映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2017.04.04 「ムーンライト」 日比谷シャンテ

2017.04.04「ムーンライト」日比谷シャンテ

 

マイアミの黒人スラムに住む孤独な少年、母はヤク中母子家庭、おまけにゲイらしい。それをタネにイジメられる。どこにも居場所のない少年の成長の物語。

本名はシャロン。小さい頃は ”リトル” と呼ばれ、高校生の頃、唯一の友ケビンは ”ブラック” と呼んだ。何で ”ブラック” なのかの説明が会話にあったが忘れた。一人の少年の成長を、リトル(子供の頃)、シャロン(高校生)、ブラック(成人してから)、の3章に分け、特に風貌が似ているとも思えない三人の役者が演じる。誰にも共通の成長の物語として、敢えて風貌には拘らなかったのだろう。

いつも俯いていた無口なイジメられっ子の少年は、高校でも自分の性的嗜好に悩みイジメられ、ケビンとムーンライトの海辺でたった一度だけ愛を交わした。その後事件を起こして少年院へ行き、今は筋骨隆々なヤクの売人になっている。

 

音楽はオリジナルと既成曲が混在する。オリジナルは小編成、ひとつはPfの中低域をゆっくりと弾く重い曲。その上にバスフルートの様な音色のメロが乗る。もう一曲はVlとPfが細かいリズムを刻み、その上にVCでメロが乗るサスペンス風。あとはカーステレオからの現実音という設定で既成曲が頻出して、それは現実音を超えて劇伴扱いで処理される。

“リトルの章” 始めの方、黒人の子供たちが布で作ったボールでサッカーだかアメフットだかをするシーン、そこにはちょっと荘厳で神聖な女声のヴォ―カリーズの入った曲 (これはオリジナル?) が流れた。これだけ異質。汚れ無き子供時代とでもいいたいのか、音楽なんて不要なシーン、急に世界が変わって違和感があった。

“ブラックの章” でケビンに会いに行くシーンだったか。設定はカーラジオ。でも現実音という処理ではなく、カット頭から ”ククルクク・パロマ” がかなりのレベルでカットインする。この曲にどんな意味があるのか解らない。付け方は意味あり気だ。入りは演出効果を考えているもアウトはどれも雑。オリジナル劇伴、既成曲共に、音楽を付けることの意味効果を深く考えてないのでは。きちんとした音楽設計がなされていない気がする。行き当りバッタリの雰囲気付け。

いっそのこと音楽を全部外した方がすっきりしたのでは。

 

白人は出てこない。黒人だけの映画。しかも主人公はゲイ、悩んでいる。でもムーンライトの下では黒人も白人もなく、少年はみんな青く輝く。ゲイも同じ。色んな人間が居て色んな生き方がある。それをみんなが認め合わなければならない。そういう映画なのだろう。

しかし僕は音楽で躓いた。こんな行き当りバッタリの付け方はダメだ。

”リトルの章”、”シャロルの章”、イジメられ続けて、でも父親代わりのフアン (マリーシャラ・アリ) の教えで、自分の生き方は自分で決めなきゃダメだ! と芯はしっかりある。悪ガキを椅子で殴りつけた。やった! と思ったら直ぐに暗転して ”ブラックの章”、そこに居るのはマイク・タイソンみたいな頑丈な男、少年院で鍛えられたと台詞はあるが、あれは余りに違い過ぎている。ここで決定的に躓いた。リトルとシャロンには俯き気味な連続があった。ブラックは別人だ。別人になる位変わろうと決意し実行したということかもしれない。カメラも盛り上がった胸筋や波打つ腹筋を丹念に映し出す。シャロンは ”男” になろうとしたのかも知れない。

”少年”という一般性を持たせる為に敢えて風貌は考えに入れなかった、と言われても、見る側は連続して見てしまう。あまりに違うのだ。その瞳は変わらないなんてチラシには書いてあったが、僕には解らなかった。高校以来のケビンとの再会も思い続けた純愛云々には見えなかった。

無理してマッチョになる必要なんてないんだよ。色んな人間が居るんだ。それが自然なんだ。ムーンライトの下では少年はみんなブルーに輝く。この映画はそれを詩情豊かに伝えてくれたか。

印象的なカットも見受けられず。僕の感受性が鈍化しているのかも知れない。あるいは黒人スラムの閉塞状況をリアルに感じられないからか。

人種、民族、性差、性的嗜好、貧富、解り易いものから見えにくいものまで、差別は到る所にある。マジョリティの同調圧力あるところには必ず生まれる。その圧力に屈せずありのままの自分でいることは大変なエネルギーがいるものだ。

悪い映画とは思わないが、これが本当にアカデミー作品賞?

 

監督 バリー・ジェンキンス  音楽 ニコラス・ブリテル