映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2021. 04. 23「ミナリ」TOHOシネマズシャンテ

2021.04.23「ミナリ」TOHOシネマズシャンテ

 

1980年代、農業でアメリカンドリームを果たすべく、中西部アーカンソー州へ移住した韓国人一家の物語。夫婦(ジェイコブとモニカ)、まだ幼い姉弟(アンとデビッド)の四人家族。夫婦はまずロスに住み、ひよこの雌雄の仕分け作業をしたようだ。子供はそこで生まれたか。このままだと下済みのまま、ソウルに居た時と変わらない。一念発起してアーカンソーへやって来る。広大な土地と、住居はトレーラーハウス、妻が話が違うとブー垂れる。デビッドは心臓の持病を持っており、妻はどうやら初めから乗り気ではなかったらしい。スタートから諍いが絶えない。

始めの方、帰宅した父を待って喧嘩が始まると察知した姉弟が、“喧嘩はしません”という誓約書を手書きで作る。実は遠い昔、私にも経験がある。幼い子供にとって夫婦喧嘩はイヤなものだ。子供の必死の思いの誓約書、一時の効力はあっても何の力にもならないことは経験上解る。

 

父は韓国野菜の栽培を始める。もっと作り易い作物があるはずだが敢えて韓国野菜にする。  

韓国からの移住者は年々増えている。需要はあるはずだ。  

身を粉にして働く父、ヒヨコの仕分け労働をしながら子供の世話と家事を担う母、それを見つめる息子デビッド。

この映画、監督の半自叙伝らしい。デビッドがのちの監督ということだ。回想のモノローグこそないがデビッドの視点で描かれる。アーカンソーを舞台にした「北の国から」である。もちろん家庭の事情は違うが。

 

悪戦苦闘に妻が音を上げる。離婚の危機か。解決策として韓国から妻の母親を呼ぶ。スンジャ婆ちゃんは花札と韓国の漬物を一杯持ってやって来た。トレーラーハウスにキムチの匂いが充満する。始めは嫌っていたデビッドはその匂いと婆ちゃんに少しずつ馴染んでいく。

婆ちゃんが持ってきた苗を二人が見つけた綺麗な清流のほとりに植える。苗はミナリ、セリのことである。環境が合えば自然に殖えて行くと婆ちゃん。この清流、とてもアメリカとは思えない、日本的東洋的だ。

それにしてもこのスンジャ婆ちゃん、何とアナーキーなことか。もちろん英語は話せない、教会への浄財は失敬する、甲斐甲斐しく家事をこなす訳でもなく、子供と花札をし、成り上がろうとする夫婦に理解を示す訳でもない、きっとこの婆ちゃん、世界中どこへ行っても変わらずマイペースだ。

 

ジェイコブ、モニカ、アン、デビッドという名前はどれもキリスト教とゆかりの名前らしい。初め父親の名がジェイコブというのに違和感があった。アメリカに来て改名したのか、それとも韓国に居る時からこの名前だったのか。この家族とこの映画のキリスト教との深い関わり、僕には良く解らない。スンジャ婆ちゃんはキリスト教的価値観の中に飛び込んで来た韓国的価値観、というより東洋的価値観ということか。経済的野心の為韓国野菜を植える父と自然に適したミナリを植えるスンジャ婆ちゃん、ミナリは次世代に向かって殖え続ける植物らしい。

 

キムチ臭いと言われなかったか、東洋人差別は無かったか、その辺は描かない。家族は日曜礼拝に行き、デビッドにも友達が出来る。1980年代のアメリカは今よりリベラルだったのかも知れない。経済格差による怒りが顕在化するのはもう少し後のことか。不確か。

 

ジェイコブは、歳の行った白人ポールを雇う。この地で農業をやり失敗した者かも知れない。土地に詳しく色々とジェイコブに提案をする。ジェイコブは聞く耳持たず、自分のやり方を押し通す。掘立小屋で暮らすこの極貧男、日曜日には、ゴルゴダの丘よろしく大きな木の十字架を背負い教会まで苦行を行なう。街の人からは白い眼でみられている。プアホワイト、白人であることが最後の拠り所、白人至上主義者として後にトランプ支持者となるような人。けれどポールはそうはならず人種差別もせず、あたかもこれまで白人が行ってきた征服とその手先の役割を果たしたキリスト教会の罪を一身に背負うかの如く、黙々と苦行を行なう。この辺の意味合い、僕には解らない。

 

売り先にメドが付いた穀物の貯蔵小屋が、婆ちゃんのミスで火事になってしまう。必死に穀物を運び出すが、大きな痛手となる。それを切っ掛けに婆ちゃんはボケ始める。ジェイコブも少し変化し、人の意見を聴く様になる。初めてポールを食事に招待する。

デビッドが父に婆ちゃんのミナリを見せる。生い茂るそれを見て父は感嘆する。

何度も言うが、キリスト教のことは良く解らない。ただ幼いデビッドは家族の変化をしっかりと見届ける。

家族四人と婆ちゃんが川の字になって寝るところで映画は終わる。が家族の物語はその後もずっと続く。

 

1980年代、東洋人への差別はまだまだあったはずだ。ましてや保守的な田舎である。既得権者としての白人の壁は簡単なものでは無かったはずだ。そのへんの淡泊さに不満は残るも、デビッドが是枝作品の子供の様に自然であったこと、スンジャ婆ちゃんが設定も演技も素晴らしかったこと、それだけでも飽きることなく観ることが出来た。スンジャ婆ちゃん(ユン・ヨジョン) のアカデミー助演女優賞は肯ける。

ただ「ノマドランド」もそうだったが、音楽がどうにも気になる。シンセの弦の音色、白玉パッド、そこにPfがアルペジオで載る。起伏の無いメロをかなりのボリュームで奏でる。素 (音楽が無い) を恐れるかの様に、音楽を付けられそうな所には必ず付ける。音を重ねるだけの単純なアレンジ、安手の意味あり気。ホームドラマの音楽は避けたかったのかも知れない。日々の日常を超えたものを感じさせたかったのかも知れない。それは解る。だからシンセ?

余計な所には付けず、「Rain Song」(エンドロールに流れるメロ) だけを要所要所にそっと流すだけでも良かった。遠いところからの視点である。

 

音楽のセンスは、いつどこで生まれ育ち、どんな音を聴いてきたか、つまりはそれまでの人生すべてによって形作られる。イイ悪いではない、他人がとやかく言えない個別なのだ。それをとやかく言っている私は何と無粋なことか。ただ音楽で映画をより深いものにする方法は色々とある。映画音楽に正解はない。

 

あくまで一度見の僕の主観。二度見して確認したかったのだが、コロナのせいで…

 

監督. リー・アイザック・チュン   音楽. エミール・モッセリ