映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2020.12.18 「燃ゆる女の肖像」 日比谷シャンテ

2020.12.18 「燃ゆる女の肖像」 日比谷シャンテ

 

18世紀、女が自由に生きられなかった頃の、その運命を受け入れつつも、一瞬の自由の輝きを生きた二人の女の物語。

仏、ブルターニュ地方の孤島、貴族の娘の結婚は政略であり、それを推し進める手立てとして写真が無い当時は肖像画がその役割を果たした。貴族の娘エロイーズ (アデル・エネル) とその肖像画を依頼された画家マリアンヌ (ノエミ・メルラン)。冒頭、離れ小島の貴族の館へ向かう小舟、荒海にキャンバスが流されると飛び込んでそれを回収した、眉のしっかりとしたマリアンヌ、只者ではない。

館についてからはサスペンス仕立て、女中ソフィー (ルアナ・バイラミ) が応対してエロイーズは現れない。暫くして現れるも後姿、顔は写さず。姉は自殺したらしい。前に来た男の画家には顔を描かせなかったらしい。ソフィーがその辺を説明する。スリラーの可能性もある思わせぶり。画家であること、肖像画を描きに来たこと、エロイーズには内緒にしてある。話し相手として母親が差し向けたということになっているらしい。

マリアンヌの観察が始まる。エロイーズは正面からの顔を見せない。一緒に海岸を散歩するも見せるのは横顔だけだ。悟られない様、密かに絵を仕上げていく。少し斜め座りのポーズ、顔から下の部分は完成していく。キャンバスに描いていくプロセスの描写は丁寧、顔を何とか盗み見ようとする視線とそうさせまいとする二人のやり取り描写は息詰まる。

エロイーズは修道院にいた。姉が自殺したので代わりに政略結婚の道具として呼び戻されたのだろう。結婚は望んでいない。“あなたには自由がある、自由のない私の気持ちなど解らない” “いえ、解ります” 少しずつ気持ちが通いあっていく。

二人は荒涼とした海で泳ぐ。エロイーズは泳ぐのが初めてだったか? ここで抑えていた二人の気持ちが決壊、二人は抱き合う。それがとっても自然で美しいのはそれまでの描写のデリケートさゆえ。マリアンヌはエロイーズの顔をしっかりと見て絵を完成させる。

発注主の母親に見せる前にマリアンヌはエロイーズに経緯を告げ、絵を見せる。エロイーズは、これは自分ではない、と否定する。

発注主に頼み込み書き直しに取り掛かってからの日々は愛おしい。エロイーズは自らモデルとしてマリアンヌの前に立つ。抑え込んでいた人間としての自由を爆発させる。ピアノを弾き文学を語り肉体の快楽を知る。マリアンヌとエロイーズ、そこにソフィーも加わり、女三人が社会的制約を取っ払って心を通わせる。食事も主従の関係なく平等、蝋燭の下でトランプに興じる。まるで修学旅行の女学生の様。

ソフィーが妊娠していること、中絶する決心をしたことを告白する。三人は本土の女だけの怪しげな祭りに赴く。異教徒の祭り,“ワルプルギスの祭り”というやつか。みんなトランス状態となりおそらく乱交でクライマックスとなるのだろう。抑圧を全て取っ払うということだ。

エロイーズのロングスカートの裾に火が燃え移る。炎がエロイーズを輝かせる。直ぐに消されたが画家はその姿をしっかりと脳裡に記憶した。

あとで述べるがこの祭りで初めて音楽が鳴る。ここまで、ピアノを弾くシーンでそれに合わせた音楽が短くあっただけ。

この種の祭りは伝承的民間医術の場でもある。ソフィーはここで堕胎する。堕胎は命懸けだ。魔女の様な女が処置し、苦痛に喘ぐソフィーの周りを赤ん坊が徘徊する。まるで生命を一服の宗教画にしたようなカット。

三人は“オルフェとユーリディス”について語り合う。マリアンヌは、変えることの出来ない運命ならユーリディスを詩として残すべく、オルフェは自ら振り返った、と言う (不確か) 。

絵は完成し、束の間の自由が終わり、三人は元の生活に戻る。

ここで終わるのかと思ったら更なるコーダが付いていた。

その後マリアンヌはエロイーズを二度見た。最初は絵の展覧会。そこにエロイーズの肖像画があった。脇には子供、手には本が。さりげなく28ページ(二人の秘密、82ページだったか?) が開いていた。

二度目は演奏会、向いの貴賓席にエロイーズが一人でいた。気付いていたのか、視線は合わさなかった。ヴィバルディ―の「四季・夏・第三楽章」がフルボリュームでカットイン、エロイーズの頬に涙が伝っていた。僕は情けないことに気が付かなかったのだが、二人が弾いたピアノはこの曲だったのだ。

 

音楽は2曲、たったの三か所。最初は、音楽の歓びを教えるかの様にマリアンヌが「四季・夏・第三楽章」をピアノで短く弾く。

次は夜の祭り、シーンの頭からシンセ、素朴な繰り返しのリズムが入って来て、コーラスが加わり、クラップが加わって、クレッシェンドしてトランス状態を作っていく。トラディッショナルをリメイクしたのかと思ったらオリジナルらしい。打ち込み系、コーラスがしっかりと出来ているのでクラシックの人かと思ったが違うよう。実質的には初めて登場する音楽、そして唯一のオリジナル。そのインパクトには言葉も出ない。しかも女たちの異端の祭り、燃える女エロイーズ、それを見つめるマリアンヌ、エクスタシー!

最後は演奏会でのオーケストラによるヴィバルディ―、視線は合わさずともあの曲で二人は会話をしていたのだ。自由な日々への挽歌…

 

肖像画にある通り、エロイーズは政略結婚をし、子供をもうけて、運命を受け入れた。マリアンヌは (当時は女の画家など認められなかったので) 高名な画家である父の作品として自作を発表し評価を得た。マリアンヌは島に来る前には堕胎の経験もあり(?)、女に自由がない時代のそれなりの経験を経ていたに違いない。あの眉がそう語っている。眉力 (まゆぢから) のある女優だ。

二人が女同士で愛し合った、つまりレズだったという印象がほとんど無い。肉体の解放は重要な要素だが、観終わってセクシャルな印象がほとんど無いのだ。自由は性をやすやすと超える。自由に生きることが許されない時代にその運命を受け入れつつ、束の間心通わせ自由を経験した、それがある為生き続けることが出来た、青春の挽歌だと僕は思う。

ところで、魔女とは、自由のない時代に自由に生きてしまった女のことなんだと、この映画から派生的に解った。

 

映画音楽に正解はない。10人の音楽家がいれば10通りの映画音楽があり、10人の監督がいれば10通りの映画音楽がある。最後は監督の主観に収斂させるしかない。昨今の様にベタ付け音楽お茶漬け流し込みのやり方もあれば、ピンポイントで的確に付けるやり方もある。ただ音楽は付ければ付けるほどその効果は薄れて行く。

この映画は、ピンポイントで的確に、音楽の効果を最大限に発揮させた、見事な例である。

 

監督. セリーヌ・シアマ  音楽. ジャン=バティスト・デ・ラウビエ