映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2019.8.29 「ダンス ウィズ ミー」TOHOシネマズ日比谷

2019.8.29 「ダンス ウィズ ミー」TOHOシネマズ日比谷

 

ミュージカルは嫌いだ。でもこの映画、僕のイメージするミュージカル映画ではない。懐メロ歌謡コメディ、さらにはロードムービーだ。だから僕は大好きだ。

 

冒頭、近代的高層ビルのオフィス、そこに働くエリート女子社員、昼食も小ギレイなカフェ、何だトレンディドラマか。主人公・静香役の吉井彩花、綺麗だが映画の主役を張るほどではない。宝田明が出てきて、昔の東宝ミュージカルよろしく唄って踊る。この曲「Tonight星の降る夜に」はオリジナルか。懐かしくて健在ぶりに拍手。多分80代後半、でもシャキッとしていて二枚目ぶりは変わらない。この人が怪しげな催眠術師・マーチン上田ということだ。

偶然、風が運んできた遊園地の入場券、これはミュージカル映画の常道、ファンタジーの入口はいつも偶然不可解。静香はこの遊園地の催眠術小屋で、音楽が流れると身体が勝手に反応して唄い踊りだしてしまう、という術に掛かってしまう。術に掛かったのか眠っていたトラウマが目覚めたか。

洋画のミュージカルの様に豪華なセットとスペクタクルな画で展開するわけではない。映像はあくまでリアルな日常、遊園地のセットもチープ。

会社の企画会議の席上で音楽が流れて身体が反応、机を飛び回っての大ミュージカルシーン。この曲もオリジナルか? 「君も出世が出来る」(1964) を思い出す。どうも借り物っぽい。

女子社員憧れの上司に誘われての高級レストラン、そこでバンド演奏の音楽が流れて反応。テーブルクロスを引っ張ってシャンデリアにぶら下がり、お金の掛かった一応スペクタクル。でも曲は「狙い撃ち」(オリジナルは山本リンダ)。アレ? オリジナルじゃないの? でも矢口監督っぽい。ワインリストの値段を見て目を丸くするあたりも矢口テイスト。

催眠術を解いてもらうべくマーチン上田を追ってのオンボロ車の旅、相棒は千絵 (やしろ優)、ここからはロードムービー。二人がオルガンのイントロに合わせて「夢の中へ」(オリジナルは井上陽水斉藤由貴でもヒット) をハモッてからは、ようやく取って附けた感無くなり、矢口ワールドとなった。それまではどうしても無理してミュージカルにしている感が拭えなかった。

マーチン上田を追う旅は新潟、札幌と続く。あおり運転の暴走族まがいに絡まれたり、路上ライブの女の子 (Chay) とユニット組んで唄ったり、肩の力が抜けてほとんどカラオケBOX状態、こちらもノッて来た。路上ライブの女の子と三人で「年下の男の子」(オリジナルはキャンディーズ) を唄ってお捻りを貰ったり、結婚式に乗込んだり。一瞬まさか? と思ったら、唄った曲はやっぱり「ウエディングベル」(オリジナルはシュガー)、もう笑い転げるしかない。

吉井彩花がどんどん輝きだしてどんどん綺麗になっていく。スラリとしたスタイルはやしろ優と並ぶとデカチビの漫才コンビのよう。やしろ優はハジけながらどこか哀愁を漂わす。助演女優賞もの。

選曲は我が世代にとっては申し分ない。若い奴が知らなかろうがどうでも良い。矢口センス万歳! である。

 

劇伴は催眠術シーンにグロッケンを使ったり、マンドリン(?)、Pf といった楽器にSyn、雰囲気作りの音楽、当たり前といえば当たり前、特に主張はない。ダンスシーンにはブラスやコーラスを入れて一昔前のサウンドを作っている。

録音は随分丹念にやっている。歌もきちんとスタジオで録ってプレイバックをしている。金管の入った大きな編成の曲も、吉井の埋もれそうなVocalをしっかり上げてバランスを取っている。不自然な感じもする。それより車の中でやしろと二人でほとんどアカペラ状態でがなる「夢の中へ」の方が遥かに良かった。

音楽、結局はオリジナルではなく、既成歌物楽曲に尽きる。

 

最後に「タイムマシンにお願い」(オリジナルはサディスティックス) が流れた時は一緒に唄い出したくなった。矢口監督のいい加減な (けっしていい加減ではなく辻褄はあっているのだが) ブッ飛び様は健在だった。何せ、突然「狩人」もどきの双子が出てきて唄いだすのを (「スウィングガールズ」? )、平気でやる人なのだから。あのシーン好きだなぁ。

入口だけは取って附けたようなミュージカル映画、でも途中からはカラオケBOX映画。良かった、矢口監督変わってなくて。

ミュージカルなんて意識せず、始めからいつも通りの矢口映画を作っていれば良かったのだ。

静香は会社を辞めて自分の生き方を歩み始めるというお話のラストは爽やか。

 

エンドロールは中途半端なインストではなく、「パフィ」あたりをみんなで大合唱して、もうひと盛り上がりすれば良かったのに。

 

ムロツヨシが「浜辺の歌」を唄うと誘い出されるように続きを歌ってしまう静香のシーン、可笑しかった!

 

監督. 矢口史靖  音楽. Gentle Forest Jazz Band野村卓史

2019.8.29 「世界の涯ての鼓動」日比谷シャンテ

2019.8.29 「世界の涯ての鼓動」日比谷シャンテ

 

今時こんな一直線一途な恋愛映画も珍しいのでは…

果たしてこんな恋愛映画は成立するのか。その為に男女の設定を考えうる限り離れたものにする。

女 (アリシア・ビカンダー) は海洋生物学者、地球の中心、海底のマントル有機物の源を探してそこに生命の起源を求める。

男 (ジェームズ・マカヴォイ) は諜報機関MI-6の諜報員、無政府状態ソマリアに潜入する。深海の極限に赴く女と、人間社会の極限に赴く男。深海艇にアクシデントが起きたら二度と戻れない。男は捕らえられ、いつ殺されるか解らない。生存のギリギリに置かれた二人の愛である。

愛は、二人が偶然に出会った大西洋に面した小さな高級リゾートホテルで育まれる。やり取りはシャレている。深い説明はない。お互いに惹かれ合った、そして愛し合うようになった。愛し合ったということだけが解れば良い。

愛し合った二人はそれぞれが極限状況の地へ赴く。連絡手段はない。果たして二人の愛は可能か。あるいはその愛を信じたからこそ極限状況に耐えられた? 映画はそこにフォーカスする。だから海洋生物学もソマリアも決して深い考察はしない。言ってしまえばファッションだ。原作がどうなのかは解らない。おそらくそれなりの考察はあるのだろう。映画はそこから愛だけを抽出する。どんな状況でも愛があるから生きられる、愛があるから耐えられる…

人間はひとりで生まれひとりで死んでいく。だからこそ人を愛する。人の一生って "生きた、愛した” だけなのかも知れない。そんな人生観、大袈裟に言えば哲学的命題、それをいかに解り易く映画にするか、女性週刊誌的 (これは今や死語かも) 意匠を凝らしてヴェンダースはこの映画を作る。

 

アリシア・ビカンダーの何と品のある美しさか、肉感を削ぎ落としスレンダーしかもセクシー、「リリーのすべて」(拙ブログ2016.3.29) でもそう思ったが気高く綺麗な人だ。ジェームズ・マカヴォイも頑張っている。捕虜になってからはもう少しげっそりした方が良いかなと思ったが、あくまでファッショナブルな映画、みすぼらしいは良くない。リアリズムではないのだ。

ソマリアの描写はテロリストを単純に非情な悪と描く。女を生き埋めにして石を投げつける刑にしたり、子供が楽しそうなTV (多分西側の番組)を観ていた家に無造作に手榴弾を投げ込んだり、随分単純一方的だ。極限状況ということを示す為でそれ以上の意味は無い、多分。宗教についてのやり取りも通り一遍だ。

映像はこの上なく美しい。編集はカットバックを多様して時系列がかなり前後するも淀みなく流れる。果たして哲学的命題を醸し出すまでになったか。それは人それぞれ。病気だの人間社会のグチャグチャした障害を設けた恋愛映画よりずっと良いことだけは確かだ。

 

ただひとつ、僕は音楽が気になった。冒頭から重い弦楽、重厚だ。やたらに付けている。これは普通の恋愛映画ではなくて、哲学的命題を底に秘めているのですよ、とでも言いたげに。

劇伴としては映像に丹念に合わせて入念な仕事である。ほとんど弦だけの編成、メロディー感は無く、重厚感を作り出す。弦の高い音色を使った三拍子の軽い感じの曲が途中に少しだけ。あとは中低弦で重く這う。

後半は良い。しかし前半は付け過ぎ、重厚感を押し付け過ぎる。もっと削ってポイントにだけ付ける方がエンタテイメントとしてもメリハリが付いた気がする。

 

パリ、テキサス」(1984、音楽.ライ・クーダー) 以来、何十年ぶりかのヴェンダース、題材も違うし年月も経った、音楽の趣味だって変わる。ただ「パリ、テキサス」のボトルネックには哲学的深みがあった…

 

監督. ヴィム・ヴェンダース  音楽. フェルナンド・ベラスケス

2019. 7. 20 「狙撃」(1968) 京橋フィルムセンター

2019.7.20 「狙撃」(1968) 京橋フィルムセンター

 

2018年に物故した映画人を追悼する上映会が京橋フィルムセンターで7~8月と行われている。その中のプロデューサー・貝山知弘さん追悼の「狙撃」(1968) を観た。

貝山さんは映画プロデューサーであると同時にオーディオ評論家でもあり、その仕事は多岐に渡っていた。僕は色々な仕事でご一緒したが、どちらかというとレコード製作の方が多い。「日本の映画音楽シリーズ」(全11枚) は貝山さんが居なかったら出来なかった(拙ブログ2018.1.07)。

「狙撃」は僕が貝山さんと出会う前、映画プロデューサーとして一番突っ張っていた頃の作品である。

 

冒頭、早朝の有楽町、ガードが見下ろせる屋上、昔の日劇 (今はマリオン) の前あたりのビル、そこから加山雄三が銃を構える。無線 (携帯なんか無い) で指示が来る。標的は新幹線7両目の最後部席の男、但しその車両最前列に座る男が帽子を被って居たら決行、被っていなかったら中止。男は帽子を被っていた。狙撃決行。帽子を確認してから決行までは車両一両分、ほとんど一瞬だ。一撃で仕留める。その間ほとんど静寂。銃を扱う音、息づかいが僅か。早朝とはいえ街ノイズはあったはずだ。それともあの頃の早朝の有楽町はあんなにも静かだったのか。全編、音は限りなく削ぎ落とされている。普通なら付ける街ノイズ、グランドノイズの類は極力付けない。台詞も少ない。フランス映画、フィルムノアールである。その代わり、ジャズがそこを埋める。

音楽・真鍋理一郎。改めて真鍋先生を見直した。アルトサックス (ソプラノも?) 、ドラム、ベース、ギター、ピアノはあるが前面には出ない、アフリカ系パーカッション、そして女声のスキャット。この音楽が映画全体のテイストを作る。主役級の存在感。

真鍋理一郎は言わずと知れた伊福部門下 (拙ブログ2016.2.15) 。大きなオーケストラも書くし現代音楽も書く。けれど映画音楽では、その要請に従って何でも書く。「ゴジラ対へドラ」(1971) では主題歌を書いたし、「あゝ馬鹿」(1969) では歌まで唄っていた。この作品ではカッコいいジャズをやっている。これは貝山さんの趣味の様な気がする。貝山さんは、この次の作品「弾痕」(1969) では武満徹で全編ボサノバでやっている。

加山は狙撃の名手。優しく引き金を弾く、その瞬間にしか生きる充実を感じられない男。敵対する老殺し屋が森雅之 (これが何ともカッコイイ) 。加山が唯一心を許してしまう女に浅丘ルリ子、モデルで蝶の収集に憑りつかれている。ニューギニアの太陽に憧れる。憧れはダンスで示される。ホテルの一室という狭い空間、アフリカPercに合わせて浅丘が見事なパフォーマンスを繰り広げる。振付は竹邑類。スレンダーな全身を使い何とセクシーで美しいことか。’60年代メイクの浅丘の何と魅力的なことか。

二人でいつかニューギニアへ行くことを夢見る。「冒険者たち」(1967) のアフリカだ。

 

撮影は都内や湘南や山中湖周辺あたりか。それが日本のどこかであるということを徹底的に排除する。同時に役柄の説明や属性も語られない。銃に憑りつかれた男、男を愛する女、それ以外は不要だ。日本的抒情や喜怒哀楽の感情表現は極力排除される。無国籍である以上に観念的だ。けれど東宝邦画系、前衛映画は許されない。話は必要最小限、削ぎ落としたシンプルなストーリーがある。そこにジャズが流れ、これまでの邦画には無かったクールな世界が作り出されていく。日本的感情表現に飽きていた僕ら若造には新鮮だった。日本でもこんなカッコイイ映画が作れるんだ!

 

最後に息絶えようとする加山の上に“俺は生きる、そして殺す ―アルベール・カミュ”と文字が出る。大昔観た時こんな文字が出ていたなんて全く気が付かなかった。生きることは否応なく殺人者となることである的なカミュの思想をベースにしていたのかも知れない。でもそれは感じる人が感じれば良い。静寂とジャズが支配する、これまでとは全く違った映画だった。

 

加山は若大将とは真逆の使い方である。社長シリーズや若大将が東宝カラーと言われていた時代、よくこんな映画作ったもの、さぞ戦ったのだろう。若き日の貝山さんの突っ張り様が目に浮かぶ。

 

監督. 堀川弘通  音楽. 真鍋理一郎

2019.6.20 「泣くな赤鬼」新宿バルト9

2019.6.20 「泣くな赤鬼」新宿バルト9

 

高校野球の監督(堤真一)と教え子ゴルゴ (柳楽優弥)、ゴルゴは妻 (川栄李奈) と幼い子供を残して癌で死ぬ。典型的な泣ける映画である。今だったらパワハラで訴えられる様な、かつてシゴキと言われた一歩手前の強権的な指導とその根底にある教師と生徒の信頼を描く。

 

かつて小渕 (堤真一) は甲子園有力校城南工業で赤鬼と恐れられていた。赤鬼先生は、自信過剰と自己顕示欲の塊の様な生徒をみんなと一緒に生きるチームプレイヤーにすることが野球部監督の教育と考えている。有力野球部にはそんな奴らがかき集められていた。斉藤通称ゴルゴ(柳楽優弥)はその典型だった。しかし途中でゴルゴは簡単に野球を諦めてしまう。堤も甲子園出場を果たせなかった。

それから10年近くが過ぎ、今は進学校の野球部監督として腑抜けたようになっている堤と,一児の父として一人前の社会人となったゴルゴが病院で再会する。ゴルゴは癌に侵され余命僅かと宣告されていた。

 

ゴルゴの高校時代は別の役者が演じる。無理すれば柳楽がそのまま演じられたはず、それを敢えてしなかった。眼光の似た役者が演じている。それに合わせてライバルの和田君(竜星涼) も高校時代は別の役者が演じる。初めちょっと混乱したがこれは正解である。成長して今はかつてとは別人の様になっていることが強調される。堤だけは変わらない。人生の次のステップに行った生徒たちと、かつてと変わらない、むしろ後退していることの対比。

 

高校時代と今がランダムに入り組んで、しかも役者が違う。しかし不思議に混乱せずスムーズに見ることが出来る。この構成と編集と演出は中々のもの、音楽で色分けをしたりもしていない。

 

ひとり過去と今を通して演ずる堤は赤鬼と腑抜け教師をしっかりと演じ分ける。

息を引き取る間際の柳楽に”悔しいか悔しいか”と言いながら堤が垂らす鼻水を見て泣かない者はいないだろう。柳楽がそれに笑って答える。鋭い眼から涙が流れる。

柳楽は良い役者になった。「誰もしらない」の少年は見事に大人の役者になった。

もう一人特筆すべきはゴルゴの妻役の川栄李奈だ。なんと達者なことか。大河でもチラっと観て違和感ないなぁとは思っていたが、ここまで見事に演じるとは。地方の高校でちょっと突っ張っていて、同じように突っ張っていた柳楽とくっついて早々と子供が出来て、今はしっかり者の妻として夫を支えて、姑と同居する、それが何の説明もないままちゃんと解る。あの何とも言えない愛くるしさの中にきちんと表現されている。今、彼女でなければやれないという役が一杯あるはずだ。

堤、柳楽、川栄が一人欠けても、映画は成立しなかったかもしれない。

 

音楽は前半、ほとんど記憶にない。多分、音楽は極端に少なかったのではないか。

クライマックス、回想の群馬大会決勝、これで勝てば甲子園という試合、ここで城南は負ける。退部したゴルゴもスタンドに来ていた。ゴルゴが何かを叫ぶ (この台詞、失念してしまった)、と同時に音声オフになりノンモン、堤のUP、そこに女声をメインにした (弦も入っていたか?) 綺麗な音楽が入る。宗教的な響きさえする。それが今の病室に繋がる。この一連、編集も上手かったが、音の演出が良かった。ここだけの為に音楽はあった。

そしてローリングで竹原ピストルの歌、あんなにぴったりのエンドロール主題歌を他に知らない。細かい歌詞は聞き取れなかったが、あの声、あの声がどうしようもない運命を受け入れるしかない人間を哀しみ、癒し、応援した。あの声で涙はさらに流れ、そして少しづつ落ち着いていった。

 

監督. 兼重淳  音楽. 北城和美、北城浩志  主題歌. 竹原ピストル

2019.7.17「愛がなんだ」テアトル新宿

2019.7.17「愛がなんだ」テアトル新宿

 

「旅のおわり世界のはじまり」があまりに肩透かしの薄味だったので、続けて同じテアトル新宿で「愛がなんだ」を観てしまった。何とこちらも薄味、というか今時アラサー女の恋愛事情、僕には全く感じるものが無かった。二本続けて心は動かされず。文句溢れて感動無し。

角田光代の原作、今時のアラサー女のリアルがあって解る! と感じる人はいるのかも知れない。

都合良く勝手な男マモル (成田凌) と都合良く遊ばれている女テルコ (岸井ゆき) 、都合良く男を侍らせている女葉子 (深川麻衣) と解っていても献身的な男ナカハラ (若葉竜也)、どっちもどっち。要は惚れてしまった弱み。それを手変え品変えて色んな理屈を付けて描く。最後はその関係を卒業して次の段階へと行く? 見事逆転して相手に惚れさせる? そこが明快ではないのでカタルシスがない。こいつら恋愛以外に考えることがないのか。きっとそうなのだ。そんな奴らは決まってデザインだの雑誌の編集だのの仕事をしている。

そんな青春をおくらなかったヤッカミかもしれないが、何かペラッペラだ。

 

音楽・ゲーリー芦屋。タイトルバックでGがカットインしたのはカッコ良かった。GとEPfとパーカッションのバンド編成、少ないが付けるべき所に的確に付けている。 後半は弦カルが簡単な白玉だが効果的。主演の岸井ゆきと音楽だけが良かった。

 

監督. 今泉力哉      音楽. ゲイリー芦屋

2019.7.17「旅のおわり世界のはじまり」テアトル新宿

2019.7.17「旅のおわり世界のはじまり」テアトル新宿

 

随分、壮大且つ大仰意味深なタイトルである。しかも監督は黒沢清、きっと人間存在の核に触れるような物語に違いない。

初めにウズベキスタンという僕らにとっては未知なる国がある。そこに前田敦子という女優を放り込んだらどんな化学反応を起こすか。その為の設定が作られる。

 

葉子 (前田敦子) は日本のバラエティー番組のレポーター、“私の居場所はここではないのでは?” 感一杯の自分探しに取りつかれた日本の女性。そんな女性にとってウズベキスタンという未知の国は打って付けだ。サマルカンドタシケントも彼女にとっては自分探しの迷宮、ラヴィリンスとなる。

冒頭、ロケバスに遅れた葉子が民泊宿から飛び出す。一斉に向けられる好機の目。ロケ地は琵琶湖の五倍はある水溜り。ここにいるらしい巨大な魚がロケ隊の目当てだ。渡された防水服、“これ穴空いてました” AD (柄本時生) がすかさず “修理しておきました” “準備出来たら本番!” の声、それを聞いて葉子、溜息一つ。これだけでこのTVクルーの状況が手に取るように解る。

クルーは、早く撮り終えて帰国したい風のディレクター(染谷将太)、寡黙なカメラマン(加瀬亮)、 従順で気遣いのAD、そしてレポーターの葉子。昔で言えば日テレの矢追番組やテレ朝の川口探検隊のようなもの、雪男発見!というやつである。(最近のその手のTVを見てないので、例えが古くてごめんなさい) 三人に特段の意欲は無い。葉子も本番のカメラが回る時だけは取って付けたような笑顔になる。アッちゃん、これ見事!

 

葉子はグルグル回る拷問の様な二人乗り観覧車に何回も乗る。火の通っていない現地の食べ物も美味しそうに食べる。“出来る? ”“ ハイ出来ます”、どんな無理も聞き入れる。でも食事もオフ時間もスタッフとは別行動、最小限の接触しかしない。空き時間はひたすら街をテクテクと彷徨う。すし詰めのバスに乗り、バザールを突き抜けて、怪しい男たちがたむろする地下通路を壁際に張り付きながら小走りで通過する。坂を駆け下り、クラクションのなる道路を横切る。どこでも好奇の目が向けられる。好奇の目をそのまま演出に転用して、カメラは手持ち、隠し撮り、望遠で、彷徨う「不思議のウズベキスタンのアッちゃん」を追う。アッちゃんに自由にやらせているのかも知れない。ほとんどドキュメンタリーだ。

ようやくホテルにたどり着くと携帯に飛びついて日本の彼氏にメールする。カーテンを揺らして怪しげな迷宮の風が吹く。

 

巨大な魚はみつからない。これじゃ番組が成立しないとディレクター。葉子が提案し、町外れで見つけた檻の中の山羊オクを草原に帰してやる絵を撮ったりする。

 

めずらしく朝食でカメラマンと同席する。アッちゃんは本当は歌手になりたいこと、帰国したらミュージカルのオーディションを受けて、そこで「愛の賛歌」を唄うことを話す。カメラマンは、自分も本当はドキュメンタリーを撮りたかったこと、でも今の仕事も君のドキュメンタリーを撮っているようで面白いと言う。レポーターの仕事も歌手に通じるんじゃない? “違います、レポーターは反射神経でやれるけど歌は心がないと唄えません”

 

彷徨う葉子はオペラハウスのようなところに迷い込む。劇場前の噴水の音がオフになり葉子は建物に吸い込まれていく。そこはナヴォイ劇場、戦後ソ連に抑留された日本人が壁画を描いたといういくつかの小部屋。そこを通過する主観移動の絵も編集も迷宮に迷い込むホラーのよう。その先ではオーケストラに合わせてオペラ歌手らしき女性が歌っていた。葉子はその歌手と同化し入れ替わり、いつのまにかそこで「愛の賛歌」を唄いだす。

 

自分で回してみたらとカメラマンに言われ、小型カメラを持って葉子が気の向くままに歩き出す。それをカメラが追う。いつのまにかはぐれて、軍事基地のようなところに迷い込む。そこは撮影禁止区域だ。警官が近づいてくる。葉子は逃げる。警官が追う。捕まった葉子に警察署長が、逃げたから追ったんだ、コミュニケーションを取らないと何にも始まらない、と言う。

その時警察のTVに東京湾大火災の映像が映し出される。葉子の彼氏は海上消防士なのだ。携帯が繋がらない。親切な警官はWi-Fiが繋がる部屋に案内してくれる。夜中ホテルで携帯が鳴り、彼氏が無事と分かった。私って何て幸運なんだろうとつぶやく。

翌朝、東京湾火災報道の応援でディレクターとADは一時帰国、カメラマンと葉子は残って撮影を続けることになった。葉子は少し積極的になっている。魚は相変わらず見つからない。山奥に別の巨大な生き物がいるという。二人はシルクロードの山々に囲まれた高地へ赴く。葉子はそこで自由にしてあげた山羊のオクを見る。そして「愛の賛歌」を大オーケストラの伴奏に合わせて唄いだす。そこで終わる。

 

話を詳述した。何故かというと僕には、どこが旅の終わりでどこが世界の始まりなのか解らなかったからである。レポーターとして頑張る葉子、自分探しで彷徨う葉子は、とっても等身大で自然。でもどこで「愛の賛歌」を唄える心になったのか?

拷問観覧車に乗っかって脳味噌がおかしくなったからか (冗談です)

自分を投影した山羊を自由にしてあげたから? そして山奥でその自由な姿を見たから? (僕はこのエピソード、あまりに薄っぺら取って付けたみたいで、驚いた)

食堂のおばさんが撮影のあと、ちゃんと焼き上げた料理を持たせてくれた、ウズベキスタンの人の優しさに触れたから?

少しだけ心を開いたカメラマンに、君のドキュメンタリーを撮っているようで面白いといわれたから? 歌手になりたい、歌は心がないと唄えないと気持ちを吐露したから?

警察署長が、コミュニケーションを取ろうとしないと何にも始まらないと言ったから? (こんなことを台詞で言うことに僕は鼻白んだけれど)

彼氏が無事で、自分は何て幸運なんだろう、と感じたから?

おそらくこれらの全てと、ウズベキスタン大自然と人々、これらがどこにあるかもしれない本当の自分を探すという旅が徒労であること、現状を見つめ受け入れ周りの人との関係を作っていくことで新しい世界が始まる、ということを教えてくれた? だからいつも着ていたオレンジのパーカーを脱ぎ捨て脱皮して、「愛の賛歌」を唄った? なるほど。

 

こんなことを文字で書くのは無粋なことだ。映画は映像と音を使ってこれらを丸ごと納得させてくれる、話も意味も良く解らないけど納得した、ストンと落ちた! というのが映画だ。僕にはストンと落ちなかった。突然 「愛の賛歌」 が唄いだされた時の違和感! これで大団円?

トウキョウソナタ」(拙ブログ2008.10.24) の家族それぞれが彷徨った末に迎えた朝は決定的な何かがあったわけではないが昨日とは違う新しい朝と納得出来た。

例えばジュリー・アンドリュースが圧倒的歌唱力という力技で強引に説き伏せてしまうのでも良い。まぼろしの巨大魚が突然飛び上がったでも良い。唐突な飛躍は映画の醍醐味だ。「町田君の世界」 (拙ブログ2019.6.25) のように風船にぶら下がって舞い上がったって良いのだ、納得さえ出来れば。

 

それまでのエピソードの積み重ねにそれだけの説得力がなかった。

そして何で「愛の賛歌」なのか? という選曲の問題。

「愛の賛歌」は壮大な愛を歌い上げるが、けっして人類愛とか博愛ではない究極のLOVEソング、そんなことはどうでもいい。この歌、ピアフであり、越路吹雪であり、大竹しのぶであり、いずれも声量あり、歌唱力あり、説得力あり、の人たちだ。(そういえばブレンダ・リーも歌っていたなぁ) アッちゃんの歌はアイドルの歌い方である。これは上手い下手の前にこの曲に向いていないのだ。いくら頑張ってもあの唄い方では、大自然の山々をバックにしての空間は埋まらない。オケと対等にはならない。あるいは大オーケストラの中でか細いアッちゃんの声、世界の中で一人という感じは監督の狙いだったのかも知れない。そうだとしたらそれは頭で考えたもの、音は音で考えなければ。

唐突感を和らげる為のナヴォイ劇場での前フリはある。それでも唐突感は変わらない。

もうひとつ技術的なこと。「愛の賛歌」でいくのなら、せめて唄いだしはアカペラで入って、少ししてオケがスーっと入ってくる、と考えなかったのか。初めから壮大なオケの前奏が入る。唄い出す前に、一体何が起こったのだ? である。突然別世界に飛躍する訳だから小手先を労する必要はないと考えたか。確かにそれも考え方ではあるが。

シルクロードの山々に囲まれ、積極的に生きようと歩き出した葉子の表情、カメラがしっかりとそれを捉え、そこに音楽が入り、それは「愛の賛歌」の前奏となってエンドロールの黒味から歌になるでも良い。すくなくとも今よりは納得出来るのでは。

今の形、僕には違和感しかなかった。

 

設定はとっても上手かった。四人の役者+通訳(アディズ・ラジャボフ)の人も自然で本当に良い。言外にそれまでの人生か語らずとも見える。撮影も色々と工夫している。構成はカットバックが一つもないシンプル一直線、これも良い。ただエピソードがあまりにありきたり薄っぺら。僕には旅が終わったことも、「愛の賛歌」によって新しい世界がはじまったことも、ストンとは落ちなかった。ちょっと気分が変わったので唄えるようになっちゃった、である。

初めから「愛の賛歌」は想定されていた。ウズベキスタンに始まり「愛の賛歌」に終わる。その間に前田敦子を置いて繋げる。残念ながら繋がらなかった。僕には久保田早紀の「異邦人」が聴こえて来た。

 

音楽・林祐介、「散歩する侵略者」(拙ブログ2017.09.11) では面白い曲を書いていた。今回の劇伴は葉子の心の動きのところ、例えば山羊のエピソードとかホテルにひとりになるところとか数箇所にトロンボーン(?)のアンサンブルでゆったりとした短い曲を付けている。付けている場所は良いしそれ以上音楽を付ける映画ではない。街ノイズが彷徨う葉子の背後に音楽の様に付けられているのは効果的だ。

音楽は「愛の賛歌」につきる。大編成の編曲自体はとっても良い。けれど映画音楽としての違和感は前述の如し。歌とオケは音質的にも混ざっていない。オケは後かぶせか。オケと歌との微妙なズレに苦労の痕が見て取れる。エンドロールは「愛の賛歌」のVLソロ・バージョン。安心して聴けた。

 

散歩する侵略者」、上手いタイトルだったなぁ。あれは「旅のはじまり世界のおわり」だった。こちらは「旅のおわり? 世界のはじまり? 」、立派なタイトルも時に考えものである。

 

監督. 黒沢清  音楽. 林祐介

2019.7.26 「凪待ち」日比谷シャンテ

2019.7.26 「凪待ち」日比谷シャンテ

 

白石和彌らしい映画、ほっとした。「麻雀放浪記2020」(拙ブログ2019.5.07 )ではどうなってしまったのか心配した。本来の姿に戻ってくれた。

 

主演は香取慎吾、圧巻である。

 

冒頭、印刷工場をリストラされた郁男 (香取慎吾) とワタナベ (宮崎吐夢) 、二人にとって競輪場は唯一世間から開放される場所、カメラが川崎競輪の看板を斜めに写す。車券を買って当たったり外れたりして、飲み屋でコップ酒をあおる。ここへ来るとホッとするよねとワタナベ、白髪混じりの無精ひげで優しく笑う、郁男は唯一優しくしてくれた人。ここを見ただけで白石健在を確信!

郁男は明日、同居する亜弓 (西田尚美) とその娘美波(恒松祐里)と三人で川崎から石巻に引っ越す。石巻は亜弓の故郷、そこでの郁男の仕事は充てが付いていた。印刷工としての技術はあるらしい。郁男は乗っていたロード用自転車をワタナベに使ってくれと差し出す。その自転車に乗り、慣れないハンドルにヨタヨタしながら“落ち着いたら連絡するよ”(不確か) と言って夜の闇へ消えていくワタナベ。「夜空は最高密度の青色だ」(拙ブログ2017.5.07) の田中哲司の ”死ぬまで生きるさ” の別れ際を思い出した。

 

亜弓は先に石巻に向かったようだ。郁男と美波は、引越屋が来ても、“ちょっと待ってもうじきだから”(不確か)、とゲームに興じる、二人は気が合うようだ。石巻に向かう車の中、“好きなんでしょ、何で結婚しようって言わないの?”(不確か)と美波に言われる。郁男は曖昧に答える。郁男は大して働きもせず、時々亜弓から金をくすねては競輪につぎ込んでいる。美波は引きこもりの不登校、ともに他人に迷惑をかけながら生きているという負い目を抱いている。“郁男はあたしと同じだ”

 

石巻の新しい生活。癌を患い先のない、けれど今だに漁に出る父親勝美 (吉澤健) 、何くれとなく世話を焼いてくれる近所の小野寺 (リリー・フランキー)、新しい職場は地元の印刷工場、引きこもりだった娘も定時制高校に通いだし、幼馴染 (佐久本宝) {彼は確か「怒り」(拙ブログ2016.9.21) に出ていたか} とも再会して話し相手も出来た。

小野寺に連れて行かれたバーで亜弓の元夫、美波の実の父親 (音尾琢真) と遭遇する。元夫は一癖ありそうな中学教師、DVが原因で別れた。きっと綺麗ごとだけではないこれまでがある。

競輪の予想をしていた印刷工場の若い者に誘われて、ついノミ屋に足を踏み入れてしまう。石巻でも競輪はやれた。引越に際し、ギャンブルと酒は止めることになっていた。それが少しずつ崩れていく。

 

美波はいつも郁男の父親としての言葉を待っていた。さりげなく視線を向ける。しかし郁男はいつも曖昧だ。美波の夜遊びを亜弓が頭から叱り付ける。郁男の言葉を待っている美波。他人に対し、はっきりとした言葉が言えない、自信がないのだ。曖昧かキレるか。ようやく言う、”あんまり遅くなるなよな!” 美波はその言葉を嬉しそうに聴く。

その夜、帰らない娘を心配して亜弓と郁男は車で夜の街を探し回る。煮え切らない郁男に腹を立てる亜弓、”実の子じゃないからよ” 、郁男はキレる。亜弓を車から叩き出す。ゲーセンにいた娘は直ぐに見つかった。お母さんに連絡しろ、美波携帯を掛けるが繋がらない。亜弓は高速の下で遺体となって発見された。あまりの急展開、けれど話の発端となる事件、少し唐突だが仕方ないか。

美波は自分を責める。郁男も自分のせいだと思う。まわりは実の父親が娘を引き取るのが良いと話を進める。先方も了解した。親父は美波が郁男に懐いていることを知っていた。このままここで暮らせばいい。美波もそう望んでいた。郁男もそうしたいがそれを切り出せない。郁男には美波の父親になるという自信がないのだ。

郁男は競輪にのめり込んでいく。ノミ屋が斜めに写る。ギャンブル依存が始まる。

ノミ屋から借金をし、それはどんどん膨らんでいく。警察は亜弓殺しの犯人として郁男を疑う。印刷工場でも社員がノミ屋通いをするようになり事務所から金も無くなった、郁男が来てからだと言われる。印刷工場で乱闘事件も起こす。尻拭いは小野寺がしてくれた。俺はダメな男だ。

 

郁夫の過去は全く語られない。おそらく郁男は家族というものを知らない。もしかしたら施設で育ったのかも知れない。ギャンブル依存症で直ぐ頭に血が上る。人に迷惑ばかりかけている。自分が家庭を持つなんて考えもしないし、そんなことをしてはいけないとさえ思っている。家族への憧れと恐怖心。俺はダメな男だ。けれど子供の様な純粋さがある。

こんな役を香取慎吾が見事に演じている。香取は上手い役者でもなければ器用な役者でもない。台詞は一本調子、けれどその台詞には子供の様に素直な純真さがある。郁男は口籠もるタイプ、唯一多く発するのは車の中での亜弓とのやり取りくらい、あとは時々ポツリポツリ、これは香取の特性を考えた時、上手い設定だ。その代わり肉体、顔、目で多くを語る。時々入る、少し顎のあたりが弛み、胡散臭い髭を生やしたUPには、親になる決心も出来ず、ズルズルと競輪にはまり、隠してあった亜弓のへそくりにまで手を出してしまう、善良で口下手でキレやすくギャンブル依存の男の自虐が滲み出ている。香取は演技力で郁男を演じたのではない。存在そのもので郁男になり切った。

 

胡散臭い美波の実父は今はフィリピーナ(?)の妻を持つ。市場で、その妊娠中の妻が美波や郁男が居る前で急に産気づいた。病院へ運ぶ。生まれた赤ん坊を美波が抱きかかえる。そこに父親が駆けつける。この父親がガラス越しに美波が抱える赤ん坊を見て、ポロポロと涙を流す。涙がDVの過去を洗い流してしまうようだ。カメラは父親から後に立っていた郁男にフォーカスしていく。ここは自分の居る場ではないとそっと立ち去る郁男。やっぱり実の親子なのか。このまま血の繋がる親子で纏まり、郁男はこの地を立ち去るのか。

 

親父が漁船を売って金を作ってくれた。これで綺麗にしろ! この親父、只者ではないと思っていた。この時初めて自分も前科があること、石巻で妻に出会い、亜弓が生まれ、真っ当な生活を送れるようになったと話す。その妻は3.11で流されてしまった。それを救えなかったことを親父は今も引き摺っている。

郁男は借金を清算し、残った金で一点買の大勝負をする。ノミ屋がそれを受ける。3-6、これが当たった。ちょっと出来すぎこれでハッピーエンド? ここでちょっとフェイント、中継画面に「認証」(?) と出る。まだ決定ではない、認証でひっくり返るかもしれない。競輪場のアナウンスが、ひっくり返りませんでした(不確か) 、映画館に笑いが起きた。けれどノミ屋がそんな大穴、払うわけがない。車券はノミ屋がノミ込んでしまう。

 

自分はダメな男だ。居れば周りに迷惑ばかりかけてしまう。郁男は置き手紙を残し、街を去ろうとする。駅まで行った時、待合室のTVが、ワタナベが印刷所を襲ったという事件を報じる。俺も! と思ったかヤケクソか、街に戻ると折りしも祭り、そこでヤクザに食って掛かり大立ち回りを演ずる。このカメラは圧巻。ここも小野寺が取り成してくれる。

翌朝、ノミ屋に一人乗込んだ郁男は店をグチャグチャに破壊する。そしてヤクザにボコボコにされる。

何でわざわざ殴りこみを翌朝にしたのか。駅から真っ直ぐノミ屋へ殴りこむで良かったのでは? この溜めのワンクッションには引っかかった。

 

親父がひとりヤクザの事務所に乗込む。ボコボコにされた郁男が横たわっている。麿赤兒が若い奴に孫の写真を見せている。亜弓の葬儀の時、焼香に現れた麿に曰くがない訳がない。どう絡むのか楽しみだった。ここだった。

親父 ”こいつは貰っていく”  

麿 “手をだすな、俺は昔こいつに命を助けられた借りがある” 

“なんでこいつをかばう? “

親父 “こいつは俺のせがれだ! “

一気に涙腺決壊!!!

名優の力というものは凄い。吉澤健と麿赤兒、かなり強引な纏め方にも拘わらず口挟む余地もなく納得させられてしまう。ただただ涙流れる。

 

外へ出ると郁男はガキのように大泣きする。両脇を親父と美波が支える。きっと郁男は初めて心から泣いた。甘えた。美波がしっかりとして母親のようにさえ見えた。世間に居場所が出来たのだ。家族は血ではない。山田洋次に聞かせてやりたい。

亜弓との婚姻届に郁男が署名し、船出した三人で沖合いに流す。ようやく訪れた凪である。海の実景がそれを雄弁に語る。けれど凪の海のその下に何があるかを僕は全く気がつかなかった。

 

三人を乗せた漁船、朝の雲が低く漂う三陸の海、Pfがほとんどソロ、ローリングがせり上がる。僕はいつもエンドロールは音楽を聴くこと、クレジット、特に音楽関係を確認することに集中する。婚姻届が水中を漂いそれを追っての水中撮影、と軽く見ていた。実はこの映画二度見した。二度見の時も良い音楽だなぁと気を取られ途中まで全く気がつかなかった。しばらくして、あれっ? これただの海の中じゃない、ピアノがあったり家財道具があったり、何とそれは3.11で流された物たちだった。流された人たちの生活だった。僕は何と恥ずかしいことに一度見の時は全く気がつかなかった。三人の新しい生活の下には3.11が横たわっていたのだ。

3.11は何気ない実景の中にもさりげなく触れられていた。カメラがパンするとただ造成だけがしてある広い土地があったり、遠くには不釣合いの高いビルが見えたり。こんな壁作る前は綺麗な海だったと亜弓が言ったり、川崎での美波の不登校も3.11が原因だった。郁男はヤクザから福島の放射能除染で一ヶ月働くように言われていた。内臓売るか原発か、ヤクザが食い詰めたダメ男を送り込んでいるのだ。至る所に3.11があった…

 

音楽、安川伍郎。Pf、AG、Syn、ひかえめのDr、パーカッション、後半に少人数の弦。必要最小限に付ける。小編成の時の安川はほんとうに良い。上手い。エンドロールはほとんどPfが単純素朴なメロを爪弾くようなソロ。そのなんと雄弁なことか。

音楽を詳述するにはもう一度観る必要がある。ここでは素晴らしかったとだけ。

 

亜弓殺しの犯人は小野寺だった。ちょっと唐突な気もした。印刷工場で工員が金を抜き取るのを亜弓が見てしまうという、引っ掛けもあった。僕はてっきりこの線かと思っていた。納得させてくれるエピソードが一つくらいあっても良かったかとも思う。亜弓と小野寺にも語られない多くの物語があるに違いない。

リリー・カメレオン・フランキーはここでもカメレオンぶりを遺憾なく発揮している。役者は脇役に至るまでみんな良い。ネームバリューに拘らない適材のキャスティング。ワタナベは言うに及ばず、元夫もノミ屋の発券のお兄ちゃんもゲロ吐いて逃げる工員も、男優は白石映画に出るとみんな輝く。

そんな中で負けじと西田尚美恒松祐里が頑張る。恒松、僕は知らなかった。こんな可愛い子、田舎にいたら超目立つ。いつ変な方向へ行ってしまうか気が気じゃなかった。過酷な環境に耐えて健気だった。それをしっかり演じていた。

 

香取は多くの賞を取るに違いない。白石和彌は健在だった。

 

監督. 白石和彌  音楽. 安川伍郎