映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2017.10.31 「ゴジラ シネマコンサート」 無事終了

2017.10.31「ゴジラ シネマコンサート」無事終了

 

10月31日、「ゴジラ シネマコンサート」15時と19時の二回公演は無事終了。樋口真嗣、富山省吾両氏とのプレトークも、司会の笠井さん (CX) の軽妙な進行で、あっと言う間に終わった。二回とも同じ話をした。二人と、二回目は話を変えて笠井さんを慌てさせようかなんて話もしたが、笠井さんの一回目と一言一句違わない進行と質問に、結局はこちらも同じ話をすることになった。

プレトーク終わって客席に入り、二回とも鑑賞、全くのお客の立場で初めて堪能した。

改めて、良く出来た映画であること、そして現代音楽の様々な技法を駆使しつつ解り易く明解、格調高く映画を支え、より深いものにしている音楽に圧倒された。「砂の器」のエモーショナルとは対極の、これもシネマコンサートにピッタリの映画と音楽であると改めて確認した。この二本以上に邦画でシネマコンサートに向く作品を思いつかない。

生の大編成の弦のあの肌触り、コントラファゴットのソロでも充分な不気味さとちょっとコミカルさ、TPのスカっとした響き、TBやTUBAの低くしっかりとしたリズム、ズシッとくるドラやグランカスターの重い迫力、オーケストラって何と贅沢なものなんだと改めて思った。そしてオケを知り尽くして最大限の響きを導き出す伊福部先生の作曲力に圧倒された。さすが「管弦楽法」(先生の著作) の人である。

 

映画には台詞や効果があり、音楽がフルに全面に出ることはタイトルバックやエンドロールを除くとあまりない。その上当時の録音技術は光学録音だったので、音の高い成分と低い成分はカットされてしまう。どんなにCBの重低音を強調して作曲しても機械的にある周波数以下はカットされてしまう。作曲家は当然それを計算した上で作曲する。それでも録音された音は生の音の一回りも二回りも痩せた音になってしまう。台詞バックでは当然ながらレベルは下げられるし、効果が入るとマスキングされて音楽のデリケートなニュアンスは無くなる。でもこの日耳にしたものは作曲家が意図して書いた音楽がそのまま再現されていた。細かいところまで良く解った。こういうことだったのか。

上映会であると同時にコンサートである。だから二公演とも映画の音よりオケの生音を全面に出したバランスだった。台詞バックでも音楽はフルに鳴っている、そこを字幕が補っていた。僕は、シネマコンサートはこのバランスで良いと思った。映画の忠実な再現より少しだけコンサートに軸足を置く。フルオーケストラという贅沢を堪能しない手は無い。もちろん別の考えもあるとは思う。

 

音楽が全面に出た時、微妙に映画の印象が変わるとも感じた。全体に特撮活劇というより鎮魂の印象が強くなった。先生がかつて「ゴジラ」を一言でいうと、という質問に「異教徒の祝祭と鎮魂」と言われて、何てカッコイイ言い方をする! と参ってしまったことがある。異教の神がお祭り騒ぎをして暴れまわり、最期は鎮められる、”鎮められる” が強まった。

芹沢博士がオキシジェンデストロイア―を発見してしまったことの苦悩を独白するシーン、ここにはCelloのソロがほとんど全体に流れている。しかし映画ではほとんど聴こえない。当日はCelloのソロが堂々と芹沢の苦悩の台詞と対峙し、緊張感は高まり苦悩はより深くなった。

 

シネマコンサートに向いてる映画とそうでないものがある。これはしっかりと見極めなければならない。まずは元の映画自体が多くを音楽に委ねていること。シンプルで骨太なストーリーが一貫していること。台詞や複雑な物語に依拠するものは向いていない。そして音楽の量がある程度あること。最後にだけ決定的な音楽が奏でられるでは、映画は成立するがコンサートとしては成立しない。音楽の量は大きな要素である。

僕が見た中では「サイコ」も「カサブランカ」も「ゴッドファーザー」も向いてないと思った。音楽が生で演奏されて、何て綺麗な音楽なんだと感じるのは始めだけ。耳はそれに慣れてしまい、圧倒的な話の面白さに引っ張られてしまう。観終わって、良い映画を観た感はあったが良いコンサートだった感はほとんど無かった。「スターウォーズ」「ハリーポッター」は未見。多分こちらは向いていたのでは。

ラ・ラ・ランド」(未見) や「ウェストトサイド」(良かった) 等のミュージカル、これはまた別である。「ラ・ラ・ランド」は一曲終わる度に拍手をしてよいと指揮者が言ったとのこと。僕は逆に「ゴジラ」の最初 (オペラシティ) の時、途中で拍手しないようにというアナウンスをしたような(?) テーマやマーチが流れたあとファンが拍手しそうな気がして。ミュージカルは舞台でも1曲終われば拍手が起きる。これはこれで良いのかも知れないが劇映画では避けたい。「ラ・ラ・ランド」は一曲毎に場内の照明も変えたとのこと、映画を使ったライブパフォーマンスという考え方なのだろう。ひとつの考え方ではある。

 

ゴジラ」は映像と音楽が多くを語っている。台詞や物語に引っ張られることはない。

本多猪四郎監督も伊福部先生も、まさかこんな形で再現されようとは夢にも思っていなかったに違いない。映画「ゴジラ」は1954年の技術で完成された作品としてしっかりと残っている。これを少し音楽寄りの視点で再現するというシネマコンサート、きっとお二人とも喜んでくれているのではないか、なんて勝手に思う。