映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2017.05.02 「午後八時の訪問者」 ヒューマントラスト有楽町

2017.05.02「午後八時の訪問者」ヒューマントラスト有楽町

 

フランスの地方都市 (?) の小さな診療所の若き女医ジェニー( (アデル・エネル) 、男の研修医と二人だけで運営する。怪我から心臓から認知症から、ありとあらゆる患者を診る。お金を持っている者も、そうでない者も。大学病院への話も蹴って奮闘する。フランス版女「赤ひげ」だ。

診療終了の8時を超えて鳴ったベルにドアを開けなかった。翌日その訪問者は死体となって発見された。ベルを押す訪問者の姿が防犯カメラに写されていた。若い女だった。女医に落ち度はない。警察も認める。女の身元は解らない。ドアを開ければ死なずにすんだ。ジェニーはその女が誰なのか知りたくて調べ始める。医者らしい手掛かりを見つけてその地区の人々の中に入っていく。移民が住む地区。そこでフランスの地方都市の移民の現実が暴かれて行く。

絶えず携帯が鳴る。患者は次々に来る。車を運転しながら携帯を通じて患者に連絡を取り、休む間もない、過酷な日々だ。調べる過程で麻薬の売人に脅されたりもする。

予告編では、医療倫理の根幹に関わる問題に突き当たるのかと思った。あるいは背後の巨大な悪が立ちはだかるのかと。どちらでもなかった。移民の現実というところで話は纏められた。それはそれでとってもリアルに描かれている。

小さな診療所は大変だし、移民の現実は厳しい。身元捜査のプロセスはそれなりにサスペンスフルである。しかし期待していたものより、本当に本当にこじんまりとした映画だった。

音楽は既成曲のみ、劇伴は無かった。ヘタな劇伴を付けたら作り物感が出てしまう。これは正しい。

 

監督  ジャン=ピエール・ダルデンヌ、 リュック・ダルデンヌ

音楽クレジット無し (不確か)

2017.05.07 「草原の河」 岩波ホール

2017.05.07「草原の河」岩波ホール

 

チベット遊牧民の家族を淡々と描く。父、母、幼い娘、間もなく妹か弟が生まれようとしている。行者様と呼ばれる祖父と父は仲が悪い。

羊の群れと共に高原を移動する。乳離れをし切れていない少女は弟か妹が出来ることを素直に受け入れられない。可愛がっていた羊が狼に襲われその死体を見る。村の子供が祖父に優しくしない父親の悪口を言っていた。些細な日常が大ロングの自然の中で米粒の様に描かれる。何千年と続く自然の摂理に則した生活。太古から続く悠久の時間。

直ぐそばまで文明が押し寄せている。文明とは人間の都合だ。人間の都合に合わせて自然は捻じ曲げられ、時間は人間化する。これを止めることは出来ない。父親はバイクに乗っているも、まだここには悠久の時間が流れている。ギリギリだ。

少女の ”私” はまだ目覚めていない。こちらも時間の問題だ。遠からず文明を選び ”私” が鎌首を持ち上げてくる。”私” の集合体である社会や国家に遭遇する。ましてやチベット、いやでも中国と向き合わねばならない。こちらもギリギリだ。

直ぐそこまで来ている文明と ”私の目覚め” を前にして、ギリギリで描く少女の黄金の日々。これを神話と言わずして何と言おう。神話は間もなく崩壊する。失ったものを思い出して郷愁だけが残る。

 

少女も父親も素人だそうである。母親だけは歌手とのこと。少女はほとんど役と同じ生活をしている子なのかも知れない。しかしドキュメンタリーではない。劇映画としての凝縮がある。ハリウッド並みではないにしても何人かのスタッフの前で演じているのだ。これは驚愕に値する。少女の自我を宿し始めた眼を忘れることが出来ない。

 

音楽は頭のタイトルバックと尻のエンドロールだけ。タイトルバックはバンジョーの様な琴の様な、余韻のない弦を弾いてソロで奏される曲。メロディは多分チベット高原の民族のメロディなのだろう。劇中に音楽は無い。通り過ぎる風の音、雨音、狼、人間の気配、等の音が音楽以上に雄弁である。エンドは男声が民族色有るメロを歌い上げて、背後にVC中心の弦楽器群が厚くそれを支える。トラッドな曲なのかオリジナルなのか。エンドの弦はきちんとした西洋音楽の書法だった気がする。神話の額縁をしっかりと作っている。

 

「ラサへの歩き方」 (2016.08.02拙ブログ) は二つの時間が並存していた。人間尺取虫をしている脇を車が通り過ぎる。「草原の河」は片方だけを描く。しかも少女の眼を通して。これはやっぱり神話である。

河を越えるとおじいちゃんの居る聖域だ。聖域には簡単に行けた。死は自然で当たり前のことだった。

 

編集は余分な説明を削ぎ落として簡潔、今風である。

 

監督・脚本 ソンタルジャ  音楽デザイン ドゥッカル・ツェラン

エンドクレジット音楽 テンジン・チョーギャル

2017.03.31 「バンコクナイツ」 テアトル新宿

2017.03.31「バンコクナイツ」テアトル新宿

 

昔、「ダウン バイ ロウ」を見た時と同じ衝撃だった。音楽の使い方である。映画の内容は全く違う。音楽の種類も違う。でもどちらもいわゆる劇伴ではない、独立した楽曲。それをぶっきら棒に充てている。ルーズさは似ている。そして音楽がなかったら映画は成立しないという位、映像と対等ということも。

下世話でキャバレー音楽の様、しかも歌は現地語 (タイ語? イサーン語? )。初めはご当地の雰囲気を出す為の現実音として使っているのかと思った。それがそうではない。全編このテイストの音楽。有り物音源を使ったのか。映画の為に録音したのか。多分両方なのだろう。エンドロールのクレジットに音楽関連が一杯出て来たのだが読み切れなかった。

アジアン(インドシナ? )・レゲエだ。それを映画の演出の音楽として使っている。あるいは音楽に引っ張られるように映像を撮ったのか。音楽の入りはカットに合わせたりシーン替わりに合わせたりして映画音楽らしい。しかし尻は全く気にせず、シーン途中で終わったり、バサッと無くなったり。でもそんな技術的重箱の隅、気になったのは初めだけ。ハマった。

ドラム、ベース、EG、Percケーン (笙のような民族楽器。初めキーボードかと思ったら途中で演奏の映像があった)、そしてVocal。洗練とは真逆の泥臭さ、それがいつのまにか最先端の音楽に聴こえてくる。レゲエの様であり、タイの民族音楽の様であり、コーランの様であり、沖縄民謡の様であり、日本の歌謡曲の様であり、60年代アメリカンポップスの様であり。

観終わった後、チラシやら慣れないネットやらで調べてみた。偶然NHKTVで、タイに古いレコードを買い漁りに行くSoi48という二人組のDJ (?) の旅番組をやっていた。これは参考になった。この二人は映画に関係しているようだ。

それからネット (アドレス末尾記載) で監督と脚本家がイサーンの音楽について語っていた。これは多いに参考になった。知らないことだらけだった。

 

タイのイサーン地方とはバンコクの東北に位置する貧しい地域、メコンを挟んで向こうはラオスベトナム戦争の頃、バンコクの反体制運動の連中がこのイサーンの森に逃げ込んだ。ボブ・ディランジョーン・バエズの影響を受けて、彼らは唄い、それがタイのロックとなり、カリスマ的人気を誇る男スラチャイ・ジャンティマトン (今は仙人の様な爺さんになっていて映画に出てくる) を誕生させる。プア・チーウィット(生きるための歌) というらしい。

貧しいこの地方は女がバンコクに出て体で稼いだ金で成立している。まるで戦前の日本の東北。日本ではそれを何とかしようと純粋な将校たちが2.26を起こした。こちらはそれを歌で表す。時代が違う、歴史が違う、気候が違う、アメリカ文化の影響がある。それにしても、こっちは明るい。事あるごとに歌って踊る。

映画に出てくる得度式 (入隊式? ) のお祝いのシーン。 あぜ道を列を作って練り歩く。これが何とリヤカーに使い古したPAの卓を積んで、EGが歌謡曲の様なメロを弾き、スネアを叩いて、Vocalがのり、まるでエレキ・チンドン屋だ。その回りを沖縄のカチャーシーの様な踊りが取り囲む。

性が唯一の産業であり、それを担う女たちには誇りに思う伝統さえある。でも大根っこでの白い眼は彼の地もこちらも変わらない。そんなことを唄う物語性のある歌が生まれる。

一方、イタコの様な女の説教がいつしか歌になっていくという土着の歌 (モーラムというらしい) の伝統がある。

 

体を売る女の叙事詩的歌や瞽女歌の様な伝統、バンコクから逃れて来た反体制派の抵抗のフォークやロック、ベトナム戦争時のアメリカン”60ポップス、それらがチャンプルーされてイサーンの音楽 がある。音楽自体がイサーン地方の近代史を物語る。

 

バンコクには日本人御用達の一角、タニャ通りがある。そこで働くのはイサーンの女たち。日本のスケベ爺がイサーンを支えている様なものだ。アイス (覚せい剤をそう言うらしい)もいくらでもある。時々来る分には楽園だ。日本に居場所の無い連中がそこに吹き溜っている。客引きをやったり、日本の観光開発業者の最末端の手先をしたり。そんな中の元自衛隊員オザワ (富田克也) とNo1ホステス・ラック (スベンジャ・ポンコン)の恋。オザワを演じるのは監督自身。これが実に胡散くさくてリアル。ちょっと細面で甲高いケロケロ声。誰かに似ている? 昔の小室哲哉だ。特に喋り声がよく似ている。

役者はほとんどが素人らしい。しかも夜の仕事の本物たちとのこと。よくぞここまで演じさせたと感嘆する。片言の日本語でのやり取りが多いのでかえってリアル、不自然さは無い。むしろ日本人の男 (こっちは役者か、内輪のスタッフか) にボロが出る。

前半の人間関係は錯綜して良く解らない。編集も解り易くしようとは考えない。エピソードからエピソードへぶっきら棒に飛ぶ。顔馴染みの役者が演じている訳ではないので余計混乱する。ラックが今暮らす男・ビンちゃん (伊藤仁) とオザワの風貌が似ているので始め混乱した。雑然とした世界を作る為に意図的にやっているのかも知れない。が、もう少し親切でも良いか。細かく解らなくても、オザワとラックがバンコクを出ざるを得ない状況になったことが分かればよいのかも。

クレーンや移動車を使って、夜のバンコクの良いカットが幾つもある。潤沢な製作費があったとは思えないが、ロングの引いた画が随所にあって手間暇お金をおしんでないことが良く分かる。時々インサートされるバンコクの高層ビル群のロングショットが効いている。発展するタイの表の顔、その下で蠢くタニャ通りの住民たち。

二人はラックの故郷イサーンに旅をする。オザワは国境を越えてその先のラオスまで行くつもりだ。日本の観光開発業者の現地調査の請負である。

イサーンにはラックの母が居た。ブルースが似合いそうな母親は父親の違う3人の子を産み、弟は米兵との間のハーフ。ラックが建ててくれた家に住む。ラックは一族を支えている。

オザワはそこでイサーンの森に逃げ込んだ反体制派の幽霊を見る。

村のバーには行き場のない白人が溜っている。ベトナム戦争のさらに前、仏領インドシナ独立戦争の頃からの、もういい歳の男たちだ。さり気なく生々しくイサーンの近代史が語られる。

ラックはここでオザワと暮らしたかったのかも知れない。でも弟たちの為にもまだまだ稼がなければならない。オザワはラックの一族と馴染むがそこに根を張る覚悟はない。

ラオスにはベトナム戦争時の米軍の空爆で月の裏側の様な地形になってしまった場所がある。画面がそこの空撮になった時、これ以上無い音量で爆撃音が被った。度肝を抜かれた。それ位極端にデカい音量。居眠りしていた者は飛び起きる。米軍の爆撃がいかに凄かったかがすんなり解る。上手い演出。

突然ゲリラが現れて、その中の数人は日本人だった。メンバーとの会話がいつの間にかラップになる。オザワが ”共産ゲリラ? ” と聞くと軽く鼻で笑って立ち去っていった。この辺、よく解らない。ただイサーンに来てからの描き方は、バンコクのリアルとちょっと違う。少し神懸っている様な気がする。イサーンという地方自体がそれを醸し出しているのかも知れない。

バンコクへ戻る途中のバスターミナルで顔見知りの金城に会う。金城は ”バンコクで金払っている内は素人ですよ、地方へ行けば金なんか払わずにヤレる、オザワさん一緒に行きませんか (不確か)” と誘う。オザワは断る。別れ際、オザワは ”金城さん、日本人で良かったね!” と言う。金城は怪訝な顔をしながら立ち去っていく。オザワは架空の銃を構えて、金城を射殺する。”バン! ” (ズドンだったか) とオサワのケロケロ声の口鉄砲。象徴的な秀逸のシーン。だが殊更それを強調する見せ方はしない。普通にさり気なく。あざとく本物の銃声を付ける演出だってあったろうに。

かつてフランス人、アメリカ人、そして今日本人、日本人であるということは大変な利用価値のあることなのだ。金城のような男は日本人であることを目一杯利用して女を垂らし込んで女衒のようなことをやっているのかも知れない。オザワはこと女に関する限り、日本人であることを利用しない。バンコクでオザワは、ラックがいいと言っても金を払っての関係だった。オザワは胡散くさいが生真面目なのだ。

搾取の構図、差別の構図、蔑視の構図、例えば「愚行録」の内部生と外部生、地方と東京、日本人とタイ人、バンコクとイサーン、体を売る女…、

政治や経済が作り出す搾取と差別、それにノッて、何の疑問も持たずにおいしい思いをする者たち。タイにたむろする日本人を見ると今の日本が解る。アジアの近代史が解る。日々を生きる庶民の生活の中に歴史や政治や経済が深く反映していることが解る。

蔑視の視線は日本国内にも充満している。そのルーツをたどって、バンコク、イサーン、ラオスと、長きに渡り現地の素人に演じさせて劇映画を作り上げた空族 (クゾク) は凄いとしか言いようがない。エンタメとしても充分に面白い。

僕はこの映画の製作集団・空族 (クゾク) を全く知らなかった。かなり音楽に近い人たちの様だ。蔑視と差別のルーツをたどる道筋が、期せずして音楽のルーツをたどることになっているのが面白い。むしろ音楽が先にあったのかも知れない。

余計なことだが空族の連中、生活はどうしているんだろうなんて考えてしまう。映画に憑りつかれているのだ、きっと。

 

「サウダーヂ」という作品名は小耳に挟んだことはあるが、外国のアート系の映画かと思っていた。空族はパッケージ化拒否の方針だそう。これは全く同感。DVDで見る映画は別物だ。ただ映画の輪郭位は解る。今「サウダーヂ」をとっても見たい。パッケージ化拒否は同感だが、ちょっと不便ではある。

エンドロールに囲みで撮影風景のメーキングが流れた。女たちもスタッフも楽しそうだ。現場は大変なこともたくさんあっただろう。でもみんな楽しそうにやっているのは素晴らしいことだ。映画を作る過程でみんなどんどん変わっていってるのだ。

 

監督・主演 富田克也  脚本・相澤虎之助  

音楽・スラチャイ・ジャンテイマトン(伝説の反体制歌手。幽霊役で出演)

   アンカナーン・クシチャイ (モーラムの女王。説話が段々歌になる役で出演) 

   歌物以外の音楽は誰がやったのだろう。サントラを聴かないとわからないのか

   なぁ?

参考

バンコクナイツ』から聴こえる、東南アジアの”抵抗”の音楽

http://rollingstonejapan.com/articles/detail/27726

2017.04.25 「ジャッキー ファーストレディ 最後の使命」 日比谷シャンテ

2017.04.25「ジャッキー ファーストレディ 最後の使命」日比谷シャンテ

 

1963年、ケネディ暗殺。動転するジャクリーヌ・ケネディ (ナタリー・ポートマン) の葬儀までの日々を追う。但し動転をそのまま映画にしたので、時系列は飛び、その都度の連想や思い出がランダムに入る。綺麗に整理するより混乱した構成がリアルだ。

副大統領ジョンソンのエアフォース・ワンでの大統領就任式、葬儀の段取り、即刻立ち退かねばならないホワイトハウス、幼い二人の子、夫ケネディとの関係、取り残された私はどうすればよいのか、私って何だったのか… 

歴代の暗殺された大統領のケースはどうだったか、夫をリンカーンの様に送りたい。

大聖堂から議事堂までは車を降りて棺と共に歩いて行きたい、世界各国の要人も一緒に歩くのか、警護は? フランスは、ドゴールは狙われているからそれは出来ないという。

ジャッキーの混乱と思いつきに世界は振り回される。弟のロバート・ケネディは兄の大統領としての評価はどうなるかを考える、

TVが、オズワルドが殺害されたと伝える。歩くのは危険だ、いや、やっぱり歩く、葬儀の主役はあくまでジャッキー、そんな混乱をそのまま並べる。

哀しみにくれるジャッキー、それを見てこちらも涙する、なんてことは一切無い。泣きを狙った演出は全て排除する。ふとした時に突然嗚咽する。動転しているのだ。泣きたいおばさんたちは、何これ? となるかも知れない。混乱の中心にいるのはジャッキー、その混乱が回りをさらに混乱させる。成り切ったN・ポートマンの存在が、これはジャッキーの物語であることをしっかりと担保する。彼女の熱演が無かったらこの映画、破たんしていたかも知れない。

 

冒頭から違和感たっぷりの音楽が流れる。画面や感情に合わせることを全くしない。2音のゆっくりとしたシンプルな動機が繰り返される。ほとんどこれだけ。一音ずつ弦が厚く重なる。普通に聴こえた弦が次の音で回転ムラを起こした様にグニョグニョと不快な音になる。もちろん回転ムラなどではない。重なる弦に不協和音が入ってその効果を作っているのだ。FLやClaが弦に代わって同じ様なことをする。音楽は始めから、この物語の中のある感情をサポートするとか、話の運びをスムーズにするとか、そういう意図はないのだ。

音楽は違和感を唱えているのだ。今だにすっきりとしないこの事件への違和感、世界で最も進んだ文明国であるはずのアメリカという国の暗殺の歴史への違和感、そして動転するジャッキーの心の底に横たわる何故?

この音楽、ストーリーやジャッキーの感情を追いたい人にはさぞ邪魔だろう。しかしお構いなしに同じ音型が繰り返される。音楽がこれ程主張する映画を近年観たことがない。絵面にベッタリと合わせることが主流の昨今の風潮の中で、絵面と音楽が完全に乖離している。これが成功しているかどうかはそれぞれの受け止め方だ。ただこの試みに僕は監督と作曲家に拍手である。

どこか一箇所でも、音楽の意図と画面が一致するシーンがあれば、とは思った。そんな中途半端は監督も作曲家も拒否したのだろう。

お涙と自立する女なんてことを期待したおばさんたちにとっては、きっと想像を超えた激辛映画だ。

ジャーナリストにジャッキーが語るという大枠の体裁は作ってある。絶えず煙草を燻らせながら。

プロデューサーは「ブラック・スワン」の監督をやった人。監督はチリの人らしい。音楽にはアメリカへの違和感も練り込まれているのかも知れない。

作曲家、ミカ・レビ、アカデミー作曲賞にノミネート (受賞はしなかったが)。アメリカ・アカデミー協会会員の人々は凄い。

ジョン・ハート、良い顔しているなぁ。

 

監督 パブロ・ラライン  音楽 ミカ・レビ

2017.04.20 「パッセンジャー」 日劇マリオン

2017.04.20「パッセンジャー日劇マリオン

 

漆黒の宇宙にただ二人取り残された、絶対孤独の哲学的SFを期待していたが見事に肩透かしを喰った。

5000人の宇宙移住者を乗せた宇宙船が彼の地を目指す。到着には120年掛かる。みんな冬眠状態で運ばれ、到着4週間前にカプセルから目覚めるようにセットされている。それが隕石だかが原因でたった一つだけ早々と開いてしまった。目的地まではあと90年ある。開いた原因は良く解らない。それはどうでも良い。宇宙の中にたった一人という設定が出来れば良いのだ。カプセルは再起動出来ない。宇宙にたった一人の絶対孤独。しかもそこで一生を終える。恐怖と絶望は計り知れない。

「オデッセイ」(拙ブログ 2016.2.16) は地球と交信が出来た。他者との繋がりがあり希望があった。だから頑張れた。

目覚めてしまった男ジム (クリス・プラット) はエンジニア。カプセルを修理して冬眠状態に戻れるかもしれない。鋼鉄の扉の向こうの乗務員とコンタクト出来るかもしれない。地球と交信出来るかも知れない。それらは次々にダメと解る。ダメ、ダメ、ダメ、希望が潰されて行く様子をもっと丁寧に描いて欲しかった。鋼鉄の扉にハンマー(?) を振り下ろし弾き返され諦めてしまう程度の通り一遍の描き方なのだ。

希望の芽が全て奪い取られた果ての絶望。船外に出て漆黒の宇宙と対峙した時、この絶対孤独は筆舌に尽くし難いはずだ。眼前に広がる無限、観念の無限が視覚で捉えられる無限としてそびえ立つ。神との対峙だ。

かつて「宇宙からの帰還」(立花隆著、宇宙飛行士への聞き書きノンフィクション) で宇宙飛行士のかなりの人がその後宗教家になっていると記されていた。宇宙に投げ出されるということは、剥き出しの ”私” が神と対峙するということなのだ。ロマンチックなんかである訳がない。

映画はこれをどう映像表現とするか。予告編を見てそれを期待した。しかし絶望は浅く、襲い来るはずの神は立ち現れなかった。赤ランブに手を掛けて自殺らしき行動をするカットもあるが深く響かない。自殺もせず発狂もせず、バーテンダーロボット・アーサー (マイケル・シーン) を唯一の話し相手として一年近くが経過してしまう。

そうか、これはロビンソン・クルーソーの宇宙版なんだ。それだけの話なのだ。一人取り残された、というシチュエーションだけを考えれば良いのだ。そう考えたら気楽に見られるようになった。

カプセルの中からイイ女オーロラ (ジェニファー・ローレンス) を見つけて、悩んだ挙句、冬眠から目覚めさせてしまう。それからは二人の選択肢の無い恋物語。いやでも燃える。宇宙から一気に人間ドラマにシフトした。

男が女のカプセルを開けて道ずれにしたことは、予告宣伝等では一切ふれていない。これは宣伝としては正しい。単なる宇宙を舞台にしたサスペンス・ラブロマンスものと思われてしまう所を、”絶対孤独状態の二人きりの愛” という深い話のように思わせた。僕はマンマと騙された。

途中、「宇宙戦艦ヤマト」に出てくる様な制服の艦長ガス (ローレンス・フィッシュバー) が出てきたり、話は随分都合良い。ジムによって目覚めさせられたことを知ったオーロラは怒る。当然だ。酷いことだもの。

艦長ガスは、このままだと宇宙船は爆発してしまうことを察知したシステムに寄って強制的に起こされたらしい。原因を突き止めたところでガスは死んでしまう。この辺良く解らない。解らなくても多分良い。

冬眠中の4998名の生命を救うべく、命懸けの修理というクライマックスを経てジムとオーロラは本当に愛し合うようになる。この辺はお決まりだがしょうがない。一つだけ修復出来たカプセル、でもそれにオーロラは入らなかった。

その後何十年か、ジムとオーロラとロボット・アーサーはそこで生き、死を迎えたのだろう。

エンディングは90年が経ち、目覚めた人々の上に、オーロラの記した二人の物語が朗読で被る。皆さんが寝ている間にも決して何にもなかったわけではない云々 (不確か)。

いっそのこと、こんなエンディングはどうだろう。人々が目覚めた時、初老の男がみんなを迎えた。これは私の父と母とそして私の物語、皆さんが眠っている間に起きた我が家族の物語、と言って原稿を差し出す。その朗読が被る。ちょっと残酷か。

 

ジェニファー・ローレンスがエロくて良い。あの笑わなかった小娘 (「ウインターズ・ボーン」2010 ) はイイ女に成長した。彼女を見ているだけで充分楽しめる。エロは生きる力だ。だからジムもオーロラも、肉体を強調して描かれている。

役者は4人だけ。それで持たせるのだから大したもの。何よりジェニファー・ローレンス、彼女の魅力に尽きる。

セットは超豪華、空間の広さとヒト気の無さを良く出している。

 

音楽、ほとんどベタ付き。細かい動き、感情に合わせて丁寧に付けている。深いようで深くない話だから音楽が支えないと持たないのだろう。絵面の動きと感情を増幅することに徹する。劇伴としては良く書けている。が印象には残らず。神懸るシーンは無く、従ってそれを暗示する様な音楽も無い。

せめて時々無限の宇宙のカットを挟み込む。そこに人間ドラマとは次元の違う音楽を付ける。宇宙船の外には無限が拡がっているということを解らせる為に。あるいは愛の交歓の背後に漆黒の宇宙が口を開けている、そんなカットがあれば。

 

いかにもハリウッド的落とし所で纏めた映画、余計なことを考えなければそれなりに楽しめる。

 

監督 モルテン・ティルドゥム  音楽 トーマス・ニューマン

2017.04.04 「ムーンライト」 日比谷シャンテ

2017.04.04「ムーンライト」日比谷シャンテ

 

マイアミの黒人スラムに住む孤独な少年、母はヤク中母子家庭、おまけにゲイらしい。それをタネにイジメられる。どこにも居場所のない少年の成長の物語。

本名はシャロン。小さい頃は ”リトル” と呼ばれ、高校生の頃、唯一の友ケビンは ”ブラック” と呼んだ。何で ”ブラック” なのかの説明が会話にあったが忘れた。一人の少年の成長を、リトル(子供の頃)、シャロン(高校生)、ブラック(成人してから)、の3章に分け、特に風貌が似ているとも思えない三人の役者が演じる。誰にも共通の成長の物語として、敢えて風貌には拘らなかったのだろう。

いつも俯いていた無口なイジメられっ子の少年は、高校でも自分の性的嗜好に悩みイジメられ、ケビンとムーンライトの海辺でたった一度だけ愛を交わした。その後事件を起こして少年院へ行き、今は筋骨隆々なヤクの売人になっている。

 

音楽はオリジナルと既成曲が混在する。オリジナルは小編成、ひとつはPfの中低域をゆっくりと弾く重い曲。その上にバスフルートの様な音色のメロが乗る。もう一曲はVlとPfが細かいリズムを刻み、その上にVCでメロが乗るサスペンス風。あとはカーステレオからの現実音という設定で既成曲が頻出して、それは現実音を超えて劇伴扱いで処理される。

“リトルの章” 始めの方、黒人の子供たちが布で作ったボールでサッカーだかアメフットだかをするシーン、そこにはちょっと荘厳で神聖な女声のヴォ―カリーズの入った曲 (これはオリジナル?) が流れた。これだけ異質。汚れ無き子供時代とでもいいたいのか、音楽なんて不要なシーン、急に世界が変わって違和感があった。

“ブラックの章” でケビンに会いに行くシーンだったか。設定はカーラジオ。でも現実音という処理ではなく、カット頭から ”ククルクク・パロマ” がかなりのレベルでカットインする。この曲にどんな意味があるのか解らない。付け方は意味あり気だ。入りは演出効果を考えているもアウトはどれも雑。オリジナル劇伴、既成曲共に、音楽を付けることの意味効果を深く考えてないのでは。きちんとした音楽設計がなされていない気がする。行き当りバッタリの雰囲気付け。

いっそのこと音楽を全部外した方がすっきりしたのでは。

 

白人は出てこない。黒人だけの映画。しかも主人公はゲイ、悩んでいる。でもムーンライトの下では黒人も白人もなく、少年はみんな青く輝く。ゲイも同じ。色んな人間が居て色んな生き方がある。それをみんなが認め合わなければならない。そういう映画なのだろう。

しかし僕は音楽で躓いた。こんな行き当りバッタリの付け方はダメだ。

”リトルの章”、”シャロルの章”、イジメられ続けて、でも父親代わりのフアン (マリーシャラ・アリ) の教えで、自分の生き方は自分で決めなきゃダメだ! と芯はしっかりある。悪ガキを椅子で殴りつけた。やった! と思ったら直ぐに暗転して ”ブラックの章”、そこに居るのはマイク・タイソンみたいな頑丈な男、少年院で鍛えられたと台詞はあるが、あれは余りに違い過ぎている。ここで決定的に躓いた。リトルとシャロンには俯き気味な連続があった。ブラックは別人だ。別人になる位変わろうと決意し実行したということかもしれない。カメラも盛り上がった胸筋や波打つ腹筋を丹念に映し出す。シャロンは ”男” になろうとしたのかも知れない。

”少年”という一般性を持たせる為に敢えて風貌は考えに入れなかった、と言われても、見る側は連続して見てしまう。あまりに違うのだ。その瞳は変わらないなんてチラシには書いてあったが、僕には解らなかった。高校以来のケビンとの再会も思い続けた純愛云々には見えなかった。

無理してマッチョになる必要なんてないんだよ。色んな人間が居るんだ。それが自然なんだ。ムーンライトの下では少年はみんなブルーに輝く。この映画はそれを詩情豊かに伝えてくれたか。

印象的なカットも見受けられず。僕の感受性が鈍化しているのかも知れない。あるいは黒人スラムの閉塞状況をリアルに感じられないからか。

人種、民族、性差、性的嗜好、貧富、解り易いものから見えにくいものまで、差別は到る所にある。マジョリティの同調圧力あるところには必ず生まれる。その圧力に屈せずありのままの自分でいることは大変なエネルギーがいるものだ。

悪い映画とは思わないが、これが本当にアカデミー作品賞?

 

監督 バリー・ジェンキンス  音楽 ニコラス・ブリテル

2017.02.06 「マグニフィセント セブン」 新宿ピカデリー

2017.02.06「マグニフィセント セブン」新宿ピカデリー

 

七人の侍」「荒野の七人」のリメイク。それにしても「マグニフィセント セブン」というそのままタイトルはいかがなものか。でも確かに上手いタイトルが浮かばないなぁ。

デンゼル・ワシントンが勘兵衛(志村喬)役、ゴロっとした鼻が志村喬に見えてくる。イーサン・ホークもイ・ヴョンホンも良い。イ、カッコ良くてびっくり。七人が人種の寄せ集めというところが今風、話を深くしている。アメリカはこの頃から色んな人種が集まっていたのだ。悪党は白人の成りあがり。俺は自分の手を汚してやる、ロックフェラーの様に自分の手を汚さずにやるのとは違う、という台詞が出てくる。ちょうどこの頃東部ではロックフェラーやカーネギーや、今のアメリカの財閥があくどい手を使って独占資本に成長するべく邁進していた頃だ。

話の骨格は「七人」と概ね同じ。盗賊は成り上がりの白人悪党になり、七人を集める様子は簡潔にされ、悪党との合戦が丁寧に描かれる。一人一人の見せ場を作って娯楽映画の大道。

音楽はちょっと付け過ぎ。無くて良いところまで付けているのだが、今時としては仕方ないか。それより何より「荒野の七人」エルマー・バーンスタインのあのテーマのリズムが随所に出てきて泣けてきた。テーマメロは出てこない、リズムだけである。パーカッションの叩きものでやっている。これが泣けるだけでなく効果的。他にも太鼓が後ろでずっと鳴っていたりして、こっちは「七人の侍」」の様。大編成のオケと打ち込みを両方使ってゴージャス。

CGなんかではない走る馬の列を長い移動で撮ったりしてこれぞ映画。拳銃さばきもナイフも、多分CGではない(?)、カッコイイ。これぞ血沸き肉躍る西部劇。

黒人もメキシカンも白人も東洋人も元南軍も元北軍もみんな一緒に戦って死んでいった。カッコよく死ぬことが男の美学だった時代の熱い映画である。

みんな拳銃さばきを練習したんだろうなぁ。馬の曲乗りもやったんだろうなぁ。

ローリングで「荒野」のテーマがリズムだけでなくメロもある大編成で流れた時は本当に涙が溢れた。「七人」と「荒野」をリスペクトしつつ、ちゃんと今の作品として作り上げた。喝采である。

 

監督 アントン・フークワ  音楽 ジェームズ・ホーナー、サイモン・フラグレン