映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2017.08.12「砂の器 シネマコンサート」文化村オーチャードホール

2017.08.12「砂の器 シネマコンサート」文化村オーチャードホール

 

砂の器」シネマコンサートを見て来た聴いてきた。2014年7月13日「第4回 伊福部昭音楽祭」(オペラシティ―) で「ゴジラ」(1954) を全編上映・全曲生演奏した時は、まだこのスタイルの演奏上映を何と呼べばよいか的確な言葉が無かった。“映画全編上映全曲生演奏”と、呼び名より説明だった。シネマコンサートというと映画音楽を演奏するコンサートと受け取られた。その後このスタイルのコンサートが「ゴッドファーザー」や「ハリーポッター」を始めとしてアメリカから沢山やってきて、今や“シネマコンサート”と言うと“映画全編上映全曲生演奏”スタイルを指すようになった。ここ数年で一気になった。海外物の力は大きい。

ゴジラ」をやった時、邦画で他にやれるとしたら「砂の器」しきないと思っていた。これは誰でも思いつく。今日、それが実現した。改めて見て、この映画はまるでシネマコンサートの為に作られたようだ、と思った。映画は後半をほとんど映像と音楽に委ねている。これが見事にシネマコンサートのスタイルにハマった。ここまで見事にハマるとは思わなかった。

前半は丹波哲郎森田健作の刑事が追う殺人事件の謎解きである。音楽は少ない。あっても短い。

休憩を挟んで後半はほとんどが音楽である。事件の全容を説明する捜査会議と、それに合わせて父子の日本海沿いを行き場なく彷徨する映像と、今は新進作曲家となっている息子・和賀英良の「宿命」発表演奏会とが、同時並行する。「宿命」はそのまま彷徨する父子の映像のBGMとなり台詞も効果も無しに音楽に委ねられる。それを生演奏でやったのだ。シネマコンサートを想定した映画としか思えない。そんな訳ないのだが。

時々息継ぎのように捜査会議が入り、ここだけは丹波哲郎の台詞、音楽は無い。この間合いが実に絶妙。台詞と音楽がバッティングするところはほぼ無い。

一箇所だけ捜査会議が終わった後、逮捕状を持って丹波と森田、コンサート会場の舞台裏、演奏の音は聞こえている。森田が “父親に会いたくなかったんですかね” “この音楽の中で会っているんだ” (不確か、そんな意味)と丹波 、ここだけは音楽と聴かせたい台詞がバッティングした。台詞をかなり強引に上げていた。それでも良くは聞こえなかった。だからと言って、そこだけ急に演奏を弱めるのも不自然、音楽としても弱めるところではない。生演奏、ボリュームは付いていないのだ。映画は、ステージの裏だからボリュームを下げてオフで聴こえているようにしているはずだ。しかしそれを演奏会でやったら不自然極まりない。ここは難しいところ。

確かにこの台詞は聴かせたい。けれどここは音楽本位で考えるべきだと思う。映画をそのまま再現するということではないのだ。上映会であると同時に演奏会でもあるのだ。演奏会としての映画と違った嘘があっても良い。演奏会として心地よい方を選ぶべきだ。だから無理に台詞のレベルを上げる必要も無かった。きっと映画のスタッフは逆の意見だと思うが。

意味合いは違うが、「ゴジラ」の時、ダビングで外したと思われる音楽を、和田(薫)さんと相談して復活させた箇所がある。録音されテープに残っていてMナンバーも明らかにその箇所を指す。タイムもピッタリ。映画では音楽は無く、効果だけで行っている。音楽が続くより、映画はその方がメリハリが付く。でも演奏会では音楽があった方がみんな喜ぶはずだ。無暗に増やしたのではない。そのシーンの為に書かれた音楽なのだから。演奏会の為のそんな細かい嘘は必要だと思う。僕はシネマコンサートはまず音楽本位に考えるべきだと思う。

 

さて、公開当時も感じていたのだが、ピアノを弾く和賀英良の指先のアップ、もちろん加藤剛ではなくピアニストがやっているのだが、これがどう見ても女の手なのだ。ムチムチしている。男のピアニストを手配出来なかったのか、これだけは昔から気になっていて、今日も改めて気になった。

 

10月31日には東京国際映画祭のイヴェントとして「ゴジラ」のシネマコンサートがある。招聘物では「ラ・ラ・ランド」。シネマコンサートは花盛り。でもシネマコンサートに向いている作品とそうでないものがある。その辺は慎重に選ぶべきである。全く違うが「ゴジラ」と「砂の器」は邦画ではこのスタイルにピッタリの双璧である。

 

8/15 訂正とお詫び

映画「砂の器」のピアノを弾く指先のアップは長らく女性と思っていたのですが、作曲者でピアノも弾かれていた菅野光亮氏ご自身と、松竹の関係者より指摘を受けました。長きに渡る我が思い込みによる失礼の段、お許し下さい。