映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2017.09.01 「エル  ELLE」 日比谷シャンテ

2017.09.01「エル ELLE日比谷シャンテ

 

よくぞまあここまで今の様々な問題をぶち込んだものである。情報量は大変なもの。それを単なる羅列に終わらせず、有機的に物語として、しかも一級のエンタテイメントとして纏め上げた脚本と演出は大変なもの。それもイザベル・ユぺールという肉体があったからこそであることは言うまでも無い。

レイプ、変態、親友の夫との情事、色ボケ老婆、散骨、レズ、それらを全て抱えて、ゲーム会社を切り盛りするアラフィフ(?)の 、強靭な精神とエロティックな肉体を持つミシェル (イザベル・ユぺール) 。遠くにいつも服役中の父親が居る。幼児を含む多数の殺害を犯したらしい。ミシェルが10歳の時。ファザコン? いやもしかしたらファザーファッカーの影もうっすらと有るのかも知れない。

冒頭、黒味にガチャン! とガラスの壊れる音だけがカットイン、サスペンスとしては上々のスタート。突然飛び込んで来た覆面の男にレイプされる。描写は生々しい。レイプ魔が立ち去った後、警察に通報するでもなく誰かに助けを求めるでもなく、平然と散らかったガラスの破片を片付け、浴槽に身を浸す。白い泡の奥から血の赤が浮き出てくる。次のカットは翌日、何事も無かったかの様に足早に出社する彼女。若いゲームクリエーターにダメを出す。警察へ届けないのは父の事件のトラウマがあるかららしい。若い社員から尊敬されてはいるが、好かれてはいない。たたみ掛ける編集、無駄なカットは一つも無い。

初めのうち、若い男、中年の男、会社の男、隣の男、次々に現れる男たちとの関係が解らなかった。全員、ミシェルの男に思える。イザベル・ユぺールだからそう見える。話が進むにつれて、それが息子であったり元夫であったり親友の旦那であったり隣人であったりが解って来る。少しづつ解って来る手際が見事だ。説明調は一切ない。自然に、会話と話の展開の中で解らせていく。犯人を捜すということは自分の置かれている今の状況を解明していくということなのだ。

カフェで突然初老の女から酷い嫌味な仕打ちをされる。“人殺しの親子が!”というような言葉を吐き捨てられる。ミシェルはそれに腹立てるでもなく、ただ受け止める。10歳からこの方、世間からずっとこんな仕打ちをされてきたのだ。世間と戦い続け、今のポジションを獲得した。父親が何で事件を起こしたかが短く語られたが、多分これは重要なポイントであるにも関わらず、全部を聞き取れなかった。ミシェルは警察も世間も敵だと思っていることは確かだ。自分だけを信じて生きて来たのだ。

だからレイプ魔を自分で突き止め様とする。犯人は妻も子もある隣人の男だった。

 

別れた夫は売れない作家でゲームの企画でミシェルの世話になっている。若い女が出来るが捨てられる。息子は、お腹の子供が自分の子でないことを承知で生意気な小娘と結婚する。小娘は息子をアゴで使う。元夫も息子もどこかでミシェルに依存している。

親友の夫と浮気をしたがそれはセックスをしたかっただけ。そう告白しても、親友との友情は壊れない。女同士、夫婦を超えた絆がある。二人はレズのセックスを試してみるがそれは上手くいかない。ミシェルの老母は若いマッチョ男に入れあげ、結婚すると息巻く。フランスのババアは凄い。ネットでミシェルを中傷する映像を流した会社の若いオタク男は、ミシェルに言われるままにペロッとオチンチンを出す様な奴だ。レイプ魔は子供もいるエリート、でも変態。妻は敬虔なクリスチャン。引っ越しの別れ際に、短い期間でしたが夫に付き合って下さりありがとう、と言う。全てを承知していたのだ。

男はどいつもこいつも優しくて情けない。自立していない。女はみんな逞しくて自立している。男は今や女の物語の背景でしかなくなった。主役は女だ、それもアラフィフ。

唯一、大人の男はトラウマの父親だけだったのかも知れない。母の遺言でミシェルが刑務所に面会に来ることを知った父親はその前に自殺する。この辺、僕には良くくみ取れなかった。その辺が解ればもっと深く楽しめたのだろう。が、解らなくても充分に面白い。アラフィフやり手女の、トラウマと遍歴と家庭と性的欲望が、丸ごと鷲掴みで描かれる。つまりは今の女の置かれた赤裸々な状況だ。それがちょっとだけデフォルメされてエンタメになっている。宗教の問題も入っているが、この辺は僕には解らなかった。

全体はサスペンス、音付けも冒頭のガラスの壊れる音や、CGゲームの音などをカットインしてあざとい位のメリハリ。話の展開も早い。余計な説明余計なカットは一切無し。女はいつも早足で歩いている。

音楽はサスペンス映画音楽の王道、弦を主体にしてマイナーの短い動機を繰り返す。多くはないが必要なところに絵合わせできちんと付けている。話の展開の速さについ音楽の細部を記憶し切れなかった。二度見する必要があるか。

 

最後は男どもの関係を全部チャラにして長年の親友と同居、レズへのトライだ。ラストカット、二人で墓地を歩いて行く後姿のなんとカッコイイことか。男の割り込む空きなんてない。

凍り付くような孤独を抱えつつ男と世間への積年の恨みを体現する、しかもそれを柔軟にやってのける、フランスのアラフィフ女は怖い。イザベル・ユぺールという女優あってのことか。

 

平日昼間、日本のおばさんたちで混んでいた。自立する女の映画くらいのつもりで見に来たか。きっと度肝を抜かれたことだろう。久々にエロくて痛快な映画を観た。

 

監督 ポール・バーホーベン   音楽 アン・ダッドリー

2017.09.05 「幼な子われらに生まれ」 テアトル新宿

2017.09.05「幼な子われらに生まれ」テアトル新宿

 

田中信(浅野忠信) は一人娘沙織(鎌田らい樹)の親権を渡してキャリアウーマンの友佳(寺島しのぶ)と離婚した。娘と定期的には会っている。今日はその日、遊園地で観覧車に乗っている。良い関係の様だ。信が唐突に、もし(今の妻との間に) 弟か妹が出来たらどうする? と聞く。エッ? そうか、あたしがはじき出されることになるんだ。でも真剣には取り合わない。そう装ったのかもしれない。これがアバン。謎解きサスペンスの様。上手い導入。

信は、二人の娘を抱える奈苗(田中麗奈) と再婚し、実の娘の様に可愛がり、娘たちもなつき、幸せな家庭を営んでいる。奈苗の離婚は夫のDVが原因だった。

事情が説明されないまま信と娘たちのやり取りが描かれるので想像力で補わざるを得ない。大体のアウトラインが掴めた頃、答えの様にカットバックで過去の経緯が説明される。この展開も上手い。

奈苗が妊娠した。これをキッカケに寄木細工家族が一気に軋み出す。上の娘・薫は6年生、別れた沙織も同じ位か。自分に目覚める、一番揺れる年頃。親の勝手のシワ寄せが一番デリケートな所に表出する。それでなくても当たり所を探しているような年頃、実の父親ではないなんて格好の標的だ。

親の勝手で娘に余計な負荷を掛けていると思うと辛い。それを信は一人で引き受ける。ここ数年は会社の付き合いもせず、煙草も止め、有給は目一杯取っている。一流会社のエリートサラリーマン、かつては将来を嘱望されていたようだ。仕事よりも家庭を選んだ。娘たちへの責任を選んだ。今は配送子会社に出向となり、倉庫内で荷物集めをしている。

“だって本当のお父さんじゃないもん、本当のお父さんに会いたい!” これは辛い。1~2年して彼氏でも出来る頃になるとそんなことどうでも良くなるのかも知れない。この時期さえ乗り越えれば。でもこれ私の様に何十年も前にそんな時期を経験をしたジジイが振り返って言えること、当事者は娘も父も心はパンパンなのだ。

この時受け止めてくれる人がいないと、コンビニでたむろして悪い友達とつるんだりする。或るいは引き籠る。人生で最もデリケートな季節。

娘とは上手くいかない、会社でも上手くいかない、そこに病気でも重なったら三重苦で立ち上がれなくなる。間が悪い時には得てして重なるものだ。周りを見ればそんな奴、けっこう居る。

信は病気にはならなかった。二重苦で頑張った。二人の娘を必死で受け止めた。でも一度、妻にキレた。堕ろすしかないだろう、と言ってしまった。これで妻とも決定的となった。家を飛び出して駅前の煙草の自販機の前。今、煙草の自販機はタスポがないと買えない。持ってなかったのだ、きっと。思わず見知らぬ人から貰い煙草をする。車の中で久々の煙草を深く吸う。あの気持ちが手に取るように解る。きっと軽いやつだ。10ミリじゃ咳き込んでしまう。煙草は健康には良くない。でも精神衛生上は良いことだってあるのだ。

本当に惨めな時って日常の何でもないことまで上手くいかない。貰い煙草の演出は身につまされる。

行方知れずだった薫と恵理子の父親・沢田(宮藤官九郎)を信は探し出す。家庭には全く向かない男。娘に会ってくれと頼むと金を要求するような奴だ。会ってももう分からないし会いたくもないと言う。頼み込んでデパートの屋上で会う段取りをする。当日沢田はきちんと背広を着て縫いぐるみのプレゼントを抱えてベンチに座っていた。これにはこみ上げてしまった。実の親子、血のフィクションとはかくも強固なものか。役者としてのクドカンを改めて見直した。

薫は結局行かなかった。始めから会ってどうなるものでもないことは解っていた。信は縫いぐるみを薫に渡す。それを抱えながら薫は信の胸に泣き崩れる。こっちは血を超えた。

友佳の再婚相手は信と同じように沙織を実の子のように可愛がってくれた。その父の様な人が病気で余命幾ばくもない。沙織は、近所の仲の良いおじさんが死にそうな感じ、涙が流れないと言う。でも病院でお父さんの様な人が息を引き取る時、沙織は、“お父さん!”とオイオイ泣いた。こっちも血を超えた。

血を超えたり超えなかったり、実はそれはどうでもよいことなのだ。確かに血の繋がりは家族の科学的裏付けに基づく最後の砦かも知れない。しかし心はそれをやすやすと乗り越える。

 

幼な子が生まれた。病院で、薫、恵理子、信が迎える。覗き込む信のアップ。映画はそのストップモーションで終わる。サラリと終わって好感が持てる。

切り替えして幼な子の主観でみんなをパンする、なんて終わり方もあったか。新しく家族に加わります、よろしく!

 

音楽は必要最小限。Pfが間隔を置いてボロンボロンと単音に近い音を付ける。うしろにSynのパッド。中盤でAGが少し入る。Pfとユニゾンでメロディーを弾く(?)。記憶曖昧。遠くから家族を見つめる音楽。これで充分。呉美保の作品を手掛ける作曲家。

浅野のストップモーションの後はローリング、ここにも劇中と同じ間隔を置いたPfの曲が流れる。最後は優しいメロディーで包み込むという手もあったのでは。

 

例えば、幼な子の主観で家族を見回すラストカット、そして優しいメロディー(ここだけ弦で)が流れる。癒しではなく、家族として出会った奇跡への感謝。三島有紀子(「しあわせのパン」をDVDで見ただけだが) らしくはあるが、荒井晴彦 (脚本) らしくはないかも。

 

頑張る浅野忠信が良い。訳の分からない犯罪者をやるよりホームドラマで頑張るお父さんの方が好きだ。田中麗奈は地で行っているとしか思えない位普通の女に成り切っている。ちょっと出るだけでも寺島しのぶの存在感は圧倒的だ。役者クドカン、見直した。そして娘3人は何と自然だったことか。それらを引き出した監督、こんな才能が居たんだ。

 

監督 三島有紀子   音楽 田中拓人

2017.08.25 「ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ」 角川シネマ有楽町

2017.08.25「ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ」角川シネマ有楽町

 

冒頭アメリカの田舎町、五つ同時にシェイク出来る撹拌機を一生懸命売り込む中年男レイ(マイケル・キートン) 。売れない。相手にされない。汗をぬぐい乍らルート66沿いを 売り歩く。1950年代、アメリカのセールスマンだ。ホテルに帰るとビジネスマン向け自己啓発のレコードを掛け、自分を鼓舞する。音楽、ウッドベースの重いピチカートが低く垂れ込める。エネルギッシュな男だが、映画は決して明るいスタートではない。普通なら程好き所へ収まろうとする年齢、いつか見ていろ!  諦めないこの男の野心は健在だ。

5本脚シェイクを5台(?) 注文して来たのがマクドナルド兄弟だった。二人が経営するハンバーガーショップは徹底的に無駄を省き、従業員の店での動き方まで管理する。導線を敷いて無駄な動きを排除し、注文から30秒(?) で商品を出す。しかも品質は一律に保たれている。これだ! とレイは思った。この嗅覚が凄い。その頃にはウッドベースにClaも加わり明るくないメロを奏する。この作曲家はClaが好きな様だ。「キャロル」(拙ブログ2016.3.1) でも 「トゥルー・グリット」(拙ブログ2011.4.19) でもClaを印象的に使っている。

兄弟にフランチャイズ化を提案し、品質が保てないと渋る二人を説得し、契約にこぎ着ける。成功する人のヴァイタリティは凄い。しかも最初のフランチャイズ店は、家を抵当に入れて自らが開いたのだ。

撹拌器をハンバーガーショップに代えてレイは強引にセールスをする。前に別のものを売りに来なかった?

店は増える。それでも資金繰りは火の車。マクドナルド兄弟に払うフランチャイズロイアリティ、これを何とかならないものか。知恵を付ける者も現れる。

程無くしてルート66沿いを席巻、レイは時の人となる。

レイはフランチャイズ店を周っては自ら掃除をしたりする。動きの悪い者をチェックする。見込みのありそうな奴をどんどんスカウトして店長に据える。自ら汗をかく経営者だ。

品質第一、拡大路線に懐疑的だった兄弟と金儲けのレイ、遂に両者は対立する。兄弟との間に交わした契約書を白紙の小切手を渡して強引に破棄する。その頃レイの周りは辣腕弁護士がしっかりとガードを固めていた。レイは兄弟からマクドナルドという名称を奪い、ファウンダー(創業者)という地位を自分のものにした。

アメリカは契約社会だと言う。実は全く違うことがこの映画で良く解る。力の世界だ。有能な弁護士を立てて黒を白にする。成功したビジネスマンは大なり小なりこんなことをやって来たのだ、多分。成功してからは契約を守り、法令を遵守し、慈善事業に寄付して、クリーンな成功者のイメージを作る。

50を過ぎて今だ野心に燃え続けた男が勝利を手にする実話に基づいた物語。勇ましいイケイケの音楽を付ければ正にアメリカンドリーム成就の映画だ。しかし音楽は始めから終わりまで暗い。CBを始めとする低音楽器ばかりだ。音楽がこの映画が成功物語になることを阻止している。

地位も家柄も無い者が成功するにはこれ位やらなければダメなのだろう。社交とゴルフに明け暮れる自らは汗をかかない投資家連中が出てくる。トランプが敵と見なしたウォール街エスタブリッシュのローカル版といったところか。マイケル・キートンのアクの強い演技がどこかトランプとWる。確か、マクドナルドはアメリカだ! というような台詞が何度か繰り返された様な。この映画、婉曲的にトランプを批判している映画なのでは。製作が大統領選の前か後かは解らない。でもどうしてもそう読み取れてしまう。あの暗い音楽は作曲家だけの解釈で付けられたとは到底思えない。監督を含む製作者の総意のはずだ。

エンドロールで主な登場人物のその後が語られる。誰々はマクドナルドの二代目の社長になったとか、CEOになったとか、COOになったとか。マクドナルド兄弟が別名称で続けたハンバーガーショップは2年で潰れたとか。契約書に明記されていた兄弟へのロイアリティは何年以降は支払われていないとか。

面白いがイヤな映画である。

 

監督 ジョン・リー・ハンコック    音楽 カーター・バ―ウェル

2017.08.12「砂の器 シネマコンサート」文化村オーチャードホール

2017.08.12「砂の器 シネマコンサート」文化村オーチャードホール

 

砂の器」シネマコンサートを見て来た聴いてきた。2014年7月13日「第4回 伊福部昭音楽祭」(オペラシティ―) で「ゴジラ」(1954) を全編上映・全曲生演奏した時は、まだこのスタイルの演奏上映を何と呼べばよいか的確な言葉が無かった。“映画全編上映全曲生演奏”と、呼び名より説明だった。シネマコンサートというと映画音楽を演奏するコンサートと受け取られた。その後このスタイルのコンサートが「ゴッドファーザー」や「ハリーポッター」を始めとしてアメリカから沢山やってきて、今や“シネマコンサート”と言うと“映画全編上映全曲生演奏”スタイルを指すようになった。ここ数年で一気になった。海外物の力は大きい。

ゴジラ」をやった時、邦画で他にやれるとしたら「砂の器」しきないと思っていた。これは誰でも思いつく。今日、それが実現した。改めて見て、この映画はまるでシネマコンサートの為に作られたようだ、と思った。映画は後半をほとんど映像と音楽に委ねている。これが見事にシネマコンサートのスタイルにハマった。ここまで見事にハマるとは思わなかった。

前半は丹波哲郎森田健作の刑事が追う殺人事件の謎解きである。音楽は少ない。あっても短い。

休憩を挟んで後半はほとんどが音楽である。事件の全容を説明する捜査会議と、それに合わせて父子の日本海沿いを行き場なく彷徨する映像と、今は新進作曲家となっている息子・和賀英良の「宿命」発表演奏会とが、同時並行する。「宿命」はそのまま彷徨する父子の映像のBGMとなり台詞も効果も無しに音楽に委ねられる。それを生演奏でやったのだ。シネマコンサートを想定した映画としか思えない。そんな訳ないのだが。

時々息継ぎのように捜査会議が入り、ここだけは丹波哲郎の台詞、音楽は無い。この間合いが実に絶妙。台詞と音楽がバッティングするところはほぼ無い。

一箇所だけ捜査会議が終わった後、逮捕状を持って丹波と森田、コンサート会場の舞台裏、演奏の音は聞こえている。森田が “父親に会いたくなかったんですかね” “この音楽の中で会っているんだ” (不確か、そんな意味)と丹波 、ここだけは音楽と聴かせたい台詞がバッティングした。台詞をかなり強引に上げていた。それでも良くは聞こえなかった。だからと言って、そこだけ急に演奏を弱めるのも不自然、音楽としても弱めるところではない。生演奏、ボリュームは付いていないのだ。映画は、ステージの裏だからボリュームを下げてオフで聴こえているようにしているはずだ。しかしそれを演奏会でやったら不自然極まりない。ここは難しいところ。

確かにこの台詞は聴かせたい。けれどここは音楽本位で考えるべきだと思う。映画をそのまま再現するということではないのだ。上映会であると同時に演奏会でもあるのだ。演奏会としての映画と違った嘘があっても良い。演奏会として心地よい方を選ぶべきだ。だから無理に台詞のレベルを上げる必要も無かった。きっと映画のスタッフは逆の意見だと思うが。

意味合いは違うが、「ゴジラ」の時、ダビングで外したと思われる音楽を、和田(薫)さんと相談して復活させた箇所がある。録音されテープに残っていてMナンバーも明らかにその箇所を指す。タイムもピッタリ。映画では音楽は無く、効果だけで行っている。音楽が続くより、映画はその方がメリハリが付く。でも演奏会では音楽があった方がみんな喜ぶはずだ。無暗に増やしたのではない。そのシーンの為に書かれた音楽なのだから。演奏会の為のそんな細かい嘘は必要だと思う。僕はシネマコンサートはまず音楽本位に考えるべきだと思う。

 

さて、公開当時も感じていたのだが、ピアノを弾く和賀英良の指先のアップ、もちろん加藤剛ではなくピアニストがやっているのだが、これがどう見ても女の手なのだ。ムチムチしている。男のピアニストを手配出来なかったのか、これだけは昔から気になっていて、今日も改めて気になった。

 

10月31日には東京国際映画祭のイヴェントとして「ゴジラ」のシネマコンサートがある。招聘物では「ラ・ラ・ランド」。シネマコンサートは花盛り。でもシネマコンサートに向いている作品とそうでないものがある。その辺は慎重に選ぶべきである。全く違うが「ゴジラ」と「砂の器」は邦画ではこのスタイルにピッタリの双璧である。

 

8/15 訂正とお詫び

映画「砂の器」のピアノを弾く指先のアップは長らく女性と思っていたのですが、作曲者でピアノも弾かれていた菅野光亮氏ご自身と、松竹の関係者より指摘を受けました。長きに渡る我が思い込みによる失礼の段、お許し下さい。

 

 

 

 

 

2017.08.04 「ブランカとギター弾き」 シネスイッチ銀座

2017.08.04「ブランカとギター弾き」シネスイッチ銀座

 

素朴が力になる、そんな久々の映画である。マニラのストリートチルドレンブランカ (サイデル・ガブテロ) と路上のギター弾きピーター (ピーター・ミラリ) の心通う物語。

母親に甘える子供を見るブランカ。母親がほしい。大人が子供を売買する。それなら逆があっても良い。いかにも子供らしい発想。必死に盗みやスリを働いてお金を貯める。そして”母親買います”のチラシをあちこちに貼る。広場で出会った盲目のギター弾きピーターは、お金で買えるものと買えないものがあると諭すも、理解出来ないブランカ

ビーターに勧められて、ギターに合わせて歌を唄う。これが評判となり、二人はクラブに住み込みで唄う職を得る。ブランカは初めて屋根の下のベッドで寝る。それだけでブランカは喜び、ピーターに感謝する。

ブランカは明るくて聰明で生命力に溢れている。周りの子供たちも生きる為に盗みやスリをするが、みんな明るい。子供の世界は生き生きとしている。悲惨はある。何年かしたらこの子たちの何人かは麻薬に関わるだろう。ドゥテルテに殺されるかも知れない。映画は今はそちら側を見ない。生命力の方だけを見る。

折角の職だったが、似たような境遇の小僧の悪企みでそれを失う。やり手ババアに売り飛ばされそうにもなる。ブランカは孤児院へ行くことを決意する。

孤児院にブランカは馴染めなかった。脱走して街へ戻り、広場でピーターと再会する。喜びと涙のブランカのアップ、映画はこの顔で終わる。泣いてしまった。

何の捻りもない一直線の話。それを大きな感動に高めたのは、ブランカを演じた、ほとんど素人の凜とした少女、本物の路上ギター弾きのピーター、そしてスラムの子供たちだ。現地の素人をオーディションで選んだらしい。本物が持つリアリティがそのまま映画に生かされ、彼らの明るさと生命力が、“悲惨”という紋切り型の見方を吹き飛ばす。

黒味になって“家とは誰かが待っていてくれる場所である”(不確か) というテロップが入る。普段なら、相田みつおみたいなこと言うんじゃねぇ! と興ざめするところが、その通りと肯いてしまった。そしてヴェネチア映画祭で上映された翌日、ピーターは死去したと、またテロップが入る。虚構と現実の壁は溶解して、ただ一つ映画の現実がある。

バンコクナイツ」も「ラサへの歩き方」も「草原の河」も、みんなそうだった。でもちゃんと台本はある。演出もある。

良いカットが沢山ある。スラムのロング、港のロング、夕陽、どれも秀逸だ。そこには必ず高層ビルがさりげなく入っている。こんな痛烈な批判は無い。

 

冒頭、マニラのスラムのロングからストリートチルドレンの日常にカメラが寄っていく。そこにアコーディオン(?)で3拍子の素朴な音楽が被る。映画の世界ととっても合ったスケールの音楽。続いて聴こえるギターの音、少し電気的歪みがのっている。アレっ? 写ったピーターのギターにはギターマイクが付いていた。脇にガラクタのアンブ。

僕はこの映画をフィリピンの土着の音楽と西洋音楽が混じりあって生まれたフィリピンのブルースの様な音楽がふんだんに出てくるものと勝手に思っていた。路上のギター弾きはアコースティックギターの超絶技巧。ところがこの映画、そういうものではなかった。アンプを通したショボイ音、演奏は素朴そのもの。でもそれを補って余りある、本物の超絶技巧の音楽はなかったけれど、本物の路上のギター弾きの存在があった。それで充分だ。

ギターの演奏シーンはほんの少しだけ。音楽のメインはブランカが唄う歌である。トラディショナルかと思ったら、詩の内容が映画とシンクロしている。監督が作詞をしたオリジナルらしい。これをピーターの簡単なギターをバックにブランカが唄う。綺麗な澄んだ声だ。彼女は歌が本職なのだそう。音楽はこの歌が全て。後は冒頭の3拍子のアコとサスペンスを煽るリズムだけの曲。これで充分。

ローリングに日本人らしき名前がチラホラ。KOHKI HASEI、何と監督は日本人だった。世界を放浪した写真家とのこと。短編で認められ、長編はこれが最初。イタリアの資本でフィリピンのスタッフを使ってオールマニラロケ、キャストはみんな素人とのこと。こういう人が出て来たのだ。驚いて嬉しくなって、時代は確実に動いているなあ、と我が老いを感じた。

 

ピーターのギターでブランカが唄って、弟分セバスチャンがお布施を集めて、三人で疑似家族を作れば良い。3万ペソで買う母親よりもよっぽど暖かいはずだ。

 

監督 長谷井宏紀   音楽 アスカ・マツヤマ、フランシス・デヴェラ

2017.07.28 「彼女の人生は間違いじゃない」 武蔵野館

2017.07.28「彼女の人生は間違いじゃない」武蔵野館、

 

大震災からもう6年が過ぎたのか。つい先日の様な、ずっと昔の様な。

みゆき (瀧内公美) は父親 (光石研) と仮設住宅に住む。母は津波で流された。遺体は上がっていない。毎日、出勤前に部屋の隅の急ごしらえの仏壇にご飯を供えて手を合わす。市役所に勤める。父親は保証金で毎日パチンコ生活、元は農業だった。

みゆきは週末になると夜行バスで東京・渋谷に出て、デリヘル嬢のアルバイトをしている。夜行バスの車窓から送電線の鉄塔をぼんやりと見つめる。6年前から時間が止まっている福島、そんなことあったなんて殆どの人が忘れてハシャぐ渋谷の街。みゆきは毎週この間を行き来する。

車窓からの鉄塔にPfの硬質な単音が被る。鉄塔にPfの単音は良く似合う。「そして父になる」(拙ブログ2013.10.11)でも鉄塔にPfの単音が宇宙の奥から鳴っているように付いていた。みゆきは鉄塔を見るともなく見ながら何を考えていたのか。出口の無い日常から解放されてホッとしたか、突然狂ってしまった人生、この先どうなるのか、自分って? みゆきが唯一ひとり内省する時間。宇宙の中で一人たたずむ時間。もしかしたらこの時間を持つためにみゆきは毎週渋谷へ行くのかも知れない。やがて微睡み、目を開けるとスカイツリーが視界に入って来る。良いシーンだ。このシーンがあるので僕はこの映画をとっても好きになった。

確かに鉄塔は福島を犠牲にして東京に電気を送る、そんな象徴だ。声高ではない原発への抗議だ。そして僕はどうしてもその先に、宇宙と対峙するみゆきの姿を見てしまう。

 

反省。僕はこのブログでやたらと安易に“宇宙”という言葉を使ってしまう。どういう意味で使っているのかと問いただされても的確には答えられない。きっと歳 (現在68歳) のせいだ。“死”を身近なものに感じ始めて、来し方行く末が前よりも見渡せる様になった。“宇宙空間に漂う絶対孤独な私”という想念が若い頃よりもずっと頻繁に浮かぶ。老人の繰り言、笑わば笑え。僕は全ての映画をここから見ているのかも知れない。

 

映画は手持ちカメラで、家から軽でいわき駅まで行き、夜行バスに乗って東京駅に着いて、洗面所で着替えて、地下鉄銀座線で渋谷に着き、デリヘルの事務所に顔を出すまでを、ドキュメンタリーの様に追う。密着取材の様。

父親は時々仮設の引き籠りの少年とキャッチボールをする。引き籠りが少し治ったと親から感謝される。

隣の夫婦は夫が原発関連。徹夜作業で家に帰らないことも多い。原発で持てはやされていた頃から一変、周りの視線に妻 (安藤玉恵) は自傷行為を繰り返す。

市の広報の新田 (柄本時生) は、家は流されなかったものの、母親と婆ちゃんが宗教にハマり家を出てしまい、歳の離れた弟と二人で暮らす。弟の面倒をよく見ている。新田が通うスナックに東京の女子大生がバイトで入った。復興の様子を卒論にするという。色々質問され、違うと感じつつ、つい店に通ってしまう。

3.11以前の生活は無しになった。復興といったところで元の生活に戻れる訳ではないし、原発の影響は何時まで続くか分からない。6年も経てば仮設は仮設でなくなる。でもこの生活は仮なんだというところにしがみ付く。一生を仮設状態で生きて行く? 仮でない本来の生活って?

 

みゆきが何故デリヘルのバイトをするようになったかの説明はない。生き残ってしまった自分、津波が来た時は恋人とホテルの一室だった。その罪悪感からの自分への罰なのか。

 

デリヘルのマネージャー (高良健吾) は演劇を志す人だった。その彼に子供が生まれる。彼はデリヘルマネージャーの仕事を辞め、次の段階に人生を進めることを決めた。みゆきは彼の芝居を初めて観る。もしかしたらみゆきもデリヘルを卒業して人生を少し進めるかも知れない。

父親は一時帰還で汚染地域の家に戻り、妻の衣類を持って帰り、漁船から海に放り投げる。“かあちゃん、寒か!” 父も人生を少し進めるかも知れない。良いシーンだ。

夜行バスで朝帰りしたみゆきは子犬を飼うことにする。父親に“ちょっと待って、朝ごはん作るから”(不確か) 映画はこの台詞で終わる。仕事を見つけようとしない父親に “いい加減にしてよ!” とヒステリックに叫んだみゆきではない。何かが少しだけ変わった。ほんの少しだけ朝日が射しこんだ (ような気がした) 。

 

福島にはきっとこんな話がゴロゴロしているのだ。こんな話だらけなのだ。映画はそれを拾い集め、それに出来る限り作為を加えることなく役者に演じさせた。演出臭は細心の注意を払って除去している。そういう冷静で優しい演出なのだ。役者もみんなよくそれに応えている。光石研など現地の人をそのまま使った様である。

一つだけ、これは言っても仕方ないことであり美点でもあるのだが、みゆきの瀧内公美、彼女が綺麗過ぎる。端正な横顔に見入ってしまう。この映画のヒロインとしては美人過ぎやしないか。スラリとした体躯も初めからシブヤである。彼女の美貌で引っ張るのは商業映画としては当然で、もし普通の容姿の女優がやったら商業映画ではなくなっていたかも知れない。だから仕方がない。矛盾するようだが何かの賞でこの熱演は評価されるべきだ。

「日本で一番悪い奴ら」(拙ブログ2016.7.15)に出ていたとのこと、全く気付かなかった。

 

音楽、Pfの硬質な音で2分音符の2音の単純なメロが繰り返される。そこに小編成の弦が入り、Pfに代わってメロを取る。あるいは弦がリズムを刻む。一直線の桜並木の奥から除染作業の車が現れる冒頭、あるいは夜行バスの中から見る鉄塔、東京の光景、福島の光景に付く。遠くからの視点の音楽。人間の営みを無感情に見つめる音楽。ほんの数カ所だけ。でも効果的。良い映画音楽である。

ローリングタイトルで音楽家のクレジットを読み取れなかった。ネットで調べても載っていない。主題歌・meg「時の雨」は載っているのに。エンドロールに流れる主題歌はそれまでの世界を壊すようなものではなく、良い範疇。それより劇伴の作曲家をネット資料でもきちんと表記すべきだ。ローリングのクレジットをそっくりそのまま資料として掲載してくれればといつも思う。既成曲も何を使ったかが分かる。そう出来ないものだろうか。

 

「彼女の人生は間違いじゃない」、優しさに溢れるタイトルだ。

廣木隆一、良い仕事をした。

 

監督 廣木隆一   音楽 半野喜弘      主題歌 「時の雨」meg

 

8/15   本ブログを読まれた方より、音楽は「半野喜弘」であると連絡を頂きました。ありがとうございます。

2017.07.27 「ボンジュール、アン」 日比谷シャンテ

2017.07.27「ボンジュール、アン日比谷シャンテ

 

映画プロデューサー・マイケル (アレック・ボールドウィン)  と美しき妻アン (ダイアン・レイン)。場所はカンヌ、ちょうど映画祭が終わったという設定か。売れっ子プロデューサー、マイケルの携帯は引っ切り無しに鳴る。

友人のフランス人プロデューサー・ジャック (アルノー・ビアール) と3人でブダベストへ行くはずが予定変更、アンはジャックの車でパリへ行くことになり、マイケルが後から合流することになった。大人のアメリカ女と大人のフランス男のカンヌからパリへのフランス縦断の旅。車を飛ばせば一日の所を、フランスの名所旧跡を訪ねつつ、心の寄り道旅となる。

アンは一人娘が大学生となり、子育てから解放された。夫に不満がある訳ではない。ジャックは美食家でワイン好きで煙草を吸い女性を愛するフランス男。独身。

間違いが起きてしまうのではないか。この期待と心配のバランスで引っ張って行く。時々心配になったマイケルから携帯に連絡が入る。フランス人は夫や子供がいようと関係ない。ジャックはフランス人だ。

その通り、ジャックはやんわりとその気を伝えてくる。手間暇お金を掛け、決して押しつけがましくならないよう、細心の注意を払って大人の迫り方をする。

随所に思わせぶりを散りばめる。ホテルのフロントで出された鍵が一つだったり、都合良く車が故障してルノワールの『草の上のピクニック』(?) をやったり。次々にアンの興味を引きそうな所を案内してパリへ行くことなんかそっちのけ。いつの間にかジャックのペースにハマっていく。

事情があるとかで頼まれて、支払いをアンのクレジットカードでする。金策らしきジャックの電話を立ち聞きもする。もしかしてお金に困っている、借金まみれの詐欺師か。映画のプロデューサーなんて当たれば大金持ち、外れると借金まみれ、詐欺師に近い人だっている。

一方で、お互い心の奥にしまっていた哀しい記憶を話したりもする。若干の疑念を残しつつ、気持ちは通っていく。

ようやくパリに着き、遂に愛の堤防決壊かと思われるギリギリのところで大人の抑制が働き、決壊はしなかった。翌朝、バラのチョコレートとカードで支払った分の現金が届く。

 

随所にフランス人とアメリカ人の違いが語られる。しかし文化の違いがテーマという程ではない。子育てを終えた大人の女がこれから自分の人生を生きて良いのだと思わせてくれた2日間の旅。決して夫と別れるとかというものではなく。自分の人生をまだまだこれからやれるんだ、と思わせてくれた旅。

ジャックがちゃんと中年っぽくて二枚目でないのが良い。二枚目だったら単なる不倫ものになってしまう。二枚目でない男が迫り、大人の抑制を効かせて爽やかに纏めた。ダイアン・レインが素敵だ。彼女の魅力で成立している所、大。「トランボ」(拙ブログ2016.7.28)の奥さん役も良かったなあ。

音楽、女声のスキャットが入ったボサノバ調、あれ「男と女」? でもその内ジャズ風になってメロはサティだったり、クラシックのよく聴くメロだったり。もしかしたら全部既成曲メロをアダプテーションしているのかも。僕には全部は解らなかった。

かなり多いが、この手の映画、音楽がムードを作るのは重要で、そこはとっても上手くいっている。

熟年の恋愛映画という訳ではない、不倫映画でもない、自分探しの映画という訳でもない。どれもが淡くブレンドされた映画。一緒にフランスの旅をしている様な気になる。

中高年の叔母様たちでかなり混んでいた。

 

監督 エレノア・コッポラ   音楽 ローラ・カープマン

 

PS. 監督がF・コッポラ夫人であることを後で知った。80歳、初監督作品。手練れの職業監督かと思っていた。流れは澱みなくベテランの風。