映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2020.12.18 「燃ゆる女の肖像」 日比谷シャンテ

2020.12.18 「燃ゆる女の肖像」 日比谷シャンテ

 

18世紀、女が自由に生きられなかった頃の、その運命を受け入れつつも、一瞬の自由の輝きを生きた二人の女の物語。

仏、ブルターニュ地方の孤島、貴族の娘の結婚は政略であり、それを推し進める手立てとして写真が無い当時は肖像画がその役割を果たした。貴族の娘エロイーズ (アデル・エネル) とその肖像画を依頼された画家マリアンヌ (ノエミ・メルラン)。冒頭、離れ小島の貴族の館へ向かう小舟、荒海にキャンバスが流されると飛び込んでそれを回収した、眉のしっかりとしたマリアンヌ、只者ではない。

館についてからはサスペンス仕立て、女中ソフィー (ルアナ・バイラミ) が応対してエロイーズは現れない。暫くして現れるも後姿、顔は写さず。姉は自殺したらしい。前に来た男の画家には顔を描かせなかったらしい。ソフィーがその辺を説明する。スリラーの可能性もある思わせぶり。画家であること、肖像画を描きに来たこと、エロイーズには内緒にしてある。話し相手として母親が差し向けたということになっているらしい。

マリアンヌの観察が始まる。エロイーズは正面からの顔を見せない。一緒に海岸を散歩するも見せるのは横顔だけだ。悟られない様、密かに絵を仕上げていく。少し斜め座りのポーズ、顔から下の部分は完成していく。キャンバスに描いていくプロセスの描写は丁寧、顔を何とか盗み見ようとする視線とそうさせまいとする二人のやり取り描写は息詰まる。

エロイーズは修道院にいた。姉が自殺したので代わりに政略結婚の道具として呼び戻されたのだろう。結婚は望んでいない。“あなたには自由がある、自由のない私の気持ちなど解らない” “いえ、解ります” 少しずつ気持ちが通いあっていく。

二人は荒涼とした海で泳ぐ。エロイーズは泳ぐのが初めてだったか? ここで抑えていた二人の気持ちが決壊、二人は抱き合う。それがとっても自然で美しいのはそれまでの描写のデリケートさゆえ。マリアンヌはエロイーズの顔をしっかりと見て絵を完成させる。

発注主の母親に見せる前にマリアンヌはエロイーズに経緯を告げ、絵を見せる。エロイーズは、これは自分ではない、と否定する。

発注主に頼み込み書き直しに取り掛かってからの日々は愛おしい。エロイーズは自らモデルとしてマリアンヌの前に立つ。抑え込んでいた人間としての自由を爆発させる。ピアノを弾き文学を語り肉体の快楽を知る。マリアンヌとエロイーズ、そこにソフィーも加わり、女三人が社会的制約を取っ払って心を通わせる。食事も主従の関係なく平等、蝋燭の下でトランプに興じる。まるで修学旅行の女学生の様。

ソフィーが妊娠していること、中絶する決心をしたことを告白する。三人は本土の女だけの怪しげな祭りに赴く。異教徒の祭り,“ワルプルギスの祭り”というやつか。みんなトランス状態となりおそらく乱交でクライマックスとなるのだろう。抑圧を全て取っ払うということだ。

エロイーズのロングスカートの裾に火が燃え移る。炎がエロイーズを輝かせる。直ぐに消されたが画家はその姿をしっかりと脳裡に記憶した。

あとで述べるがこの祭りで初めて音楽が鳴る。ここまで、ピアノを弾くシーンでそれに合わせた音楽が短くあっただけ。

この種の祭りは伝承的民間医術の場でもある。ソフィーはここで堕胎する。堕胎は命懸けだ。魔女の様な女が処置し、苦痛に喘ぐソフィーの周りを赤ん坊が徘徊する。まるで生命を一服の宗教画にしたようなカット。

三人は“オルフェとユーリディス”について語り合う。マリアンヌは、変えることの出来ない運命ならユーリディスを詩として残すべく、オルフェは自ら振り返った、と言う (不確か) 。

絵は完成し、束の間の自由が終わり、三人は元の生活に戻る。

ここで終わるのかと思ったら更なるコーダが付いていた。

その後マリアンヌはエロイーズを二度見た。最初は絵の展覧会。そこにエロイーズの肖像画があった。脇には子供、手には本が。さりげなく28ページ(二人の秘密、82ページだったか?) が開いていた。

二度目は演奏会、向いの貴賓席にエロイーズが一人でいた。気付いていたのか、視線は合わさなかった。ヴィバルディ―の「四季・夏・第三楽章」がフルボリュームでカットイン、エロイーズの頬に涙が伝っていた。僕は情けないことに気が付かなかったのだが、二人が弾いたピアノはこの曲だったのだ。

 

音楽は2曲、たったの三か所。最初は、音楽の歓びを教えるかの様にマリアンヌが「四季・夏・第三楽章」をピアノで短く弾く。

次は夜の祭り、シーンの頭からシンセ、素朴な繰り返しのリズムが入って来て、コーラスが加わり、クラップが加わって、クレッシェンドしてトランス状態を作っていく。トラディッショナルをリメイクしたのかと思ったらオリジナルらしい。打ち込み系、コーラスがしっかりと出来ているのでクラシックの人かと思ったが違うよう。実質的には初めて登場する音楽、そして唯一のオリジナル。そのインパクトには言葉も出ない。しかも女たちの異端の祭り、燃える女エロイーズ、それを見つめるマリアンヌ、エクスタシー!

最後は演奏会でのオーケストラによるヴィバルディ―、視線は合わさずともあの曲で二人は会話をしていたのだ。自由な日々への挽歌…

 

肖像画にある通り、エロイーズは政略結婚をし、子供をもうけて、運命を受け入れた。マリアンヌは (当時は女の画家など認められなかったので) 高名な画家である父の作品として自作を発表し評価を得た。マリアンヌは島に来る前には堕胎の経験もあり(?)、女に自由がない時代のそれなりの経験を経ていたに違いない。あの眉がそう語っている。眉力 (まゆぢから) のある女優だ。

二人が女同士で愛し合った、つまりレズだったという印象がほとんど無い。肉体の解放は重要な要素だが、観終わってセクシャルな印象がほとんど無いのだ。自由は性をやすやすと超える。自由に生きることが許されない時代にその運命を受け入れつつ、束の間心通わせ自由を経験した、それがある為生き続けることが出来た、青春の挽歌だと僕は思う。

ところで、魔女とは、自由のない時代に自由に生きてしまった女のことなんだと、この映画から派生的に解った。

 

映画音楽に正解はない。10人の音楽家がいれば10通りの映画音楽があり、10人の監督がいれば10通りの映画音楽がある。最後は監督の主観に収斂させるしかない。昨今の様にベタ付け音楽お茶漬け流し込みのやり方もあれば、ピンポイントで的確に付けるやり方もある。ただ音楽は付ければ付けるほどその効果は薄れて行く。

この映画は、ピンポイントで的確に、音楽の効果を最大限に発揮させた、見事な例である。

 

監督. セリーヌ・シアマ  音楽. ジャン=バティスト・デ・ラウビエ

2020.08.07「はちどり」TOHOシネマズシャンテ

2020.08.07「はちどり」TOHOシネマズシャンテ

 

少女ウニ (パク・ジフ) が必死にアパートの鉄の扉を叩く。母を呼ぶ。しかし中からは何の反応もなく扉は開かない。少しして少女は踵を返して下の階へ降りて行く。カメラはそれを手持ちで背後から追う。同じ鉄の扉を叩いた時、今度はすんなりと開いて母がお帰りと迎えた。カメラがそのまま引くと、そこが鉄筋の巨大なアパートであることが解る。少女は階を間違えただけだった。同じ建物がその奥に何棟も並んでいる。Synの中域のパッド、重低音、そこにPfの硬質な短いフレーズが乗る。まるでこれからサスペンスが始まるように。

 

扉の中には普通の韓国の家庭があった。父親を中心に食卓を囲む。兄は大学受験をひかえている。姉は親が望む高校には入れなかったようだ。父親はそれをなじる。中学二年のウニはそれらを違和感もって見つめる。

学校では、カラオケに行くような不良の名を書けと紙が回ってくる。大声上げてみんなで、“ソウル大に入るぞ!”と叫ぶ。どれにも違和感がある。

兄は何かというとウニを殴る。それを父親に言っても取り合ってくれない。姉は遊びの方に走り始めている。

 

マンションではない、鉄筋アパートだ。けれど半地下ではないから「パラサイト」(拙ブログ2020.01.16 ) の一家よりは恵まれているのかも知れない。家業の餅屋は繁盛しているようだが、上のクラスへ行く為にはまずは良い大学、そうしないと何事も始まらない。

 

中学二年14歳、社会に目が開き、性にも目覚め、親を疎ましく思い、勉強しながらも何故? と考えてしまう。不良が魅力的に見えその真似事をしたりもする。レズではないが女同士の憧れと嫉妬の変な世界 (昔はSと言った?) もある。

世界中の14歳の少女に共通する知り始めた世界への違和感に、韓国社会特有のものが重なる。

 

漢文の塾の新しい女の先生は一人階段で煙草を吸っていた。良い大学に入ったけれど何年も留年しているらしい。明らかに学生運動に関わっていたことが透けて見える。木村佳乃寺島しのぶを足して2で割った様な平べったい、けれどどこかアンニュイを漂わせて魅力的、ヨンジ先生(キム・セビョク) は親とも学校とも友達とも違う別の世界を持っていた。ヨンジ先生は“殴られてはダメ!”と言う。数多女性活動家の言葉より強く響く。

 

1994年7月金日成死去。それがTVニュースでカットインする。こんなにも鮮やかに個人と社会がクロスする描写を見た事がない。単にTVのニュースなのだ。けれどウニは14歳の多感な少女から南北に分断された朝鮮半島の韓国側に生きる少女に、一気になった。

さらにはその年の10月、橋が崩落してバスが川に落ち多数の死傷者を出す大事故が起きる。ヨンジ先生はその犠牲者の一人となった。僕はヨンジ先生と連絡が取れなくなったので自殺かと思った。先生はそんなに柔ではなかった。しかし運命はもっと不条理で残酷だった。この事故は僕らが思うより韓国の人にとっては大きな意味を持つらしい。

兄が車を運転して姉とウニと三人で橋の崩落現場を見に行く。何だかんだ言っても兄妹なんだとちょっとホッとする。

誰にでもターニングポイントとなる年がある。1994年、ウニにとってはまさにこの年がそれだった。

 

ウニ役のパク・ジフ、小柄だがしっかりとした意思を持つ顔立ち、この娘を見つけたことは大きい。

 

「パラサイト」でも思ったが韓国では“家族”は今だにあんなに力を持つのか。父親はあんなに権力者なのか。ウニの友達が、親が離婚するのでどっちと生活するか選ばなくちゃならないという。この頃から韓国でも家族の崩壊、そして疑似家族に至る問題は起き始めたのか。今の韓国の実際はどうなのだろう。

 

音楽は打ち込みと生Pf。冒頭やエンドのSynにPfの高音が乗る曲がとっても効果的。メロのある劇伴ではないが、映画をとっても良く理解している。ただ中程でEPfをボロンとやったりコードを弾くだけの短いものがあるが、あれはただチープなだけ、無くて良い。

安っぽい歌謡曲の使い方も上手いし、ヨンジ先生が唄う「切れた指」(?) も僕らには解らない意味があるのだろう。

効果音がとってもデリケートに付いている。何でもないノイズの中に社会を感じさせる様な音が混じる。兄に殴られた後のボワンとこもった音処理も良い。

 

ウニはヨンジ先生に出会えて良かった。

その後のウニはソウル大学に入れただろうか。あれから25年の月日が経つ。先生から送られたスケッチブックにどんな絵を描いたのだろうか。今頃は漫画家になっているか、それとも映画監督か…

 

監督. キム・ボラ ( 何と長編初監督! )  音楽. マティア・スタニーシャ

2020.7.03「花のあとさき ムツばあさんの歩いた道」シネスイッチ銀座

2020.07.03 「花のあとさき ムツばあさんの歩いた道」シネスイッチ銀座

 

秩父市吉田太田部楢尾、群馬との県境、山の急斜面にへばりつく様に立つ今は住む者もいない10件たらずの民家、炭焼きと養蚕を生業とし、かつては100人からの人が住んでいた。それらが衰退した戦後、国の政策で杉の植林が奨励されるも、ようやく伐採可能に育った頃安い外材が押し寄せ杉林は放置されたままとなる。近くに下久保ダムが出来、それに合わせて道も整備され、住人は町(多分蛇石町、藤岡市に合併されて今はない)へ働きに出るようになり、集落は寂れて行く。

そんな集落を2002年、NHKが取材を開始、その時の住民は小林公一、ムツ夫婦、そしてもう一組の夫婦、他に時々帰って来る人たちが何人か。取材は18年に及び、ドキュメンタリー番組として7回放送された。

僕は全く知らなかったが、かなりの評判を得ていたらしい。7回の放送を再編集して劇場用映画としたのがこの作品である。

 

ムツばあさん夫妻もかつては街に働きに出ていたらしい。60を過ぎた頃からこの集落を山に還す準備を始める。子供たちは町に住んでいる。遠からず集落に住む者は居なくなる。

山から土地をお借りし、石垣を作り家を建て、畑として耕し、暫く生活した後、山にお還えしする、その時は感謝のお花を添えよう。いつ誰が来ても花が咲いているようにしよう。苦労して開墾した大切な畑に花を植えていく。

 

電気水道は通じている。無人となった家も時々帰る時の為にどの家もそのままにしてある。月に何回か移動販売車は来るし郵便も届くようだ。それでも猿は出没し草は生え、少しずつ自然に還っていく。

18年という時間は人間にとっては長い。公一さんが亡くなり、ムツばあさんも亡くなった。

集落は今は誰も住んでいない。行事がある時、子供世代が訪れるくらいだ。それでもムツばあさん夫婦の植えた花は毎年咲いている。いつか集落は自然に還る。公一さんやムツばあさんが自然に還っていったように。

 

映像はムツばあさんや公一さんの日々の日常を淡々と描く。二人の “死” もナレーションで触れるだけ、人間から見たら大事件だが、自然から見たら特別なことではない。ラストカットの、山道を登る生前のムツばあさんのうしろ姿、これが唯一、演出といえば言える。

 

この淡々としたドキュメント、それがなぜ僕等にこんなにも突き刺さるのか。

人間の都合だけで物事を考えていたら大間違いだよ! そんな声が聞こえる。

都会という、人間の都合の塊のようなところで生活していると、人間を含めてもっと大きなものの存在をいつの間にか忘れてしまう。人間は地球の支配者であり未来永劫主としてこの地球に君臨すると当たり前の様に思ってしまう。いやそんな事を意識もしない。長い地球の歴史を見れば解る。そんな事ある訳がない。さらに宇宙に目をやれば人間の歴史など屁の様だ。

人間は自然を利用しその法則を解明して上手く人間の都合に合わせて変えて行った。そうして今の世界を作り出した。それは凄いことだし人間という生物は奇跡に近い。そして傲慢にも自然を忘れた。確かに都会に居ると人間には人間社会しか見えない。人間は同種間の競争が好きだし、少しでも他より秀でようとする。人間は競争する生き物なのだ。そこから生のエネルギーが生まれると同時に様々な争いが生じる。

人間の都合だけで汲々となっている所に、たまに大雪が降ったり大雨が降ったり地震が来たり新型コロナウィルスが襲ったりする。その時初めて人間を超えたものがあることを思い出す。突然の災害、想定外の出来事、でもこれ人間の都合から見ただけの話、自然から見たら何ら特別な出来事でも想定外でもない。

 

人間が作り出したこの世界、その恩恵は計り知れない。それによって僕らの今の生活がある。戻すことも否定することも出来ない。ただ、このまま行ったら人類の滅亡はそう先の話ではないかも知れない。核戦争か、温暖化か、疫病か、大地震か、巨大隕石の衝突か、10年後か、50年後か、100年か1000年か10000年か…

 

自然を利用しながら程々の所で折り合いを付ける、かつて人間は “程々” をわきまえていた。利用させていただくという畏敬の念を持っていた。いつ頃だろうか、この “程々” が壊れてしまったのは。“経済” という言葉が “儲け” という言葉とイコールになったあたりか。もっともっと効率良く自然を利用して儲けなければいけない、先のことは考えず今!

 

随分前の朝日新聞天声人語に、「これ以上早くなる必要はない、これ以上便利になる必要はない、それを理論化すること…」(大体の意味) という一文があった。いずれ滅亡は避けられないとしても、子孫の為に少しでも延命はしたいものである。けれど今だに人類延命の為の大理論は生まれていない。

 

この映画には、その理論はないが実践がある。強烈なインパクトはそれだった。今すぐ都会の生活を捨てて、自然の中で生活せよ! と言っているのではない。こういう実践の例があること、人間の都合の外側に大きな世界があること、それをもう一度思い出せ! ということ、“程々” を思い出せ!  この映画はそう問いかけてくる。

 

オダギリジョウが監督した「ある船頭の話」(拙ブログ2019.9.26)  の中の忘れられないシーン、マタギの父親 (細野晴臣) が死に、その遺言で息子 (永瀬正敏) と船頭 (柄本明) が雨降りしきる中遺体を森に還すシーンがある。仕留めて来た獣たちの今度は餌となって森へ還るという遺言。遺体を覆う布を取った時の大仏様の様な細野の顔、そこに雨が激しく降り注ぐ。細野晴臣、撮影は大変だったろうなぁ、あの大仏顔ピッタリだなぁ、それらが相まってあのシーン忘れられない。「ムツばあさん~」を観てそれを思い出した。

 

音楽は小編成、Syn、Cla、G、Vl、Pf、極々普通、主張することもなく、感情を煽ることもない。音として寂しいところ、展開をスムーズにする為のところに付く。BGMに徹する。淡々とした映像だから音楽もこれで良いのかも知れない。

僕は少し物足りない気がした。せめて最後のエンドロールで、この映画が持つ深い問いかけを音楽で表現してほしかった。きっと問題提起の映画にしたくない、あくまで淡々と終わりたい、という思いがあったのだろう。僕の方がメッセージ性とか変な芸術性に毒されているのかも知れない。けれど言葉や映像が声高に語らないものを最後に音楽がすくい上げて提示しても良かったのではないか。あるいはムツばあさんのつぶやき、何気ない会話の中でこの映画の本質を突くような喋りがあったら、それをエンドロールの裏に流すとか。どうも今のままだとマッタリし過ぎている。劇場用映画として見せるにはそれくらいやっても良かったのではないか。少し重くなってしまい、さり気無さは無くなるかもしれないが…

 

ムツ婆さんの愛嬌のある平べったい顔と何とも言えない喋り方の、何と魅力的なことか。それが映画を持たせている。主演女優賞である。

こういう企画をやりおおしたNHKスタッフは偉い。それをさせたNHKも偉い。受信料を払うことに納得してしまった。

 

監督・撮影. 百崎満晴  プロデューサー. 伊藤純 ナレーション. 長谷川勝彦

作曲・演奏. 大曾根浩範(syn) 喜多直毅(vl) 巨勢典子(pf)

演奏. 加藤崇之(G) 高野裕美(cla)

 

2020.7.02「コリーニ事件」新宿武蔵野館

2020. 7.02 「コリーニ事件」新宿武蔵野館

 

未読だが多分膨大な原作(フェルディナント・フォン・シーラッハ)なのだろう。それをよく纏めた脚本である。要点を残し、削りに削り、テンポ良い編集で、重いテーマを踏まえた良質なエンタメ映画に仕上げている。ここまで削らずTVのミニシリーズにしたら良かったかも知れない。

全編、サスペンスと謎解きでグイグイ引っ張る、寝る暇は無い。

途中からナチが絡むことは想像がついた。ドイツいやヨーロッパは辿っていくと全てそこに行き着く。ただ、この映画にユダヤ人は出てこない。これは珍しい。それだけ普遍性は高くなる。

 

冒頭、高級ホテルの廊下を突き進む老人、カメラはそれを背後から追う。一人リングでボクシングの練習をする若い男のシーンが乱暴にカットイン。何やら思わせぶりな導入。老人は最上階に居る巨大企業の老経営者ハンス・マイヤーを殺害する。旧式のワルサーP38を使った犯行。老人はコリーニ(フランコ・ネロ)、逃げることなくその場で逮捕、そして完全黙秘。

国選弁護人として新米の弁護士ガスパー・ライネン(エリアス・ムバレク)が登場する。冒頭、ボクシングをしていた若者だ。ここでようやく役者が揃う。

 

殺されたマイヤーはライネンの大恩人であり、彼のお陰で弁護士になれた。その恩人を殺害した犯人の弁護を引き受けてしまったことは後で解った。私情を挟まずにやれるものか。

ライネンはトルコ系ドイツ人。戦後のドイツがトルコ移民を労働力として発展したことは「おじいちゃんの里帰り」(2011) を見れば解る。「おじいちゃん~」は上手くドイツに溶け込み成功した家族の話、でも必ずしもそうばかりではなかったはず、差別もあっただろう。主人公がけっしてエリートではないこの設定がドラマを一つ深くしている。

 

コリーニの岩のように達観した完全黙秘、それを回りから少しづつ切り崩していく謎解きのプロセス。まずは凶器のワルサーP38、そこから遂に戦争中にイタリアで起きた村人の見せしめ虐殺を突き止めるに至る展開は息をも尽かせない(ちょっと目まぐるし過ぎる感もあるが)。

 

見せしめに虐殺された村人の一人がコリーニの父だった。それを指示したのは親衛隊長、若き日のマイヤーだった。子供だったコリーニは親衛隊長に抱きかかえられ無理矢理虐殺される父を見せられた。止めはワルサーP38だった。

 

戦後、ナチ残党の一部は善良な市民としてドイツ経済の復興を支え、アデナウアーの時代には戦争中の行為は不問のまま社会の要職に付く者も多く、篤志家として人々から尊敬さえされる者もいた。マイヤーもその一人、彼は孫の友達だったライネンを可愛がり、弁護士への道を歩ませた。

 

マイヤーの孫が突然の交通事故で若くして亡くなったことを、映画は特に説明をしていない。これには何か意味があるのだろうか。孫に注ぐ愛情をライネンにむけたということ以上の意味は?

その姉ヨハナ・マイヤーとライネンは一時恋人同志だった。

 

国選弁護士を降りようか迷った時、引き受けるべきと勧めたのは大学の恩師リヒャルト・マッティンガ―教授(ハイナー・ラウタ―バッハ)、彼はマイヤーの会社の顧問弁護士でもあり、法廷でライネンの追及に鉄のように立ちはだかる。

膨らませようと思えば膨らませられる仕掛けがいくらでもある。いや逆か。それらの膨大なエピソードを削りに削り、この脚本に仕上げた訳だ。ちょっと勿体無い気がする。

 

戦争という異常時の犯行を平常時の判断で裁いて良いのだろうか。あるいは、異常時の犯行ゆえ酌量され今は善良なる市民として生きる者をどこまで許して良いのだろうか。戦争犯罪を裁く裁判は東京裁判でもニュールンべルグ裁判でも戦後社会の復興とその利害を念頭に、極めて政治的だ。善悪での判断ではない。日本でもA級戦犯が、岸信介をはじめとして多く戦後社会の中枢を担った。一方で「私は貝になりたい」(1958 テレビ黎明期の名作ドラマ、脚本.橋本忍。1959 橋本自ら監督して映画にもなっている) に見られるように、命令に従っただけであるにもかかわらず罪を問われ処刑されたBC級戦犯が多数いる。裁判は“法の名の下に平等である”というが、法が時々の政治の都合で変えられる例は昨今の日本の出来事を見ても良く解る。人間は都合が良いのだ。都合が良いようにコロコロ変わり、その理由付けとして“法”が都合良く使われる。

 

この映画はナチズム自体への批判には向かわない。戦時の犯罪を不問にすること、その理由付けとしての“法”というものにフォーカスする。

 

イタリア・モンテカティー二、1944.6.19(コリーニがワルサーP38で殺される父を見た日)、ライネンがこの日付を言った時、それまで勧めても触れさえしなかったコリーニが差し出された煙草を旨そうに吸う。この若造、良く突き止めてくれた、けれど法律じゃ時効でダメだったんだよ(コリーニは姉と共にかつて訴訟を起こしたが突っ返されている)、でも突き止めてくれただけでもありがう… きっとそう思った、僕の勝手な想像。

フランコ・ネロが圧巻である。良い年の取り方をした役者の存在感、なんて凄いんだろう。

 

ハンバーガーショップで出会うイタリア語を勉強中の今風ぶっ飛び女、長らく音信不通だった速読の名手で今は本屋を営むライネンの父親、どれも都合が良いといえばそれまでだが、そんな小技がこの映画をエンタメ一級品とすべく生きている。原作も良いのだろうがシナリオも良いのだ。

コリーニは判決を待たずに自殺する。そののちナチ犯罪の時効の条文が撤回された。

 

松本清張山崎豊子の原作をかつては橋本忍山田信夫がシナリオ化して野村芳太郎山本薩夫が監督した骨太な社会派娯楽映画、邦画に例えればその系列に属する作品。しかし語り口は今風、たたみ掛ける演出、早い展開、謎解きももったいぶらない。昨今のハリウッド・サスペンス物の作り方、それが成功している。

 

音楽は当然、ハンスジマー・スタイル。Synパッドがベタに付いていて、その上に映像に合わせてメロディーが載る。メロディーというよりも3連音符の反復のリズム音型、けれどサスペンスと謎解きを煽って効果的。映像に合わせ上に載る楽器をCOしてSynパッドだけになったり、合わせ方は細かい。メロディーが残る劇伴ではないが、上手くいっている。

 

一つ気になったこと、マイヤーの子供の存在の欠落。一気に孫である。コリーニに相当する子供世代がいるはずだ。この映画で子供世代に該当するのはコリーニとマッティンガー教授。何故マイヤーの子供が出てこないのか。終戦で価値観が逆転した世代。マイヤ―の子供は親を徹底的に批判し離反したか、それとも親に従い戦後社会に合わせて上手く変貌して会社の重役にでもなっているか。

マッティンガー教授が夜一人でライネンを訪ねて来るシーンがある。あれは暗に、長い物には巻かれろ と言いに来たのか。若き日のマッティンガー教授はナチ犯罪の時効の条文成立に加担している。悪い者は悪いと言うのは孫の世代まで待たねばならなかったということか。しかもトルコ系というアウトサイダーの手で…

 

何ヶ月ぶりかで映画を劇場で見た。武蔵野館だったので大して大きなスクリーンではなかったが、それでも映像が映し出され、低い音がズンッと鳴った時はドキドキした。映画は劇場で見るものである。

 

監督.マルコ・クロイツパイントナー  音楽.ベン・ルーカス・ボイセン

2020.06.05 「アマルコルド」配信 (1973年)

2020.6.05 「アマルコルド」配信 (1973年)

 

綿毛が飛んで来ると春だ。北イタリアの小さな港町、15歳の思春期の少年、その名はフェリー二君ならぬチッタ(ブルーノ・ザニン)、頭の中はオッパイとお尻で一杯である。

春は、冬の女神の人形を火あぶりにする祭りから始まる。魔女の火あぶりを連想する。

学校では隠れて煙草を吸い、悪ガキどもとつるんでイタズラをする。個性的な先生と悪ガキたちの丁々発止。

憧れの人は街一番の派手女グラディスカ (マガリ・ノエル)、ちょっと無理めの大人の女、映画館で隣に座り果敢にアタックするも軽くあしらわれる。

家は、“お前の年には働いていた” が口癖の父親(アルマンド・ブランチャ)としっかり者の母親、祖父、弟、叔父、みんな大声で怒鳴りまくる。食卓の賑やかなこと。

ムッソリーニファシズムの時代、街中がまるでスターに憧れる様な軽さで熱狂する。でも父親はどうも馴染めない。母親は集会がある日は父親を外出させない様にしている。

夏になると沖をアメリカの豪華客船レックス号が通過する。それを街中の人が小船を出して見に行く。深夜の真っ暗な海に突然姿を現す海の女王の満艦飾、それは神々しくさえある。グラディスカはそれを見て涙を流す。「大地のうた」(1956 監督.サタジット・ライ 音楽.ラヴィ・シャンカール  インド映画) で機関車を見に行った少年を思い出す。

時々は教会に行って懺悔をする。司祭は聖職者というより善良な街の一員、生活者だ。

秋の一日、精神病院に入っている叔父を家族で訪ねる。一日だけ許された外出、そこで叔父は木に登り "女が欲しい!" と絶叫する。

濃霧の朝、祖父は目と鼻の家が解らず彷徨う。牛や枯木がシュールなオブジェの様に現れる。死とはこんなものかと呟く。

“雪が降ってきたぞ!”という声に映画館に居た全員が映画そっちのけで外に飛び出す。この街にはめずらしい大雪だ。雪合戦の標的はグラディスカのお尻。

閉店後の煙草屋に忍び込み巨乳女将のオッパイに必死にしゃぶりつく。上手く吸えずに追い出される。

熱 (知恵熱ならぬ性の目覚め熱?) を出し、チッタは、好きな人から見向きもされないと母に嘆く。その母が急な病で身罷る。

突堤に旅支度をして海を見つめるチッタの姿。

再び綿毛が飛んで来て、春を告げ、憧れのグラディスカは真っ当な結婚をする。野っ原で街中集まってのお祝い、そこにはボロ切れに書かれたParadisoという幕がなびいていた。チッタの姿は無かった。

 

一言で言うなら、少年の旅立ちの話である。その前夜、まだ人間社会にまみれる前の素朴で自然で善意に満ちた一年間の話。大きな事件が起きる訳でもなく淡々とエピソードが並ぶ。それをけっして上品とは言えない下ネタのユーモアを満載して語る。オシッコだったりオッパイだったりお尻だったりオナラだったり。祖父は腕でピストン運動をやり女中の尻を触る。悪ガキは車庫の車に乗り込んで集団オナニー、興奮に合わせて車が揺れ、ヘッドライトが点滅する。マスライト。男も女もみんなスケベで自然で可愛くて “この素晴らしき人間たち”、という声が聞こえて来る。

悪人は出てこない。ムッソリーニファシズムもどこかお祭りの様だ。そんな政治や経済や人間社会のしがらみを取っ払った人間の存在そのものを、詩情豊かに点描する。社会のリアルではない、その奥にあるParadisoを。

 

「祭りの準備」(1975 監督.黒木和雄  脚本.中島丈博  音楽.松村禎三  配給.ATG)という大好きな映画がある。これは四国の片田舎で悶々としている少年の都会への旅立ちの話だった。都会で人生の祭りをこれから始めてやる! と逃げ出すように旅立つ。そこでの田舎はけっしてParadisoなどではなく、社会から切り捨てられたどん詰まり、性と老いと血の繋がりで窒息寸前に描かれていた。そこに希望の光としてあったのが “映画”だった。おそらく中島丈博自身がWっているのだろう。旅立てない者が大半、原田芳雄が一人バンザイをして見送る。忘れられないシーンである。

もう一つ「ニューシネマパラダイス」、これは誰でも思いつくはずだ。「アマルコルド」に“映画” と言うテーマを据えた様な映画、その分明快な物語性が出ていた。

 

Paradisoを持つ人は幸運だ。あるいは振り返る年齢や今の状況でParadisoとなるかどうかが違ってくるのかもしれない。けれどこの映画はそんな見方を超えてその奥にある、いい加減でスケベだけれど “人間って素晴らしい” に達している様な気がする。フェリー二は人間が好きなのだ、愛おしいのだ。

 

この映画には骨太な物語も起承転結もない。一年間の季節に則した時系列の点描が並ぶ。つなぎも素っ気無くFO。

物語を映像で重厚に語る名画は沢山ある。物語は重要だ。けれど物語の辻褄合わせが映画から詩情を奪ってしまうことがある。物語から解放された映画独自の表現があっても良い。映像と音による物語に頼らない表現としての映画、「アマルコルド」はきっとそれだ。

 

物語から解放されているだけではない。語り口は自由奔放だ。時々弁護士が登場してこの街の歴史や、グラディスカという名前の謂れ、はたまた豆売りの一晩に28人相手の自慢話の真実などをこちらに向って解説してくれる。そこに“夜中にうるさいよ”(不確か) なんて声がオフから入る。映画の完結した世界の垣根を時々飛び越える(ふりをする)。

 

目をギラつかせて年がら年中発情している女は海に向って“フーマンチュー!”(謎の中国人、映画初期に彼を主人公に何本もの映画が作られた) と叫ぶ。“女が欲しい!” と同じような意味なのか。

 

並べられたエピソードをアマルコルド (私は覚えている) として纏めているのが音楽だ。有名な8小節のテーマ、シンプルこの上なくしかも郷愁を誘い心にこびりつく。タイトルバックでテーマが流れると一気に別世界へと連れて行かれる。それに続くシーンは床屋、親父が今夜の祭りの楽隊で吹くという早いテンポの曲を笛 (Fl) で吹き、それに合わせてグラディスカがお尻から登場する。何と自然なエロティシズムか。

次のシーンは夜の祭、楽隊が威勢よく奏でる。アレッ? どこかで聞いた曲、暫く思い出せなかった。「シボネー」(作曲. エルネスト・レクォーナ) のメジャーに展開するサビだ。きっと楽隊が劇中音楽として演奏する曲としての既成曲「シボネー」だと思った。ところがそのメロは劇伴へと展開していく。叙情的なシーンと映画の枠組みを作るところではテーマ、明るく賑やかなところには「シボネー」、ほとんど劇伴として同等の扱い。新しい娼婦が来た等、さらに賑やかなところには「ラ・クカラチャ」(メキシコ民謡) 、こんなことってあるのか。ロータ自身のアイデアか、フェリー二の指示か、二人の間にどんなやり取りがあったのか。

既成曲のメロを自分の作曲したテーマと同等に消化アレンジして作り上げた、こんな見事な劇伴を僕は他にしらない。劇伴はオリジナル、劇中音楽 (例えば喫茶店のBGM等) は既成曲という住み分けが僕の中では出来ていた。今でこそ既成曲をふんだんに使うのは当り前になってきたが、それはほとんどがオリジナルの音源での使用である。ロータは既成のメロを自分の劇伴の中のテーマとして自らアレンジして使っているのだ。こんなやり方ってあったのか。

既成曲使用の著作権使用料という経済的な問題はある。貧しい邦画はその点で既成曲は出来るだけ使わない。僕はそれに慣らされていた。そんな瑣末なことより、ほとんどオリジナルといっても良いくらい見事に消化され劇伴として成功しているこの事実。僕にとっては驚き以外に無かった。

音楽は、ロータによるテーマ、床屋の親父が吹いた舞曲のようなメロ、既成曲の「シボネー」「ラ・クカラチャ」、この4曲を巧みにアレンジして構成している。絵柄として楽隊が演奏するシーンが多いので編成はSaxやCla中心の木管、そこに少し金管と打楽器、けれどそれがそのまま劇伴となるときは弦が入ってきたりする。あるいは盲目のアコーディオン弾きが語り部の様に登場してメロを引き継いだり、逆にアコのソロから大きい編成へと展開したりする。テーマと「シボネー」を繋げたりもしている。

サウンドとしてはレトロなビッグバンドジャズ。

僕には目から鱗だった。こんなやり方ってあるんだ。但し作曲家の納得が前提だ。

公開当時、この辺に触れた記事等無かったものだろうか。もし情報お持ちの方がいたらお教え頂きたい。

ひとつだけ気になったところ、テーマメロの尻のFOがどれも中途半端な気がした。フレーズの収まりの良いものにわざとしたくないという意図があったのかも知れない。しかし季節が変わって新たなエピソードとなるところ等は収まり良くした方が良かったのでは… そんなところが何箇所かあった。

 

巨乳が出てきたり、ノッポが出てきてそれを手名付ける小さな看護士女が出てきたり、伊達男や豆売りや、美男も美女も不細工も、盲目もカエル似の少女も目の周りが隈だらけの秀才も、まるで見世物小屋の如く色んな人間が出てきてそれぞれに個性的。みんなひっくるめて“この素晴らしき人間ども”とフェリー二は愛おしむ。

 

映画は劇場で観るもの、DVDや配信で、家庭のブラウン管で観るのは映画ではないとは今でも思っている。それは変わらない。けれどコロナ禍、致し方なくアマゾンの配信に入った。最初に見たのがこの作品。良いものは良い。ただやはり大きな画面で見たかった。大きな音で聴きたかった。楽隊が奏でる音楽と街の喧騒、祭りの終った後の静寂、その中に混じる様々な音、ラスト野っ原の拡がりと風音、グラディスカを乗せて走り去る車の小ささ…、残念である。

 

監督. フェデリコ・フェリー二  音楽. ニーノ・ロータ

2020.03.03「1917 命をかけた伝令」新宿ピカデリー

2020.03.03 「1917 命をかけた伝令」新宿ピカデリー

 

第一次世界大戦は、未だ航空機が主力とはならない、地上戦が中心の最後の戦争だったといわれている。ドイツとフランスの間に作られた延々と続く両軍の塹壕、それを挟んでの戦い。空からの破壊兵器が登場する前の、最も多くの犠牲者を出したというその西部戦線

 

ドイツ軍は戦線を後退させ、英仏軍はこの時とばかりに明日総攻撃を仕掛けることになっている。しかし航空写真でそれがドイツ軍の罠であることが判明する。総攻撃を決行すると1600人の部隊は恐らく全滅だ。この映画はその塹壕戦の真っ只中で、最前線部隊の突撃を中止させるべく放たれた二人の伝令の話である。総攻撃を中止せよ! それを伝えるべく二人の伝令が走る。

冒頭、大きな木の下で寛ぐ二人の兵士ウィリアム・スコフィールド(ジョージ・マッケイ)とトム・ブレイク(ディーン=チャールズ・チャップマン)、とても戦場とは思えないのどかさ、草花が風にそよぐ。二人は司令官から伝令の任務を言い渡される。それは両軍が数百メートルの距離で向き合う中の敵中横断だ。明日までに届けなければならない。夜まで待とうとスコ、直ぐに走り出すトム、1600人の中にはトムの兄がいる。塹壕から頭を突き出すと独軍の狙撃兵に狙われる。そんな塹壕の中を二人は走り出す。

話はシンプル一直線、それを飽きることなく見せる為、あたかも二人と同体験をしているかのように全編擬似ワンカットで描く。走る二人をカメラは後ろから追い、立ち止まると前に周り、二人を前から捉える。二人と一緒にカメラも走る。それを打ち込みリズムの音楽が煽り緊迫感を作る。

 

音楽はほとんどベタ、Synパッド、サスペンスの盛り上げでは打ち込みリズムに生オケが加わって厚味を加え、ブラスも入ってクレッシェンドする。メロの立つ劇伴ではない。二人を追う長いカットの緊張に合わせるように、ひたすらサスペンスを盛り上げる。そこまで音楽が補強しなくても良いのではと思うくらい、あざとくさえある。

二人のひたすら前に進むことに伴う恐怖感、それでも突き進む使命感、サスペンスを煽って緩急を付ける他に手は無い。時よりその中に高音のPfが小さな動機をそっと入れる、唯一のメロ感、これが効果的だ。

 

擬似ワンカットの長回しに初めは目を見張る。凄い、切れ目がない、どうやって撮影したのか? その内それに慣れ、意識しないようになる。同様にベタ付けの音楽もメロ感がないせいか気にならなくなる。すると音楽が無くなるところに緊張感が生まれる。

 

最初の音楽無しは、決死の覚悟で塹壕から身体をのり出すところ。それまでの緊張をブラスも入ったオケと打ち込みリズムが目一杯盛り上げる。顔を出した瞬間の静寂、数百メートル先に拡がる敵の前線、人の姿は無い。静寂が荒涼とした空間をさらに広大に見せる。

次の音楽無しは、ドイツ兵が去ったあとの地下司令部の仕掛け線にネズミが触れて爆発を起こし崩れるところ、ここに長いブラックアウトがあった。黒味が入り、映像も音楽も消え爆発の余韻だけが減衰していく。一瞬二人が死んだかと思わせる様な深い闇。

確か後半、廃墟のドアを開けると同時にドイツ兵と相撃ちになるところ、ここもブラックアウトだったか (記憶が曖昧)。音楽も映像も途切れて次のステージへと入っていく。ちょっとゲームっぽい感じがする。

他にも何箇所か音楽無しがあったはずだが記憶仕切れなかった。いずれにしろベタな音楽付けの中の素は緊張と次のステージへの展開を作り出していた。

 

少し前まで人が居た気配を残す廃屋から、二人は三機の複葉機の空中戦を目撃する。炎上した一機が墜落、次の瞬間燃えながら二人がいる手前に迫って来た。カットは途切れず続き、燃える機体から敵兵を救い出すもトムはその兵に殺されてしまう。“僕は死ぬのか” 少し間を置いて”そうだ”と答えるスコ。日本なら、大丈夫だ助かる!と言っただろう。国柄の違いか。これら一連が切れ目のないワンカットで描かれる。内容よりも撮影現場の大変さに気持ちは行ってしまった。何と大変な撮影をしたのだろう。

 

ベタ付けの音楽は良く聞くと、走りを止めたり会話のところではリズムは無しにしている。不安や緊張のシーンには重いSynが入る。Synパッドの上に画に合わせて細かく音が重ねられている。生の弦が厚みを加え、サスペンスを強調するところではきざみ、金管も入り、緊張感を作る。一見画合わせではない様に感じるが、丹念な劇伴である。

トムが死んだ後、友軍のトラックに拾われたスコは、兵士たちの他愛無い会話のやりとりの中で一人トムの死を噛み締める。ここに素朴な短い動機がPf ? でそっと入れられている。この動機、唯一心境をすくい上げるメロとしてところどころに現れ、効果的だ。感情に訴える音楽はこのメロだけである。

破壊された橋を渡るシーン、敵の狙撃兵が撃って来る。途端に打ち込みリズムが入り、アクション映画になる、あそこだけは違和感があった。音楽無しで効果音だけ、もしくはリズム無しSynのパッドでサスペンスの雰囲気だけを作る、それで良かったのでは? その方が緊迫感が出たのでは?

 

後半、廃墟と化したエクーストの街に入ってからは宗教絵画の様な映像世界が続く。赤く燃え上がる教会のナイトシーン、左に十字架、右奥赤く燃え上がる炎の中から男が現れこちらに向ってくる、黒く小さなシルエット、ドイツ兵なわけだが、僕にはそれはどこの兵でもなく思えた。人間全体に向けられた攻撃の様に思えた。単に残留するドイツ兵との戦いというより宗教的哲学的な匂いがする。撮影は凄いというしかない。映像がストーリーの奥の深い思想を視覚化する。

地下に潜む女と赤ん坊の描写はほとんど宗教画だ。赤ん坊に廃屋から持ってきたミルクを与える。音楽にコーラスが薄っすらと入り、より荘厳な雰囲気を作る。

 

川に落ち、滝つぼに沈み、死体をかき分けて、目指す森の中の部隊に着いた時、そこでは疲れ果てた兵士たちが一人の若い兵士の歌声に聞き入っていた。「I Am a Poor Wayfaring Stranger」(vocal. JOS・SLOVICK)、いつの日か帰る故郷への想いをアカペラで唄っていた。ヨルダン川云々の歌詞、アメリカ民謡とのこと。ほとんどキリストの周りに集まる人々といった画だ。

無事、伝令の任務を果し、トムの兄とも会い、その死を伝える。“君が命懸けで届けてくれた伝令も明日また新たな命令が下ると我々はそれに従わなければならない、この戦争は最後の一兵になるまで終らない”(そんな意味?) という隊長の言葉が残る。

ラストは、冒頭と同じように草原に立つ一本の木、そこにVCのソロが入る。初めてメロディ感一杯に、歌い上げる。

 

何故ワンカットに拘ったのだろうか。あたかも戦場に居るが如くの臨場感だったらカットを割っても良かったはずだ。ワンカットは否応なく“見つめる”ということ、そこへの拘り? 当然ながらトムやスコの主観目線は無い。あくまで外から二人を見つめる目線。映し出される映像は阿鼻叫喚だが、それを見る目線は冷静だ。編集で感情を増幅する様なことは出来ない。この“見つめる目線”それを観客の我々は共有させられる。

かつて、このカットは誰の目線で見ているものか、それを考えろ! と言われたことがある。誰が見ているカットか、誰の目線で描いているカットか、それは映像における文体のようなものだ。あるいは文学における人称ともいえる。但し小説にト書と台詞があるように、一つの人称つまり視点でまるまる映画を描き切ることは不可能に近いし編集という映画ならではの表現方法がある。何故わざわざその技を放棄して敢えて一つの視点で語りつくそうとしたのか。我々はスコやトムと同化するのではなく、カメラと同化して“見つめる”。その視点とは何なのか。

 

頭と尻で変わらない大きな木、風にそよぐ草花、咲き誇る桜、川には死体の脇を桜の花びらが流れていた。人間の行為を木は超然と見ている。「この世界の片隅に」(拙ブログ2016.12.05)の、空爆下でも花は咲き誇るのと同じだ。もしかしたら植物の方が人間より進化しているのかも知れない。

友情やら家族やら人間的情愛の過剰を寸止めで回避するこの映画、過剰な感情移入はさせてくれない。その代わり“木”が脳裏に焼きつく。

スコは走った、1600人を救う為に、友の兄を救う為に、友との約束を果す為に、それが翌日無意味となるかもしれないのに。まるでシジフォスの様だ。

 

臨場感だったら「ダンケルク」(拙ブログ2017.10.10) の方が圧倒的だ。第一次大戦と第二次大戦の違いはある。西部戦線は弾が横から飛んでくるのに対し、ダンケルクは空から無作為に“死”が降ってきた。こちらの方が恐怖と臨場感は凄かった。“生き延びたい”だけで一貫していた。

一方、「1917」は“見つめる”映画なのだ。

 

人間は人間を殺す。人間は人間を救う。

 

監督. サム・メンデス  音楽. トーマス・ニューマン  撮影. ロジャー・ディーキンス

2020.01.16「パラサイト」TOHOシネマズ日比谷

2020.01.16 「パラサイト」TOHOシネマズ日比谷

 

<ネタバレだらけ>

韓国映画喰わず嫌い、ポン・ジュノ全くの初心者。観て驚いた。圧倒的に面白い。口開いて観て面白く、後で考えさせる。エンタメにする力技、邦画は歯が立たず。

 

半地下に暮らすということにどうしてもリアリティを感じられない。映画的虚構に思えてしまう。しかしあれが韓国の紛れもない現実らしい。しかも半地下のさらにその下がある。TVでソウルのスラム街の様子をやっていた。ここの人は半地下にすら住めないのだそう。

このキム一家、母チェンスク (チャン・ヘジン) はかつてアスリートだったらしく部屋にはメダルが飾ってある。父ギテク (ソン・ガンホ) は失敗したとはいえ、台湾カステラの事業をやっていた。長男ギウ (チェ・ウシク) は何度目かの大学受験を目指す。妹ギジョン (パク・ソダム) も美大を目指している。決して最下層ではない。けれど今はみんなで宅配ピザの箱作りの内職で食いつないでいる。外で立ちションする男の足元が目の前にある、携帯が繋がるところが部屋の隅で見つかったと喜ぶ。大雨が降れば下水もトイレも逆流して噴出す。それでもちっとも悲惨じゃない。それをコメディとして面白がれる様に描く。ベースに家族の仲の良いことがある。こんな家居られるか! と飛び出すとか、諍いが絶えないとか、そういうことは一切ない。映画がそう描いているだけなのか、それとも韓国にはまだ家族の絆というものがしっかり残っているからなのか。

 

長男の友達の大学生が家庭教師の話と怪しげな石を持ってくる。この石、幸運をもたらすものなのか、破壊の象徴か。

家の前にある階段、それを登った先に広がる富裕層の屋敷群、その中の一軒、入り口の狭い階段を登る長男を下から手持ちカメラが追う。登りきったそこに開けた広い芝生の庭、モダンアートの様な邸宅、視界が一気に広がる。狭い階段に比して不自然な位広々としている。背後にはなだらかな丘。IT企業の若き社長パク・ドンイク (イ・ソンギュン) と美しい妻ヨンギョ (チョ・ヨジョン)、高校生の娘ダヘ (チョン・ジソ) と小学生の弟ダソン (チョン・ヒョンジュン) 、長男は娘ダへの英語の家庭教師として入り込む。初日からしっかり娘と母親の心を掴む。イリノイ大学? 留学の経歴あり等、履歴書証明書は妹が完璧な偽造をする。父親は娘を褒め称える、罪の意識は全くない。この辺からはコンゲームに近い。長男はダソンの美術の家庭教師として妹 (ジェシカという名で) を紹介する。シカゴ大学卒の美術療法が専門の知人の知人というふれ込み。妹もネットで仕入れた俄か知識でダソンと母親の信頼を得る。二人が職にありつき家族四人祝杯を挙げる明るさ。作戦は続く。妹が前の運転手を追い出してまんまとそこに父親を据える。最後に、前の持ち主であり屋敷の設計者でもあった人の時から居た、この家の主の様な家政婦を桃アレルギーを利用して追い出し、母親がその座に座る。パラサイト完了である。

奥様は人を疑わない、Young and simple、 金持ちなのに優しい人。母が言う、金持ちだから優しい、あたしだって金持ちだったらもっと優しくなれる。

些か強引な運び、けれど演出の妙と役者の演技ですんなりと納得させられる。程好くハラハラドキドキもある。ダソンが運転手とジェシカと新しい家政婦が同じ匂いだと言った時にはどうなるかと思った。コンゲームものエンタメとして完璧な展開。

 

音楽、冒頭、Pfが三拍子のリズムを刻む曲が半地下の生活へ導く。音楽による上手い導入。

ハラハラドキドキに細かく付けて話を分かり易くする。コンゲームものとしては常套手段の付け方。Pf中心に、グロッケン、チェンバロ、弓弦の様な太いピチカート、Synの高音、物語に則して手堅い。一箇所スネアが入ったりもする。

パク社長の車はベンツ。そんな車、運転したことがない父親が長男と販売店で運転操作を練習するところから、突然バロック風の弦の曲。父親は運転手に母親は家政婦に、この一連に、音楽かなり長く通して付けていた。音楽で一括りにして一気に話を進める。音楽終わった時、一家のパラサイトは完成。家政婦が寂し気に不可解に一人去っていく。そこにPfのソロ。

また突然明るい女声コーラスの讃美歌の様な曲がずり上がりで入り、パク一家がダソンの誕生日を祝ってキャンプへ出かけるという騒ぎ。この曲には高音でミュージカル・ソーの様な音色が混じっていた。Synでやったのだろうか。

この二曲、他の曲とは異質だが効果的で中盤をすっきりとさせている。どちらも初め既成曲かと思った。それ風のオリジナルらしい。

ただ二曲目、もっと早めにFOした方が良かったのでは。パク一家が出発して留守となった屋敷を我が家の如く占拠して寛ぐキム一家、そこのシーン頭まで。芝生に寝転がる長男までは引っ張り過ぎと思う。寛ぐキム一家は素で見せたい。効果音に任せたい。重箱の隅か。

 

大きな一枚ガラスのリビングでパラサイト成就の祝杯を上げたその時、突然雷が鳴り雨が降り出す。いいタイミングだ、と父親。この辺の余裕、良い! 寛ぎを挟んでここからは後半戦。

インターホンがしつこく鳴り、家政婦がずぶ濡れでやってきた。ドタバタ・ホラー・ブラックコメディーの始まり。この家には人が棲める程の地下室があった。北の攻撃に備えたシェルターである。そこには借金取りに追われた家政婦の夫が住んでいた。そういえばパク社長が、家政婦は良くやるが人の二倍も喰うと言っていた。密かに食料を差し入れて長きに渡り棲まわせていたのだ。このまま夫を棲まわせてほしい、チュンスク姉さん、と懇願する家政婦。そこに三人がなだれ込んできて四人が家族であることがバレる。それを携帯で撮影した家政婦、奥様に送信する! と騒ぐ。形勢逆転、今度はチェンスクが、ムングアン妹よ落ち着け! となる。かざされた携帯の前に四人は手も足も出ず。夫は北の核爆弾の様だといい、家政婦が北の将軍様のTV発表の真似をする。背後にフルボリュームで太陽が降り注ぐようなカンツォーネ、これはLPレコードに針を落とす画も入るので既成曲である。このカンツォーネも効いている。明るいコントラプンクトは難しいもの。

 

電話が突然鳴り、キャンプを繰り上げてこれから帰る! と奥様。家政婦と夫を地下に蹴落として、飲み食いしたテーブルを片付け、8分後に到着する一家の為にジャ-ジャ-麺を作る。3人は間一髪テーブルの下に隠れる。それと気付かぬ社長と妻はすぐ脇のソファーで交歓する。中々エロい。

明け方二人が寝ている隙に脱出した3人が雨の中家に戻ると一帯は浸水の真っ最中、まもなく水は半地下ハウスの天井に達しようとしていた。逆流して黒い水が噴出すトイレに蓋してそこに立膝で座って煙草を吸う妹、この不貞腐れた肝の据わり方、大好きなシーンだ。

避難所の体育館で落ち着いたところに奥様から電話が入る。キャンプが出来なかったから家でパーティーをやるという。大雨も関係ない高台の家の朝は爽やかな快晴である。

ガーデンパーティーの頭、招待客の中の女性が軽いリズムの入った曲をソプラノで披露する。歌詞があったか無かったか、オリジナルか既成曲か。けれどこれも効果的。

 

地下の家政婦の夫がパーティーの庭に現れてからは怒涛の展開、そして惨劇。家政婦と夫は死に、妹は家政婦の夫に刺され死亡、パク社長は父親に殺される。殺意があったのはパク社長殺しだけ。その日の朝からのパク社長への違和感が、“匂い”で遂に決壊してしまったということ。後で、パク社長にはすまないことをしたと述懐する。事件は、行きずりの通り魔事件として処理され、犯人は足取りもつかめず突然消えたということになっている。

地下と半地下は近い。簡単に行き来出来る距離だ。父親は家政婦夫と入れ替わり地下の住人となっていた。それに気が付いたのは長男、屋敷を見下ろせる丘に登った時、照明の点滅の不自然に気付く。地下の父親がモールス信号を使って“息子よ”と呼びかけていた。モールス信号を解るのは、父親と長男とダソンと家政婦夫の四人、子供の頃のカヴスカウトという同じ経験を持っていた。

“親父よ、根本的な解決方法を見つけた、大学に入り、仕事で金を儲け、あの家を買う、それまで少しの辛抱! ” (そんな意味) 長男から父親への届かない手紙で終わる。

 

二度見でこの作為に満ちた脚本の辻褄合わせがいかに綿密に出来ているかに感心した。無駄な台詞はなく、一言一言が何かの伏線や理由づけになっている。どんなツッコミにも耐えられる。それを、絶妙な屋敷のセットと対照的な半地下のセットと美術の中で、役者が消化し演じ、音楽がテンポ良く運び、カメラが技術を総動員して撮る。監督がそれを纏め上げる。エンタメ映画とはこういうものと見せつけられる。背後にはしっかりと格差社会への強烈な批判がある。

みんな誰も恨んでいない。親父は、殺してしまったパク社長に、すまないと思っていると述懐する。かつて家政婦夫は毎日地下から、パク社長Respect! と叫び照明を付けていた。誰もお金持ちの勝手を恨んでいるそぶりを見せない。パク一家の描き方も見ていて反感を抱く様にはしていない。“匂い”だけが差別の象徴として通奏する。金持ちを倒せ、改革だ、革命だ! にはしない。“怨”を底に秘めつつ、笑い飛ばすということか。だから地上の人のスキャンダルには激高するということか。

同じ“格差社会”を扱いながら、「わたしは、ダニエル・ブレイク」(拙ブログ2017.03.28 )「ジョーカー」(拙ブログ2019.11.08) 「万引き家族」(拙ブログ2018.7.02) とそれぞれに随分違うものだと感じた。何より違うのは「パラサイト」には“家族”が健在であるということだ。他の三本の“家族”は崩壊している、あるいは“疑似家族”である。本当に韓国には“家族”がこんなにもしっかりとあるのか。映画的虚構ではないのか。

 

お金持ちはみんなアメリカへ留学するようだ。

ハイソの人は会話の最後に英語を使うらしい。Is it OK?

ジェシカ、イリノイ、シカゴ、と呪文の様に言うのが面白かった。

ギジョン (ジェシカ) の何と可愛いこと、一度見の時はそれにばっか目が行ってしまった。若い頃の田中裕子を思い出す。目パッチリ韓国正統派でちょっとエロいチョ・ヨジョンも良かったが、パク・ソダムの不貞腐れ気味の可愛さが僕には優った。PCで偽造書類作る時のくわえ煙草、浸水中の便器の上で立膝付いて煙草を吸う姿、何と魅力的!

母親、絵沢萌子に似ている。

 

エンドの主題歌、これは何とも言えない。劇伴の中の曲で締めて欲しかったという気もする。音楽のチョン・ジェイルという人、オケもSynも両方いける人のようだ。映画と一体となった良い劇伴である。

 

今年最初の映画はこれだった。翌日「お帰り寅さん」を見た。どちらも面白かった。四角くてエラの張った大きな顔で幕が開けた。オスカーを取るとは思わなかった。

 

監督. ポン・ジュノ  音楽. チョン・ジェイル