映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2017.12.05 佐藤勝、18回目の命日

2017.12.05 佐藤勝、18回目の命日

 

あっと言う間の一年である。12月5日、南大塚の西信寺にお参りに行ってきた。黄色く色付いた巨大な銀杏の木が初冬の抜ける様な青空に映えていた。境内は落ち葉で埋め尽くされている。ここは佐藤先生と千恵子さん (奥様) が最初に所帯を持った所である。境内の一角にあった家を借りたとのこと、今の御住職がまだ子供で先生たちは随分可愛がったそうである。葬儀の時はその方が務めて下さった。

先生の奥様の千恵子さんはシャンソン歌手である。CDも出している。でも先生は奥様の為に曲は書いていない(はずだ)。コンサートにもあまり顔を出していなかった。ちょっと距離を置いていた様である。僕は何回か小さなお店でのライブに行ったことがある。そこで千恵子さんは必ずPfバックに「一本のえんぴつ」を唄った。これは絶品だった。

「一本のえんぴつ」は1974年に行われた第一回広島平和音楽祭に美空ひばりが出演することになり、急遽、松山善三 (作詞) と先生とで一晩で作ったという、知る人ぞ知る名曲である。色んな人がカバーしている。美空ひばりも良いが千恵子さんのそれは圧倒的だ。完全に自分のものにしていて、千恵子さんの為に書いたようである。

七回忌の時、「佐藤勝 ソングブック」(東宝ミュージック ネットショップ発売) というCDを作った。先生は歌も沢山書いていて、「若者たち」(作詞.藤田敏雄、歌.ブロードサイド・フォー) や「恋文」(作詞.吉田旺、歌.由紀さおり) や「昭和ブルース」(作詞.山上路夫、歌,ブルーベル・シンガーズ) というヒット曲もある。それらの音源を集めてソングライター佐藤勝のアルバムとして纏めた。

先生と千恵子さんの歌を一曲づつ入れることにした。先生は歌も上手で、発足間もないトリオレコードから自作自演のアルバムも出している。シンガーソングライターである。その中の「馬車馬のように」(作詞.伊藤アキラ)を収録した。

千恵子さんの一曲は新録することにした。もちろん「一本のえんぴつ」である。実はこれをやりたかった。Pf 掛け合いスタイルも良いが、弦を入れたオケをバックにするとさぞ良いものになるのでは… 編曲は上野耕路に頼んだ。出だしはPfとの掛け合い、途中から厚い弦がそっと入る。先にオケを録って歌は後からDB。掛け合いスタイルに慣れてしまっている千恵子さんは歌入れの時、唄い難い唄い難いと文句ばっか言っていた。生の掛け合いに慣れてしまっているとガチッとリズムが出来たオケで唄うのは随分勝手が違ったかも知れない。でもコツを掴むとさすがに歌い込んでいる曲、今時のピッチ合わせなんて不要だった。

さり気なく静かに静かに“戦争はいやだ”と歌う。軽くスウィングする様に唄う。ジワッと沁みてくる反戦歌である。

2番に“一枚のザラ紙があれば私は子供が欲しいと書く”という歌詞がある。先生たちに子供は居なかった。欲しかったらしい。千恵子さんがそう唄う。数多ある「一本のえんぴつ」の中で千恵子さんのこの録音は今だにベストだと思っている。

自分勝手で我儘な愛すべき人だった。先生が亡くなった後、千恵子さんは“佐藤っていい人だったわよね”と繰り返し言うようになった。その7年後、千恵子さんも亡くなった。

2017.11.29 「Ryuichi Sakamoto:CODA」 角川シネマ有楽町

2017.11.29「Ryuichi Sakamoto:CODA」角川シネマ有楽町

 

坂本龍一、65歳。9.11があり、3.11があり、自身が癌になり、かつてYMOで世界を席巻し、大島渚と「戦場のメリークリスマス」(1983) で出会い、ベルトリッチの「ラストエンペラー」(1987)「シェリタリング・スカイ」(1990) を担当し、癌の闘病中もイニャリトウの「レヴェナント」(2015) を好きな監督ゆえに受けてしまう。それぞれのエピソードが総花的に並ぶ。映画のシーンも幾つか挿入される。権利処理はさぞ大変だったことだろう。

初めから意図を持って作るドキュメンタリーも良いし、作る過程でテーマが浮かび上がってくるでも良い。最初に想定したテーマが製作の過程で別のものになることだってドキュメンタリーにはある。今までとは違う人物像が浮かび上がる、でも良い。

今更ながら、著名な人であり、様々な活動も知れ渡っている。それがただ並ぶ。残念ながらそこから立ち昇るものが無い。映像による「坂本龍一・入門」、それを劇場公開のドキュメンタリー映画として見せられてしまった。期待し過ぎたこちらがいけなかった。

 

映画が思ったより彼にとって大きなものであることは意外だった。脚本や監督やプロデューサーという他者の意向の下で100%自由な創作が出来ないことの不自由さ、逆にその面白さ、そこからの新しい自分の発見、それは映画音楽をやる作曲家の醍醐味であり、そのコラボがダメな人は映画音楽に向いていない。これは能力ではなく向き不向きの問題だ。坂本はそれが楽しめる方の人らしい。

「戦メリ」で出演依頼があった時思わず、音楽もやらせて下さい、と言ってしまったこと、「ラストエンペラー」で明日戴冠式の撮影をやるから音楽を作ってくれと突然プロデューサーのジェレミー・トーマスに言われて徹夜で作曲したこと、「シェリタリング・スカイ」の音楽録音現場でJ・トーマスからダメ出しが出て、モリコーネはその場で書き直してくれたと言われ、ミュージシャンを待たせてその場で書き直したこと、どれもエピソードとして一つ一つ面白い。海の向こうもこちらと変わらないんだとちょっと安心したりする。映画の人はいつも突然で強引だとは全く同感。その片棒を担いできた者としてはスイマセンと謝りつつも安心したりする。それぞれ面白いエピソードがブツ切りで並ぶ。僕としてはその辺をもっと突っ込んでほしかった。でもそうすると一般性は無くなるか。

 

同世代である。癌を患った。この人、宇宙の果てに思いを馳せている人だなあと感じた。若い頃のツッパリが抜け、飄々穏やか、この姿は素敵だ。音楽とは何か、という源流に遡っている。自然が発する音への関心が語られる。北極にまで、音を釣りに行く。決してこれまでの構築された音楽を否定するわけではない。でもそれが作り上げられた以前、音楽の源、音の原型に関心が向いている。そこを掘り下げるドキュメンタリーにするのは難しかったか。虚構の手を借りる必要が出てくるかもしれない。そうすると別物になってしまうか。自身のアルバムでそれを表現しようとしているのかも知れない。

ドキュメンタリーとしては羅列を超え切れず、底が浅い。でも今の坂本龍一は実にイイ感じになっていることは伝わる。

劇伴に相当するものはない。演奏シーン同録の坂本の音楽が多数。

 

監督.スティーブン・ノムラ・シブル  音楽.坂本龍一

2017.11.10「ブレードランナー 2049」丸の内ピカデリー

2017.11.10「ブレードランナー 2049」丸の内ピカデリー

 

二度見した。一度目は ”タイレル社” や ”レイチェル” と言う言葉を聞いて一気に30年前に戻り、前作を観た時の衝撃を思い出した。灰色に煙るLAの高層ビル群をぬって飛行するブレードランナーの空飛ぶ車、それを俯瞰で捉えたカット、シンセで作るリズム、地上にはビチャビチャと雨が降り、猥雑この上ない。返還前の香港の裏町の様。見上げるとビルの壁面に映し出された巨大な女が手招きしていた。今作ではそれがホログラフで浮き出て来る。あちこちに日本語が氾濫、Oh! ブレードランナーの世界。

30年ぶりの再会に興奮して、話を追い切れなかった。ただ、時々唐突に流れる、劇伴とは全く異質の、明るく汚れのない音楽が気になり続けた。もしかして「ピーターと狼」(以下P&W) ? まさか。ちょっと流れてはブツ切りとなる。精々一小節、二小節は流れない。ウルトライントロ当てクイズだ。何回聞いてもP&Wの出だし。ホログラフのジョイ(主人公Kのバーチャル彼女) の所に流れるから、ジョイのテーマとしてのオリジナルか。それにしては付け方があまりに無造作だ。エンドロールは膨大でどこに音楽関係があるかも分からないまま終わってしまった。

圧倒的映像、シンセのリズムで作り出す音楽の迫力、ジョイは何て可愛いんだ、あの曲はオリジナルそれともP&W ? 一度目はこれだけで終わってしまった。

P&Wだけでも確認したい。エンドロールの既成曲クレジットを見れば解るはずだ。ということで二度見となった。

 

良く出来た映画は一度見だけでは映画が持つ情報量の半分も解らないかも知れない。二度見で解ることが山の様にある。結論が分かっていても、そこに至る伏線小技が一つ一つ納得して行けて一度目より感動したりする。名作は何度見にも耐えられるものだ。

 

エンドロールの終わりの方、既成曲クレジットの中にP&Wはあった。やっぱりそうだった。ジョイが現れる時のジングル、着メロの様なもの。ウォレス社のジングルあるいはKがそう設定したのか。これで唐突に流れてCOするのが納得出来た。シンセだが劇伴とは全く違う音色、灰色に淀む中でここだけ晴天という感じだ。でも何故P&Wなのか。曲調がノー天気な位明るくて健康的で汚れがないのでコントラストが付くという理由は容易に考えられる。でもブーでもピーでもボロンでも良かったはず。映画音楽としてではなく、現実音として流れる訳だからもっとさり気なくても良いはずだ。音量は決して小さくない。しっかりと耳に付く。全体を通した時、この曲が唯一ピュアな点としてあることに気付く。ジョイという存在がそういうことなのだ。この選曲は大成功。でも何故P&Wなのか。曲調以上の意味があるのか。解る人は教えてほしい。

 

主人公はK (ライアン・ゴズリング)、ブレードランナーとして旧型レプリカントを解任 (殺害) する使命を帯びた新型レプリカントである。LAの雑踏を歩く時、“人間もどき”“もどき”の罵声が飛ぶ。ブレードランナーというポジションはたむろする人間たちより多分上なのだ。地球に残されている人間は切り捨てられた人々、選ばれた人々は汚染された地球を捨て9つのコロニーに居るらしい。そこを維持する為に地球がありレプリカントがいる。“もどき”の罵声は、移民のくせして俺たちより良い仕事についていやがる、に聴こえる。人間対レプリカントレプリカントの中でも新型と旧型、LAを囲む巨大な城壁の外Out of worldにはさらなる下層の人間とレプリカントが汚染の中で生きている。これをアメリカの現実いや世界の現実として読み解くことは難しいことではないかも知れない。しかしそれは製作者の本意ではないはずだ。本作は“人間もどき”が人間かも知れないと意識する物語、自分とは何か、を追い求める物語なのだ。レプリカントの苦悩はそっくりそのまま僕ら人間に置き換えられる。

前作でルトガー・ハウアーは寿命が尽きる寸前にデッカード (ハリソン・フォード) を救う。レプリカントにも心があった! で終わる。今作はそれを生物学的視点からアプローチする。生殖能力の有無である。

冒頭、解任される旧型レプリカントがKに最期の言葉として言う。“お前は奇跡を見たことが無い” 奇跡とは… 

レイチェルの遺体の帝王切開の跡、レプリカントが妊娠していた、そして子供を産んだ、レイチェルはそれがもとで死ぬ、子供はどこかで生きている!

タイレル博士 (フランケンシュタイン博士、それとも神? ) は完全な人間を創っていたのだ。

このことが知れたら人間とレプリカントの垣根は壊れる。レプリカントは人間と同等の要求をしてくる。

Kの女ボスがこの事実を無きものにせよと命令する。製造されたレプリカントを解任する指令は受けているが、誕生したレプリカントを解任することはインプットされてないと答えるK。“命令に背くの?”“命令に背くという選択肢はありません”

レイチェルの遺体が埋められていた場所に立てられていた白く立ち枯れた木、その根元に6-10-21という数字が彫られていた。Kが大切にしている木馬の置物にも同じ数字が刻まれている。偶然の一致か。Kは子供の頃、養護施設で仲間の少年たちからそれを奪われそうになったという記憶を持つ。しかし子供の頃の記憶は植え付けられたものであることを知っている。でももしかして… ここからKの自分捜しの戦いが始まる。

 

遺体の毛髪からDNAを解析して調べた結果、6-10-21誕生の全く同じDNAの男女がいたことが解る。双子だったのかも知れない。人間もレプリカントもDNAの塩基はA・T・G・C、私は半分の0・1 、脇でそうつぶやくジョイ。

 

作り出されたレプリカントには当然ながらそれ以前の記憶が無い。それが不安を呼び起こす。

人間の記憶 (あるいは意識) はFI (フェードイン) 、レプリカントはCI (カットイン)だ。CIだとその前の“無”は鮮やかに浮き出る。それが不安を呼び起こす。だからFIの物語が必要なのだ。FIする人間だってある時、それ以前に気が付く。時間の流れの中でポツンと一瞬ある自分、何らかの意味づけがほしい。きっと芸術や宗教はその為にある。

ウォレス社でレプリカントの記憶作りを担当する、免疫不全で無菌室の中で生活するステリン博士はその第一人者、つまりは最高の芸術家ということだ。記憶はフィクションでなければならない。本当に起こったことを移植することは禁じられている。でも彼女はKから子供の頃の木馬の記憶を聞いた時、思わず涙した。この涙、二度見でないと解らない。

彼女の登場シーンはこの映画で唯一の緑色の自然だ。灰色の中で突然現れる緑は凄いインパクトだ。しかしこれもバーチャル。

 

Kは感情を現さない。いつも無表情で任務をこなす。家に帰るとスイッチを入れ、P&Wが流れてジョイが現れる。ジョイはセクサロイドでその為のプログラムが施されている。Kに話を合わせ、思いやり、奉仕する。Kの為に喜び涙も流す。愛しているのだ。そうプログラムされている。Kが、もしかしたら自分はレイチェルから生まれたかも? と話すと、あなたはどこか普通のレプリカントと違っていた、きっとそうよ、と話を合わす。製造番号Kではなく、名前を名乗るべきよ。ジョイはKをジョーと呼ぶ。ジョイの純愛はKに取って、この映画に取って、唯一の救いだ。しかしそれがプログラミングの範囲であることをKは解っている。肉体を持たないジョイが人間 (レプリカント?) の娼婦を連れてきて、その肉体を借りてKと結ばれた朝、娼婦が帰り際にジョイに言う。“合体した時、ちょっとあんたの中を見たけど、何にもない、カラッポね (大体の意味)”ジョイは単一目的の為のシンプルなプログラムなのだ。一途な愛というプログラム。

 

一度見の時、ストーリーが良く解らず、複雑だなぁと思った。二度見で話は単純一直線であることが良く解った。自分はもしかしたらレイチェルから生まれたのかも知れない。それを確かめたい。この思いに則して前作と辻褄を合わせながら、大技小技を使って実に上手くエピソードが並べられていく。理屈で考えられたエピソードも時々入る圧倒的映像で納得させられてしまう。シンセリズムの音楽が話をグイグイと引っ張って行く。素 (無音)を巧みに使う。「ボーダーライン」もそうだったがこの監督は素を本当に効果的に使う。映像のメリハリと音のメリハリで飽きさせることがない。

 

Kはレイチェルの子ではなかった。双子は捜索を惑わす為のデッカードの偽装だった。レプリカント解放運動の女闘士もこの眼で女の子の誕生を見たとKに言った。“もしかして自分がそうだと思ったの? みんなそう思いたがるのよ(大体の意味)”

Kの木馬の記憶はステリン博士が禁を犯して移植した自分の体験だった。

エピソードは綺麗に並んだ。Kはデッカードの居場所を突き止め、最後の確認をすることになる。

 

満を持してハリソン・フォードが登場する。場所は廃墟と化したラスベガス。デッカードはそこで犬と暮らしていた。犬は本物かレプリカントか。そのホテルはかつてエルビスやシナトラがショーを行った所、彼らのショーがバーチャル映像でフラッシュする。エルビスは「エルビス オン ステージ」の映像? 多分そうだ。

ここまでブレードランナーらしいアクションは冒頭以外ほとんど無い。軸足は完全に自分捜しだった。膨大な予算を掛けたハリウッド大作、大衆受けはMUSTである。ここからは無理してのアクション。デッカードとKが戦う必然性が無い。そこで生殖の秘密を知ろうとするウォレスの忠実な女レプリカント・ラヴが戦いの相手となる。水中での戦いはハラハラドキドキを一生懸命演出してクライマックスを作る。水に浸かって大変な撮影だったと思う。でもここだけが狭っ苦しい。セット感がありありと分かる。もちろんただのアクションではなく、この監督らしく、戦いの中でラヴが強引にKにキスをするという演出がある。戦いながらも共にレプリカントとしての運命を生きるエール、良い演出ではある。しかしこのアクションの一連、無いとエンタメにならないのは解りつつ、どこまで必要だったか。他にクライマックスを作る手立ては無かったのか。無理を承知で引っ掛った。

 

ラヴを倒して、ステリン研究所へたどり着いたKは、中に娘がいる、とデッカードに言う。“俺は君の何なのか?”と確かデッカードは言った (不確か) “Father!”とは言わなかった。Kは沈黙で返した。ステリンの記憶を拠り所に生きて来たKにとってはそうだったはずだ。

深手を負って階段に横たわるKに雪が降り積もる。寿命が近いようだ。しかし一度見ではそれが解らなかった。階段に横たわるKの俯瞰のカットが立っている様に見えた。レプリカントだから死なないだろう位に思った。そのままエンドロールになってしまった。この終わり方だけは一考してほしかった。一度見でも寿命が尽きることを解らせなければ。俯瞰ではなく、Kの真横、そこに雪が降り積もっていく。走馬灯の様に人生がフラッシュバックする。そこにジョイの声がリヴァーブ一杯に響く。“ジョー!”長い余韻が切れたところでエンドロールの音楽がカットイン、そうすれば寿命が尽きることが明解になる。ちょっとセンチメンタルかも知れないが、エンタメは座りが良くなければ。今のままだとあまりに曖昧、そして荒涼としている。レプリカントも人間も同じという存在として死なせてあげたい。

Kが一度だけ微笑むところ、どこだったか記憶曖昧。これが気になるのだが三度見はちょっと億劫だ。

ハリウッド大作のエンタメとしてこんな映画を作ってしまうのだから、プロデューサー、監督は凄い。この監督は「メッセージ」でもそうだったが、深淵なテーマを娯楽映画として見せるテクニックを持っている。見せ方音付けが本当に上手いなぁ。

ベンジャミン・ウォルフィッシュ&ハンス・ジマー、この作品との出会いは彼らにとって幸運の一言に尽きる。メロディー感は最後だけ、そこに若干の不満もあるが、全体として見事なコラボレーションである。作り直しを何回もして、大変だったんだろうなぁ。「ダンケルク」とこの作品で、ハンス・ジマースタイルは極まった。

 

監督. ドゥニ・ヴィルヌーヴ   音楽. ベンジャミン・ウォルフィッシュハンス・ジマー

2017.10.31 「ゴジラ シネマコンサート」 無事終了

2017.10.31「ゴジラ シネマコンサート」無事終了

 

10月31日、「ゴジラ シネマコンサート」15時と19時の二回公演は無事終了。樋口真嗣、富山省吾両氏とのプレトークも、司会の笠井さん (CX) の軽妙な進行で、あっと言う間に終わった。二回とも同じ話をした。二人と、二回目は話を変えて笠井さんを慌てさせようかなんて話もしたが、笠井さんの一回目と一言一句違わない進行と質問に、結局はこちらも同じ話をすることになった。

プレトーク終わって客席に入り、二回とも鑑賞、全くのお客の立場で初めて堪能した。

改めて、良く出来た映画であること、そして現代音楽の様々な技法を駆使しつつ解り易く明解、格調高く映画を支え、より深いものにしている音楽に圧倒された。「砂の器」のエモーショナルとは対極の、これもシネマコンサートにピッタリの映画と音楽であると改めて確認した。この二本以上に邦画でシネマコンサートに向く作品を思いつかない。

生の大編成の弦のあの肌触り、コントラファゴットのソロでも充分な不気味さとちょっとコミカルさ、TPのスカっとした響き、TBやTUBAの低くしっかりとしたリズム、ズシッとくるドラやグランカスターの重い迫力、オーケストラって何と贅沢なものなんだと改めて思った。そしてオケを知り尽くして最大限の響きを導き出す伊福部先生の作曲力に圧倒された。さすが「管弦楽法」(先生の著作) の人である。

 

映画には台詞や効果があり、音楽がフルに全面に出ることはタイトルバックやエンドロールを除くとあまりない。その上当時の録音技術は光学録音だったので、音の高い成分と低い成分はカットされてしまう。どんなにCBの重低音を強調して作曲しても機械的にある周波数以下はカットされてしまう。作曲家は当然それを計算した上で作曲する。それでも録音された音は生の音の一回りも二回りも痩せた音になってしまう。台詞バックでは当然ながらレベルは下げられるし、効果が入るとマスキングされて音楽のデリケートなニュアンスは無くなる。でもこの日耳にしたものは作曲家が意図して書いた音楽がそのまま再現されていた。細かいところまで良く解った。こういうことだったのか。

上映会であると同時にコンサートである。だから二公演とも映画の音よりオケの生音を全面に出したバランスだった。台詞バックでも音楽はフルに鳴っている、そこを字幕が補っていた。僕は、シネマコンサートはこのバランスで良いと思った。映画の忠実な再現より少しだけコンサートに軸足を置く。フルオーケストラという贅沢を堪能しない手は無い。もちろん別の考えもあるとは思う。

 

音楽が全面に出た時、微妙に映画の印象が変わるとも感じた。全体に特撮活劇というより鎮魂の印象が強くなった。先生がかつて「ゴジラ」を一言でいうと、という質問に「異教徒の祝祭と鎮魂」と言われて、何てカッコイイ言い方をする! と参ってしまったことがある。異教の神がお祭り騒ぎをして暴れまわり、最期は鎮められる、”鎮められる” が強まった。

芹沢博士がオキシジェンデストロイア―を発見してしまったことの苦悩を独白するシーン、ここにはCelloのソロがほとんど全体に流れている。しかし映画ではほとんど聴こえない。当日はCelloのソロが堂々と芹沢の苦悩の台詞と対峙し、緊張感は高まり苦悩はより深くなった。

 

シネマコンサートに向いてる映画とそうでないものがある。これはしっかりと見極めなければならない。まずは元の映画自体が多くを音楽に委ねていること。シンプルで骨太なストーリーが一貫していること。台詞や複雑な物語に依拠するものは向いていない。そして音楽の量がある程度あること。最後にだけ決定的な音楽が奏でられるでは、映画は成立するがコンサートとしては成立しない。音楽の量は大きな要素である。

僕が見た中では「サイコ」も「カサブランカ」も「ゴッドファーザー」も向いてないと思った。音楽が生で演奏されて、何て綺麗な音楽なんだと感じるのは始めだけ。耳はそれに慣れてしまい、圧倒的な話の面白さに引っ張られてしまう。観終わって、良い映画を観た感はあったが良いコンサートだった感はほとんど無かった。「スターウォーズ」「ハリーポッター」は未見。多分こちらは向いていたのでは。

ラ・ラ・ランド」(未見) や「ウェストトサイド」(良かった) 等のミュージカル、これはまた別である。「ラ・ラ・ランド」は一曲終わる度に拍手をしてよいと指揮者が言ったとのこと。僕は逆に「ゴジラ」の最初 (オペラシティ) の時、途中で拍手しないようにというアナウンスをしたような(?) テーマやマーチが流れたあとファンが拍手しそうな気がして。ミュージカルは舞台でも1曲終われば拍手が起きる。これはこれで良いのかも知れないが劇映画では避けたい。「ラ・ラ・ランド」は一曲毎に場内の照明も変えたとのこと、映画を使ったライブパフォーマンスという考え方なのだろう。ひとつの考え方ではある。

 

ゴジラ」は映像と音楽が多くを語っている。台詞や物語に引っ張られることはない。

本多猪四郎監督も伊福部先生も、まさかこんな形で再現されようとは夢にも思っていなかったに違いない。映画「ゴジラ」は1954年の技術で完成された作品としてしっかりと残っている。これを少し音楽寄りの視点で再現するというシネマコンサート、きっとお二人とも喜んでくれているのではないか、なんて勝手に思う。

2017.09.11 「散歩する侵略者」 シネリーブル池袋

2017.09.11 「散歩する侵略者」シネリーブル池袋

 

宇宙人侵略物SFの形を借りた、夫婦の再生の物語。

3日程行方不明だった夫・加瀬真治(松田龍平) が別人の様になって帰って来る。妻・鳴海 (長澤まさみ) は上手くいってなかった関係を考えると、遂に限界かと思う。程無くして、真治は“僕は宇宙人なんだ”と言う。その唐突をさして違和感も無く受け入れられる様、いくつかのそれまでと違った日常を重ねる。松田がいつもながらのヌーボーとした無感情でそこにただ居るという演技をして違和感を自然なものに変える。「舟を編む」(拙ブログ2013.5.14) も「モヒカン故郷へ帰る」(拙ブログ2016.4.21) も「夜空は最高密度の青色だ」(拙ブログ2017.5.25) も、考えてみるとみんな同じ存在感だ。台詞のスピード感も同じ。トッピング程度のわずかな表情の違いだけで、どれもストンと役にハマっている。演じているのか地のままなのか、そこに居るだけで役に成り切れる、今や余人を以って代えがたい貴重な役者になって来た。だから「ぼくのおじさん」(拙ブログ2016.11.15) なんてやってはいけない。説明も無くそこに居るという役が良いのだ。宇宙人に乗っ取られてしまった役はピッタリだ。

 

真治 (を乗っ取った宇宙人) は地球を侵略する為に、その先発隊としてやって来た。人間とはどんな習性の生物なのか、その情報を収集して本国ならぬ本星へ送信するのが役目である。地球人から、個別の情報ではなく、その認識形態として“概念”を摂取する。その為に、“ちょっと散歩に行ってくる”と言っては誰彼構わず接触して、“あっ、それ貰った”と概念を集める。『家族』『“の”(所有)』『仕事』等。『所有』を奪われた引き籠りの満島真之介は外に出て明るく生き出す。『仕事』を奪われた光石研は会社の机の上で嬉しそうに大騒ぎをする。

一方、高校生のカップルに乗り移った別の二人の宇宙人は、ジャーナリスト・桜井 (長谷川博己) の前で警官 (児嶋一哉) の『自分』を奪う。奪われた者たちは自らを規程していた拘りから解放され、自由になる。哲学の講義でも聞いている様でいささか図式的、映画的膨らみがない。教会の牧師 (東出昌大) の『愛』は複雑過ぎて奪うことが出来なかった。

後半、乗っ取られた真治と乗っ取った宇宙人が一体化して、鳴海が愛する真治に成ろうとする。夫婦の再生の物語。俄然面白くなる。ヘンな言い方だが宇宙人は人間としては無垢なのだ。それまで絶対に食べなかった鳴海が作ったおかづを食べる様になる朝食のシーンが良い。

宇宙人真治は鳴海を通して『愛』を知る。総攻撃直前、それを本星へ伝えたのか。侵略はギリギリで回避される。もぬけの殻となった鳴海と人間に成り切った真治、“ずっと君を守る(不確か、そんな意味)” とナレーションがかぶる。

黒沢清にしては後味爽やか、ストンと落ちる。特別出演の小泉今日子の台詞、“こんな時期だからこそ侵略者が来たのでは? 人間に根本的なところからもう一度考え直させる為に (大体そんな意味? )”それとなくメッセージも込める。

 

長澤まさみが、極々普通の生活者として、宇宙人になってしまった夫に対する、何寝ぼけてんの、とばかりにあくまで普通に対処して、いつの間にか普通にその事実を理解し受け入れる、普通を演じ切って良い。笑わない長澤、大人の長澤である。綺麗な顔立ちと抜群のプロポーションは地味に日常を演じていても魅力的。飽きそうになった時、長澤の美貌と透けて見えるスタイルの良さはジジイの興味を持続させる。

 

もう一方の二人の宇宙人は高校生カップルに乗り移る際に行きがかり上、殺人を犯す。事件を追う桜井は、二人を密着取材、スクープになるかもと、疑いながらも彼らと行動を共にし、彼らのガイドになる。ガイドは概念を盗まれない。10代の生意気なカップルと中年男、60年代のフランス映画の様なシチュエーション。桜井は少年天野 (高杉真宙) にいつの間にか友情の様なものを感じ始める。最後は寿命が尽きそうな天野に、俺に乗り移れ、俺の身体を使え、と言う。

無表情な松田宇宙人と対照的な熱血地球人、荒唐無稽を違和感なく受け入れさせる、長谷川博己も良い。

 

音楽、林祐介。これまでの黒沢清作品より音楽の量は遥かに多い。サスペンスや思わせぶりや走りや愛に関するところ、かつてのハリウッド・エンタメが付けた所に確実に付けている。音楽を必要としない映像を撮って来た黒沢としては180度の転換である。編成はフルオケ、木管金管チェレスタ、ハープ、弦も大きな編成、コーラスも入る。

真治が散歩する。そこにOb、Claの木管で跳ねる様なリズミカルな曲が流れたのには驚いた。Tubaがボッボッボッと低くリズムを刻む。普通だったら、宇宙人、観念的、ミステリアス、と来ればSynの白玉が定番だ。不可解な異空間、ハンス・ジマーだ。ところがどこか「ペルシャの市場にて」のイントロを思わせる様な (的外れかも) 、日常的でコミカルでさえある感じの曲が流れた。全く宇宙的じゃない。真治がユーモラスに見える。この曲は散歩のたんびに出てくる。他は極めてオーソドックスな劇伴。だから余計に目立つ。恐怖の音楽だったりサスペンスでもよいはずだ。その内この曲が馴染んできた。概念を摂取されたって死ぬ訳じゃない。重い音楽を付けたらホラーになっていた。黒沢は今回、ホラーになることを徹底的に避けたのだ。真面目過ぎる黒沢清のこの映画の唯一のユーモアなのだ。

音楽全体は極めてオーソドックス、生オケによる丁寧な劇伴、いわゆる宇宙的響きは一つも無い。感情に則し、サスペンスを煽り、説明的な付け方もし、往年のハリウッドエンタメの劇伴の世界である。自衛隊も出てくる。爆発もある。殺人もある。音楽はそれらを説明しつつ、でも惑わされることなく、この映画が夫婦の愛の再生の物語であることをしっかりと捉えている。最後は愛のテーマがコーラス入りで流れ、綺麗に纏める。

黒沢はエンタメ映画を作ろうとしたのだ。前半が果たしてそうなっていたかは意見が分かれよう。何より音楽がその意図を充分に汲んでエンタメ映画音楽の王道を奏でた。

それにしても“散歩する侵略者”って良いタイトルだなぁ。

 

監督 黒沢清   音楽 林祐介

2017.09.17   「ゴジラ シネマコンサート」  10/31に開催

2017.09.17 「ゴジラ シネマコンサート」10/31に開催

 

東京国際映画祭のイヴェントとして「ゴジラ シネマコンサート」が開催される。

そのプレトークにゲストとして参加することになった。富山省吾 (プロデューサー)、樋口真嗣 (監督) の両氏と私。実は中島春雄さん(初代ゴジラスーツアクター)が参加する予定だったが、先月急逝され、そのピンチヒッターである。何の肩書も無い、無名の私で良いの? 良いというのでお引き受けした。

ゴジラ シネマコンサート」は2014年7月13日「第四回 伊福部昭音楽祭」の第二部として最初に行われた。シネマコンサートスタイルは邦画としては初である。果たして技術的に可能か、こんなことしてゴジラファンは怒らないか、10分以上演奏が無い時オケの人はどうするだろうか、その時指揮者は座っていて良いものか、イヴェントとしてサマになるか、切符は売れるか、様々な不安を抱えてのスタートだった。

技術的には東宝サウンドスタジオのスタッフが音楽を除去した台詞と効果音だけの音声を見事に作ってくれてほぼ解決した。一体どうやったのか? というくらい完璧に音楽を抜いてくれた。例えばアナウンサーが絶叫する最後の放送、あの台詞のバックには音楽がベッタリ流れている。それが見事にアナウンサーの声だけになっていたのだ。あれは未だに解らない。厳密には声の後ろに音楽は残っているらしい。でも私の耳では解らなかった。ここに生の音楽が被れば、まず誰にも解らないよ。その言葉が心強かった。

切符は売り出したら、あっと言う間に売り切れた。関係者やスタッフの席をどう確保するかを心配する位だった。

当日は、和田薫さんが一番大変だった。譜面を修復した和田さんはそれを画面に合わせて指揮しなければならない。普通のコンサートの指揮と違って、画合わせがあるのだ。テンポは曲ごとにみんな違う。相当練習されていたのだと思う。一つのキッカケも狂うことなく、ピタッと画面に合っていた。

来てくれた人はみんな喜んでくれた。ホッとした。

 

2015年1月18日、NHKホールで二回目をやった。前ほどの不安は無かったが、会場が広いので若干のPA (音量増幅) を使った。通常オーケストラの演奏会でPAは使わない。前回は使わなかった。NHKホールは大きいので若干PAを通した方が迫力が出ると音響スタッフからのサゼスチョン。でも使いすぎると生オケの良さが無くなる。その塩梅が難しい。それを絶妙にやってくれた。音としては前回より良かった。これは場所ごとに必ず付いて回るものなのだ。

その晩のツイッター樋口真嗣氏がお褒めの言葉をつぶやいてくれていた。

 

その後、京都、福岡と行った。札幌でもやるとのこと。そして10月31日の東京フォーラムCである。

洋画のシネマコンサートは花盛り。「スターウォーズ」には負けられない。

 

http://2017.tiff-jp.net/ja/godzilla_concert/

2017.09.15 CD 「ゴジラ伝説Ⅴ」

2017.09.15 CD「ゴジラ伝説Ⅴ」

 

1983年、アルバム「ゴジラ伝説」を制作した。プロデューサーは私と藤田純二氏 (当時はキングレコード、その後独立してユーメックスを起こす) 。プロデューサーと言ってもビジネス周りをやっただけで企画とサウンドプロデュースと演奏は井上誠がやっている。井上君はヒカシューのKeyboard、当時ヒカシュー巻上公一のVocalで“二十世紀の終わりに恋をしたら~”がヒットしてメジャーなバンドだった。

始まりは特撮オタクが持ってきた1本のカセットテープ、聴くと伊福部特撮映画音楽をSynで自宅録音したものだった。もちろん「ゴジラ」も入っている。面白いと思い、藤田さんに話をしてキングからのリリースを決めた。宅録をそのままレコード化は出来ないのでキングのスタジオで録り直すことになった。ヒカシューのメンバーを始め、ゲルニカ(上野耕路戸川純) やら何やら、連日井上君の仲間が入れ代わり立ち代わりしてレコーディングに加わった。精々一週間もあればと高をくくっていたのが一か月かかった。ローバジェット企画がそうではなくなってしまった。

ちなみにレコードはもちろんLPである。

有り難いことにそれなりに売れてキングに迷惑を掛けることにはならず、調子にノッて「ゴジラ伝説Ⅱ」「ゴジラ伝説Ⅲ」まで作り、今は無き渋谷東横ホールでライブまでやった。壊す直前だった。その後CDBOXとして3枚に何曲かの新録音を加えて「ゴジラ伝説Ⅳ」がリリースされた。その頃はもう僕や藤田さんの手から離れていた。

 

何年か前、渋谷クワトロで「ゴジラ伝説」ライブがあった。管3本、キーボード2、Dr、EG、EB、Vocal巻上公一 + チャラン・ポ・ランタンという編成。かつての「ゴジラ伝説」とは比べようもない狂乱の祝祭空間を現出させていた。メロディーをSynでなぞっていた頃から比べると、伊福部音楽への理解は比べようも無い深みに達していた。

 

本年4月、そのメンバーで何とNYライブを決行した。“ゴジラ”という追い風に乗って「ゴジ伝」ライブを彼の地でやってのけたのだ。あのトランスはニューヨーカーにも通じるはずだ。

レコーディングもしてきた。それが「ゴジラ伝説Ⅴ」として9/20キングレコードよりリリースされる。9/21には発売記念ライブが調布仙川劇場で行われる。

35年という時間を味わいに行こうと思う。