマン」の脚本を書いたとか、大和屋竺がTVアニメ「ルパン三世」の脚本を書くらしいとか、当時聞いていた話である。「女学生ゲリラ」(1969若松プロ 監督.足立正生) は大学キャンパスの中で見た。その頃、僕は二十歳の若造、これらの人たちは僕には輝いて見えた。

 

事務所にズカズカっと入ってきて一番奥の大きなデスクにデカい態度で座る。下唇をめくれさせて新が演じているそれが若松孝二であると解るのには30秒くらいかかった。カッコ良すぎる! 少しずつ新-若松に慣れてきてからは自分もあの時代に戻った様に一気に入り込んでいった。

十代の頃はヤクザ、臭い飯を喰ったこともある。警官に復習する為に映画を撮っていると前田のママ (寺島しのぶ) の台詞で手短に説明する。事務所で足立らが脚本を巡って喧々諤々やっているのを見て、“お前らは理屈ばっかしなんだ!”と怒やしつける。若いインテリ組は“若松さん、映画も見てないし本も読んでない”と陰口を叩く。でも映画を見ると作るじゃ大違いなのだ。エロと反権力を掲げて若松プロはピンク映画を量産する。製作・監督から営業、金の工面まで含めて若松孝二が引っ張る。清濁併せ呑む若松のデスクの後ろには若松だけが開けられる大きな金庫がある。

この梁山泊にフーテンの様な一人の女が入って来る。あの頃の新宿には日本中から野心と不満と自分が何者か解らない若者が集まっていた。新宿に行けば何かがある、そんな街だった。多分、吉積めぐみ (門脇麦) もそんな中の一人。助監督となり男たちと一緒に突っ走ることになる。撮影現場で一番大変なのが助監督だ。スケジュール・撮影の段取り等全ての責任を負う。インしたら自分の時間なんて無い。労働基準法違反は当たり前。大手は別として大半は今でもそれに近いのでは。まして50年前、しかもピンク映画、言わずもがな。それを引っ張るのがエネルギーの塊、若松孝二。みんな若松に引っ張られて突っ走る。めぐみも男たちと一緒に突っ走る。止ってしまったらダメなのだ。

めぐみは2年間突っ走った。監督として撮らせるという話も出ていた。めぐみは妊娠していた。それがきっかけか、政治色を強める若松らに溝を感じたか。ふと止ってしまった。何を撮りたいか解らないと仲間のオバケ(タモト清嵐) に話していた。突然、めぐみは、睡眠薬で、自殺する。

 

強烈なエネルギーを持つ者の周りには必ず犠牲者が出る。着いて行けなくなった者、自分の道を探そうと袂を分かつ者、足を洗った者もいればメジャーの仕事をするようになった者もいる。めぐみが何で死んだか、映画は余計な説明はしない。見ているこちらが考えるしかない。

それでも男たちは走り続ける。若松と足立がパレスチナで撮って来た「世界戦争宣言」のフィルムを持って自主上映のバスが出発するところで映画は終わる。

 

この映画、めぐみを真ん中に据えたことで、若松孝二とその仲間たちを描くと同時に、青春映画の顔も獲得した。しかも一級品だ。みんなが夢中になって突っ走るあの熱は今でも通じるはずだ。みんな何を撮っていいのか解らないのだ。したり顔でいえば、それが青春なのだ。

あんな熱い日々を持てたことを羨ましくも思う。あんな熱い日々が僕にはあったのだろうかとブーメランが還る。

オッパイは丸出し、当時のピンク映画の映像 (模して取り直しているものもあるか?) も挿入される。こんなに裸が氾濫しながら何と清々しいことか。多分現実はもっとドロドロしていた。その現実から実に上手くエピソードを抽出して、エネルギッシュでしかも清々しい話に纏め上げた脚本 (井上淳一) が良い。いつもながら余計な説明を省いてテンポ良く繋ぐ白石監督の演出が良い。

そして門脇麦。彼女の顔はどこかメランコリックだ。それが時に役との間で違和感をつくる。これまで門脇を良いと思ったことが一度も無かった。この映画で彼女が持つメランコリックが初めて生きた。どう頑張っても明るく振舞っても孤独が漂うめぐみは、ハマった。こういう役に巡り合えた、これは役者冥利だ。

若松が海外に行っている間にめぐみや若手が金庫から金を出して飲み食いし、夜どこかのプールに忍び込んで裸になって大騒ぎする、キラキラした良いシーンだ。

 

僕はめぐみだけはフィクションかと思っていた。このブログを書く為に「女学生ゲリラ」がいつの製作か、あまり使ったことのないネット検索というのをやってみた。そこに助監督として、「吉積めぐみ」のクレジットがあった。モデルはいたんだ。なぜか胸が熱くなった。

 

映画に没入したこと、見てから大分時間がたってしまった等で、音楽の記憶が曖昧である。ただタイトルバックでEGがガツンと入ったのは、その通り! と思った。こういう映画にはEGが良く似合う。

時々聴こえる女声のハミング (門脇麦か?) というよりつぶやくような鼻歌、めぐみの孤独感がひしひしと伝わってきて効果的。よく聴くとジャズのフレーズなのだが、どこかカルメン・マキが唄った「時には母のない子のように」に似ている。「時には~」を使う手もあったかも知れない。

 

監督.白石和彌   音楽.曾我部恵一

2018.09.13「検察側の罪人」新宿ピカデリー

2018.09.13「検察側の罪人新宿ピカデリー

 

キムタク、ニノ、夢の競演が売り。人気者二人、スケジュールはピンポイントだったのだろう。脚本を詰め切れてないのは明らか。原田監督自身の強い思いの企画ならいざ知らず、そうでなければ脚本に第三者を入れるべきだった。三人寄れば文殊の知恵、客観性が出る。この多層で複雑な話、一回見ただけで一体どれ位の人が解るものか。早いカットでの展開、台詞による説明、必死に追ったが僕の理解力では着いていけなかった。

 

実の妹の様に可愛がり、また慕われもしていた少女がレイプの末、無残に殺される。犯人は逮捕されるが検察は物証を固めきれず、無罪釈放、そして時効。これをトラウマとして抱えるエリート検事・最上 (木村拓哉)。その部下として配属される将来を嘱望されている若手検事・沖野 (二宮和也)。

ファーストカットは失念、ただ最初の音楽は、女声のヴォーカリーズの様なSynのVoiceの様な、これから始まるこの映画の事件を予兆させて良い。メロディーもそうだが音色、あとでこれは二胡 (中国の弦楽器) であることが分かる。何故か最上が帰宅すると妻が二胡を弾いているシーンが出てくる。この妻役・土屋玲子、バイオリニストであり二胡奏者でもあり、映画の音楽を富貴晴美と共同で担当している人である。二胡がメロを取る劇伴はこの人の手になる曲なのだろう。珍しい楽器だから何か意味があるのかも知れない。僕には解らなかった。ただこの音色で全編を通すならと期待が膨らむ。

 

最上の深い拘りがもう一つ。祖父はインパール作戦に参加し白骨街道を生き延び、戦後その時死んでいった戦友の思いを書いて作家となった。その作戦がいかに理不尽なものだったか。社会の不正国家の不正、それに対する強い憤りがある。

日常の中で個人としての人間が起こす悪に対する正義、国や社会が犯す悪事に対する正義、最上はこの二つの正義への思いを抱えて検事となる。

 

今、目の前で金目当ての夫婦殺人事件が起きる。その被疑者の中に嘗て少女レイプ殺人で検察が詰め切れず釈放となった男の名前があった。松倉 (酒向芳)、いかにも悪党、というより少し異常性を漂わす。取調室の彼を見て、こいつが犯人に違いないと誰しも思うだろう。この役者、知らなかった。最上の憎悪が蘇る。

一方、代議士の娘と結婚し、法曹から政治の世界に転身し、今は代議士となっている学生時代の刎頚の友・丹野 (平岳大) が、金絡みのスキャンダルで窮地に立たされている。妻の父親は黒い噂が付きまとう政界の大物。丹野は義理の父の疑獄の証拠となる資料を持ち出そうとしてハメられたらしい。こちらは大きな正義を通そうと命懸けで戦う。検察も動き出している。大きな正義は時の政治に左右される。最上は検察の動きを密かに漏らしている。

最上が丹野に言う“君は好きだから結婚したのか、それとも政治的野望の為か”(不確か)

大物政治家は極右勢力と繋がりを持つ。

これだけの状況を端的に解らせるには、小説ならいざ知らず、限られた時間の映画では大変なことである。メインの話はあくまで日常の正義、時効をむかえてしまった少女殺しの犯人を目の前にして、正義の鉄槌を打ち下ろすという話だ。

 

後半からは荒唐無稽な現代版「必殺仕置人」へと飛躍する。沖野が強引な取調べで松倉に時効になった少女殺しを自白させる。しかし時効、裁きは下せない。夫婦殺しも松倉に違いない。最上の正義感と思い込みが松倉をぐいぐいと犯人に仕立て上げていく。酒向芳の怪演が、さもありなんと思わせる。最上は沖野が研修生の頃、思い込みが冷静な捜査の目を曇らせると教えていた。沖野に最上への疑念がわく。そんな時、唐突に真犯人として弓岡 (大倉孝二) が浮上する。飲み屋で夫婦殺しを自慢げに話していたというのだ。随分と都合の良い話だ。弓岡が真犯人となるとまたしても松倉を法の下で裁けないと考えた最上は、弓岡を殺害する。こうなると検事などではない、必殺仕置人、あるいはただの復讐鬼。ピストルやら何やらの手配段取りは裏社会の便利屋・諏訪部 (松重豊) が引き受ける。諏訪部の父親は白骨街道で戦死、最上と諏訪部はインパールへの思いで繋がっている。ギャング映画に必ず出てくる裏社会の便利屋、松重がいい味を出す。ここのところの松重は一時の大杉漣の様。引っ張りダコで外れがない。

この突然の荒唐無稽の展開、そのアリバイ工作の為、細かい説明シーンが次々に出てくる。別件逮捕、ガサ入れ、不都合な領収書をポケットにねじ込む最上、途中でどうでもよくなる。とても追い切れない。要は、少女殺しの犯人を別件でもいいから法で裁こうと、弓岡を殺して松倉を夫婦殺しの犯人として仕立て上げるという最上のストーリーだ。弓岡の死体を埋める為に必死で穴を掘る最上はどう見ても尋常ではない。

最上に疑念を抱いた沖野が反旗を翻し、松倉は犯人ではないことが証明される。どんな証明だったかは忘れた、解らなかった。

松倉の無罪獲得を祝うパーティーが開かれる。そこで白川 (山崎努) が挨拶に立つ。この人てっきり右翼の大物だと思った。この男が丹野の義父の代議士と繋がり、インパールへと繋がる。松倉はその末端、そうして大きな悪と小さな悪が一つの流れとなる。そんなストーリーを勝手に作って見ていた。ところが何と白川は冤罪阻止の人権派の大物弁護士だった。山崎努の出番はここだけ。物語の中心には関わらない。

松倉は怪しげな交通事故で死ぬ。諏訪部の段取りである。

これだけのことをやりながら最上は相変わらず検察官である。沖野はどこまで把握しているのか。訪ねてきた沖野に最上は自殺した丹野が残したメモを示す。命と引き換えに丹野が残した義父の代議士の悪事の記録である。この件を一緒に命がけでやらないか? なのか。俺はもうじき逮捕されるからこれを頼む、なのか。大悪小悪、大小問わず法律を犯してでも正義を通す為には誰かがやらなければならない、なのか。

沖野が不条理な叫びを上げて映画は終る。ユーモアの欠片もなくホッとする所もないまま方的にまくし立てられて終ってしまった感じ。

実はここまで書くのに初めてネットで数多ある映画のブログを見てしまった。基本的に人のブログは見ないことにしている。PCを使いこなせていないということもある。初めて映画のブログを検索してあまりの多さに驚愕。そして粗筋なるものが細かく書かれているブログがあることに驚いた。こういう人は一回見ただけでこんなにも細部までストーリーを把握するのか。僕の何十倍も話を理解している。幾つか参考にした。そうでなかったらこんなに話をきちんとは書けなかった。一度見ただけでよくここまで話を理解するもの…

 

例えば、松本清張 (原作)、橋本忍 (脚本)、野村芳太郎 (監督) の作品には、罪は罪としながらも、どうしようもなく殺人犯への同情がわく。犯人に感情移入が出来る。殺すことになってしまった理由が見ている側が納得するように丁寧に描かれる。法の裁きが理不尽とさえ思える。

最上が執拗に松倉を追い詰める、ついには法の手を経ずに殺す、これにどの位の人が納得して、解るよなぁ、その気持ち、となれるか。その為には少女と最上の関係がしっかりと描かれていなければならない。事件がいかに酷いものだったかが伝わってこなければならない。時効という制度の是非も。この大元が希薄なのだ。

インパールやら丹野の政治的不正の追求やら、こちらはさりげなく挟んで物語に深みを作る程度で抑えて、まずは本筋をしっかり描かなくては。このメリハリが脚本で詰め切れてない。未読だが膨大な原作なのだろう。その中から核となる物語をしっかり押さえ、後は捨てるか匂わせる。百戦錬磨のプロに釈迦に説法とは思うが、それが原作物映画化の基本。本作りに第三者が入っていればこんなに満遍なく焦点絞らずエピソードを並べ、話の辻褄合わせに振り回され、ただ尺だけを喰ってしまう、こんな脚本にはならなかっただろう。時間がなかったのかも知れないが…

 

音楽は冒頭の二胡の曲は時々出てくるものの、全体のトーンはラテン、オケの上にボンゴやコンガ、マリンバ等のラテンパーカッションが載る。ラテンムードミュージックと言った感じ。オープニングとエンディングに流れるメインテーマはマイナーの古臭いメロの曲だが映画には合っている。イイ感じで朗々と流れるが、途中のシーン替わりでバサッとカットアウト (CO) する。COの衝撃が演出効果を作っていると言うわけではない。ダビング (音付け作業) は素人がやっている訳ではないから監督指示の確信犯的COなのだろう。一体どういう効果を狙ったのか。

「タブー」「グリーン・アイズ」「パーフィディア」というラテンの名曲が、BGMとかカーラジオとか劇中音楽ということではなく、劇伴扱いで、かなりオンで流れる。突然「タブー」が流れて、確か丹野と最上が高級ホテルの一室で密会するシーンではなかったか (不確か)。一瞬二人はホモかと思った。

既成曲はすでにそれ自体が色を持っている。はっきりとした狙いがあって使うと大変な演出効果を生むが、単なる音源として劇伴扱いで使うと無様なだけだ。既成曲の力が心地よい流れを作り絞り難く、ついつい長く付けてしまう。その間の映像が持つドラマはノッペリと平坦になり、極端に言えば音楽ビデオの背景映像の様になってしまったりする。全体を見ずそのシーンに合うということだけで音楽を付けてしまうとダメなのだ。

既成音源ではなく新録しているよう。メロを譜面通りにきちんと演奏してフェイクするようなところはなく、古臭いラテンムード音楽のスタイル。これもわざわざ狙ったのだろうか。

 

編集が思ったように行かず、最後の手として強引に既成曲の力を借りて流れを作ったとしか思えない。デビッド・フィンチャー、日本では中島哲也などが、オリジナルや既成曲をゴチャマゼにして強引な音付けをして、上手くいってない映像を何とか力技で見せてしまうということをする。でもこれは音楽に精通していることと、充て方が神業的に上手いことと、全体がそのトーンで音付けされている、ということが揃って成立する。原田監督は音付けの悪あがきを「関ケ原」でもやっていた。音楽の少ない原田作品は「わが母の記」(2012)も「駆け出し男と駆け込み女」(2015)も「日本の一番長い日」(2015)も良い出来だった…

 

少女にまつわる回想で、子供たちが歌を唄うシーンが出てくる。綺麗な合唱ではなく自然に思い思いに。その曲が「Cry me a River」(ジュリー・ロンドンが唄って1950年代にヒットしたスタンダードの名曲)、この選曲は何なのか。川に向かって立ちすくむ少女の後姿のカットがある。それに合わせたとでもいうのか。こんなスタンダードナンバーを子供が唄うわけない。時代的にも1950年代の曲、最上が学生の頃ではない。時代が合わなくても子供が唄う歌でなくても、シーンに合っていて演出効果があれば良い。全く合わない。違和感だけだ。監督の思い入れなのだろうか…

 

キムタクもニノも吉高由里子 (冤罪の父を持つという役) も、熱演なのだろうが、結果として良かったとは思えない。好きな俳優だが大倉孝二はミスキャスト。

 

丹野の葬式ともう一箇所 (?) に大駱駝艦の舞踏の人たちが映っていた。あれは何なのだろう。日本の暗部の象徴とでもいうのだろうか。

 

監督・脚本. 原田眞人  音楽.富貴晴美土屋玲子

2018.08.27 「カメラを止めるな ! 」 TOHOシネマズ新宿

2018.08.27「カメラを止めるな ! 」TOHOシネマズ新宿

 

ユーロスペースに行ったら満席、次の回も立ち見です、この歳で立ち見はキツイ。拡大公開になってTOHOシネマズ新宿に行ったらまた満員、次回も満員です。先日ようやく観ることが出来た。左端、前から3列目。これは映画を正しく見る環境ではない。取り敢えず見る。端から見るスクリーンは歪で音も抜けが悪い。しかし始まるとそんなの気にならなくなった。もともと全編手持ちカメラでブレまくり、音はモコモコで台詞も良く聴きとれない。でも映画にはそんなことを忘れさせる力があった。

 

廃墟と化した化学工場跡の様なところ、ゾンビ映画の撮影中。ヒロイン逢花 (アイドル・秋山ゆずき) の恐怖の顔が気に入らなくて何度もやり直してTake40、堪らなくなって助監が “休憩にします!” 監督 (濱津隆之) の入れ込みようは半端ではない。神谷 (売り出し中のイケメン・長尾和彰) が逢花を慰める。さりげなく “今夜行っていい?” あっ、「ラジオの時間」(1997 三谷幸喜監督作品) だ。パニックするプロデューサー西村雅彦がAD (奥貫薫) にそれとなく同じ台詞を言っていた (正確ではない) 。

ここ、戦時中人体実験が行われたところなんですって、と記録のオバサン晴美 (監督の妻・しゅはまはるみ) が言う。そこに突然ゾンビが現れ、スタッフの一人を襲う。それからはグチャグチャだ。画面に編集の痕跡がない。手持ちカメラのワンカット回しだ。逢花は悲鳴を上げ、監督は “それだよ、その表情だよ、出来るじゃないか” と喜ぶ。噛まれてゾンビ化したスタッフがドアから出たまま襲ってこない。何か間が抜けている。すると晴美が突然TVで見たという護身術 “ポン” を披露する。何だ、これは? 手持ちカメラだけが慌しく動く。ようやくゾンビ登場。カメラは繋がりもヘッタクレも無く強引にドアから入って来るゾンビにパンする。

ゾンビが外に飛び出す。カメラも後姿を追って一緒に飛び出す。走り回った末、草むらで画はローアングルのフィックスとなり、走り去るゾンビがフレームアウトした後もそのままローアングルでカラ舞台を映し続ける。初めてのフィックス、目まぐるしい画面の連続だったので、落ち着いた画面にホッとした。暫くそのまま、画面からゾンビが消えてかなり経つ。走り去ったゾンビが再びフレームインしてくるのか。ちょっと長すぎる。突然カメラが起き上がって見失ったゾンビの後を追う。

ハラハラドキドキというよりシッチャカメッチャカ。最後は屋上、ゾンビ化した神谷の首を切り落として血しぶき浴びたヒロイン逢花のクレーンカット。そこにローリングタイトルが被る。何が何だか分からない目まぐるしさ、草むらローアングル以外、動き回りブレまくるカメラ。美男美女とは言い難い無名の俳優、いかにも自主映画スタッフといった感じの、スタッフ役の役者達 (役者なのかスタッフがそのまま演じているのか?) 、何なんだこれは!

 

ローリング終了と同時に『一か月前』というテロップが入る。そこから前半30分の訳分からない映画の製作に至る種明かしが始まる。伏線の回収なんて知的なものではない。種明かしだ。

監督は、早い安いソコソコが売りの、再現ドラマやカラオケ映像で食いつなぐ、若い頃の情熱を失ってしまった人。妻は元売れない女優、思い込みが強すぎて敬遠され仕事は自然になくなった。今でも夫の仕事の脚本は100回読み込む。カエルの子はカエル、娘も映像制作に携わるが、母親譲りの思い込み、周りと折り合いを付けられず、スタッフから疎まれている。

そこに新たに開局するゾンビチャンネルの開局記念企画、30分生放送全編ワンカットのゾンビ映画という企画が持ち込まれる。それが前半のシッチャカメッチャカ映画だったわけである。

この状況説明の一連、ほとんどTVの再現ドラマレベル、ノッペリと平坦、演出以前。しかし前半と後半のブリッジとして、意図的なのか偶然か、このノッペリ感は案外効果的だったかもしれない。

後半は前半の映画をバックステージから捉える種明かし篇。

 

映画は通常細かいカットで構成される。どのようなカットの積み重ねでシーンを作るかは映像作家の文体のようなものだ。その中に最もシンプルかつ困難なワンシーン・ワンカットという方法がある。一つのシーンをカメラを止めずにワンカットだけで撮り切る方法。

例えば二人だけの会話のシーンでもカメラを止めずに撮るから、話す二人の表情を撮るにはカメラが行ったり来たりしなければならない。それに伴い照明も変わる。録音のマイクは写り込まないようフレームの外を逃げ回る。隅にチラっと写ろうものならカメラマンに怒鳴り付けられる。役者もワンシーンの台詞や動きを全部覚え込んで、止まることなく演じなければならない。スタッフキャストは大騒ぎだ。

まして動きの大きいゾンビもの、その上ワンシーンではなく、全篇をワンカットで撮るというのだ。想像を絶する困難さである。

 

例えば、腕を切られたゾンビ、右手が吹っ飛ぶ。カメラが床に落ちた腕を映す。その間に肩から先の無い作り物を付けて血のりを頭からかける。カットが割れれば床に落ちた腕を写したところでカット、ゆっくりと肩から先のない作り物を付け血のりを被って、そこから、ハイスタート! となる。ワンカットだとそうは行かない。しかも同時生放送。いつまでも床の腕を写す訳にはいかない。悲鳴入れて時間稼ごう。脇の女優が悲鳴を上げる。まだ準備出来ない。カンペにもう一回の指示、不自然な悲鳴が何回も繰り返されたとしたら裏にそんな事情があるのだ。

事ほど左様にワンシーン・ワンカットはスタッフキャスト共に、秒単位の打ち合わせが必要なのだ。それが全編しかも同時放送、前半の30分映画はそんな最上級の困難の縛りの中で作られていたのだ。そんな事情が分かると見方も変わって来る。

どんなに綿密に打ち合わせをしても必ずアクシデントは起こる。スクリプター役の女優が渋滞にはまって間に合いそうもない。生放送、開始を遅らせる訳にはいかない。脚本が頭に入っていて元女優、監督の妻晴美が急遽スクリプター役になる。

撮影開始! カメラ回り出す。もう止められない。出てくるはずのゾンビが出てこない。何でもいいから引き延ばして! のカンペ。そこでスクリプター・晴美がやったのが最近ハマっていた護身術 “ポン” である。この頃になると笑いが止まらなくなっていた。声上げて笑っているのは私だけ。撮影現場を多少知っている人の方が笑えるのかも知れない。

“私はいいんですけど事務所が…” のアイドル逢花、“ここは変えて下さい、理屈に合わない” と理詰めでゴネるイケメン神谷、"でもそこは…、分かりました、そうしましょう!” のソコソコ監督。居る居るアルアルの連続、その都度笑いながら頷く。

 

ローアングルのフィックスはカメラマンが転んで、カメラが草むらに放り出された為だった。暫くして撮影助手の女の子がカメラを拾い上げてゾンビを追う。

プロデューサーは「ただ今事故により放送が中断しております」(不確か) という非常事態用テロップを用意していた。ドタバタで話も繋がらなくなり非常事態、プロデューサーからテロップの指示が出た。“待って!” 娘が台本をめくり乍ら、ここをカットしてこのシーンへ飛べば話は繋がる! 直ぐに現場に指示が飛ぶ。テロップは使わないで済んだ。

最後は屋上、ゾンビになってしまった愛する神谷の首を切り落として空を見上げる逢花のクレーンカット (クレーンを使って高いところから撮るカット)。ところがクレーン機材が落下して使えない。プロデューサーがクレーン無しで行こう!  この時ばかりはソコソコ監督が意地を見せた。どうしてもクレーンで撮りたい。そんな父を見直す娘。さりげなく家族の話にもなっているのだ。なんと我が目頭が熱くなってしまった。お父さんは娘を育てる為にソコソコと言われながら頑張ったのだ。

“手の空いているスタッフキャストは屋上に集まってください” 屋上に築かれた人間ピラミッド、そのテッペンから、血のり滴る逢花の、クレーンカットならぬ人間ピラミッドカット、放送終了まであと5秒、崩れずに持つか、4, 3, 2, 1 無事放送は終了した。ピラミッドを作るみんなの目はゾンビだった。映画作りという毒に感染してしまったゾンビたち。映画に憑りつかれてしまったゾンビたち。

 

観終わって爽やかさが残った。「ラジオの時間」(こちらはラジオの深夜放送が舞台) の、喧嘩や言い争いが散々あった後、放送が何とか終了して、夜の明け始めた街へみんなそれぞれに “お疲れ様、また仕事しようね” と散って行く。あの性懲りもないラジオマンの爽やかさに似ている。

「ラジオの時間」を意識しているのは確かだろう。しかしあちらは潤沢な製作費とズラリ揃えたスター、技術も一流スタッフを揃えて、画面はクリア音もスッキリ、とっても面白く洗練されていた。

こちらは自主映画、お金は無くノンスター、技術的にも至らない所多々。しかしそれを逆手に取って、30分生放送全編ワンカットという設定にした。これで諸々の不備や技術的稚拙さは設定の中に吸収されて、逆にそれがリアルとなる。何と頭の良い設定なことか。撮影現場で日々行われていることが、傍から見るとドタバタの抱腹絶倒喜劇であること、それを夢中になってやっている大の大人はみんな映画に憑りつかれたゾンビであること、何と映画愛に満ちたことか。

 

音楽、EGがガンガン飛ばしてノリを作る。ドラマに付ける云々ではない。ノリが大事だ。それ以上の細かいことを覚えていない。映画に圧倒されてしまい、音楽の細かいところに気が回らなかった。上手くいっていることだけは確かだ。

 

監督.上田慎一郎  音楽.永井カイル  メインテーマ.鈴木伸宏、伊藤翔

2018.08.28「銀魂2 掟は破るためにこそある」丸の内ピカデリー

2018.08.28「銀魂2 掟は破るためにこそある丸の内ピカデリー

 

パチンコのプロの話だと思っていた。前作は観てない。原作が漫画らしいことは想像がついた。パチプロの話ではなかった。

テレ東深夜で福田雄一の名前は知っていた。福田のドラマはペラッペラで有ること無いことをその場の勢いで話して、でもそれが視聴者との地続き感を作り出していて、深夜TVというワクに合っていて、笑えたし面白かった。言葉の面白さだと思った。面白い言葉のアイデアが湯水の如く湧く人なのだろう。時空を越えて出来る限り突拍子もない話にする。それをリアルとは真逆の安手の作り物感を前面に出して表現する。その上に気の利いた言葉が躍る。ストーリー性を持たせたバラエティー、こんな人が出て来たんだ、と思った。同じテレ東深夜から登場した大根仁とは真逆だ。

この面白さは映画で可能だろうか。福田の映画、僕は初めてである。

 

冒頭、ナレーションで、昨年の日本アカデミーの主演男優賞は菅田将暉だった、去年の邦画の興行成績は「銀魂」が第一位で、でも主演の小栗旬は賞にカスリもしなかった、そんなやり取りが小栗と菅田の掛け合いで捲し立てられる。ワーナーのスタジオのロゴ画が何度も出てくる。これがアバンだ。バックステージばらしの自虐ネタ漫才だ。少し笑えた。TVだったらもっと笑えた、きっと。

本筋の冒頭は大家のババアお登勢 (キムラ緑子) のドUPで、家賃払え! 金稼ぎの為に開くことになるキャバクラ、そこに登場するのが、福田組のレギュラー佐藤二郎。例の調子で矢継ぎ早にアドリブの乱れ撃ち。TVで初めて見た時、何て面白い奴だと思った。それから何年経ったか。相変わらずのワンパターン。ワンパターンが悪いとは思わない。TVで見れば今でも可笑しい。ただ、これは映画だ。真っ暗な中でこちらの感度は上がっている。口から出まかせペラペラ言葉は頭の上をちょいとカスっただけで通り過ぎてしまう。少しも笑えない。しかも長いクドイ。映画館で僕が期待するものとは異質だ。それはこの映画全体に言える。TV的ノリをお金をかけて盛大にやってもただただ上っつべりをするだけ、頭にも心にも沁みない。

 

話は一応、真選組の内紛。近藤勲 (中村勘九郎) が出てきて土方十四郎 (柳楽優弥) が出てきて沖田総悟 (吉沢亮 ) が出てきて桂小太郎(岡田将生) が出てきて、高杉晋助 (堂本剛)、徳川茂茂 (勝地涼)、平賀源外(ムロツヨシ) まで出てくる幕末人気者オンパレード。そこに小栗旬菅田将暉と橋本環奈が絡む。裏切り裏切られ、でも最後は友情の熱い絆である。絆はCGの発光する線で視覚的に現わされる。マッドマックスもどきあり、西部劇の列車のアクションあり、未来都市を背景にしたスターウォーズもどきの一騎打ちあり。時代考証何てなんのその、ポップで破天荒、何でもありのギャグだらけ。

役者にはそれぞれ見せ場もあり、みんな楽しそうに演じている。一人、異質の歌舞伎芝居をする勘九郎 (それを狙ったキャスティングか) が、いつもは浮くのが、妙にこの軽~い映画の重しになっている。

 

言葉や瞬間芸や思いつきなどの小技、TVはこれが命だ。リアルタイムのメディア、TVにはしっかりとしたドラマは向いていない。あっても良いがメディアの本来の特性には合っていない。

逆に小技は映画では弾き飛ばされる。大枠がしっかりしたところにチョコっと出る小技は効く。が小技を集めただけでは映画は成立しない。TVと映画では見る側の感度が違うのだ。

暗闇、大きなスクリーン、大きな音、片や明るい茶の間でお煎餅バリバリ食べながら。前者は感度が上がり、より繊細な表現が可能となる。後者は日常のゆるい集中力の中で、より単純に分かり易く、刺激的で短い表現となる。バラエティーの5秒トークである (バラエティーのトークは5秒以内、10秒しゃべると流れが止まる)。

そこだけ切り取れば笑える所は一杯ある。いわばコント集。それを一応はある筋に則して置いていく。でもそれを映画としてひとつに纏める腕力がない。

数日前、「カメラを止めるな!」を観た。こちらもドタバタ、けれど身体を張ったドタバタ、言葉の小技ではない。背後に溢れる映画愛がある。

 

この映画、フカフカの安物のお煎餅を食べている様、味に芯がない。それでも劇場にはフカフカ煎餅食べて喜んでいる女の子たちが沢山いた…

 

ドタバタ映画は好きである。「モンティパイソン」は大好きだった。歳をとって僕の感性が保守的になったのかも知れない。何度もそう疑った。でも掟破りのギャグを、掟破りということだけで喜んでいたのだ、あの頃は。ガツンと来る映画は、いくら人気者を揃えても、いくら思いつきアイデアを並べても、いくらお金をかけても、気の利いた言葉を並べても、それだけでは成立しないのだ。

 

役者は総じて生きいきとしている。同世代が集まって、現場は楽しかったのかも知れない。

小栗旬はちょっと良いなと感じた。少し風格が出て来た。

 

音楽、時々大きい編成が聴こえた。全部Synかと思ったら生オケも使っているよう。この映画に生は贅沢! ドタバタの背後で鳴らすだけの音楽は作曲家にとって、楽しい仕事ではないはずだ。

 

監督. 福田雄一   音楽.瀬川英史