映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2016.9.14 「セトウツミ」 テアトル新宿

2016.9.14「セトウツミ」テアトル新宿

 

映画にはこういう可能性もあったのか。

漫才のようなやり取りをそのまま映画として映し出す。カメラも基本は二人を正面から映す。もちろんそれだけでは持たないので、時々は後ろ斜めから撮ったり、ゆっくりとした移動もある。が、基本は公園の階段に座る二人、その後ろをひとが通ったり車が通過したりする。

瀬戸(菅田将暉)、サッカー部のエースだったが怪我をして退部、ポッカリ空いた時間、やることがない、ネアカ。内海(池松壮亮)、成績優秀、理屈屋、クール、ちょっと人を見下すような、授業が終わって塾までの間の1時間半の潰し方を模索中、ネクラ。ともに高3か。

この二人が川岸の公園の5段程の階段で出会う。毎日決まった時間に石段に並んで座って、とりとめもない会話をする。映画はそれを第一話、第二話、と言う様にブツ切りで6つ並べる。

会話は大体瀬戸が言い出し、内海がそれを理路整然と整理して返し、それに瀬戸がムカつく。

お前、俺のこと、どっかで見下してんのとちゃうか? それでも決して喧嘩にはならず、また翌日同じ時間に同じ場所で同じような会話を交わす。

会話はひねりが効いている。決してストレートでは返さない。ひねり具合はかなり高度でシュールでさえある。それを独特の間でやり取りする。言葉は今の高校生の会話そのもの、台詞的に整理などしていない。それを、特に瀬戸が本当に自然に話す。やり取りに飛躍や突然のすり替えなどがあるので、見ている方は相当集中する必要がある。やり取りに慣れてくると下らない事が面白く感じられてくる。これは笑いとしては相当洗練されたものだと思う。

もしかしたら映画館でしか笑えない種類のものかもしれない。暗闇と大きなスクリーン、感度は日常の10倍位上がっているか。それだからこそ感じられるデリケートな笑い。茶の間のTVでは気の抜けたサイダーの様だ、きっと。映画館でしき成立しない笑い。こういう映画初めてである。

瀬戸が好きなクラスのマドンナ、彼女は内海が好きだ。でも内海は関心無し。瀬戸と彼女と内海の携帯メールを使ったやり取りも面白い。

 

音楽はド頭からタンゴがカットイン。大阪の運河を主観移動して階段の二人まで続く。会話が始まると音楽はない。第一話の終わりにブリッジとして入り第二話に繋げる。音楽はエピソードを繋ぐブリッジとしてのみ機能する。輪郭や句読点として角張ったタンゴが実に効果的だ。おそらくこの映画、音楽はこのタンゴ1曲だけでまかなっている。充分である。

 

菅田将暉池松壮亮も自然で何気ない風ながらかなりの演技力を要求される役をしっかりこなしている。この二人がしっかりしないことには映画は成立しない。大変なプレッシャーだったと思う。演じている二人はこれが面白い映画になるかどうか、解らなかったのでは。それはきっと監督も同じ。大丈夫、とっても笑える良い映画になっています。

菅田将暉、久々に意味なく殺されて様になる役者の登場である。

 

これから二人は社会の中で何者かにならなければならない。まだ何者でもない二人が交わす何気ない会話。これは黄金の時間だ。人生の中で奇跡的に訪れるそんな時間。二人はそれを共有する。悠久の時間の中で、こんな時間と出会いが持てた、二人はなんて幸せなんだろう。

 

監督.大森立嗣          音楽.平本正宏